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作品名:STAY WITH ME 作者:nottnghill_ann

第4回   第3章(2)


  「八ヶ岳はどうだ?」
   村上は話題を変えた。
  
  「うーん……今年は県全体の観光収益は上向きになっていると言われているが、
  結構厳しい。営業粗利益も下がってきているし。経費を抑えてサービスを低下
  させないようにする、というのが一番の課題だろうな。コストパフォーマンス
  という言葉を聞くと、胃がシクシクしてくるよ。価格の差別化を図って付加価
  値をつけ、高く売れるものは高く売り、安くしか売れないものは安く売る。だ
  が、一歩間違えると、安売り戦争に巻き込まれる事にもなりかねない。『格安』
  の需要が高まって、それに応えるのも大事だが、俺は頑固と言うか意固地なの
  か『八ヶ岳ガーデンリゾートホテル』の姿勢は崩したくない。安売りより、し
  っかりと固定客を掴む事の方が大事だと考えている。外国人観光客に目を向け
  てもまだまだ難しい。観光立国と声高に叫ばれているが、日本を訪れる外国人
  観光客数は、諸外国から比べれば圧倒的に少ない。国は、2020年には外国
  人観光客を2倍にする方針を打ち立てているが、それに伴う地方の活性化も遅
  れていて、やっぱり偏る傾向にあると思うし。敢えて外国人と言うなら、当面
  はバブル国に期待するか、だよな」
 
  「ロシアや中国の富裕層狙いか?」
 
  「そんなところだな。ロシアは難しいが、中国だろう。だけど、都会とは違っ
  て、地方で、そういう富裕層を満足させる受け入れ態勢がどこまで出来ている
  か。都会と地方のその事に関するギャップは大きい、と感じている。俺の偏見
  かもしれないけれどね。中途半端な受け入れ態勢を敷いたら、客に対して失礼
  になるだろう? それに、同じ山梨には富士山があるからさ。外国人には富士
  山は絶対だよな。でもどっちにしろ、日帰り圏内になっている事は間違いない。
  しかし、富士山という目玉がない八ヶ岳地域の観光振興に向けての努力は自慢
  出来る。いろいろなシンポジウムが開催されたりしているし、いつかは追い抜
  く事が出来るって考えて、日々戦っているよ。富士五湖のような賑々しさがな
  いのが一番の魅力だろうな。横浜はどう?」
  
  「同じだよ。イノベーションと、質の高いサービスを提供していく高級ホテル
  の姿勢は崩したくはない。ロイヤルガーデンだって収益率の高い企業ミーティ
  ング、企業報償旅行、国際会議、イベント、大規模展示会などを誘致して行か
  ないと、生き残れない。プレミアムフロアのリニューアルも始まって、ワンラ
  ンク上の極上サービスの提供を開始する事になるが、アメリカ経済が減速傾向
  にあるから、それがどう影響するか? というのも気になるし。もう一度、サ
  ッカーワールドカップか2016年のオリンピック開催を望むよ」
  
  「南アフリカは、治安の悪化や工事の遅れで開催を危ぶまれていて、万が一開
  催出来なくなった場合、受け入れる事が出来るのは日本だけ、というまことし
  やかな話が出ているが、まずそれは無いだろうし、まあ、サービスの質を上げ
  て、お互いにコツコツと集客に励むしかないよな」
   仕事の話になって雄一郎は元気になってきた。
  
  「やっぱりワールドカップは欲しいよなあ。磯子に日本選手の宿泊を取られた
  り、外国選手の誘致も出来なくて悔しい思いをしたけれど、日韓共催のワール
  ドカップの時は最高だった」
   サッカー好きの村上の目が輝いた。
 
  「こっちだってカメルーンは河口湖だったし。会社は他人事のように見ていた
  けど、俺は欲しいと思っていたよね。でも、物理的に八ヶ岳は無理だったろう
  けれど。後日談で、カメルーンが宿泊したホテルは、民再になったと聞いたか
  ら、その事で悔しさを忘れさせたけどさ。日韓共催のワールドカップか……」
   雄一郎も昔を懐かしむように頭の後ろで腕を組んだ。
  
  「チュニジア戦の時だったか、勝利に酔ったサポーターが、桜木町の駅前に多
  勢集まっているからこの歓声を聞いて、って。俺は、真理から携帯電話越しに
  その歓声を聞かされて、改めて『都落ち』を痛切に感じたよ」
   雄一郎は「あーあーニッポン、ニッポン、ニッポン、ニッポン」とあの時、
  電話越しに聞いたサポーターの声を再現した。
  
