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作品名:STAY WITH ME 作者:nottnghill_ann

第9回   第8章






   雄一郎がボン・ジョヴィを聞きなが自分を責めていた頃、梓は、千葉県幕張に
  あるオープンカフェでコーヒーを飲んでいた。

   幸一と生活した幕張に引越しをして半月が経っていた。
  
  「引っ越す」と決めたが、生まれ故郷である福島には戻る気持ちがなかったし、
  戻れなかった。今まで生きてきた中で「幕張が一番落ち着く場所」そうだったの
  だろう。

  「そろそろ職を探さなくては」と考え、ハローワークから紹介された会社に、面
  接を受けてきたばかりだった。小さな雑貨屋で条件は余り良くなかったが、不況
  の今、仕事があるだけでも有り難い。

  「雄一郎を恋しい」という気持ちはあったが、自分の気持ちより「雄一郎が自分
  をどう思っているのか?」という事の方が、何故か気になっていた。
  
  「今頃、あの人は私が黙って姿を消して悲しんでくれているかしら? 子供の事
  を心配しているのでしょうね。また『子供を失う』というこの悲しみに、これか
  らどうやって向き合っていくのかしら? 一度壊れた奥さんとは元に戻る事はな
  いでしょうから、私がいなくて大丈夫なの?」
   ひとり言を言い、シナモンロールを口に入れた。
 
   雄一郎とは、ロイヤルガーデンホテルのBILLを見られたあの日以来、会っ
  てはいなかった。あの時「彼が本当に愛しているのは妻だ」という事を身体の芯
  から感じ取った。その事は悲しい、というより悔しかった。
  「彼を本当に愛している」と思っていたが、そうではなく「彼との恋愛ドラマを
  楽しんでいた」本当に愛していたのなら、あんな仕掛けはしなかった。
   雄一郎が誠実だったから、それに甘えてドラマのヒロインになった気分でいた
  が、自分の役は「主人公の二人を引き立てる脇役」だったのだろう。
  
  「私はヒロインではない」と悟った時に「何も言わず突然に姿を消す」事を思い
  ついた。
  
  「彼は必死で私を探すだろう。そうすれば、いつか、私は真のヒロインになれる」
   そう信じていた。

   ……でも、そうではない……

  「本当に愛していた……だから、どんな方法を使ってでも独り占めして、ずっと
  傍にいて欲しかった……いろいろな愛し方がある。私は私の愛し方で、彼を愛し
  た」今、その事を思うと辛くて胸が張り裂けそうになるから「恋愛ドラマを楽し
  んでいた」そう思う事にした。その方がずっと楽だった。



   夫の幸一の通夜で、初めて雄一郎を見た時、梓は雄一郎の中に「若き日の幸一
  」の姿を見て胸がときめいた。
  「夫の通夜の席で不謹慎」だと、自分が恥ずかしくなったが、翌日の葬儀でまた
  雄一郎を見た時には、昨夜以上のときめきを感じた。そして、会社から「労災の
  手続きのために、ご主人が所属されていた宿泊部支配人の川村が伺います」と聞
  かされた時「運命かもしれない……」梓はシナリオを描く事を思いついた。

  「声を失った」という設定で一幕目が上がった。
  
   実際に会った雄一郎は、幸一より数倍も魅力的であり「夫の死を悲しむ貞淑な
  妻」というヒロインに成りきった梓は、演技をするまでもなく、自然体で一幕目
  の幕を無事に下ろす事が出来た。ただ「声が出ない」役を演じるのは少し辛かっ
  た。
 
