1 (2007年)
二人にとっての悲しい出来事があり、真理がロイヤルガーデンの仕事に復帰し てから、一年が経っていた。 ゲストサービス部マネージャーとして、プレミアムクラブ、コンセルジュデス ク担当し、横浜ロイヤルガーデンホテルで、真理の存在が大きくなり始めた頃、 雄一郎は菅原梓と出会った。
梓の夫の菅原幸一は、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルで送迎バスの運転手の職 についていたが、運転するガーデンリゾートのマイクロバスは、大型トレーラー に追突された。 マイクロバスは、信号に矢印が出たのを確認して右折しようとしたが、そこに 猛スピードのトレーラーが突っ込んで来た。大型トレーラーの運転手は、眠気を 催したため煙草を吸おうと思い、コンソールボックスに入っている煙草を探す事 に気を取られていた。更に悪い事に、トレーラーの運転手はブレーキペダルから 足を離していて、マイクロバスに気が付きあわてた運転手は、ブレーキとアクセ ルを踏み間違えてしまった。交差点は坂の途中にあった。大型トレーラーは下り 勾配であったため、アクセルを踏み間違えた事で、トレーラーは大きな凶器と化 していた。追突された衝撃でマイクロバスは横転し大破した。ハンドルと座席に 挟まれた状態の幸一は胸を強く打ち、病院に運ばれた一時間後に死亡が確認され た。幸いな事に、バスは駅に客を迎えに行く途中で、幸一以外誰も乗っておらず、 被害は幸一だけであった。幸一に全く非はなく、全てトレーラー運転手側の過失 責任と言う事で、決着はついたが、幸一の保険などの諸手続きは雄一郎が担当す る事になった。
葬儀が済み、菅原家が一段落したのを確認して、雄一郎は諸々の手続きのため に幸一の家を訪ねた。住宅が密集している地域の外れにある自宅は、県営団地の 一階にあった。 団地の入り口にある案内図で確認し、菅原家の部屋の前で表札を確認し呼び鈴 を押した。しかし誰も出てくる気配はなかった。雄一郎は腕時計を確認したが、 総務から伝えられた時間に間違いはなく、雄一郎は何度か呼び鈴を鳴らした後、 誰も出て来ないので、思い切ってドアノブに手をかけた。 ドアは鍵が掛かっていなかった。 遠慮がちにドアを開け「こんにちわ。ガーデンリゾートの川村です」と声をかけ た。ドアの向こうにはダイニングキッチンが続いており、部屋越しのベランダで 菅原の妻の梓が、洗濯物を干している後ろ姿が見えた。
「ごめんください」 雄一郎は更に声を大きくしたが、それでも梓は気がつかず一向に振り向く気配 はなかった。
「余程洗濯物を干す事に夢中になっているのか……まさか、部屋に上がりこむ事 は出来ない……それにしても物騒な家だ。どうして気がつかないのか?」と思っ ていた時、洗濯物を干し終えた梓が、ゆっくりと後ろを振り向き、部屋の向こう にいる雄一郎の姿を見て驚ろいた表情で玄関に走って来た。
「驚かせて申し訳ございません。チャイムを鳴らしたのですが、ご返事がなかっ たものですから。ガーデンリゾートの川村と申します。ご主人の労災の手続きの 件でお伺いしました」 雄一郎は丁寧に頭を下げ、名刺を渡しながら梓にそう伝えた。
「こちらこそ気がつかなくて申し訳ございません」という仕草で梓は頭を下げた。
言葉を発しない梓に違和感を持ち「声が出ない位に驚かせてしまったのか」と 雄一郎は、梓に何度も頭を下げた。梓は、雄一郎の訪問に慌ててリビングにかけ 戻り、すぐに玄関に戻って、お絵かき帳を差し出した。そこには「すみません。 声が出なくなってしまいましたので、お話は筆談でお願いします」と書かれてい た。 雄一郎は愕然とした。幸一の妻が声を失った、という事を全く知らなかった。 葬儀でもそれは分からなかったし、総務でも何も言っていなかった。自分の無知 に、反対に恥ずかしくなった雄一郎は「知らなくてすみません」と頭を下げた。 梓は「いいんですよ」と手を振り、雄一郎をリビングに通した。
通された幸一の家のリビングは、陽あたりも良く「温厚な幸一」そのもののよ うに居心地が良かった。雄一郎は仏壇の前で幸一に手を合わせ、梓は、雄一郎の ためにコーヒーを手際よく用意し、そしてお絵かき帳をめくった。 「会社から手続きのために人が来る」という事を知っていて、スムーズに手続き が終わるように、と予めいろいろな言葉を用意していたのであろう。次のページ には「この度は、主人のためにいろいろご尽力を頂き、ありがとうございました。 会社の皆様のご好意には感謝しています。主人も、八ヶ岳ガーデンリゾートでの 仕事が好きでしたので、きっと喜んでいます」と綺麗な文字で書かれていた。
「この度はご愁傷様です。自分もそうですが、ガーデンリゾートのスタッフは皆、 ご主人の事故を悲しく思っています」 雄一郎は梓の顔を見ながらゆっくりと伝えた。
確か幸一は50歳を過ぎていたから、梓とは年が随分と離れているようだ。梓 は自分と同じ位か少し若いぐらいだろうが、顎にかかるボブスタイルが、落ち着 いた雰囲気を漂わせていた。「会社の人間である自分の前で、気丈な態度を示し ているが、悲しみは大きいのだろう」と梓を見ながら、雄一郎はそんな事を心配 していた。
その後も、雄一郎は何度か梓の元に通う事になった。 様々な手続きも済み、訪問もこれが最後となった。前日に雨が降り、団地の敷地 内は、所々に水溜りが出来ていた。 「菅原家を訪問するのもこれで終わりか」と考えながら、来客用スペースに車を 納め、梓の部屋に向った。
