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作品名:STAY WITH ME 作者:nottnghill_ann

第6回   6

(2009年)

  
   正月が過ぎ「八ヶ岳ガーデンリゾートホテル」は「ホワイトスノーリゾート」
に変身した。
   オンシーズンの賑わいは陰を潜め、落ち着いたリゾートが戻って来た。澄み切
  った冬の夜空には眩い程の星が瞬き、イルミネーションを施したホテルは、幻想
  的な雰囲気に包まれた。
   昨年の、リーマンショック後から引きずっている不況の中でも、八ヶ岳ガーデ
  ンリゾートホテルは、地域の他ホテルを凌いで躍進していた。昨夏の、雄一郎発
  案のイベントイノベーションがきっかけで、スタッフの個々の意識も大きく変化
  し、質の高い人的資源を元に「ガーデンリゾートホテル」のブランドを崩さず、
  質の良いサービスを心がけた。地域と密着したホテル運営を取り入れる事で、地
  方の活性化にも一役買い、長い間「よそ者」的に扱われていたホテルも、地元で
  の地位を不動のものとした。


   ラグジャリーなサービス重視の経営戦略を展開し、プレミアムクラブを擁し
  「バトラーサービス」と「ターンダウンサービス」を取り入れた、横浜ロイヤル
  ガーデンホテルも、五つ星以上の評価を得、並みいる競合ホテルを押しのけ「日
  本を代表する極上ホテル」として世界に認められていった。


   2月に入って、雄一郎は、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルの総支配人職に昇進
  の内示を受けた。
   
   内示を聞いた後、デスクには戻らずゆっくりと館内を回った。見慣れたホテル
  が、違う顔に見え「やっと頂点に立った」と思わず顔がほころんだ。
   42歳という年齢での総支配人就任は異例の抜擢であった。「都落ち」と感じ
  た山梨に赴任してから9年、妻の真理に対して、コンプレックスを抱いた事もあ
  ったが、その真理に早く伝えたいと思い、携帯に電話をかけたが、シフトに入っ
  ているのだろうか? 留守電になっていた。

  「本部からは更に厳しい要求を突きつけられるだろう」
   館内を歩きながら、これからのホテル運営構想を練った。

  「以前から考えていたレベニュー・マネージメント方式を再度練り直すか……一
  室当たりの収益を最大にするには、より細かいデータ分析が必要になるから、そ
  のためのソフトの導入も考えなくてはならない。臨機応変な販売価格が設定出来
  る、社会的な広い視野を持ち、判断力が必要な、客室販売の管理責任者を誰に据
  えるか……」
   考える事も実行する事もたくさん有った。

  「今までは、宿泊部支配人というテリトリーに縛られていたが、総支配人になれ
  ば、枠を超えた発言力が持てる。今まで書き留めておいた事を改めて見直そう」
   アドレナリンが身体中を駆け巡り少し興奮状態になった。

   もう一度、真理の携帯に電話をかけたが、まだ留守電のままだった。諦めて携
  帯を胸ポケットに納めた時、リネン室の前で梓と偶然に会った。

  「お疲れ様です」
   梓は意識的にさりげなく頭を下げた。
  
  「総支配人になるよ」
   思わず雄一郎は梓に報告した。
  
  「おめでとうございます」
   言葉は他人行儀だったが、雄一郎を見つめる目は他人の目ではなかった。

   梓の「他人の目ではない視線」を社内で感じた時、興奮状態のまま、思わず梓
  に真っ先に報告してしまったが、その事に何故か雄一郎は少し後悔した。
  「身辺整理」その事が雄一郎の頭に浮かび「誰かに見られていなかっただろうか」
  と周りを気にした。





  「昼間電話に出れなくてごめんなさい。今日はアジアの旧正月でずっと忙しかっ
  たの」
   真理から電話があったのは夜の10時を過ぎていた。

   30分程前に、梓から「総支配人就任おめでとう」と改めて電話で祝福を受け、
  その余韻がまだ少し残っていた雄一郎は「忙しいのか? 大丈夫か?」自分の気
  持ちを悟られないように、真理を心配した。