  「2002年は最高の年だったなあ」
  
   村上は、今でも雄一郎には秘密にしているが、ドイツ対ブラジルの決勝戦の
  日、チケットは持っていなかったが真理と二人、で新横浜の横浜国際競技場に
  「感動を味わいたい」と出かけた。
   ブラジルの優勝が決まった後のセレモニーで、ロゴが入った何百万羽の折鶴
  が舞い降りたが、その折鶴を村上は幸運にも一つだけ手に入れる事が出来た。
  欲しがる真理とじゃんけんをして勝った村上は、その折鶴をケースに入れて大
  事にしている。
 
   いつの間にか村上の宿泊代の一升瓶は空になっていた。
  
  「お前の気持ちに感謝して、とっておきを奮発するか。村上様お待ちください」
   
   雄一郎はおどけた様子で村上にうやうやしく頭を下げ、寝室のクローゼット
  から、一本のバーボンウィスキーを取り出し、ナプキンをかけて村上に差し出
  した。
  
  「凄いな! ジャックダニエルのゴールドメダルか。こんな酒を何処で手に入
  れた?」
  
  「1914年ものだよ。闇ルートだ。って言いたいけれどネットで見つけたん
  だ。真理には言うなよ。真理に見つかったらお喋りをしながら、ハイボールに
  して一晩で半分以上は飲まれちゃうから」
   雄一郎はバーボンの瓶を大事そうに撫でながら笑って言った。
  
  「子供が無事に生まれ、それでお前達が遊びに来てくれて、お前と俺はこのバ
  ーボンを飲んでホロ酔い気分になっている。弓恵さんと子供を抱いた真理が、
  俺たちを見ながら幸せそうに笑っている。そんなシーンを想像していてさ。そ
  の時のために買ったんだけど……」
   崩れ落ちそうになる雄一郎を……  
  「こだわり屋のお前らしいよな。でも、両方のシーンに俺は登場しているんだ
  よな? 遠慮なく飲ませてもらうよ」
   と村上が救った。
    
   ウィスキーグラスにバーボンを注いでストレートで村上に薦めた。
  村上はゆっくりと口に含んで味を楽しんだ。バーボン特有の木の香りが広がり、
  思わず「美味い!」と唸った。
   雄一郎はグラスに氷を入れウィスキーを注ぎ、指で氷を突いて慈しむように
  バーボンを口に含んだ。
 
  「お前と飲むバーボンは最高だな」
   村上が満足そうに言い、二人はグラスを合わせた。

  「ところで、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルはまた評価が上がったな」
 
  「お前や真理みたいなホテルバカはいないが、スタッフが粒揃いだからな」
 
  「ホテルバカの真理は退職か……」
   グラスを弄びながら村上が呟いた。
 
  「真理はお前に育てられたようなものだよな」
 
  「俺は父親ってところだな。だけど、これからはお前が育てるんだぞ」
 
  「任せろよ!」二人はまたグラスを合わせた。
 
   その時、雄一郎はふと思った……ホームレスになり、悲惨な最期を迎えた真
  理の父親は、村上のような男気のある人だったのだろう。

  「お前も自分を大事にしろよ。だけどお前が今一番大事にしなくてはならない
  のは真理だ」
   だいぶ酔いが回ってきたのか、村上はろれつが回らなくなっていた。
  
  「しっかりしろよ」酔いつぶれた村上を見て、何故かまた雄一郎の目から涙が
  溢れた。
 
  「よく泣く男だな」
   村上にそう言われたが、涙を止める事は出来なかった。


   村上はソファーで鼾をかき始めた。

   雄一郎はおもむろに携帯電話を取り出し電話をかけた。
  
  「こんばんわ」
   着信表示を確認した村上の妻の弓恵がハスキーな声で答えた。
 
  「ご無沙汰しています。川村です。ご主人は今、家にいて酔いつぶれています。
  今日はこ、のまま泊まるつもりらしいので、取り合えずご報告します」
 
  「あー、やっぱりね」
   弓恵は可笑しそうに笑った。
 
  「和也や私より大事な人の所に行く、って電話があって。なんかね、本人は私
  達に心配させたかったらしいけれど、あの人が行く所と言ったら、ホテルか川
  村さんの所しかないでしょう。もうね、困るの。本人はリチャード・ギアのつ
  もりでいるの。プリティウーマンの家に行かなくてはならない、とか言って。
  しつこいとバレるのにね。ごめんなさいね。迷惑かけてない? あの人の鼾は
  凄いから寝る時は隔離してね」
 