   二幕目のシナリオは「ホテルで働きませんか?」という書き出しで、雄一郎が
  描いてくれた。
   ヤマ場は「夏のメインイベントである花火大会」だった。
  甲府のデパートに行って、有名デザイナーの浴衣を奮発した。くすんだ赤の地に
  白いボタンの花が散りばめられた浴衣を羽織った時「とてもお似合いですよ」と
  店員に言われて、予算をだいぶオーバーしたが「舞台衣装にふさわしい」と、決
  めた。薦められるままシルバーの帯も購入した。
   花火大会の当日、ハウスキーパー達が浴衣姿の梓を見て「菅原さん素敵! 見
  違えちゃった」と驚いていた。自信を持った梓は、会場の隅で満足そうに花火を
  見ていた雄一郎にそっと近づいた。「菅原さんのお陰です。ありがとうございま
  した」とお礼を言う雄一郎の、自分を見る目が普通ではない事と感じて、新たな
  シナリオを考えついた。
   
  「具合が悪い」とウソをついて、翌日から会社を休んだ。
  
   ……じっと待った……
   
   休んでから一週間目に、ついに……ヒーローが心配して自宅を訪れてくれた。
  嬉しくて胸が震えた。思い通りになったのでもう一つ演技をする事を思いついた。
  ヒーローが帰る間際に、具合が悪くなったふりを装って玄関先に座り込んだ。   
   
   ……でも、まだ終わりではなかった……
  
  「明日から出社出来そうです」
   そう約束したが、翌日も休んだ。
   
   二幕目でも見事にヒロインを演じ、そしてヒーローはヒロインの虜になった。
  
  「雄一郎との密かな関係」は「幸一との密かな関係」とは比べ物にならない位に
  素晴らしく、ヒロインも、ヒーローに夢中になった。

   雄一郎は、梓のために専用の携帯電話を用意してくれていた。その事は嬉しか
  ったが「携帯の電源が切られ、ホテルの事務所にある雄一郎のスケジュール表に
  『公休』と書かれている」というシナリオに描かれていないシーンで、アドリブ
  の演技をする時は辛かった。だから「ホテルを辞めよう」と思った事もあったが
  「ホテルの誰も知らない密かな関係」が魅力だった。
 
   徐々に「雄一郎を独占したい」という気持ちが強くなった。
  「ヒロインはその気持ちを抑え、ヒーローを一生陰で支え続けるけなげな女性」
  が想定内の設定になっていたが、シナリオを変更しなくてはならない事態が起こ
  った。

   去年の11月末、梓がリネン室の清掃をしている時……
  
  「ねえ、ねえ、見た? 総支配人の奥さんの写真?」
   興奮気味でハウスキーパー・リーダーの保坂真澄と、同じハウスキーパーの中
  込和子が、アメニティグッズを補充しにリネン室に入って来た。

  「総支配人の奥さん」という言葉に敏感に反応した梓は、慌てて業務用掃除機の
  電源を切った。

  「菅原さん、お疲れ様。」
   二人は梓に挨拶をしたが「エーッ? 見てないけど。何で見たの?」とまた
  「総支配人の奥さん」の話題に戻った。
  
  「さっき、フロントバックで見せてもらったのよ。何とかビジネスっていう雑誌
  の、今年のベスト何とかとかいう中に選ばれたらしい。何だったかな? そうそ
  う、ロイヤルガーデンで女性初の支配人。女優さんみたいに綺麗で、私はビック
  リしちゃった」
   保坂真澄がオーバーアクションで話をしていた。

   梓は棚を整理しながら、二人の会話に耳をすませた。
  
  「でもさ、総支配人の奥さんって、病気で子供が産めなくなって……あの頃の総
  支配人、かなり落ち込んでいた様子だったよね」
   保坂真澄が声を潜めた。
  
  「そうだったよね。可哀相な位に元気がなくて、フロントの吉野さんとか、みん
  なが心配していたものね。凄い愛妻家ってみんな言ってるけれど、なんか羨まし
  い」
  
  「私は、あんなカッコイイ旦那を単身赴任させて、奥さんは心配じゃないかな? 
  って思っていたけど、奥さんの写真見て、あんな素敵な奥さんを一人横浜に残し
  て、総支配人は心配じゃないのかなあ? って考えが変わったよ」
 