  「大丈夫よ。何かあったの?」
   少し疲れ気味に聞こえる元気のない真理の声に、雄一郎は気勢をそがれた。

  「総支配人昇格の内示がおりた」
   喜びを抑えながら伝えた。

  「……」
   真理からの返事はなかった。
  
  「もしもし……どうした?」
   雄一郎はもう一度呼びかけた。
 
  「……」
   それでも真理からの応えはなかった。

  「総支配人なんだよ! トップに立ったんだよ! 真理だって、その事の重みは
  分かっている筈だ」
   真理の遅い反応が自分の意に沿わず、声に出さず心の中で叫んだ。

  「凄いね! おめでとう! 今までの苦労が認められたのね……でも、これで本
  当に、山梨の人になっちゃうのね」
   真理がやっと答えた。
  
  「……」
   今度は雄一郎が応えられなかった。手放しでの「おめでとう!」の言葉を期待
  していた。

  「総支配人就任は私も嬉しいけれど、でも、ずっと……私達ってこうなのね」
   真理の声は悲しそうだった。



  「実は、私達離婚する事になったの」
   昨夜、真理は大学時代の友人である山下祥子からそんな報告を受けていた。

   アメリカに本社があるPR会社の、東京支社に勤めている祥子は、大学時代か
  ら付き合いがあった山下剛とは出来ちゃった婚であったが、子供が生まれてから
  も、同居している祥子の母に子供の世話を頼んで、ずっと仕事は続けていた。
  
  「彼は疲れちゃったみたいなの」
   祥子は泣きながら真理に離婚理由を告げた。その理由は真理の胸をグサッと刺
  した。



  「何言っているんだよ。真理らしくないよ。だったら真理も山梨に来いよ」
   雄一郎は電話口でそう言った。無理に決まっている、そう思っていたが、思わ
  ずそんな言葉が飛び出た。
  
  「そうなの? 今の言葉は本心?」
   真理の声は悲しそうだった。
  
  「悪かった、無理な事を言って。分かっているよ。真理の中で、仕事がどの位の
  ウェイトを占めているか」
   真理の問いには答えなかった。
   
   ……ズルイ男だ……
   心の中で雄一郎は自分を責めた。

  「総支配人就任はとても嬉しいと思っているのよ。でも、何もしてあげられない
  けれど、頑張ってね……ごめんね」

   ……何かあったのか?……
   梓と違う真理の反応が気になった。
  
   ……真理に何か気付かれたか?……
   その事を考えて不安になった。

  「真理さんお疲れ気味かな?」
   真理は、祥子の事を話そうかと、一瞬迷ったが、今、その話をする気持ちには
  なれなかった。

  「八ヶ岳のトップに立って忙しくなっても、私の事を助けてくれる?」
  
  「総支配人になったからって、俺は俺だよ。変わらないよ」
  
  「嬉しい事があったのに、心配かけてごめんね」

   多分……雄一郎も真理の反応に淋しい思いを感じているだろう。「祥子から離
  婚の話を聞いた事で、少し落ち込んでいるの」そう言えば、雄一郎も理解してく
  れるだろう。仕事の事に関しては何でも話せるのに、プライベートな事に関して
  は、どうして躊躇いがあって、素直に話が出来ないのだろうか?……そんな自分
  が分からなかった。

  「本当におめでとう! 本部や横浜に負けないでね」
  
   雄一郎の出世は嬉しかったが真理は不安だった。
  電話の向こうに雄一郎が居るのに、ずっと昔、母が亡くなって一人ぼっちになっ
  て淋しかった、そんな感覚が襲った。

  「今度いつ帰って来る?」
   別居生活を送ってから久しく口にした事がない言葉が口についた。
  
  「週明けに帰るよ」

   雄一郎の言葉は優しかったが、真理は突然、誰かに甘えたくなった。
  
   それは誰? と考えたけれど分からなかった。
  
   ……多分……電話の向こうにいる「今の雄一郎」ではなく「昔の雄一郎」……

   何故、そんな事を思ったのか? それも真理には分からなかった。




   真理が感じた「不安」は何かの前兆だったのか?
 
