佐織は話した。あの夜のことを。
追いかけられて、逃げて、逃げて、それでも逃げられなくて……。 助けてと叫んだ。 周りに向かって叫び続けた。 けれど、道行く人はおろか、警官さえ知らないふりをした。
追い詰められて、地獄を見た。 もう抜け出せないと思った。 ――暗い暗い穴の底から。
話している間、佐織に表情は無かった。 こんな時、どういう表情をすればよいかなんて、理解を超えているのだろう、と雪姫は思う。 ただ、それがより一層悲壮感を増していた。 雪姫は――ただ、佐織を優しく抱きしめた。
「別にあなたは汚れたわけじゃないのよ。ただ、少し、心が疲れただけ」 そう言って、優しく頭を撫でる。 「疲れたでしょう。ここでゆっくりお休みなさい」
――その雪姫の言葉で。 佐織は自分の心の氷が、また解けていくように思えた。 おかしいと佐織は思う。 一人のときは出なかった涙がどうしてこうも簡単に出るのだろう、と。
佐織はしばらく雪姫の胸の中で――泣いた。
「さて、仕事に行くわよ!」 雪姫が元気にそう宣言したのは、もうお昼を回ってから。 佐織が元気になったのを確認してから、雪姫は佐織の手を取った。 「……あの、仕事って?」 そういえば、佐織はまだ雪姫の仕事の内容を聞いていない。 しかし、雪姫はにっこり笑って、 「まだ本格的なことはしなくていいわ。ついて来てくれればそれでよし!」 何だか元気にそう言った。
雪姫が訪れたのは、どこかの国、のようだ。 それも人間の住む。 佐織が雪姫の作る風にのってその地に降り立ったとき、あたりにはやたら銃を持った武装兵士が闊歩していた。 「ここは?」 少し震える声で言う佐織に雪姫はにっこり笑って、 「某戦争中の○○国。その極秘の研究施設ってところかしら?」 とんでもないことをさらりといってのけた。
警戒する必要はあまりないようだった。 雪姫が声をかけるたび、兵たちは慌てて奥へと入っていく。 雪姫も気楽に中へと入っていくので、佐織は置いていかれないよう急いでついていった。
中で待っていたのは、でっぷり太った、何となく佐織には生理的嫌悪のある男。 その男は口の端を歪めて、笑みのようなものを作る。 「これはこれは雪姫様。こんなところに一体何の用……」 「用件はわかってると思うけど?」 その男を遮って雪姫はずばりと切る。 今まで見ていた雪姫とのギャップに、佐織はかなり驚いた。 威厳があり、そしてどこか冷酷そうな、物語に出てくるような冷たい雪女のイメージ。 「い、いえ、その、私には何のことだか」 「流動毒物は確かに便利だけど、それは回りに回って自分の首を絞めるということを知っておきなさい。たとえそれが『どんな形であれ』、ね」 はぐらかそうとしたその男に、問答無用で言葉を放つ雪姫。 佐織には何のことだかさっぱり分からないが、それだけで男は青ざめて黙り込んだ。
「さて、行くわよ」 雪姫は佐織に目で合図して男に背を向ける。 「……あ、そうそう」 思い出したように、雪姫は足を止め、男をちらりと見やる。 「雪族に逆らったらどうなるか。裏の歴史に詳しいあなたなら知ってるわよね?」 にっこり笑ってそう言った雪姫に、結局男は何も言い返すことが出来なかった。
その後は特に何もなく、二人は真っ直ぐ雪族の村へと戻ってきた。 「……あのー」 佐織はかなり引きつつ、雪姫に話しかける。 「一体さっきのはなんだったんですか?」 どうも尋常でないことがあったことだけは、佐織にも理解できる。 「ああ、あれ?」 雪姫は笑みのまま振り返り、 「流動毒物って言ってね。常温気化の毒薬を精製しているのよあの国。でもあれは大気の気温次第で液化もするわ。それをとある方法で敵国の河川や湖に流そうっていう実験をやっていたの」 「――?」 佐織はちょっと分からないと言った感じで、首を傾げる。 雪姫は、どう説明すればよいか、少し思案し、再び口を開く。 「ええとね。例えば、この雪国を考えてみて。ここは常温がマイナスという極寒の土地でしょ。この寒さだと、あの流動毒物は気化状態を保てずに液化するの。その液化した流動毒物は雪に溶け込む。ただ、この雪の山も夏になれば一部は溶け出して土に溶け込み、下界へ流れ込むの。さてどうなるかな?」 クイズを出すかのような気軽さで、雪姫が佐織に答えを求める。 「……川とか土とかに毒物が流れ込むってことですか?」 その佐織の答えに、雪姫は「ビンゴ!」と笑顔で親指を立てた。 「厄介なことに、気温が上がると再び気化するでしょ。そしてこの毒物は大気の窒素や酸素と化学反応を起こし、更に別の毒物に変化し、循環する。そうなって、大量の人間が死んだ頃には、毒物は変質しすぎていて、どこの国がどこに毒物を流したかもわからなくなっている――とこういうわけ」 「………………」 「ま、ほっとけば世界の破滅よね? だから釘を刺したわけ」 とんでもないことをさらっと言われた気がする。そう佐織は思った。 「でも、何故そんなに人間のことに関わるんですか?」 何度か疑問に思っていたことを佐織は聞いた。 あの毒物が雪族にとって有害だから? それにしては、雪姫の言葉の節々に、自分の身ではなく、人間の世界を守ろうとする意思が感じられる。 どうも雪姫は人間に対して、というより自分の世界の外に対して寛容すぎる。それは佐織にとって、自分に立場を置き換えて考えると不思議に思えてならなかったのだ。
「………………」 雪姫はその問いに、遠くを、何かを懐かしむようなそんな表情を向け、 「……私には、娘がいるのよ」 ――そう話を切り出した。
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