  「リチャード・ギアはソファーで鼾をかき始めていますよ。僕はジュリア・ロ
  バーツにはなれないから放っておくけど、心配しないでください」
  
  「心配したいけれど『なんちゃってリチャード・ギアはお断り』そう言ってね」
 
  「分かりました。しっかり伝えます」
   弓恵の軽口に雄一郎は軽快に笑った。
 
  「川村さん、飲んでる?」
   弓恵の声の調子が変わった。
  
  「村上が美味い酒を持って来てくれたから、しっかり飲んで酔ってますよ」
 
  「あー良かった……でもね……」
   電話口の弓恵の声が途切れた。

   ……川村さんが電話をかけて来た……という事は……パパは、川村さんの気
  持ちを救う事が出来たのね……男の友情が羨ましかった。

  「ごめんなさい……私も飲んじゃって……私は、あなた達二人が遊びに来てく
  れるのが楽しみだから、また遊びに来てね。待ってるから……二人が大好きよ
  ……酔っ払いでごめんなさい。主人をよろしくね」
   
   弓恵は酔ったふりをしているらしかった。村上から聞いて事情を察していた
  のだろう。雄一郎は弓恵の気持ちが嬉しかった。
 
   村上のために和室に布団を敷き、プリティウーマンのジュリア・ロバーツに
  な
  って、ソファーで寝込んでいるリチャード・ギアの村上に「エドワード起きて」
  と囁いた。
  
  「分かったよ、ビビアン」
   村上はそう答えてふらついた足どりで布団に潜り込んだ。

   村上が寝ついたのを確認してから、雄一郎は真理のために入院の準備を整え
  た。寝室から見えるみなとみらいの夜景を見て、真理から妊娠を告げられた時
  の事を思い出した。あの時はまだ、観覧車に灯りがついていた時間帯で、みな
  とみらいは明るく輝いていたが、今は観覧車の灯りも消えてもの淋しかった。
  「今日はエドワードと一緒に寝るか」
   雄一郎は和室で村上と一緒に寝る事に決めた。

   部屋の電気を消して布団に入った時「ビビアン頑張れよ」まだ、リチャード
  ・ギアのつもりでいるらしい村上がそう呟いた。
  
  「全く変な奴だな、お前は」
   本当に寝込んでいるのだろうか? 村上の背中を見て雄一郎は苦笑いをした。

  「雄真と理子は失う事になるだろうし、これから自分達に家族が増える事はな
  いだろうが、家族ではなくても、本当に自分達を心配してくれている友達がい
  る」
   また、雄一郎の目から涙が溢れたがそのまま布団を被った。



 
   翌朝、雄一郎は洗面所の水音で目を覚ました。時計を見ると、まだ6時にな
  ったばかりだったが、村上の布団はきちんとたたまれていた。
  「あいつは俺を起こさないようにそっと帰るのだろう」雄一郎は寝たふりをし
  ていた。水音が止んで、少しして玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
 
   しばらくの間布団の中でぼんやりしていたが、時計の針が7時を指したのを
  確認して、おもむろに起き上がり、シャワーを浴び支度をして病院に出かけた。

  「おはよう」
   真理は笑顔で雄一郎を迎えた。落ち着いた真理をみて雄一郎は安心をした。
  「昨夜はね、少し看護師さんを困らせたの。だから、後で謝っておいてね」

   午後になり、手術の準備が整のった。半身麻酔での手術は不安だろうが、観
  念しながらも何かに必死に耐えている様子の真理は手術室に運ばれて行った。
   一時間程と言った手術は実際には二時間近くかかった。待合室で、不安な気
  持ちで待っていた雄一郎は、赤ん坊の泣き声と真理の叫び声を聞いたような気
  がした。
  
