気が付けば、夜明けの気配があった。わたしは、四角く制限された視界から、ぼんやりと星空が白い朝陽に染み込んで消える空を見ていた。手足はビニール紐とガムテープで粗末に拘束され、窮屈なこのダンボール箱に押し込まれた身体は、もう二度と、自分の意思では動かすことが出来ないと悟る。 「珈琲は、お気に召さなかったかしら?」 わたしは、精一杯の憎まれ口をこぼした。果たして聞こえただろうか。すぐ傍に居るはず。硬い土をスコップでザクザクと掘っているであろう、彼女に。
およそ三時間前。結婚式を来月に控え、俗に言うマリッジブルーの真っ只中にあった。女ひとりの独身生活に別れを告げるべく、荷物を整理しながらアンニュイな気分を満喫する。さて、これでおおかた大丈夫。私の荷物はそんなに多いほうでもない。部屋の隅に積みあがったダンボール箱を眺め、それまでの作業の大変さを思い返しながらしばし感慨に浸る。私は座椅子のそばに放置していた煙草とライターを持ち、ベランダに出た。肌を撫でる柔らかい夜風が、雨上がりの湿った空気を洗い流してくれるようで心地良い。 「しかし・・・・・・」 重大な問題があった。マリッジブルーとは別の。 私の婚約者には、妹がいる。私とはまるでタイプが違う、Y子。長い髪。白い肌。整った顔立ちに知性と優しさを兼ね備えた、極めて魅力的な女の子だった。悔しいことに、私は一目見たときから羨望の眼差しを向け、同性でありながらも、彼女を射止める男がどれほど幸福かを想像した。ところが、彼女の関心は、私の知る限り実の兄以外に向けられることが全く無かったのである。彼女が兄を慕う気持ちは、恐らく尋常なものではない。そこに男と女の感情があるのかどうかまでは分からなかったが、少なくとも彼女は私にこう言った。 「兄さんを欲しいと思うのなら、わたしを殺すしかないわ」 無邪気な子供のように笑う彼女の言葉には、冗談も、悪意さえも混じってはいなかった。ごく自然に、ただ当たり前に、信仰を妨げる者を虫けらのように排除する狂信者のそれを連想させた。Y子が過去に兄の恋人をめぐって刃傷沙汰を起こしていたことは、後になって知った。Y子と兄には、一度男と女の関係があったことも。彼女はすべてを私に話した。話すことで、兄の結婚が流れれば良いとの思惑もあったことだろう。 煙草の火が、薄暗がりの中を色違いのホタルのように鼻先で浮かんでいる。彼女の想いからすれば、私の気持ちなどは、この灯りのようにささやかなものだろう。ベランダから部屋に戻り、灰皿に煙草の吸殻を処理しながら、彼女がここへ訪れる約束の時間が近いことを確認すると、そのときが丁度、インターホンの呼び出し音が鳴るタイミングだった。 「こんばんわ。急なお約束ですみません」 玄関のドアを開けると、彼女は開口一番にこう述べて深々と頭を下げた。 「いいえ、遠くからよく来たわね。散らかっているけれど、どうぞ」 彼女はどのような意思を持って今日ここへ来たのだろうか。敵意があってここへ来たのであれば、彼女の受け答えは不自然なものだ。例えば、これから殺そうとする相手に、かしこまったり謝ったりは普通しないだろう。 しかし、私の直感は警鐘を鳴らしていた。居間へ案内し、彼女の好きな珈琲を淹れて対面に座る。 「いくつだっけ? 歳」 私から話を振る。彼女が訪問を願い出て訪れたという負い目から、積極的に話をし辛い雰囲気だろう。 「今年で十五です」 端正な顔立ちが無表情に珈琲を見ていた。まるで彫刻のような印象を受ける。 「話は、お兄さんのことだよね」 「はい」 私は彼女が珈琲を飲むのを確認する。 「あなたのお兄さんは、あなたについて、どう思っているの」 もちろん、私は本人にその答えを直接聞いている。つまり、知りたい事は、彼女が兄の感情について知っているかどうかだ。 「兄は、あなたの事が好きです。そしてわたしは、どこまでいっても血を分けた妹でしかない」 この答えで、私が危惧していたことは確信に変わる。 この子は、判っているのだ。例えこの世が引っ繰り返ったとしても、自分の想いが決して報われないことを。産まれたときから一番身近で、何よりも好きで、もしもその気持ちが自分の命よりも大事なものであったなら。それを、誰かが阻もうとするのであれば。 答えは、彼女の背後に有る姿鏡に映し出されていた。後ろ手に隠し持った刃物はとても鋭利で、彼女の純粋さを体現しているかの様だ。私なら、鈍器にする。あわよくば、刃物よりも事後処理が簡潔に済む。刃物での凶行はここを凄惨な殺人現場に変えるし、返り血を浴び、証拠を多く残すだろう。理知的な彼女が、それでも刃物を選択した事から判断するに、後先のことよりも今確実に私の息の根を止めるほうを望んでいると見ていいだろうか。 「もう、追い詰められてどうしようもないのね」 私の言葉は、彼女に届いているのか。虚ろな目をした彫刻は、まばたきもせず、そっと涙を溢れさせた。口を開かぬまま、言葉にならない嗚咽を発する。私は、時計の長針がおよそ半周する間、いろいろなことを話しながら、彼女を苦しみから救う方法を考えた。彼女がいかに兄を愛しているかを痛切に感じながら。彼女は、私を良き理解者と認めた上で、それでも尚、私の存在を許せないと言った。 ならばきっと、彼女からすればすべてが、生きている限り続く地獄なのだ。そう考えると私は、初めて彼女を想って悲しい気持ちになった。地獄に身を焦がしながら生きてきた彼女に、想い人を奪うという死刑宣告をした張本人である私が、一体、何を言えよう。私が彼女に想った事や考えていた事などに、何の価値も無く。 彼女にとって私の話すことは、単なる私への「深い親愛」にしかならなかった。彼女の世界を覆う闇に灯る火としては、余りにか細く、夏の夜にベランダで浮かぶ小さなオレンジ色の熱みたいなものだ。 だから私は、彼女の嗚咽が嘔吐に変わっても、ただ見守ることにした。煙草から抽出して珈琲に混ぜた致死量のニコチンが体内に吸収され、猛烈に咳き込みながら嘔吐し、倒れ転がる彼女を。呼吸が詰まり、目の縁が酸欠でくっきりと紫色に変わる頃。彼女の瞳は捨てられた猫を思わせるものになった。私は、たまらなくなり、彼女を抱きしめた。背中越しに、彼女の手が刃物で私の背を刺そうとするのを感じて私は目を閉じた。 しかし、なにも起こらなかった。 恐る恐る目を開けると、彼女は震える手で刃物を自らの喉もとにあてたが、そのまま意識を失った。或いは、死んだかもしれない。 私は、彼女の吐瀉物と排泄物で汚れた床を掃除し、荷造りを一箱、追加した。私と大事なお兄さんが新婚生活をおくる場所の、なるべく近くに居させてあげよう。 ベランダに浮かぶ、か細い光が見えるところに。
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