考え事をしていた雄一郎は、梓の住む棟の前で水溜りを避けようとした瞬間、 足を滑らせ尻餅をついてしまった。腰をしたたか打ち、余りの痛さに唸り声をあ げたが、真っ先に、梓にカッコ悪いところを見られていないか? と心配になり 辺りを見回した。梓にも誰にも見られていない、と安心して急いで立ち上がり、 打った腰を庇いながら階段を登りかけた時、梓が笑いながらドアから顔を覗かせ た。どうやら見られてしまったようだ。梓とは何度も会い、筆談でいろいろな話 をしていたが、こんなに笑っている顔を見た事はなかった。笑うと出来るエクボ が可愛かった。転ぶ姿を見た梓の笑顔につられるように、雄一郎も笑顔になり、 照れ隠しのために頭を掻いた。恥ずかし気にしている雄一郎を家に招きいれ「大 丈夫? 怪我はないか?」と手振りで尋ね、暖かいココアを用意して、泥で汚れ たコートを手に取り、軽く水洗いして「乾くまで少し時間がかかりますよ」と筆 談で雄一郎に伝えた。 手続きを済ませた後、梓はお絵かき帳をめくった。 お絵かき帳にはいつもの綺麗な文字で「今日で手続きは終わりですね。川村様に は、本当にお世話になり、ありがとうございました。最後なので、今日は、私が 作った昼食を召し上って行ってください」と書かれていた。 雄一郎の訪問はいつも午前中で、昼食前には辞去していたので、その時間を考 えての梓の申し出だった。一瞬、躊躇ったが「梓とこれが最後だ」と思うと淋し い気持ちになり「コートが乾くまで待っていた」と、食事をご馳走になった理由 を正当化する事にして、梓の誘いを受ける事にした。 喜んだ梓はいそいそとした様子で、キッチンで雄一郎のために料理の用意を始 めた。しばらくして出て来た料理はラザニアだった。「私の自慢の料理で亡くな った主人の大好物だったのですよ」という前置きで、熱々のラザニアとサラダを テーブルに並べた。自慢の料理と言うだけあって、確かにラザニアは美味しかっ た。 夢中で食べ終わって「ご馳走様」と梓を見た瞬間、雄一郎は梓に引き込まれそ うになった。真理の溌剌とした美しさとは違う、落ち着きのある美しさの中に、 あどけなさがある、そんな不思議な魅力があった。 何度か会う度に梓に情を感じ、訪問するのを心待ちにしているような所もあっ たが、雄一郎は、出来るだけそういう気持ちから目を背けていた。訪問が最後の 今日、梓を見ながら、特別な感情を抱いてしまった自分にハッキリと気づいた。 だからと言って、このまま突き進もうという気持ちはなかったが「これからどう するのですか? ガーデンリゾートで、仕事をしたいという気持ちはないですか ?」と言ってしまった。 そう言わせる魅力が梓にはあった。 突然の話に梓は驚き、お絵かき帳に「声が出ない私に出来る事があるのですか? もし、私でも役に立つ事があったら嬉しいのですが」と記した。
「前から考えていたのですが、バックヤードで、スタッフの細かい身の回りの事 をしてくれる人を探しています。用務係のような事ですが、引き受けてくれます か?」
「川村さんからそういうお話を頂いてとても嬉しいです。出来るのであれば、や らせて頂きたいと思います」
「ありがとうございます。仕事についてはまた後日ご連絡します。但し、待遇に ついては、ご期待に添えないかもしれません」 「その事については特に要望はありません。これから先不安に思っていたので、 こんな私でも、仕事が出来ればそれで満足です」
今まで、一時の感情などで、仕事の話を進める事など有り得なかったのに、何 も考えず仕事斡旋の話をした自分に戸惑ったが、何とか実現させたい。雄一郎の 頭の中には、目の前の「梓の仕事」の事しかなかった。食事の礼を言い「また」 と恋人に別れを告げるような、少し淋しい気分を味わいながら、梓の自宅を辞去 し、会社への帰路を急いだ。
「菅原さんのために提案を受け入れてもらいたい」という一心で、帰る車の中で 策を練っていた雄一郎は、会社に着くとすぐに総務部長の渥美繁の所に飛んでい った。
「確かに、用務係的な仕事をしてくれる人がいれば、現場は余計な事に関わらず に、仕事に専念する事が出来る。それでも、人件費が発生する事で、すでに、新 年度の人件費を含む予算組みは終わっているから、菅原さんを何処に所属させる かという事、人件費を何処が持つかなどが問題」渥美はすぐには返事が出来ない、 と答えた。雄一郎は渥美に「あの菅原さんの奥さんに、何とか仕事をさせてやっ てください」と何度も頭を下げた。 雄一郎の本心を知らない渥美も、菅原幸一の事は残念に思っていた事もあり、 梓の就職を世話する事で、菅原に報いる事が出来ればとは思っていた。また、本 来なら梓とは、総務部長の自分が対応しなくてはならなかったのだが、自身の異 動も控えていたし、仕事が忙しい事から雄一郎に押し付けた事、雄一郎がその対 応を問題なく片付けてくれた事、梓も特に異議を唱える事なく、会社側の申し出 をすんなり受け入れてくれた事、また、現在は、客室清掃を請け負っているコス モサービス担当の、従業員スペースの清掃をパート待遇の梓に任せれば、その分 の経費削減も計れる。雄一郎への後ろめたさなどもあって、上司には採用する方 向で、話を持って行った。 しかし、渥美にも解せない事があった。
「川村は、菅原さんの奥さんは声が出ない。と言っていたが、自分は電話で話を した筈だよな。まあ、いいか。後で川村に確認してみよう」 腑に落ちなかったが、渥美はその後引継ぎ仕事に追われ、本部に異動になった 事もあり、雄一郎に確認する事はすっかり忘れてしまっていた。
