その日の朝、佐織は警報の音で目が覚めた。 部屋の木の隙間からうっすらと差し込む光は、まだ朝も早い時間であることを示していた。 ふと後ろを振り返る。 そこには、今まで見たこともないような、絶望の表情をたたえた雪姫が呆然と立ち尽くしていた。
「……雪姫?」 その不安に助長されるように、佐織は雪姫に声をかけた。 何故かはわからない。 でも――心の底から何かが危険だと必死に叫んでいるように思えた。 雪姫は答えない。 ただどうしようもなくうろたえ、成す術もなく立ち尽くすしかない、小さな子供のように。
「雪姫っ!!」 佐織は思わず声を大きくする。 雪姫がはっとして佐織を見た。 何故か驚きに目を見開く雪姫。
――次の瞬間、雪姫の表情から不安や絶望が見る間に消えていった。
「厄介なことが起こったかもしれないわ。佐織、あなたはここにいて」 いつもの冷静な長としての雪姫がそこにいた。 「――雪姫?」 佐織は不安を拭えず、雪姫に問い返す。 そんな佐織ににっこりと笑顔を返し、背を向ける。 「大丈夫。あなたは私が守ります」 そう言って駆け出した。
「……雪姫」 一瞬にして自分を取り戻した雪姫に、かえって佐織は心臓を強く握られたような痛みが走る。 間違いなく、雪姫は何かに打ちのめされたようになっていた。 それを押さえ込んだのは、長としての責任感のようなものなのだろう。 佐織を見て、自分がしっかりしなければならないと。 裏を返せばそれだけの事が今起こっているのだと。
気がつくと、佐織は部屋を飛び出していた。 「雪姫!」 後を追う。まだ雪姫の背中が見える。 「雪姫っ!!」 もう一度叫んだ。
――だが、雪姫は振り返らず走り続けている。 声に気がつかなかったのか、気がついても止まるつもりがないのか。 佐織はもう一度声をかけようとし――違和感に気がつく。
――自分の足が進んでいない?
その事実に気がつき、佐織は驚愕する。 そう。走っているはずなのに、辺りの景色が流れない。 「な、何!?」 慌てて足を早めた。 今度は辺りの景色がぐにゃりと歪む。 「――――っ!?」 何か危険なことが起こっていると感じ、佐織は即座に冷気で歪んだ景色に向かって攻撃を仕掛けた。 ――しかし。 その攻撃は、何かに阻害されるように弾けて散った。
『ほう。この状況で即座に攻撃を返すとは。中々人間にしては肝が据わっている』
「!?」 響いたのは男の声。 しかし、雪族ではない。聞いたこともない声。 ――途端、佐織の意識は闇に溶け込んでいった。
雪姫は、『それ』を呆然と見ていた。 自分が長い間守ってきた結界――それが跡形もなく壊れている光景を。 そして、雪族を襲う、火の一族の光景を。 かつて、自分と和解し、心を開いてくれた火の一族が、今はただひたすら殺戮を楽しむ心無い操り人形のように見えた。
――悲しみの感情に流されるわけにはいかない。 雪姫はそう自分に言い聞かせ、胸の前で印を結ぶ。 「破法の一! 霧雪!!」 雪姫の言葉に呼応し、白い霧が戦いの場を支配する。 一番広範囲で殺傷能力も低いこの術だが、それでも雪姫が使えば火の一族の動きを麻痺させるぐらいは出来る。 霧が晴れたその後に、動くことの出来る火の一族はもう残っていなかった。
「雪姫様!!」 村の仲間が雪姫の姿を確認し、表情を明るくする。 「ごめん、遅れて。状況は?」 そう言って辺りを見回す。 幸い、致命傷にまで至っている仲間はいないようだ。 「あなたの分身が今、仮の結界を作るとあそこへ向かっています」 村人の一人が答えた。 それを聞いて、雪姫は少しだけ安堵する。 ペットが張る結界は、自分のものとほぼ同等。なら、これ以上村人に被害は出ないだろうとふんだのだ。 「ではそのまま臨戦態勢を取ったまま待機して! 住居のある方には戦えない雪族や佐織がいるわ! 被害が出ないことを最優先させて!」 てきぱきと命令を下し、そのまま壊れた結界へ急ぐ。 ペットと合流し、結界をもう一度張りなおすためである。
――しかし、雪姫には一つ解らないことがあった。 「何故いきなり結界が壊れたの? おかしな具合なんて確認できなか……」
そこまで考えて、ある可能性が雪姫の頭に浮かんだ。 ――それは雪姫にも、考えたくない可能性。 だが、頭で考えるより早く体が動いていた。 即座に方向転換し、向かう。
――前に佐織と訪れた先、四面の聖域。 雪の崖下を幾度かくぐりぬけ、開けた視界の先に……、
「――――――!!!」
その光景に、雪姫は声も出せずに立ち尽くす。 まばゆいばかりの光を放つ、四面の壁を目の当たりにしながら。
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