   日本の経済情勢は、雄一郎の思惑通りに事を運ばせてはくれなかった。
  リーマンショック後の不況は簡単には解決出来ず、その波が徐々に押し寄せて来
  た。

   雄一郎が総支配人に就任してから、その年の上期のホテル売上は、前年比を下
  回り業績は厳しくなった……
   レベニューマネージメント方式を取り入れつつあったが、デフレ経済の中で、
  雄一郎の考える運営方針は大きく揺さぶられていた。
   本部からの要求も更に厳しさを増した。
  それでも、雄一郎は供給過多のホテル業界にありながらも、近い内に訪れるであ
  ろう、需給バランスの回復を考えてじっと耐え、スタッフには、総支配人である
  自分の考えを伝える機会を増やし、スタッフの意思統一を図り、ホテルのサービ
  ス低下を防いでいた。
  
  「自分がこのホテルのオーナーだったら、どんなに良かったか?」と思う事が多
  くなった。しかし、雄一郎は「ロイヤルガーデンホテル」傘下の「ガーデンリゾ
  ートホテル」の組織の中の一従業員でしか過ぎなかった。自分の考えが正しかっ
  たとしても、本部での会議で、提案が却下される事が増え、苦境に立たされる事
  が多くなった。



   


   9月に入り、横浜はまだ残暑が続いていたが、八ヶ岳は秋の気配が漂っていた。
  
   梓の家に行く途中、信号待ちをしていた時に雄一郎の携帯が鳴った。電話の相
  手は真理だった。その時は電話には出ず、梓の家の近くに到着し、いつもの場所
  に車を納め、エンジンを切った雄一郎は、真理に電話をかけた。


  「プロント……(もしもし)」
   声のトーンを落として真理は応えた。
  「もしもし」とか「ハロー」という言葉より、今の真理の複雑な心境には、イタ
  リア語のその言葉がピッタリあっていた。

  「どうした?」という雄一郎に「待って」と、真理は携帯を持つ手を変えた。
 
   雄一郎が総支配人に就任の内示を受け、その連絡をもらった時、少し落ち込み
  気味だった自分の様子を思い出し、高揚した感情を抑えた。

  「サプライズよ。だから電話したの」
  
   真理はなかなかハッキリ言わないが、抑えていても電話越しにウキウキ感は伝
  わった。
  
  「サプライズって何だよ」
   雄一郎が急かした。

  「川村真理さんね、ゲストサービス部の支配人だって……今日ね、内示を受けた
  の」
 
  「マンマミーア(何てことだ)!コングラチュラツィオーネ!(おめでとう!)」
   驚いた様子で雄一郎がイタリア語で答えた。
  
  「グラーツェ!(ありがとう!)」

  「凄いな! やったな、おめでとう!」
   改めて雄一郎が日本語で応えた。
  
  「おめでとう? なのかな。何か怖いの。いいのかなって……」
   真理の声の調子が変わった。
  
  「不安なのか?」
  
  「私は不安だらけよ。でも、嬉しいけれど」
   真理の声は上ずっていた。

  「俺の記憶じゃ、ロイヤルガーデン初の女性支配人……だよな。」
 
  「そう……それに最年少だって。」

  「村上には伝えたのか?」
 
  「ううん、まだよ。だって、一番先に八ヶ岳ガーデンリゾートの総支配人さんに
  伝えたかったの」

   雄一郎は胸が痛んだ。自分は総支配人の内示を受けた時に、真っ先に梓に報告
  した。

  「ねえ? 川村真理を助けてくれる? 新人研修の時の、あなたの教えを頭に入
  れて仕事をして来たの。そして部下を信頼し、大切にしているあなたを手本に仕
  事をして来たの」
  
  「今、何処にいる?」
   真理の言葉は嬉しかったが、梓の家に向う途中でこの電話をしている、という
  事で後ろめたくなった。その気持ちを隠すように雄一郎は話を変えた。

  「第二合同庁舎のバス停。桜木町駅から一停留所歩いちゃった」
 
  「これからマンションに帰るのか?」
 
  「うん、帰りにワインを買って帰ろうかな、って。一人でじっくり喜びを噛みし
  めてみる」
  
  「真理だったら大丈夫だよ、俺が保障する。真理には、俺がいるっていう事を忘
  れるなよ。それから……飲みすぎるなよ」
  
  「飲みすぎるなよ、は約束出来ないかもしれない。あっ、バスが来たから切るね。
  じゃあね」

   あの辛い出来事から約1年9ヶ月、立ち直って支配人に大抜擢された真理は立
  派だった。真理が言うように、自分の教えをいつも頭に入れているのだろう。そ
  して、部下達にも信頼され、慕われているのだろう。