  「無事に終了しましたよ」
   看護師の案内で雄一郎は病室に飛んで行った。
  真理は眠っていたが、昨日と同じように目の端に涙が溜まっていた
 
  「よく頑張ったな」
   眠っている真理にそっと声をかけた。
 
  「終わったね」
   しばらくして、目を覚ました真理が小さな声で話しかけた。
 
  「具合いはどうだ?」
  
  「下半身が変。自分の身体じゃないみたい」
   雄一郎は布団の中に手を入れて、真理の足をさすった。
 
  「先生が、子宮は大丈夫だから体外受精で赤ちゃんを産む事も出来ますよ。
  って、言って励ましてくれたけれど、どうする?」
   真理は笑みを浮かべて問いかけた。
 
  「真理はどうしたい?」
  
  「分からない……」
  
  「その事は退院してからゆっくり考えよう。今はゆっくり休めよ」
 
  「でも、本当にごめんね。雄真も理子も可哀相……」真理は声を詰まらせた。

  「昨日も言ったよな。二人は俺達に気を使ってくれたんだよ。親孝行の子供達
  さ。だから、早く元気になれよ」
   本格的に真理は泣き出した。泣いている真理を見つめる雄一郎の目からも涙
  が溢れた。


  「真理ちゃんの事は任せて、お仕事に戻りなさい」という真理の叔母の矢沢友
  美に真理の事を頼んで、雄一郎は翌日に山梨に一旦戻った。

   真理の身体の回復は順調で、様々な検査でも特に異常はなく、術後13日目
  には、無事退院の運びとなった。
   退院の日はクリスマスだった。親切で優しい久保美代子看護師達に見送られ
  て二人は病院を後にした。
 
   病院では気丈に振舞っていた真理が急変したのは、マンションに戻った直後
  だった。
  
   玄関に入るや否や、持っていたバッグを放り投げ靴を脱ぎ捨てた。
  北側の寝室のドアを開け「居ない!」そう叫び、ベッドカバーを思いっきり引
  き剥がした。そして、次にトイレのドアを開け「居ない!」と言って、洗面所
  のドアと風呂場のサッシを開けた。
  
  「どうしたんだよ?」
   雄一郎の問いかけにも答えず真理はリビングに突進し、キッチンを覗き、和
  室の襖を開けた。
  
  「やっぱり居ない!」
   そう言って和室の真ん中で立ちすくんでいた。
  
  「真理! しっかりしろよ! 誰が居ないんだ?」
   雄一郎は叫んだ。
  
   真理は、リビングで唖然としている雄一郎を押しのけ、キッチンにあるサー
  ビスバルコニーに面したドアを開けバルコニーから下を覗いた。
  
  「居ないよ! どうして?」
   ヒステリック状態で、何かを探し求めている真理の形相は凄まじかった。
  
   バルコニーのドアを乱暴に閉めて、真理は雄一郎の脇をすり抜け、リビング
  の掃き出し窓にかかっているウッドブラインドを引き上げようとした。
  「真理がベランダから飛び降りる!」という不安に駆られた雄一郎は、真理を
  取り押さえようとして、身体の向きを変えた時に、ダイニングの椅子のアイア
  ンに、右足の薬指を思いっきりぶつけた。足の薬指を骨折したような強烈な痛
  みに襲われ思わず呻いたが、そんな事に構ってはいられなかった。ブラインド
  を引き上げ、掃き出し窓を開けようとしている真理を、必死の思いで後ろから
  羽交い絞めにして、二人はそのままフローリングの床に倒れこんだ。
   少しだけ開いた窓から「ビューッ」という風が舞う激しい音が聞こえ、冷た
  い空気が部屋に流れ込んだ。窓を閉めたいが、真理を離すとまた何をするか分
  からない、そんな思いで雄一郎はしっかりと真理を押さえつけた。
 
   真理が嗚咽をもらした。
  真理は自分がしている事の全てが分かっていた。無茶苦茶な行動をとっている、
  と頭で分かっていても感情がそれに連いていけず、どうにも自分の行動が抑え
  られなかった。

  「いいんだよ。暴れたい時は思いっきり暴れろよ。だけど、俺を悲しませる事
  だけはするなよな」
   しばらくの間二人はそのままの姿勢でいた。
  
  「雄真と理子がいない……」
   そう言って真理はその間ずっと泣いていた。

   雄一郎は椅子にぶつけた足の指が激しく痛んだがじっと耐えた。風が舞う音
  がうるさく、冷たい空気が顔にあたり苦しかった。このまま凍えて固まってし
  まう。と思った時「暴れてごめんね」と真理が小さな声を出した。
   それでもしばらくの間、二人はそのままの状態でいた。
  

  「もう、大丈夫」
   真理が動いた。
  
  「本当に大丈夫か?」
   雄一郎は真理をソファーに座らせて、ワインを飲ませた。ワインを飲んだ真
  理は、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
  
