雪姫は生まれてすぐ、母に捨てられた。 それは、母――つまり女王の正式な夫との間に生まれた娘ではなかったから。それが一つの理由。 もう一つは、女王が永遠に自分の地位を譲る気がなかったから。
しかし、雪姫は一度として欲望のために親に牙を向けたことなどない。 子供は、大人が思っているより欲望で行動するものではない。 ――ただ、愛されたかったのだ。 初めて佐織を見たときに、一層それがよくわかった。 佐織を自分の下へ置いたのは、確かに自分が行った過ちの償いというものもあったのかもしれない。 だが、それと同じくらい、自分がかつて感じた悲しみを、和らげてあげたいと思っていた。
――だから。
目の前の光景に、攻撃することも忘れ、雪姫は立ち尽くしていた。 「……佐織?」 ――四面の壁に映し出された、その映像に。
* * * * * * * *
佐織はうっすらと目を開いた。 まず感じたのは、喉が痛くなるほどの熱気。 しばらく雪の一族の元にいたこともあって、それだけで酷くめまいがした。
「目が覚めたか」 低い、男の声がした。 佐織は霞む景色を、頭を振って、もう一度しっかりと見た。
目の前に幾つもの人影が見える。 それがはっきりしてくると、一人を除いて全て女性であることに気づく。 『ソレ』を見て、佐織はこの熱気の中でさえ、凍るような寒気が全身を貫いた。
目の前にいる女性全てが、まるで抜け殻のように何も映さぬ虚ろな瞳を佐織に向けていた。 その中心に立つ、一見まだ若い穏やかな表情をした男性。 佐織は直感した。 これが、雪姫の言っていた『火王』なのだ、と。 動かそうとした腕が、ぎしりと音を立てる。 そちらへ目をやって、佐織は自分の両腕が縛られていることに初めて気がついた。
『……囚われた!』 それははっきりと分かった。でも何故? その疑問にまるで答えるかのように、男が口を開く。
「君は雪姫と親しいそうだね。アレは元気かい?」 笑顔でそう言う光景は、傍から見ていると、昔の女房を懐かしんでいるようにも見える。 しかし、その声に感情はない。 佐織は目の前の男を――火王を睨みつけた。 「……私を人質にして、雪姫の動きを止めようというの?」 そう言った佐織に、火王は軽く口笛を鳴らす。 「大したものだ。この状況でまだそんな口が利けるのかい?」 佐織の言葉を、むしろ楽しんでいるように見える。 ――確かに怖くないといえば嘘になる。 しかし、雪姫が時折見せる悲しい表情が、全てこの男に起因しているのだと思うと、恐怖というよりむしろ怒りの方が強かった。 何とか戒めを解こうと、冷気を込めてはみるものの、蒸気が上がる音がするだけで、一向に解ける気配はない。 むしろ焼け付く痛みに、小さく悲鳴を上げたのは佐織の方。
火王は興味を持って佐織を見た。 その視線に、佐織の背筋を冷たいものが走り抜ける。 「……うん、最初は人質だけのつもりだったんだが……」 そう言って周りの女性をぐるりと一瞥する。 「どうも、火の一族に氷の力を無理に与えても、崩壊するだけだと分かってね」 そう言って、指を鳴らした――途端。 すべての女性の体が、氷が弾けるような音を立てて四散した。 佐織が小さく悲鳴を上げるのを見て、火王は満足げに笑みを浮かべる。
「私の娘には手が届かないだろうが、私はそれに近いものを作りたいのだよ」 そう言って、佐織の元へ静かに歩いてくる。 笑みを浮かべ、佐織を追い詰めるかのように歩いてくるその光景は、佐織の脳内で『あの時』の光景を強引に思い出させた。 体が震え、全身に汗が吹き出すのを止められない。
「……嫌」 小さく震える声で抵抗をするが、それは相手の笑みを深めるだけだった。 あの時と同じだと、心の中で佐織は思う。
火王は、相手の戦意を喪失させる術をよく知っていた。 目の前で圧倒的なものを見せ付ける。それだけで戦意を喪失させるには十分だった。 だが、予想以上の反応に、火王は佐織が何かのトラウマを持っていることを感じ取った。 ――笑みが深くなる。
「……しばらくは退屈しない玩具が手に入ったようだ」 そう言って手を伸ばす。 佐織の瞳に絶望の色が見えたことに、火王は深い喜びを感じているのだ。
『誰も助けになんてこねーよ。オレは○○○の息子だぞ』 佐織の脳裏に、かつて聞いた声が木霊する。
――誰も助けに来ない。あの時も。 だから、逃げ出したかったのだ。そんな世界から。 なのに、どこへ行っても結局は同じ。自分は守る盾も存在しない、ただ狩られるだけの獲物だった。
助けを求め手を伸ばしても、誰もその手をとってはくれない。 もう抜け出せないと思った。 暗い闇の底へ沈んだまま心砕けるまで。
「佐織っ!!!」
火王の手が、ぴくりと止まる。 その声に、佐織が跳ねるように顔を上げた。 ――瞬間、この火の世界がぐらりと揺れる。 火王が軽く舌打ちをした。
この世界の向こう側。 佐織は、いつも側にある存在を感じた。
「……雪姫?」 佐織の言葉に呼応するように、ズンと重い音が響いた。 火王が佐織から離れ、炎の力を解放する。 「まさか、自分が作った結界を、この地の結界ごと吹き飛ばす気か!?」 焦りの混じった火王の声。 だが、雪姫が答えたのは、その声に対してではなかった。
「佐織……! すぐ行く! 行くから、待っていて!!」
その声に、佐織の心が覚醒していく。 恐怖も不安も何もかも溶かしてくれた、いつもの声。 ――そう。 求めていたものはもうすでに側にあったのに……。
佐織の中の恐怖は、いつの間にかどこかへ消え去っていた。
「……雪姫……っ!!」 佐織が力を解放する。 激しい痛みなど、もはや気にならなかった。 雪姫の側へ行きたい。行って、いつものあの優しい温かさに触れたい。 それだけだった。
「――――!?」 明らかに、佐織を縛る戒めが軋みを上げていることに、火王は驚きを隠せなかった。
手をとってほしい。 今度こそ目一杯手を伸ばすから。 ――その手をとって、私をどうか闇から連れ出して。
その佐織の願いに呼応し、戒めが弾ける。
――今度こそしっかりと手を伸ばして――
抜け出せないと思っていた。 ずっと闇の中のままだと……。
――でも。 その手に、今、確かな温もりを感じた。
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