   ……それなのに、自分は……真理を裏切っている……これから自分がするであ
  ろう事を考えると、雄一郎は恥ずかしくなった。

   雄一郎は梓の家には行かず、エンジンをかけて自分のマンションに戻った。
  マンションの自室に入ると同時に、梓専用の携帯が鳴った。

  「今日は来れるの?」
  
  「悪い。まだ仕事が終わらなくて、だから今日は行けそうも無い」
   梓にウソをついた。
 
  「無理しないでね」
   ガッカリした様子の梓は電話を切った。

  「今だったら、まだ引き返せる」
   雄一郎の頭をそんな考えが過ぎった。

   しかし、雄一郎は梓と別れる事が出来なかった。

    
   ……そして、運命の日が近づいてきた……

 
   11月末発売の「東洋ビジネス」という経済誌主催の「ベストウーマン」とい
  う、その年に「輝いた働く女性ベスト10」に真理は選ばれた。
   雄一郎は、真理から送られた雑誌の記事に載せられている、自分への真理のコ
  メントを読んだ時に「いい加減に、引き返せ」と今度は真剣にその事を考えた。

   しかし、梓からメールが届いたり、電話が来ると感情に流されてしまい、自然
  に足は梓の家に向っていた。




(2010年 冬)
 
   年が明け、2月に入って八ヶ岳地方は連日雪が降り寒い日が続いていた。

   梓は年末でホテルを退職していた。
  「仕事に関してはあなたから卒業して、自分で歩む事を考えるの」
   退職理由を梓はそう告げた。

   いつものように周りを気にしながら、誰も居ないのを確かめた雄一郎は、合鍵
  を使って梓の部屋に入った。
   すき焼きの良い匂いが漂っていて、雄一郎は思わず顔をほころばせた。

  「お帰りなさい」とキッチンから出て来た梓は絣の着物を着ていた。
  そんな梓に新鮮な魅力を感じて、雄一郎は思わず梓を抱きしめた。
   梓は雄一郎の手を引き、暖かい居間でコートと背広を脱がせた。

   新年度の予算組みで忙しく、連日連夜の残業で疲れていた雄一郎は「豪華だな」
  と、ネクタイを緩めながら、炬燵の上に用意されている、すき焼き用の霜降り肉
  を見て笑みがこぼれた。

   梓も炬燵に入って「どうぞ」と熱燗を雄一郎に勧めた。
  梓にも熱燗を勧めたが「私はいいの」と断わり、鍋から肉を雄一郎の器に取り分
  けた。
   極上のすき焼き肉を口に入れ、雄一郎は益々ご機嫌になった。
  熱燗をグッと飲んで、煙草に火を点けようとした時「煙草はダメよ」梓が、雄一
  郎から煙草を取り上げた。
  
  「何だよ。熱燗と煙草はセットなんだから」
   不満そうに雄一郎は言ったが、「ダメ」とライターも取り上げ、座りなおして
  正座をした。
   改まった梓の様子に「何だろう?」と思ったが、すき焼きを夢中で食べ、胃に
  沁みわたる熱燗を味わった。暖かで静かな部屋は居心地が良かった

  「あのね、お目出度ですって……」
   梓が思わぬ事を告げた。
  
  「何? お目出度……って……」
   雄一郎の顔色が変わった。

  「お目出度」という言葉が妙に生々しく、頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じ
  た。時が止まったような気がして、頭が真っ白になった。
  
   ……梓は複雑な表情でじっと雄一郎を見つめていた……

  「ごめんなさい……」
   そう言って梓は「私の不注意。でも、いいのよ。始末しても」と俯いた。

  「ちょっ、ちょっと、待てよ。突然の話で……」
  
   真理から妊娠を告げられた時の事を思い出した。真理の時は心から喜べたが、
  今は事情が違う。雄一郎は頭を抱えた。
 

   無言の二人の間で、時間だけが空しく過ぎて行った。
  すきやき鍋がグツグツと音をたてていて、中の肉や野菜は、すっかり煮詰まって
  しまっていた。それに気がついた梓がカセットコンロの火を消した。
   鍋の煮える音が消えて、テレビもついていない部屋には、時計の針が時を刻む
  音だけが響いた。