  「お願いがあるの?」

  「何?」
  
  「スプリングが聞きたくなったからかけてくれる?」
  
  「いいよ」
   
   雄一郎はラックから「ベートーベン ヴァイオリンソナタ第5番 スプリン
  グ」のCDを取り出し、オーディオのCDプレイヤーにセットした。
   部屋中にヴァイオリンの綺麗で優しい音色が響いた。真理は目をつむってス
  プリングを聞き入っている。雄一郎も真理の隣に座って目をつむった。 
   繊細なオイストラフのヴァイオリンは素晴らしく、心が洗われるようだった。
  10分程の演奏が終わって雄一郎はもう一度再生ボタンを押した。真理はじっ
  と動かなかった。
 
  「素敵だったね」
   二度目の演奏が終わって、真理はため息をついて少し笑顔になった。
  
  「腹が減ったなー。味奈登庵の蕎麦でも取るか?」
   真理の笑顔にホッとした雄一郎は、空腹に気付いた。
  
  「食べたい」
   そう言って、真理はフラフラと立ち上がり、ラックの前に立って何かを探し
  ていた。
  
   雄一郎が蕎麦を注文する電話が終わったと同時に、金属音が部屋中に響き渡
  った。ボン・ジョヴィの「バッド メディシン」だった。
  
  「急にボン・ジョヴィが聞きたくなったの」
  
  「ベートーベンのスプリングを聞いて、ボン・ジョヴィが聞きたくなる。とい
  うのは、真理の心がかなり揺れているのだろう……」
   雄一郎は真理の心理状態を思い計った。
  
  「古いけど、激しいアメリカンロックを聴きたくない?」
 
  「バッド メディシン」が終わって雄一郎は真理に聞いた。
  
  「聴きたい!」
   
   真理の要望に「待ってろよ、期待に応えるから」と言って、金色のレコード
  ジャケットを取り出した。
  
  「何? 何?」と言う真理に「だけど、使えるかなあ?」と言って、普段はほ
  とんど使われず、ディスプレイ用に置いてあるレコードプレイヤーにレコード
  をセットした。
  
  「大丈夫だ!」
   
   レコードプレイヤーは正常に作動した。
  針を下ろす時に、久しぶりの動作に手が震えて針が滑り焦ったが、また針を持
  ち直して、慎重に針をレコード盤に下ろした。レコード盤特有のかすかなノイ
  ズ音に「これがたまらないよなあ」と雄一郎は腕を組んだ。
   
   イントロを聴いて鳥肌が立った真理は思わず「カッコイイ!」と声をあげた
  が、曲が終わると、レコードジャケットを見ながら「もう一回!」とリクエス
  トした。
  
  「ブリティッシュハードロックに負けてないだろう? アメリカのグランド・
  ファンク・レイルロードの『アメリカンバンド』。亡くなったぶっ飛んでいた
  お袋が好きだったグループだよ。マーク・ファーナーが好きでさ」
   雄一郎はジャケットの写真を指差した。
  
  「お袋はこの曲を聴きながら夕食の支度をするのが楽しみで、ボリュームいっ
  ぱいにかけるから、近所から苦情が来て困る、って親父は嘆いていたよな」
   そう言いながらも雄一郎は嬉しそうだった。
  
  「カッコいい! お義母さんのその気持ち分かる。だって、元気が出てくるも
  の」
 
  「後楽園球場の『嵐の中のコンサート』って伝説になっているコンサートにお
  袋は一人で行ったんだよ。そのために俺は近所の家に預けられてさ。次の日、
  俺に興奮気味で話をしてくれた、お袋の嬉しそうな顔を覚えているよ」
  
  「お義母さん、素敵だったね」

  「でも、淋しかったんだよ。親父はエコノミックアニマルで仕事一筋でさ、お
  まけに外に女を作っちゃって。お袋は死ぬ時に親父に傍についていて欲しかっ
  たんだろうけどさ、親父は女の所にいて間に合わなかった。今みたいに携帯電
  話なんて無かったから、連絡が取れなくて」
   母を思う雄一郎の目は潤んでいた。
 
  「でも、今は喜んでいるかもね。『クィーン』が私達を結び付けてくれて『グ
  ランド・ファンク・レイルロード』が元気を失くした嫁を元気づけた、って。
  会っていなくても『家族』ってどこかでそういう事を感じさせてくれる。それ
  が『家族の愛』なのかも。きっと今頃、お義母さんは、孫の雄真や理子と会っ
  ているかもしれない。『可愛い!』って喜んで幸せになっているかもね。それ
  で、そうして『家族の絆』が強まるのかなあ?」
  
