――何かが闇から追ってきていた。 何かは少女には分からない。 ただ必死に逃げた。 しかし逃げても逃げても暗い闇が少女の足元に絡みつく。 もがいてもがいて、それでも逃げられない。恐怖と絶望が少女の心を侵食する……。 ――瞬間。
物凄く冷たいものが少女の眉間を直撃した!
「……つ〜」 呻きつつ、細く目を開くと、差し込んできたのは明るい光。 そして光を背に立っているのは白い影。 「いつまで寝てるの! さっさと起きなさいっ!!」 胸を張って元気そうにそういった少女は、昨日の雪女だった。 『ああ、この人(人じゃないけど)に眉間をはたかれたのか』 朝から雪女の常識を覆す愉快な起こし方をかましたその当人は、そんな少女を気にすることも無く、昨日のように鍋をかき回していた。 「今日は朝御飯を食べたら村の皆に挨拶をしてもらうから。ちょっと急いでね」 そう言って、少女の足元を指差した。 そこには雪女と同じ白い着物が、丁寧にたたんで置いてあった。 『まさか、着ろと?』 少女が着物を指差すと、にっこり頷いてみせる雪女。
「……着方がわからないんですけど」 ひきつった顔で答えた少女に、雪女はぽかんとした表情でお返しした。
「全く、最近の日本人は、着物も着なくなったっていうの」 食事の後、ぶつくさいいつつ少女に着付けをしてくれる。 何というか、口の悪さの割には、結構フレンドリーな雪女である。 「さ、行くわよ」 雪女が少女の手を引く。 冷たい手だったが、つないでいて安心する手だと少女は思った。
外に出ると、冷たい空気に喉が痛くなる。 当たり前だが、あたり一面銀世界だった。 少女を連れて雪女が一段高い丘から出てくると、途端に歓声が沸きあがる。 「雪姫ー!!」 「雪姫様ー!!」 わーっと湧き上がった声に、雪女が静かに手を上げる。 それだけで集まった群衆はしん、と静まり返った。
少女は目を点にしていた。 この状況からして、この雪女はかなり位の高い雪女なのではないだろうか、と。
「みんな、おはよう」 にっこり挨拶するだけで、群集は敬礼の姿勢をとる。 「今日集まってもらったのは他でもないわ。今日からここに暮らすことになった仲間を紹介したいと思ったの。名前は……えーと……」 そこで雪女が少女を見る。 最初は自分のことを言われていると気がつかなかったので大いに驚いたが、群集も雪女も少女に注目している。 少女は慌てて、 「乾山佐織です!! よろしくお願いしますっ!!」 大きな声でぺこりとお辞儀し挨拶した。
「よっ!! 威勢がいいね! ねぇちゃん!!」 ピーピー口笛ならしながら、拍手が返って来る。 異端者であるはずの佐織を、何の抵抗もなしに受け入れてくれたことに、佐織はとても驚いた。 「……では以後、佐織は私の助手として居てもらうから、みんな仲良くしてあげてね」 そう言って手を振る雪女に、わーっと声を上げて手を振り返す群集。
――何だか村全体がとってもフレンドリーだった。
「あの、助手って?」 ――その後。 雪女に連れられて元の場所へ戻る最中。 佐織はやっと我に返って雪女に問いかけた。
「ああ、それね」 言って、雪女はにっこり微笑む。 「まぁ雑務みたいなものよ。私についてしばらく学んでくれればいいわ」 「そうじゃなくて!!」 思わず佐織は大きな声を上げる。 「私を、私をここへ置いてくれるんですか!?」
少女の心境からしたら、当然そう思うだろう。 人間だったら絶対にこんな面倒なことはしない。誰かが何とかしてくれると見殺しにされるのが関の山だろう。 どうしても、そう考えてしまうのは、少女が経験した出来事からすれば当然のことだ。 しかし、雪女はくすくす笑い、 「私たちはね。昔あなたたち人間が無くしたものをまだ持っているのよ」 そう言って手を差し出した。
「――私は『雪姫』。この世界を統べる姫。二つ名だけよ。本名はないわ。王はいない。病没したわ」 佐織は差し出されたその手をじっと見つめる。 雪女――いや、雪姫はそれを笑顔で見ていた。 「よろしく、佐織♪」
この手をとれば、人間界と本当に決別するのだろう。 ――しかし。 佐織の心は、最初から既に決まっていた。 これが夢でも幻でも、そんなことはもう……。
「よろしくお願いします!」
その手をぎゅっと握り返した。 ――胸の傷が疼いても、もう引き返すことはしたくなかった。
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