  「いつだ?」
   雄一郎が口を開いた。 
 
  「そろそろ三ヶ月目に入る頃」
   梓が小さな声で答えた。
  
  「だから、いつ生まれるんだ?」
   イライラした様子で雄一郎が、もう一度尋ねた。
 
  「10月半ば……」
   更に声を小さくした。

  「本当にごめんなさい……迷惑かけて……だから、いいの。始めから無理って分
  かっているのだから。私は覚悟出来ているのよ。ハッキリと言ってくれても大丈
  夫」
   悲しげな表情の梓が雄一郎を見つめた。
  
  「子供をダメにすると言うのか?」
   雄一郎は辛かった。
 
  「だって、それしかないでしょう? 可哀相だけど、それが一番良い方法だとし
  たら」
 
  「俺の子供だ。そうだろう?」
   しぼり出すように雄一郎は言った。
  
  「だけど……」
   梓はまた下を向いた。

   さっき感じた居心地の良さは何処かに吹き飛び、身体の芯に薄ら寒さを感じた。

  「ちょっと時間をくれないか? 一人で考えたいから今日はこれで帰る」
 
  「……」
   梓は黙って俯いていた。

   おもむろに立ち上がり、背広を着てコートを手に取って、雄一郎は梓の部屋を
  後にした。部屋を出る時、悲しげな梓の様子を見て心配になったが、頭からその
  姿を追い払い、意を決して梓の家を後にした。
   外は雪がしんしんと降り、顔に雪が降りかかったが寒さは感じなかった。

  「遂にこんな結果になってしまったか……だが、引き返そう、と考えた時に、決
  断をしなかった俺が悪い。決着をつける時が来たんだ」

   理性を失くして本能の赴くまま梓と関係を持ったが、想定外の事態になった時
  に理性が働いた。
 





   2月の終わりに、雄一郎は横浜に帰った。

   ショックが抜けきれず、横浜に帰るのは気分が重かったが、珍しく真理が風邪
  をひき、寝込んでしまい「ヘルプ」の要請が来ていた。
   

   仕事が終わって八ヶ岳を出発した雄一郎は、運転には気を配っていたが、いつ
  の間にか八王子ICを通り過ぎ、気がついた時はサントリー武蔵野ビール工場付
  近にさしかかっていた。
   横浜―山梨間では、雄一郎は、保土ヶ谷バイパス経由〜中央自動車道八王子I
  C〜小淵沢ICルートを利用するが、真理はユーミンの「中央フリーウェイ」の
  歌詞通りの中央道が好きで、新山下IC〜首都高湾岸線〜新宿経由中央自動車道
  ルートを利用していた。

  「真理が引き寄せたのか?」


   雄一郎は、自分が決断しようとしている事を考えた……

  「自分の気持ちを封じ込めて、長い間連れ添った真理を棄てて、梓と一緒になり、
  子供を育てて行く。という自分の考えは正しいのだろうか?」
  
  「梓だって『子供は諦める』と言っているのだから、その方法だってある。子供
  には可哀相な思いをさせるが、それが一番良い方法ではないのか?」
  
  「別れた真理に対して一生十字架を背負う、そんな親に育てられて子供は幸せだ
  ろうか?」
 
  「誠実面しても、自分の決断には無理があり、いつかもっと悲しい事になるので
  はないか?」
  
   自問自答した。
   
   ……そして、もう一つ……
 
  「真理とは、この先も別居生活が続くだろう。だから……真理には隠して、梓に
  子供を産ませ、二つの家庭を持つ……」
   
  「自分の不始末に、真理を巻き込むのはよせ! 相手の女だって承知して納得し
  ているのだから、その方法を取れ。そして、女と手を切れよ。目を覚ませ!」
   村上だったらそう言うだろう。