  「うん。お袋も喜んでいると思うよ。それで、二人に、子守唄ってロックを聞
  かせているんだろうな。困っちゃうよな」
   雄一郎の話を聞いて真理の顔が泣き笑いになった。
 
   味奈登庵の蕎麦が届いた。
  「お食事タイム」
   リビングが急に静かになった。
  
  「ビールを飲むか?」という雄一郎に「飲みたい」と答えた真理だが、届いた
  蕎麦を半分程食べたところで箸を置き、ビールは一口飲んだだけだった。
  
  「食欲がないのか?」
   雄一郎がそう言った時に携帯が鳴った。


   着信音は何故か遠慮がちだった。
 
  「今、大丈夫ですか?」
   電話の相手はフロント支配人の吉野だった。
 
  「うん、大丈夫だよ」
 
  「奥様は無事退院されましたか? こっちは特に問題もありません。明後日ご
  出社と伺っていますが、余計な事ですが、少しの間は奥様のお傍についていて
  あげられたら、と思ったので、その事の連絡です。総支配人からも無理はする
  な。という伝言を預かっています」
   
   会社の配慮は有り難かったが、何故か取り残されたような気もした。年末年
  始を間近に控えてホテルは忙しい筈だ。
  
  「迷惑かけて済まない。29日は打ち合わせがあるから休めないが、吉野君や
  総支配人の言葉に甘えて、28日に出社する事にして、もう一日休みをもらう
  よ。家内はさっき無事に退院出来たから、総支配人にもその事を伝えて欲しい。
  いろいろ気を使わせて悪かったな。何かあったらいつでも携帯に電話してくれ
  て構わないから」
  
  「了解しました。こんな事自分の口から言って何ですが……支配人も元気を出
  してください。支配人はずっと元気がなかったから自分は……自分だけではな
  くスタッフみんなも心配していました」
  
  「ありがとう。君達の気持ちは有り難いよ」
   そう言って電話を切った。
  
  「もう、大丈夫よ。仕事があるから私達は大丈夫」
   真理は雄一郎の手を握った。
  
  「取り残された」と感じた事を真理に見透かされたのかもしれなかった。
  
  「取り合えず明後日山梨に行こう。これからの事は山梨に帰ってから考えよう」
  
  「今度のお正月は一緒に過ごせることになりそうね」
   社会人になってから真理は、一度も年末年始をゆっくり過ごした事がなかっ
  た。今まではその事に何の疑問も持たず、忙しい中にも、ワクワク感のある年
  末年始の仕事を楽しんでいた。「悲しい出来事」が原因であったが、自分に自
  信を失くして弱気になっている真理にとって、まもなく訪れるお正月が楽しみ
  になってきていた。

   ……雄真と理子からのクリスマスプレゼント……雄一郎が本牧のケーキ屋で
  買ってきたクリスマスケーキを、真理はテディベアのぬいぐるみと一緒にカウ
  ンターに飾った。

   その夜、村上に退院の報告連絡をしたが携帯も繋がらず、自宅も留守電にな
  っていた。「きっと、村上さん達も気をつかって遠慮しているのね。村上さん
  からのクリスマスプレゼントね」
   落ち着いた真理はそう言って、雄一郎の腕の中で安心して眠りにつこうとし
  ていた。
  
   だが、その夜は二人ともなかなか寝付かれなかった。それでも「眠れない」
  という事をお互いに悟られないように二人は気をつかった。




 
   翌々日の午後、二人は山梨に向った。当面の住まいは、雄一郎の住む2Kの
  マンションになった。
   山梨に戻った翌日から雄一郎は出社した。真理はロイヤルガーデンホテルに
  はまだ「退職届け」は出さず「早期流産休暇届け」を出し、その後は有給休暇
  を消化する事になっていた。

   真理はお正月の準備に勤しんだ。
  大晦日、雄一郎が帰宅したのは年が明けていたが「明けましておめでとう」と
  迎え、元旦は、朝早く起きて、雄一郎のためにお雑煮を用意した。
  