「許可が下りたよ」と雄一郎に報告が届いたのは一週間後の事だった。朗報を受 けた雄一郎は、すぐさま梓の元に出かけた。梓の家の前に立った時に、妙に浮き 浮きしている自分を感じて戸惑った。 昨夜、ホテルの業界雑誌で「横浜ロイヤルガーデンホテルが誇る『ロイヤルガ ーデン・プレミアムクラブ』」の記事を読んだばかりであった。 「ロイヤルガーデン・プレミアムクラブ」は高い評価を得ていた。ホテル業界で も注目をされている記事の内容に、同じホテルマンとしての嫉妬であろうか? 妻である真理の仕事を素直に喜べない自分を、苦々しく思っている事に気がつき、 その事に苦悩していた時でもあった。 雄一郎は真理の事を頭から追い払った。
条件も良くなかったが、仕事が決まって梓は嬉しそうだった。雄一郎も喜ぶ梓 を見て、ほのぼのとした思いを感じた。主な仕事はバックヤード清掃、従業員食 堂の手伝い、現場スタッフのフォローなど、実際に仕事に入ればまたいろいろ出 てくるだろう。勤務時間は10:00から16:30となっていた。 梓は一生懸命働いた。スタッフ用トイレや洗面所、社員食堂に、団地の庭に咲 く花を飾ったり、細かい気使いにスタッフも心が和んだ。仕事をしていくうちに 梓は、夫の幸一が優秀なドライバーだったという事を知った。そして、何より雄 一郎を心の支えにもするようにもなっていった。
2
ゴールデンウィークが近づいていた。 また、当分横浜に帰れなくなるので、雄一郎は一週間ぶりに横浜に帰る事にした。
「タイ料理でもどう?」と言う真理の提案で、二人は久しぶりにタイ料理を楽し んだ。「歩いて帰ろう」とタイ料理を満喫した二人に春の宵の風は心地良く、万 国橋から見る「みなとみらいの夜景」はきらきら輝いていた。
「相性ってあるのね。タイ料理には苦味が強いシンハービールがベストマッチ。 ねえ、私達はどう? ベストマッチしてる?」 雄一郎の腕に自分の腕をからませて、真理は少し甘え声になった。 「だいぶ古くなったけれど……充分ベストマッチ……だろうな。」 真理は立ち止まり、腕を雄一郎の首に回して軽くキスをした。 二人とすれ違った高校生風の女の子二人が「やるじゃん」そう言って走って行っ た。 「やるじゃん……だって」 真理は笑って、また雄一郎の腕にしがみついた。
「今年の夏は、ちょっと違った夏にしよう。と思って総支配人に提案するつもり なんだ」 雄一郎が嬉々として仕事の話を始めた。
「今の時代、交通費をかけてわざわざ田舎に行かなくても、都会でも様々なイベ ントが開催されているだろう。リゾートに客を呼び込むためには、インパクトの あるイベントを考える必要があると思うんだ。営業企画部のお仕着せのイベント ではなく、現場を知り尽くし、客の動向 を熟知している各セクションスタッフに呼びかけ、様々なアイディアを出させよ うか、って。そんな事を考えているんだけどさ。都会のイベントとは一味違う、 八ヶ岳ガーデンリゾートだから出来る、っていうイベント。テーマも決めて、夏 中通してテーマに沿った営業展開を行なう。コンクール形式にして、アイディア が取り上げられたセクションにポイントを付ける。社員の『遊び心』を引き出す 事になるし、士気も高める効果が得られると思う。自分達が楽しめなくては、顧 客を満足させる事は出来ないし。会社レベルのイベントって言ったって、今まで は、直接携わるスタッフと、そうでないスタッフとの間に温度差もあったりして 連携が上手く行かない部分もあったから。今年は、ドカンとぶつけてみようかな。 って……『イベントが会社を変える』そう考えているんだ。生き残りをかけて厳 しいしさ」 「イベントイノベーションか、一つ言っていい?」 「遠慮するなよ」 「都会の場合、『都会色』を打ち出したり、反対に都会にいながら味わえるよう に『自然色』を打ち出したり、の企画が多いでしょう。田舎って『自然色』や 『ローカル色』だけを出す事が多いと思うの。周りが自然だらけだから。でも、 そうではなくて、自然を最大限に利用した上で『都会色』を作り出すのも、面白 いかな? って」 「田舎の中で都会色か……面白そうだな!」 「例えば、同じ山梨県で言うと富士山。結構、富士山というランドマークだけ打 ち出す事が多いように思うけれど、ランドマークは二番手に考えるの。都会色を いっぱい出して、気がつくと、富士山が美味く調和している。みたいな……分か る?」 「ちょっと、分からないな」 雄一郎は笑って真理を見た。 「都会を離れてリゾートに出かけて、また都会に帰って来る。そのギャップって 大きくて、それがストレスになる事があると思うの。だったら、リゾート側でそ のストレスを取り除いてあげるの。自然を味わせてあげながら、都会の良さをも 再認識出来る環境作りをするの」 「なる程……アイディアが浮かんで来そうな予感がする。」 「本当? 上手く言葉に出来ない……自分で言って、分からなくなっちゃった」 真理は肩をすくめた。 「田舎が生活のベースになっていると、考える事が画一的になってくる事もある よね。都会の人は、自然を味わいたいんだ、富士山を見たいんだ、みたいに。そ れだけを求めているって、単純に考えてはダメだ、とそれはいつも思っている」 「ところで、テーマって、発案者の考えるテーマは何?」 「うーん? アジアンな夏はどう? レストランはカタカナの『アジアンな夏』 に漢字で『味あんな夏』と添える……」 「却下!」 「何だよ! 簡単に却下するなよ」 雄一郎は不満そうに真理の頭を小突いた。 「口の中にタイ料理が残っているでしょう?」 真理はゲラゲラ笑って、雄一郎の口元を指差した。 「バレた?」 つられて雄一郎も声をあげて笑った。