  「へエーッ、そんなに素敵な人なんだ。早く雑誌が見たい」
  
  「ちょっとー、見るのは後にしてよ。もうすぐチェックインの時間なのに、未清
  掃の部屋がまだ残っているんだから、サボっちゃダメ。ほらほら、仕事、仕事!」
  
  「はーい」
   ハウスキーパーの二人はそう言いながらリネン室から出て行った。
  
   二人の話を聞いて仕事が手につかなくなった梓は、フロントバックに行ってそ
  の雑誌を見たい衝動に駆られた。しかし、雑誌を見ているところを、雄一郎に見
  つかってしまう可能性がある。我慢をしていたが、仕事が終わるまで時間が長く
  感じられた。
   終わると同時にホテルを出て、ブックセンターに直行して東洋ビジネスを手に
  取った。焦っていたので、なかなか目的のページを開く事が出来なかった。やっ
  との思いでページを開いた梓は、真理の写真を見て、その昔、幸一に妻の佳美を
  紹介された時以上の大きなショックを受けた。
 
   見事に輝いている真理には美しいだけではない、梓も圧倒される程の魅力があ
  った。そして、真理が夫の雄一郎の事を語っている記事も読んだ。真理に激しく
  嫉妬した。
   
   美しい妻を持っている男がその妻を棄てて、他の女に走る事は多々あるが「あ
  の人は、この女を棄てる事はないだろう。私は、この女からあの人を奪う事は出
  来ない……でも、子供が産めない? 可哀相な位に元気がなかった?」
   リネン室での保坂真澄の言葉を思い出した。

  「彼女は私と同じ……きっと辛かったのだろう……」
   同じ痛みを経験した者同士が持つ連帯感を感じた。
  
  「でも……私は自らの手で葬ったが、彼女は違うのだろう。私は『悪魔』だけれ
  ど、彼女は『天使』。人間の心の邪悪な部分が『悪魔』だとしたら、その『悪魔
  の私』を打ち破るための『心』……それが『天使の彼女』なのかもしれない。で
  も、時には悪魔が勝つ事もある。気持ちが激しければ……」
  
   真理との連帯感を一瞬でも感じた事で、真理に嫉妬する思いが更に増した。
 
   梓は二幕目のシナリオを書き直さず、第三幕目として新たなシナリオを描く事
  にした。
   
   ……雄一郎の誠意に賭ける事にした……
  
   ……最初に既成事実を作った……
  
   有り得ない事だが、雄一郎にウソの報告をした時につわりのような症状が起き
  た。
  
  「そのまま演じ続けろ」と心の中の舞台監督が応援もしてくれた。

  「生まれて来る子供と梓と三人で歩む事にする」という言葉を聞いた時は、心の
  底から嬉しかった。雄一郎を騙した事で、心の片隅に痛むものがあったが「気持
  ちが激しい悪魔が天使に勝った。絶対に幸せになれる!」そう信じていた。
 
   しかし、雄一郎は台本どおりに演じてくれなかった。

   ……一番大事な台本だったのに……

   真理と別れ話をした後、すぐに電話をくれると約束をしていたが、一晩中待っ
  ても電話はかかって来なかった。梓は、どうしようもない程の不安な気持ちで一
  週間も待った。待たされている間、真理に対する憎しみが増し、雄一郎にさえも、
  愛している分だけ、憎しみの気持ちが沸き起こった。
   
   連絡を待っている間に不安になった梓に、またアイディアが沸いた。
 
  「妻と別れた雄一郎を自分の手に入れた後『ごめんなさい。子供を失う事になっ
  てしまって……』と、悲しみにくれるが、お互いに励まし合いながら立ち直り、
  そして二人で寄り添って生きていく」という三幕目のオリジナルのシナリオに、
  梓はストーリーを追加した。

   舞台は山梨から横浜に移った。
  
   真理は、梓の正体に気がつかないフリをして毅然とホテルマンを演じていた
  が、真理の心の動揺は、手に取るように分かっていた。それはそうなるように
  仕向けた。
   
   加えられた部分でも、自分自身の芝居には成功した。
 
   幕が下りた後には、タキシードを着た雄一郎とドレスを身にまとった梓が、
  腕を組んで歩くレッドカーペットが待っている……筈だった。だが、レッドカ
  ーペットは用意されていなかった。
   