   しかし、雄一郎が傍にいるのに、自分が社会から取り残されたような、焦り
  と淋しさを覚えた真理は、松の内を過ぎた頃から急にうつ状態になった。
  
   コンプレックスの塊になった真理は、住人の視線が、山梨と横浜とでは違っ
  ているように感じるようになった。
  「無関心な視線」は半分だけで、あとの半分は「無関心さを装う好奇な視線」
  と思うようになり、その事はマンション内だけではなく、スーパーに買い物に
  行っても、山梨で生活している全ての空間で感じるようになった。
   マンションには、雄一郎の部下の吉野が住んでいるが、吉野夫婦が、真理の
  悪口をマンション中に言い触らしている、という被害妄想まで抱くようにもな
  り、部屋から一歩も出る事が出来なくなって、真理の顔から笑顔が消えた。

   何もする気になれず、一日中ボーっとして過ごす事が多くなった。雄一郎が
  帰宅しても、電気も点けず夕食の支度も出来ていない。
   しかし、雄一郎はそんな真理を一生懸命にフォローした。
  休みの日にはドライブに真理を連れだしたが、真理は「外に出るのが怖い」と
  言って、車から降りようとはしなかった。食事はほとんど雄一郎が帰社の途中
  で買ってくるコンビニの弁当で済ませた。

  「こんな事ではいけない」
   そう気づいていても真理は何もする気が起きなかった。

  「山梨に帰ったらこれからの事をゆっくり話し合おう」と二人は考えていたが、
  今の真理の精神状態ではその事さえ不可能な状態になってしまっていた。

   そんな生活が二週間程続いたある日、仕事を終え帰宅した雄一郎は、電気も
  点けない部屋で、ノートブックパソコンの前にうつ伏せている真理を見つけド
  キッとした。「まさか!」と不吉な考えがよぎり、慌てて真理の肩を揺すった。
  
  「うん?」
   真理が動いて雄一郎はホッと一安心した。
  
  「こんな所で寝ていると風邪をひくよ」
   パジャマ姿の真理を抱きかかえてベッドに連れて行った。
 
  「痩せた……」
   細くなった真理の肩を抱いた手に、真理の心の痛みが伝わって来るようだっ
  た。
  
  「ごめんね。このまま寝かせてね」と言う真理に布団を掛けて、雄一郎はパソ
  コンの前に座り、真理が見ていたのであろうパソコンのマウスをクリックした。
   スリープ状態のパソコンが作動し、現れたデスクトップ画面を見つめて、ク
  ラッと眩暈を起こしそうになった雄一郎は「何だこれは?」と声をあげた。
   パソコンの壁紙には、ホテルの全景写真が十数カット分貼り付けられていて、
  デスクトップには全タイプの部屋、全レストラン、会議室、フロントロビー、
  宿泊プラン、イベント案内、アクセス方法などの多数のアイコンがズラッと並
  んでいた。
 
  「真理は日がな一日中、パソコンの前に座って、横浜ロイヤルガーデンホテル
  のホームページを眺めているのだ」
  
    正直のところ、雄一郎も疲れていた。
  
  「真理を病院に連れて行った方が良いだろう」と考えていても、なかなか踏ん
  切りもつかなかった。
    
   ……真理を連れて行かなくてはならない先は横浜で、ホテルの仕事に戻す事
  が、真理にとっては一番良い事なのかもしれない……

   しばらくの間雄一郎は思案していたが、寝ている真理に「横浜に帰るか? 
  ロイヤルガーデンの仕事に戻るか?」とそっと話しかけた。
 
  「何?」
   真理は重そうに瞼を開いて雄一郎を見上げた。
  
  「横浜に帰るか? ロイヤルガーデンの仕事に戻るか?」
   もう一度同じ事を伝えた。

   それを聞いた真理は急に起き上がった。
  「ロイヤルガーデンに戻りたい。私を横浜に帰してくれる?」
   そう懇願する目に涙が溢れた。

   そんな真理を見て雄一郎は自分が望んでいた事の全てを諦めた。

  「横浜に戻る。ロイヤルガーデンに復帰する」
   その事を決めて、真理が横浜に戻るまで僅か二週間しかなかったが、真理は
  笑顔を取り戻し、元の真理に戻りつつあった。

   山梨での最後の日、二人は約束していた「これからの事」、「みなとみらい
  病院の吉岡医師から告げられた事」を話し合った。
  「もうこんな辛い思いはしたくない」真理はそう言い「今までのように、そし
  てこれからもずっと二人で生きていきたい」そう望んだ。それは雄一郎も真理
  と同じだった。
  