「でも、素敵! その案大賛成! 楽しそうでいいなあ……」 「間違いなく楽しくなりそうだよ。真理の話を聞いてやる気も出て来たし」 「打ち上げ花火はどう?」 「それ、いただき!」
「絶対にその夏の提案通してね。でも……これからまた忙しくなるね……」 真理は回した腕に力を入れた。 「亭主は元気で留守がいい、って。典型が俺だろう?」 「うん……」
「何だよ。不満そうじゃない?」 さっきと違って覇気がない真理が気になった。
「不満じゃないけど……少し淋しいし……一緒に仕事が出来ないやきもちかな?」
(だったら八ヶ岳に来いよ) のど元まで出掛かった言葉を雄一郎は飲み込んだ。
……菅原梓の顔が浮かんだ……
「真理だって今の仕事は充実しているんだし、淋しいなんて言うなよ」 「私らしくないって事? ……でも、忙しくなったら無理よね。ちょっと相談に 乗ってもらいたい事が出てくるから」
……少し、雄一郎が遠のいた様な気がした……だから、遠慮がちに言った。
「忙しくたって真理の相談事にはいつだって乗るよ」 「じゃあ、今、話してもいい?」 「いいよ。聞くよ」
……心の中に、雄一郎が戻って来た……
「あのね、プレミアム・クラブにバトラーサービス(注:あらゆる用件をきいて くれる、お客様専属の客室係)を付けたらどうか? って考えているの。フロア オープンから1年近く経って、売上も順調に伸びているけれど、もっと付加価値 を付ける必要に迫られていると思うの。まだ、バトラーサービスを実施している ホテルは少ないから今がチャンス。どう?」
「バトラーか……確かにプレミアムクラブにはふさわしいサービスだ」
「ターンダウンサービス(注:客室係が夕方客室を訪れて、就寝の準備を整える サービス)も考えているの。このサービスを行っているホテルも少ないと思う。 ナイトキャップ用のお酒やチョコレートは、ホテルのロゴ入りの物を用意したい けれど、それは難しいかもね。新婚旅行の時に、ターンダウンサービスを受けた の覚えている?」 雄一郎は新婚旅行で行ったスペインのアンダルシア地方にある、貴族の宮殿を 改装した五つ星ホテルを思い浮かべた。あの時、日本から真理が持参し、ベッド サイドテーブルに置いてあったナイトドレスが、ベッドの上に、お洒落れにディ スプレイしてあるのを見た真理は「素敵!」と感激していた。
「あの時から、ロイヤルガーデンでもターンダウンサービスが出来たらいいのに、 って考えていたの。プレミアムクラブフロアスタッフにも話をして、スタッフの 意見も必要で統一されているの。でも、バトラーのコストはかなり高くなるから、 数字を出すのが難しい」
「必要に迫られている、っていう割りには自信なさ気だよな」
「骨子は出来上がっているのよ。でも、強く会社に訴えるには内容がまだ弱くて。 提案の前にリサーチのために、アンケート用紙を部屋に置いてみてはどうか? って考えたけれど、アンケート用紙が部屋に置かれているのって『ホテル』って いう事が見え見えでしょう? プレミアムクラブの部屋は、優雅な気分で、自分 の家にいるような感覚で使ってもらいたいから、それはしたくないの」 アンケート用紙の存在にも気をつかっている真理に「さすがだな」と雄一郎は 思った。
「細かい数字に気を取られていたら、バトラーサービスや、ターンダウンサービ スなんて考えられないだろう? 稟議だったら当然数字は必要だけど、真理が考 えているバトラーサービスと、ターンダウンサービスの必要性を理論的に強く訴 えるしかないだろうな。ある程度の試算を出せば、会社だって将来を見据えて、 おそらく提案を受け入れると思うよ。俺は」
「そうよね。実はね、私もそう考えていたの。でも、誰かさんの最後の一押しが 欲しかったの。やっぱり話して良かった。ありがとう」 元気がなかった真理の目が輝き出した。
「レベルが違う……」 真理の仕事の内容と、自分の仕事を比べた雄一郎がつぶやいた。
「レベルが違う? って何を基準にしてそんな事を言うの? 『レベル』ではな くて『客種』と『環境』が違うって言う事でしょう? そんな事を言うのって ……あなたらしくない」 真理は腕をほどき、立ち止まった。
……二人の間に気まずい空気が流れた……
「レベルじゃなくてラベルの違いよ。どう? 凄いでしょう!」とおどけた仕草 でジョークで返せば、気まずい事にならなかったが、何となくそういう気持ちに 真理はなれなかった。 ……雄一郎は何故か急に八ヶ岳に帰りたくなった……
「ごめん。バトラーサービスなんて羨ましくて。つい……」
振り返って雄一郎は真理の手を取った。 真理も手を伸ばして二人はまた並んで歩き始めた。氷川丸もライトアップされて、 いつもと同じように山下公園はロマンチックな雰囲気だったが、公園の向こうに 続く、灯りが映っている海を見た時、真理の中に悪寒が走った。
「もうこれ以上悪い事が起こりませんように」 真理は雄一郎の腕にしがみついたが「心ここに在らず」の雄一郎を感じ不安に なった。
3