  「雄真と理子は病気だから仕方なかった。だが、梓との間に生まれる自分の子供
  を、自分の手で葬り去る事は出来ない。俺が取る道は唯一つ。梓と一緒に、その
  子供をりっぱに育て上げる」
   ……この事が悩みに悩んで出そうとしている結論だった。
 

   10時過ぎに横浜に着いた。

  「単休なのに来てもらって、ごめんね。だいぶ良くなったの。だから、明日から
  出社しようと、思っているの」
   それでも、無理して帰って来た雄一郎を嬉しそうに迎えた。

  「無理するなよ。せっかく俺が帰って来たのだから、もう一日休んじゃえよ」
   本心ではなかった。
  
  「そうしたいのはやまやまなんだけれど、週末に提出する報告書が、出来上がっ
  ていない事に気が付いたの」
  
  「そうか……」
 
  「ごめんね……」
   
   申し訳なさそうにしている真理に対して、罪の意識が沸いた。

  「たまには、DVDを観ない?」真理に言われて「助かった」と雄一郎は思った。
  
   真理の選んだDVDは、結婚式を間近に控えた娘が母親の日記を見て、父親探
  しを始める、というミュージカルの「マンマ・ミーア」だった。
   挿入歌の歌詞の内容がきつかったが、真理と普通に会話をするのはもっときつ
  かった。DVDを雄一郎は全く観ていなかった。隣の真理を感じながら、自分が
  決断した事を考えた。

   ピアース・ブロスナンが「S.O.S」を唄っていた。
  「何かビミョー。一生懸命に歌っているけれど、ピアース・ブロスナンの歌を聞
  くのは、少し恥ずかしい気分。吹き替えをすればよかったのに」
   DVDを見ながら真理は、足でリズムをとって笑って言った。

   あなたがいなかったら、どうして生きていけばいいの? ……私を救うのはあ
  なたの愛……
    
   真理が歌っているような気がした雄一郎は辛くなり、トイレに行くふりをして
  洗面所の鏡に、自分を写した。

  「俺はいつの間に、こんな残酷な男になったのだろうか?」
   鏡に写る自分に問いかけた。

   翌日の昼、ホテルまで真理を送り「行って来ます」と元気に車から降りる真理
  に「悪い」と、小さく声をかけた。その言葉が聞こえたのか、聞こえなかったの
  かは分からない。真理は、小首を傾げて「何?」というような表情をしたが、笑
  顔で手を振り、ホテルの従業員通用口に消えて行った。

   雄一郎は、真理が消えた従業員用の通用口をじっと見つめていた。
  車の中には真理がつけた香水の香りがわずかに残っていた。
   
   そのまま山梨に向った……真理の笑顔を見るのは最後……とは知らずに……
 

 
   一週間後に梓に「真理とは別れて、梓と生まれて来る子供と生活をする事に決
  めた」と伝えた。その時に梓は涙を流したが、自分を見つめる梓の潤んだ瞳の中
  に、怪しい光を見つけて、雄一郎は、一瞬何とも言えない不安感を覚えた。
 


   ……三月初めに真理に別れ話を告げた……

   マンションを出て、桜木町のホテルで真理からの無言の電話を受けた時「別れ
  たくない。真理を愛している」とハッキリと再認識していた。
  
  「もう決意した事だ。生まれて来る子供には父親は必要だ。だが、真理は……時
  間が経てば……こんな酷い俺を必要とせずに生きて行く事が出来る日が来るだろ
  う」
   真理への気持ちは封じ込めるしかなかった。

   梓から「奥さんと話をしたら電話してね」と言われていたが、電話をする気に
  はなれなかった。
 
  「梓の事は愛しているが……真理をもっと愛している……ダメだ! もういい加
  減にしろ! 子供だ。子供の事を一番に考えろ!」
   そう自分に言い聞かせた。

   村上には電話で報告を済ませたが、最後に「真理の相談相手になってやってく
  れ」と言った後地獄に堕ちろ!」と一方的に電話を切られた。
  
  「お前にそう言われて当然だが、俺はまだ地獄に堕ちるわけには行かないんだよ。
  生まれて来る子供を、りっぱに育て上げるという仕事が残っている。俺が地獄に
  堕ちるのは、子供が一人前になった後だ」

   切れた電話に向って雄一郎は呟いた。








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