  「また別居生活で、いろいろ迷惑かける事になってごめんなさい。我がままば
  かりの私に優しくしてくれありがとう」
   真理は心の底から雄一郎に感謝をし、横浜に帰って行った。
  しかし、昨年、大事な仕事を終えた後に真理が気づいた事「仕事より大事に思
  うものがある」という事を雄一郎に伝える事はなかった。

  「仕事に復帰したい」という真理の気持ちをしっかりと受け止めたが、結局
  「真理を守る事が出来なかった」
   雄一郎はそれが悔しかった。
  「真理にとって、自分だけでは物足りないものがあるのか? プラス仕事がな
  いとダメなのだろうか?」
   そして、心の中に少しだけ「真理との生活では埋められないものがある」と
  感じるようになっていた。真理との結婚生活は刺激もあり、それはそれで幸せ
  だが、何か足りないものがある。例えば……村上と弓恵のような夫婦のように
  ……「何なのだろう? 言葉では表現出来ないが何か不足しているものがある」
  雄一郎は漠然と感じていた。
 
 
   ロイヤルガーデンホテルの仕事に復帰して「真理は今まで以上に輝いてきた」
  と村上は感じた。何かつき物が落ちたように真理は仕事に打ち込み、仕事に対
  して鋭い冴えが増した。村上でさえ気づかない事を突いてきて、真理の発想の
  転換からのアドバイスで、セールスマーケティング部は数件の大きな団体とイ
  ベントの受注を受ける事が出来た。オリンピック開催でバブル経済に突入する
  中国を見て「これからは中国からの客がもっと増える」と中国語の勉強も始め
  た。
   そして、その年の春、真理はセールスマーケティング部を異動となり、ゲス
  トサービス部マネージャーに大抜擢された。
   一時は真理の体調の事もあり、会社は異動・昇進を一旦は白紙に戻したが、
  不死鳥の如く蘇った真理に再度白羽の矢をたてた。正式辞令の前に異動を知っ
  た村上が、セールスマーケティング部内での昇進を訴えたが、会社はその訴え
  を退けた。
 
   真理が任された業務は「ロイヤルガーデン・プレミアムクラブ」というロイ
  ヤルガーデンホテルが誇る「エグゼクティブ・フロア」のコンセルジュデスク
  担当であった。
   外資系ホテルの進出で、更に競争が激しくなったホテル業界は、生き残りを
  賭けて「ワンランク上のサービス」を提供すべく、エグゼクティブ・フロアな
  どを設けるホテルが徐々に増えだした。
   ロイヤルガーデンホテルでも、最上階を「プレミアムクラブ」専用フロアに
  リニューアルを施し、専用のコンセルジュデスクでのチェックイン・チェック
  アウト、昼間はティータイム、夜はカクテルやオードブルが無料で楽しめる専
  用ラウンジ、フロア専用キー、ルームサービスでの朝食サービスなどを提供し
  た。クラブ専用フロアには、社内から選りすぐりのスタッフを配置して、万全
  の体制を敷いた。
   そして口数限定で「ロイヤルガーデン・プレミアム会員」の販売を行なった。
  前評判の高かった会員権は、各国の大使館、政治家、医者、ベンチャー企業や
  外資系金融会社、芸能界などで人気となり、短期間で完売となった。会員以外
  が「プレミアムクラブ」専用フロアを利用するには、別途料金が加算されるが
  「ラグジャリーさと、和のおもてなし心のあるグレードの高いホテルサービス」
  を提供する事で、海外からのVIPにも人気を得る事に成功した。
  
   村上同様、雄一郎の目から見ても真理は輝きを増した。
  辛い経験を経て毅然と仕事に打ち込み、自身の努力で会社に認められる必要不
  可欠な人材になり、輝きを増した真理は見事だった。
   その事は夫として誇らしくもあったし、夫という自分の存在があるからだろ
  う、と密かな自負もあったが、真理がいつの間にか自分を飛び越えて、手の届
  かないところに行ってしまった。というような淋しい気持ちが沸いた事も事実
  であった。
   八ヶ岳ガーデンリゾートもかなりの高い評価を得ていたが、横浜ロイヤルガ
  ーデンホテルとは格が違う。その事でも「真理に負けた」と考えてしまう、そ
  の気持ちは誰も救う事が出来ず、雄一郎は、自分の心の隙間が広がっていくよ
  うな不安感を抱いた。


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