八ヶ岳ガーデンリゾートはゴールデンウィークに突入していた。 雄一郎は現場を見ながらも、真理に話した「夏のイベントの提案」を総支配人 に行なった。総支配人の宮野要は、雄一郎の提案に賛成し、ゴールデンウィーク が開けてからその提案を会議にかけるように指示を行なった。 開催された会議で、全員一致で提案は取り入られる事になった。出て来た提案 をまとめるのは営業企画部で、その上の統括責任者は雄一郎となった。 最初は戸惑っていた社員も、徐々に協力的になってきた。営業企画部には様々 な提案が寄せられ、営業企画部で選りすぐった案件が雄一郎の元に届いた。それ らの提案を見て雄一郎は驚いた。八ヶ岳ガーデンリゾートホテルには様々な「名 人」が存在していた。イベントだけではなく通常業務の中に生かせる事が多かっ た。「これも、目的の一つだ」と自信を持った。 しかし、その選別作業をしている時「レベルが違う」と、また真理の仕事の内 容と、自分の仕事を比べた。「泥臭い」仕事をする自分に納得がいっていても、 真理の仕事を考えると割り切れなかった。 そんな雄一郎だったが、その提案の中に「お盆時期の納涼祭に打ち上げ花火を あげる」という提案に真っ先に興味を持った。真理も同じ事を言っていた。 その提案は、宿泊部客室課から出ていた。客室課は館内施設管理、ホテル清掃 を手掛けるアウトソーシング会社のコスモサービスの手配、梓の夫の幸一が所属 していた送迎バス部門などを束ねるセクションで、パートの梓もそこに所属して いた。「打ち上げ花火」には営業企画部も興味を示し「手配出来るなら、絶対こ れはイケますよ。宿泊客だけではなく、地元客も誘致出来る」と乗り気になって いた。雄一郎は、客室課マネージャーの相馬俊介を呼び「打ち上げ花火」提案の 詳細を確認した。 「これを提案したのは、菅原さんの奥さんですよ。市川大門の花火師を知ってい る、とか言っていました」
そこにまた梓が現れた
梓を呼び出し、花火師の確認をして、その情報を営業企画部に伝えた。 営業企画部から「花火師とコンタクトを取れました。市川大門の花火大会とは、 日程が被らないのでこっちは大丈夫だし、菅原さんのお陰で費用も抑えられそう です」と嬉しい報告が届いた。
「昭和の夏」というテーマも決まり、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルは、夏の一 大イベントに向けて、着々と準備を進めていった。 「昭和の高度成長期の日本」を演出すべく、レストランも、その時代に合わせた メニュー展開を考案した。 早くから告知を行なった事で、エージェントや予約仲介媒体、ネットからの予 約も伸びてきた。雄一郎の思惑通り、スタッフの士気も高まった。
7月に入った時「会社が提案を受け入れてくれた」と真理から連絡があった。 「バトラーサービスとターンダウンサービスの両方よ。今、私のデスクは、見本 のゴディバのチョコレートの山よ。食べたいけれど我慢しているの」 真理は嬉しそうだった。
そして、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルは、本番の夏に突入した。
お盆のメインイベントである打ち上げ花火が最後の日、雄一郎は「盛り上がっ ている夏」に満足し、会場の外れで花火を見ていた。ふと気がつくと隣に浴衣姿 の梓がいた。浴衣姿の梓は妙に艶めいていて、雄一郎の心がグラリと揺れた。
「花火は大成功でした。菅原さんのお陰です。本当にありがとうございました」
梓は潤んだ目で嬉しそうに雄一郎を見つめたが、その視線を雄一郎はしっかり と受け止めた。
しかし、翌日から梓は会社を休んだ……
休みの一日目は「公休」となっていたが、翌日からそれが「病欠」に変わっ た。一週間を過ぎても梓の「病欠」は変わっていなかった。心配になった雄一郎 は電話をする事を考えたが「声が出ない」事に気がついた。会社とのやりとりは 携帯メールで行なっているが、客室課にメールアドレスを聞くのは躊躇われた。 そこで、思い切って、仕事の帰りに梓の家を訪問する事にした。 ドアを開けて雄一郎を迎えた梓は、心なしかやつれていて辛そうだった。 「風邪をこじらせたみたいで……でも、明日は出社出来そうです」と手振りを交 えて伝えたが、玄関口で梓はその場に座り込んでしまった。驚いた雄一郎は、梓 を抱きかかえてキッチンのダイニングテーブルに座らせた。 「すみません。でも、もう大丈夫です。」 梓は笑顔と手振りでその事を伝えた。 「本当に大丈夫ですか?」 心配したが、梓がまた手振りで「大丈夫です。ありがとうございました」と告 げたので、心配しつつも雄一郎は梓の家を辞去した。 だが、梓は翌日も出社して来なかった。 昨夜の具合いの悪そうな梓の事がまた心配になり、雄一郎は再度家を訪れた。梓 は、二日連続で訪れた雄一郎に驚いた様子であったが「もう大丈夫です。気にか けて頂いてありがとうございます」 雄一郎が読み取れるように、一言ずつ大きく口を開いて気持ちを伝えた。
「無理しないでくださいね。元気になって、出社して来られるのを待っています。 今日はこれで失礼します」
そう伝えて雄一郎がドアノブに手をかけた時、梓が雄一郎の右腕を掴んだ。
腕をしっかり掴んでいる梓の細い指から熱い思いが伝わった時、雄一郎の中で 何かが弾けた。
雄一郎はゆっくりと梓に向き直った……
男と女に「身体の相性」があるのだとしたら、まさしくそれなのだろう。
雄一郎は梓に夢中になった。
「声が出ない」梓との連絡手段は携帯メールだけであったので、梓専用の携帯電 話を購入した。