   その原因を作ったのは梓自身だった。
  
   小道具に細工を凝らしすぎた。ホテルの領収書をわざと見せるようにしたの
  は、ちょっとした悪戯心だったのだが、雄一郎が本気で怒るとは思わなかった。
  「梓と子供が大事で、二人を守るためには、真理も大事にしなくてはならない」
  と言ったが「本心は真理が一番大事で、一番愛していたのは真理。永遠にその
  気持ちが変わる事はない」
   
   自分が作った追加ストーリーが元で、梓は、雄一郎の真実に気がつく事にな
  ってしまった。
 
 
   貧しかった子供時代から、欲しいものがあっても、行きたい私立女子高校が
  あっても「梓はお姉さんだから、長女だから、我慢してね」両親にそう言われ
  て、ずっと我慢をして育ってきた。不満もいっぱいあったが、両親に口答えす
  る事なく「長女」を演じてきた。
   恋愛でも同じだった。自分が望まない男性には求められる。自分が望み、素
  直に甘えられる男性を求めると、それは人のものになっていて辛かった。だか
  ら、幸一や雄一郎と会った時に「我慢をする」事に疲れた梓にとっては、どん
  な手段を使ってでも、欲しいものを手に入れたかった。「我慢する長女の梓」
  はどこかに葬り去りたかった。

  「そんな環境が私をつくった」
   しかし、何でも他人のせいにして、自分を正当化する事は虚しかった。

  「『容姿端麗、才色兼備』と言うのは、川村真理のような人を指して言うのだ
  ろう。でも、あの女だって、自分を過大評価して、勝手な都合で10年近くも
  夫を放りっぱなしにして、その報いは受けるべき」
   真理に責任を擦り付ける事で、虚しさを消した。

   オープンテラスは気持ちが良かったが、隣に、ベビーカーに小さな子供を乗
  せた若いママのグループが座ったので、それを機に梓は家に戻った。




 
   雄一郎が今、どういう状態になっているか無性に気になった。
  非通知であっても携帯に電話をかける事は出来ない。
  「梓は消えた」と狂おしい程の辛さを味わって欲しいから「梓だろうか?」と
  期待を抱かせる事はしたくはない。
   しばらく考えた末、非通知設定にして声の調子を変え、八ヶ岳ガーデンリゾ
  ートホテルに電話をかけたが「総支配人はお休みを頂戴しております」という
  答えが返ってきた。益々、雄一郎の事が気になってきた。そして、梓は一度も
  電話をかけた事はないが、しっかり覚えている電話番号をプッシュした。
  「045 621 613」最後の番号をプッシュする時、指が止まった。横
  浜ロイヤルガーデンからの帰りに寄った、白い高層マンションの郵便受けの
  「川村雄一郎・真理」というネームプレートを見た時に抱いた激しい嫉妬心が
  蘇って、携帯を閉じた。

  「そうだ、団地の隣の片岡さんに電話をしてみよう」
   誰かと話をしないと、自分の気持ちが収まらなくなっていた梓は、急に思い
  立って、片岡ふみ子に電話をかけた。

  「もしもし片岡です」
  
   ぶっきらぼうなふみ子の声を久しぶりに聞いて、団地の光景が目に浮かび、
  雄一郎との日々が蘇って身体の芯が熱くなった。

  「片岡さん、ご無沙汰しています。菅原です。お元気ですか?」
 
  「まあ、菅原さん! どうしちゃったの? 心配していたのよ。菅原さんこそ
  元気にしているの?」
  
  「ごめんなさいね。あの時バタバタしていたから転居先も教えないで。でも、
  もう落ち着いたから。私は元気ですよ。これから転居先の住所を教えるけれど
  メモ出来ますか?」
  