……自信を失いそうになった時、迷った時、同じホテルマンとしての真理に、 どれだけ助けられただろう……その真理は、自分にとっては「素晴らしい妻」で あった。 しかし「生活」と言えるほどの事ではなかったが、梓と過ごす時間は、居心地 が良く幸せだった。真理との生活では味わえない安らぎがあった。仕事が終わっ て、梓の家でたわいない会話を筆談で交わし、ビールを飲み、食事をしながらテ レビ観る。そこには、コンプレックスという気持ちもなかったし、ライバルも存 在していなかった。 「長い間の単身赴任生活の中で、自分は……たわいないやすらぎ……それを求め ていた……」
4
菅原梓は、もうすぐ一周忌を迎える幸一の仏壇の前で手を合わせていた。 雄一郎と関係を持ってから、幸一の仏壇は居間と続いていた和室から、玄関脇に ある三畳の和室に移されていた。
梓は福島県にある小さな町で生まれ育った。 中学校の教師であり、一回りも年の違う菅原幸一は、一年生の時の梓の担任教師 であり、初恋の男性でもあった。 教師という職業に情熱を抱いていた幸一は、決してハンサムではないが、学校 内で幸一を慕う女子生徒は少なくなかった。バレンタインデーや、幸一の誕生日 など、積極的にアプローチをかける同級生がいる中で、地味で、目立たない梓は、 そんな同級生を羨ましい思いで眺めながらも、心の何処かに「私も、いつか……」 という気持ちを隠し持つようになっていた。 しかし、梓が中学三年生になった年の夏休みに、幸一は、大学時代から交際し ていた女性と結婚をしてしまい、梓は辛い失恋を味わった。強い思いを内に秘め ていた分、幸一への想いを断ち切る事が出来ず、そのまま中学校を卒業した。 県立高校の二年生になっていた梓は、その年の冬に、ファミリーレストランで アルバイトを始めたが、アルバイト先のファミリーレストランで、客として食事 を楽しみに来た幸一夫婦と遭遇するはめになった。 「大人の女性」の雰囲気を持っている妻の佳美を見て、梓は大きなショックを受 けた。幸一への想いを断ち切れない梓は、高校生になってから、数人の男子高校 生と付き合ったが、付き合いは全て短期間で終わってしまっていた。自分は辛い 思いをしているのに「先生は幸せそう」目の前の幸せな幸一夫婦を見て梓の中に 「奪いたい」という心が芽を出し始めた。
冬休みに梓は行動を開始した。 「高校でいじめにあっていて悩んでいる」と母校である中学を訪れ、恩師である 幸一に相談をした。何度も話を聞いて、梓の事を心から心配するようになった幸 一は、ある日「私の事で、母が先生に会いたい、と言っているので、家に来てく ださい」と言われ、何の疑いも抱かず梓の家を訪問した。
「お母さんはどうしたの?」 家には梓しかいない事にいぶかる幸一に「母は用事が長引いてしまって。すみ ません。30分程したら戻りますから待っていてください」そう言って謝った。 そして…… 「毎日学校に行くのが怖くて……もう、死んじゃいたい気持ちで……」 幸一にすがりついた。 「自暴自棄になっちゃダメだよ」 幸一は優しく話しかけたが、梓から甘酸っぱい香りがして、その香りに眩暈を 起こしそうになった。その時、幸一のたがが外れた。気がついた時には夢中で梓 を抱いていた。母親は帰ってくる気配がなかった。
梓は「女」になった。 その日から二人は「師弟関係」ではなく「男女の関係」になった。 真面目な幸一は、まだ結婚して三年程しか経っていなかったが、教え子との不 倫関係に悩みながらも、純朴な中に大人びた怪しい魅力がある梓との、甘酸っぱ く魅惑的な関係に溺れていった。 付き合いだしてしばらくした頃「もう大丈夫です。いじめは収まりました」幸 一は梓から嬉しい報告を聞いた。勿論「いじめ」の事は梓の作り話であったが、 全く疑いを持たなかった。
二人の関係は密かに続けられた。 高校三年生になった夏、「梓の妊娠」という大きな危機が二人を襲った。 「子供を産む」などという事は叶うはずもなく、二人で東京まで出かけて行き、 小さな病院で人工中絶の手術を受けた。梓は罪悪感を感じていなかったが、幸 一は、我が子を自分の手で葬った事への罪の意識に苛まれた。
……その時、梓はある学習をした…… 梓が、高校を卒業して地元の信用金庫に就職し、幸一が福島市の中学校に異動 になった時、今度は、幸一の妻の佳美が妊娠をした。 「生まれてくる子供に不誠実な親であってはいけない」悩みに悩んだ結果、つい に幸一は梓とは別れる決心をし、別れを告げた。自分と妻の間を言ったり来たり している幸一の態度に、不信感を持った事もあるが「幸一を許そう」そう思った 梓は素直に別れる決心をした。心のどこかに、悲劇のヒロインになった様な自分 に、酔っているような部分もあった。
そして「いつか……」また、事が起きる予感がした。 幸一は「大事な梓」を心の中にある小さな箱にしまう事にした。
5年後、梓は、同じ信用金庫の職員であった椎名達郎と職場結婚をし、夫の達 郎が福島市の支店に異動になったと同時に、信用金庫を退職し、市内の紳士服専 門店に転職をした。 幸一がまだ心の中にいる梓は、達郎を本気で愛したわけではない。 酔った勢いで関係を持ち、酔いが覚めた後「責任を取るよ」そう達郎に言われ、 成り行きでの結婚であった。幸一と「いつか……」という気持ちを抱いていた梓 には、達郎の様な相手が都合が良かった……いざとなったら……あっさりと捨て る事が出来る…… そして……一度解かれた赤い糸が再び結ばれる時がやってきた……
急に通夜に列席しなくてはならなくなった幸一が、黒い喪のネクタイを求めに、 偶然にも梓の勤める紳士服専門店を訪れた。幸一は、思いがけない再会であった が美しく成熟した梓を見て驚いた。梓も、貫禄を増しりっぱな先生然とした幸一 に心が揺れた。