  「ハイハイ、大丈夫よ」
   片岡ふみ子は以前と変わらない、気のいいおばさんだった。
 
  「千葉県千葉市美浜区……」
   梓はゆっくりと住所を告げた。
 
  「まあ! 何だって千葉県なんかに? そっちは蒸し暑いでしょう? 引っ越
  さなくても良かったのに。菅原さんが居なくなって、私も話し相手をなくしち
  ゃって本当に淋しいのよ」
   ふみ子は心の底から淋しそうだった。
  
  「幕張は、亡くなった主人と住んでいた町なので馴染みがあるんです。でも、
  山梨では、片岡さんに親切にして頂いて本当に嬉しかったのですよ。だから、
  離れて私も淋しく思っています」
  
  「だったら引っ越さなくても良かったのに」
 
  「ところで、ご迷惑かけてないですか? 誰か訪ねて来た人はいませんでした
  か?」
  
  「ちょうど良かった! それが、あったのよ。昨日、会社の人が訪ねて来たわ
  よ」
 
  「そうですか。でも、偶然ですね。本当にちょうど良かったのかしら」

   やっぱり電話をして良かった、雄一郎の気配を知る事が出来る。と思って胸
  が躍ったが、他人事のようなふりを装った。
  
  「ところで、訪ねて来た会社の人って誰ですか?」
   言われなくても雄一郎だと判っていた。
 
  「ここに名刺があるのよ。八ヶ岳ガーデンリゾートホテル 総支配人川村雄一
  郎。背が高い男の人だったわよ。怪しくはないと思うけれど、菅原さんからも
  その人に連絡してあげてね」

   名刺をもらった……ふみ子の答えに少し不安になった……

  「怪しくはないって……何かあったのですか?」
  
  「それがね……私が買い物から帰って来たら、その人が菅原さんの部屋の前に
  いたのよね。引っ越しましたよ。って伝えたらビックリしていてねえ。それで
  変な事いうのよ。菅原さんは、結婚して子供が生まれるから、そのお祝いの手
  続きに来た。って」
  
  「……」
   彼は何を話したのだろう?

  「もう一つ変な事を言っていたわよ。菅原さんは声が出なかった、って。誰か
  の間違いじゃないですか? って私は言ったけど」
  
  「それで、その人はどうしましたか?」
 
  「菅原さんとは筆談で話をしたって。変な事言うでしょう? だから、言った
  のよ。ご主人が亡くなった後もベランダでいつも挨拶を交わしていたし、菅原
  さんは病気で子供が産めなくなった。って」
  
  「……」
   梓は絶句した。

  「もしもし、菅原さん、聞こえてるの?」
   ふみ子が問いかけた。
 
  「聞こえてますよ。でも……そんな事まで言ったのですか」
   梓は、ふみ子を責める様な口調になった。

  「私が余計な事を言ったって言うの? だって、その人が言った事って変じゃ
  ない? それに、ちゃんと言わないとその人納得しないみたいだったから。だ
  いたいね、菅原さん、あんたが悪いのよ。私や会社に、きちんと引越し先を伝
  えておかないから。立つ鳥後を濁さずって言うでしょう? いい加減な事をし
  ちゃダメなのよ!」
   ふみ子は、梓に腹を立てていた。

  「別にいいんですよ。そうですね、ちゃんとしなかった私が悪かったのですか
  ら」
  
  「昨日の人といい、今のあんたも何か変よ。一体どうなっているの? 何かあ
  ったんでしょう? だけど、私を余計な事に巻き込まないでね!」

   ふみ子は、梓が自分を責めるような口調になった時に、薄々事情を察した。
  そして、昨夜「口外をしない」と約束したにも関わらず、本人に話をしてしま
  った事に後ろめたさを感じたが、その弱みを梓には見せたくなかったし、何よ
  り、男と女のトラブルに巻き込まれるのは勘弁して欲しかった。