幸一は、心の箱にしまっておいた梓を取り出した。
二人が元の関係に戻るまで時間はかからなかった。 幸一は40歳、梓は28歳になっていた。
二人の密かな関係が2年続いた時、梓は二度目の妊娠をした。あの時とは二人 の取り巻く環境は変わっていた。 「産もうと思えば産める……ご主人の子供と偽ればいい……」 幸一はとんでもない考えを梓に伝えた。
「私達は子供が出来ない夫婦……」 梓からの話にまた自分の希望がまた叶わない事を知った。 今回も中絶手術を受ける事を決意した梓は、夫の達郎には「高校時代の友人と旅 行に行く」とウソをついて、地方都市の病院で手術を受けた。 ……達郎を裏切っている梓にツケが回ってきた……手術後感染症を起こした梓 は、二度と子供が産めない身体になってしまった。二度も生を受けた子供を自ら の手で葬り去った事、自分に課せられた十字架……しかし、梓の中では、その事 がどんなに大きな事なのか……理解出来ていなかった。ただ、幸一と別れたくな い……その思いしかなかった……
2年後……二人の「密かな関係」は遂に、夫の達郎に知れる事になってしまっ た。誰にも知られていない「密かな関係」と思っていたのは二人だけで、二人の 知らない所で、噂は広まっていたのだ。 日曜日に久しぶりに休みをもらった梓は、昼過ぎまで寝ている達郎を起こさな いように、買い物に出かけた。夕方近くになって「ただいま」と帰って、玄関に、 見慣れない女性用の靴が揃えられていたのを見た時に、嫌な予感がした。 「泥棒猫のお帰りね」 廊下の奥で女の甲高い声がした。 慌ててリビングに行くと、達郎が険しい顔で梓を睨んだ。そして、梓は達郎と 向かい合っている女性を見て、思わず声をあげた。 中年の域に入った女性は、あの時の「大人の魅力ある女性」の面影はすっかり なくなっていたが「幸一の妻の佳美」という事はすぐに分かった。 梓は驚いて、持っていた買い物袋を床に落とした。ガシャッと中に入っていた 調味油の瓶と、 卵が割れる鈍い音がして、袋から中味が床に染み出した。 「お前は何をしていたんだ! ずっと俺を騙していたのか!」 物凄い剣幕で達郎が怒鳴った。佳美は目を吊り上げて梓を睨みつけていた。 「……」 梓は何も言えずその場に立ちすくんでいた。 「あら? この泥棒猫は声が出なくなったようね!」 佳美が梓を指差しながら憎々しげに言い放った。
梓はバッグを横目で探した。 「バッグの中には、財布も携帯電話も入っている」咄嗟に考えてバッグを取っ て部屋を飛び出した。 「梓! どこに行くんだ!」 後ろで達郎の喚き声が聞こえたが、家を出た。
優しい幸一の顔が浮かんだ。 しばらくの間、あてもなく町をうろついていた梓は、駅前のビジネスホテルに部 屋を取った。 母親である佳美から話を聞いていたのだろうが、一人娘の由佳里から「汚らわ しいあんたが出ていかないのだったら、私が家を出る!」という言葉を投げかけ られた幸一も「家を出る」決心をしていた。 「由佳里は許してくれないだろう」 その事は辛かった。
三日後、梓は、達郎の居ない留守を狙って自宅に帰ったが、家の中はひどい有 様になっていた。身の回りの物をトランクに詰め、テーブルの上に離婚届用紙を 置いた。出る時に、もう一度家の中を見渡したが「家を出る」という淋しさは沸 いてこなかったし、達郎にも愛着は無かった。 幸一と梓は逃げるように福島を出て、幸一が大学時代に住んでいた、千葉県の 幕張に移り住んだ。そして、幸一は大型自動車免許を取り運送会社に就職をし、 梓は、近くのスーパーに職を求め、二人の生活がスタートした。
……福島の中学校で先生と生徒として知り合ってから、20年が経っていた …… 揉めに揉めたお互いの離婚も成立し、やっと結婚も出来、寄り添うように生活 を送っていた二人は幸せであったが、またも、災難が降りかかった。 48歳になった年に、幸一が肺結核を患ってしまった。比較的軽度であったが、 半年間の療養生活を送った幸一は退院後自分の身体に自信が持てなくなり、運送 会社を退職し、知人の紹介で「八ヶ岳ガーデンリゾートホテル」の送迎バスの運 転手の職に就く事になり、二人は山梨県北杜市に移り住んだ。 山梨での生活も穏やかではあったが刺激がなかった。幕張で生活をしていた時 はまだ「略奪愛」の余韻が残っていた。
そんな梓の中にあるものが芽生えた。芽生えたものは成長し、熟す時を迎えて いた。
……そして、すっかり熟した時に川村雄一郎と出会った……
5 雄一郎にとっての刺激的な夏が過ぎ秋を迎えた。 「昭和の夏」のイベントでスタッフの自主性を重んじた事で、モチベーションも 上がり、成長していくスタッフを見て「土台固めが出来た」と満足していた。 定期的に横浜には帰った。横浜にいる時は真理と一緒に過ごす時間を大事にし て、最大限有効に使った。 「仕事が自分達夫婦を繋げ、お互いを高める事が出来る刺激薬。仕事から離れれ ば、梓とのやすらぎの時間が待っている。男は一度に二人の女を愛する事が出来 る」そんな自分に雄一郎は酔いしれた。そして今となっては「単身赴任の幸運」 にも感謝した。