  「何もないですよ。だから、大丈夫ですよ。ご迷惑かけてすみませんでした。
  片岡さんも元気でいてくださいね」
   梓は早々に電話を切った。
  
   ……もう、片岡ふみ子と話をする事はないだろう……

   この瞬間……夫の幸一と営んだ山梨での生活も、雄一郎と過ごした山梨での
  時間の全てが消えうせた……梓はそう感じた。


  「まさか、彼と隣に住む片岡ふみ子が話をしていたとは……しかも、彼は私の
  事情をふみ子に話をしていた……全部、あの人に知られてしまった……」
   余りのショックで、その場に崩れ落ちた。

  「子供の事を心配して、私がいなくなった事を悲しんでいる。そうではない、
  あの人は全てを知って……今頃は私を……憎んでいる……私は彼を本当に愛し
  ていた。でも……私が愛している人は私を憎んでいる……」
   そう思うと胸が張り裂けそうで、死ぬほど辛かった。

   崩れ落ちたまま梓は動けなくなった。

  「片岡ふみ子に電話をしなければ良かったのか? そうすれば『彼は私を求め
  ている』と思いながら、これからも生きていけたのかもしれない。あの時のよ
  うに……聞かなくてもいい事を聞いてしまったのか? リネン室で話を聞いて
  しまい、ホテルに行って川村真理と会った。全て私から仕掛けた事だが、聞か
  なくていい事、知らなくていい事だってあったのに……彼と一緒に過ごした1
  年半、私はずっとそうしていた。私は家族とも疎遠で、ずっと一人だったけれ
  ど、誰より大事な彼がいる事で、それが幸せって思っていたのに……彼だけを
  信じていれば、幸せな生活が送れたかもしれない……そうすれば、川村真理と
  会う必要もなかった。彼の元から去る必要もなかった。でも、人間はそんな風
  にしていられるのだろうか? 私はそんなに強くない……弱い?……そうでは
  なくて、愚かなだけ……」
 
   携帯電話が鳴ったが出る気も起きなかった。

  「もしかしたら……」
   さっきの電話は雄一郎かもしれない、と一瞬梓は考えた。
 
  「そんな事は有り得ない」
   呼び出し音が鳴った携帯電話は、引っ越した後に新しく購入していた電話だ。
   
   それでも「もしかしたら……」と何かにすがるような思いで、電話をバッグ
  から取り出し、留守電に入っているメッセージを確認した。
   メッセージは面接を受けた雑貨屋からで「採用が決まったので連絡をくださ
  い」という内容であった。
  
  「もう仕事なんてどうでもいい!」
   絶望感が襲った。


   気が付くと、日が暮れていた。
  
   今日は、菅原幸一の月命日であった。梓は、月命日だけは雄一郎と会わなか
  った。「申し訳ない」という気持ちが、心の何処かに残っていたのだろう。
  
   幸一が好きな缶ビールを仏壇に供え、ろうそくに火を灯した。
  
   その時「ガシャン」と外で何かが倒れる音がした。
  
  「何だろう?」と窓を開けた時、強い風が吹き込んできて急いで窓を閉めた。
   風の勢いだろうが、仏壇の缶ビールが倒れ、ろうそくの火が消えていた。ラ
  イターで、ろうそくに火を付けようとした時「いい加減にしなさい」幸一の声
  を聞いたような気がした。
   梓は、仏壇の上に掛けてある幸一の写真を見上げ「エッ!」と声をあげ尻餅
  をついた。

   額縁の写真の中の幸一の目から一筋の涙がこぼれた……
   
   梓は立ち上がり、ドレッサーの椅子に上がって幸一の写真を外し、その写真
  を見つめた。

  「ごめんなさい。あなたからの罰よね。それはしっかり受けるつもりよ。でも
  ね、私はエピローグを書かなくてはならないの」
   写真の幸一に向って話しかけた。
  
   バッグの中から手帳を取り出し、まだ付き合っていた時に、雄一郎の年間ス
  ケジュール表から写し取った「7月の本部会議」のスケジュールを確認した。

  「もうすぐ幕が下りる……今度こそ終演」
   梓は呟いた。


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