真理も、プレミアムクラブが予想以上の収益を上げている事で、自身の仕事に、 益々自信をつけてきていた。 「客の立場に立ち、そして自分だったら、どのようなサービスをされたら嬉しい か? という事を考える。自分自身の生活の質の向上を図らないと、真のホスピ タリティは生まれない。自分が幸せでないと良いサービスは出来ない」フロント 新人研修で、チーフであった雄一郎からの教えを基本に、様々な改革を提案した。 顧客の嗜好や過去のリクエストなどが記憶された詳細な顧客情報リストを作成 し、利用頻度が増す度に、顧客満足度が上昇出来るサービスを心がけた。それは プレミアムクラブに留まらず、全ホテル共有のデータベースに保存され「Kファ イル」と名づけられた。既存の顧客データと併せた綿密なデータを、ホテル全て のセクションで共有し、より以上に反映させる体制を整えた。毎朝開催される、 プレミアムクラブスタッフミーティングでは、当然ながら、スタッフにその日に 宿泊している顧客の情報を把握する事を徹底させる事で、より、質の高いサービ スを提供する事にも繋がった。 真理の部下に対する要求は厳しいものであったが、常に部下を信頼し、部下の 意見に耳を傾け、出来るだけその意見を取り上げ、個々の能力を最大限生かせる ように、マネージャーとしてサポートし、スタッフが「遊び心」を持ち、楽しく 仕事が出来る環境を整える事で、部下からの信頼を得られていた。 「単身赴任の別居生活で良かった」 真理も改めてその事を感じた。 もし、雄一郎と同じ職場にいたら、部署が違っていたとしても、気持ちの何処 かで「夫である雄一郎の足を引っ張ってはいけない」その事に気を使い、思い切 った仕事は、出来なかったかもしれない。「同じ職場で、お互いの力を思う存分 発揮出来ている夫婦もあるだろうが、私は、それは出来ない」と思っていた。そ の事と「仕事が趣味」という事が自分の人生の中で、どんな意義を持つかは分か らないし、それが、これからずっと続くであろう夫婦生活にどんな影響を及ぼす か? 答えはまだ出てはいないが、とにかくホテルの仕事が好きだった。 勿論、真理の努力は並大抵のものではなかった。 しかし、仕事に一生懸命になっていると、その合間に出来るプライベートな時間 が、とても貴重な事に思えて、たわいない日常が楽しくて幸せだった。自分が仕 事を通して感じる「幸せ」をスタッフは元より顧客にも、サービスを通してその 「幸せ」を味わって欲しいと思っていた。
母を早くに亡くし、父との悲しい事もあり、何より子供を失う、という辛い事 もあったが、それを乗り越えたからこそ、今の自分がある。それには、夫である 雄一郎の支えが一番大きかった。その事を心の底から感じた。 しかし、最近は雄一郎も仕事が忙しいのだろうか、電話をしても以前のように 即、繋がらない事が多かった。でも、話が出来なくても「私のそばには、川村雄 一郎という人がいる」それで充分満足だった。
真理も自分を取り巻く環境に感謝をしていた。
そして、今年も……また、クリスマスが近づいてきた。
一年前の「悲しかったクリスマス」の事は忘れていないが「辛い出来事」と、 特別な思いで思い起こす事がない程、真理は立ち直っていた。真理はいつもの如 く「無宗教の私達にはクリスマスは関係ないのよね」と雄一郎にメッセージを送 った。
「クリスマス当日は忙しいから連絡が取れないと思う。少し早いけれどメリーク リスマス!」
雄一郎からクリスマスカードが届いたが、真理は何の疑いも持たなかった。 「雄真と理子に」そのクリスマスカードを、テディベアと小さなクリスマスツリ ーと一緒に、リビングルームに飾った。
雄一郎のそのメッセージは、去年までとは違って「自分を守る」メッセージに なっていたのだが……真理は気がつかなかった。 ……それにクリスマスは忙しかった…… 雄一郎とのささやかなクリスマスは諦めるしかなかったが、真理は充実してい た。
「クリスマスイブを楽しみたいだろう……」 クリスマスイブの夜、家族持ちや、若い部下の事を考えて、夜勤業務を引き受 けた雄一郎は、満室のホテルのバッチ作業(一日の集積データをメインサーバー に送り、日付を更新する作業)を終え、日付けが変わってから梓の家を訪れた。 雄一郎を待っていた梓は、ドアの鍵を閉めたと同時に雄一郎に「メリークリス マス!」と言って抱きついた。 「何?」 何か、特別な事が起きたのか?
「鈍い人……分からない?」 「何処かで聞いたような言葉だ……」 梓の言葉で、真理から、子供が出来た事を告げられた時の事を思いだし、一瞬、 胸が痛んだ。 「メリークリスマス!」 梓が甘く微笑んでいた。 雄一郎は驚いた表情で梓を見つめた。
「声が出るようになったの……あなたのお陰」 そう言って梓は雄一郎の胸に顔をうずめた。
「一週間位前から、徐々に声が出始めたの。でも、ずっと黙っていたの。クリス マスに伝えたかったから……あなたへのクリスマスプレゼントにしたかったか ら……」 梓は、雄一郎の胸の中で囁いた。
初めて聞く梓の声は思ったより低く、控えめな梓そのもので魅力的だった。 一週間に一度、甲府の病院でカウンセリングを受けていると言っていた梓の 「あなたのお陰」という言葉は真実だろう。
「長い間声が出なくて辛かっただろうに、よく耐えたね」 雄一郎は心の底から喜んだ。
「ずっと聞きたかった言葉がある。分かっているよね? 言ってくれるだろう ?」
「愛してる……」梓は何度も繰り返した。
……一年前の、辛く悲しいクリスマスイブの事は、雄一郎の頭からすっかり消 えていた……
その頃、真理は……疲れた身体を自宅のバスタブでほぐしていた……
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