1 (2006年)
こんなに長くはなると思っていなかったが、お互いの中で別居生活も「当た り前」となっていた時、真理に嬉しい出来事が起きた。雄一郎がその報告を聞 いたのは11月末、一週間ぶりに横浜に戻って来た時であった。
二週間前に、長い間住みなれた根岸のマンションから、二人は横浜のベイサ イドエリアの分譲マンションに引越しを済ませたばかりであった。その団地は 建て替え団地であったが、真理は、建て替えられる前の団地で高校時代までを 過ごした。新居は真理の生まれ育った場所で、2LDKのマンションの抽選に 当たった時には飛び上がって喜んでいた。
結婚してから10年、別居生活を始めてから6年が経っていた。
「彼が帰って来るまでには引越しの荷物は片付けてしまいたい」という真理の 頑張りで、部屋はすっかり綺麗になっていた。残っているのは寝室のクローゼ ットだけで「最後の一頑張り」と整理を行なっていた。 「いい気持ち!」 風呂から出た雄一郎がバスタオルで頭を拭きながら、缶ビールを持って寝室 に現れた。 「しかし、最高のロケーションだよな……」 最上階の部屋の北側の窓からは横浜港とみなとみらいが見渡せる。その夜景 は、今夜の二人を祝福しているかのように煌いていた。
「どうしようかな?」 真理はしばらく片付けの手を休めて考え込んだ。Tシャツにスウェットパン ツ姿の雄一郎は、ビールを飲みながら夜景に見とれている。
「出来たって」 雄一郎の横に立ち、背伸びをして恥ずかしそうに耳打ちした。 「出来たって何が?」 「もう鈍いんだから……出来たって言ったら……他に何がある?」 真理は嬉しそうに言った。 「ウソ……だろう?」 余りにも突然の事で雄一郎は缶ビールを落としそうになった。 慌ててサッシのさんに缶ビールを置いて「まさか……本当にまさか……って事 ?」 信じられない!という顔つきで真理を見つめた。
「うん……」真理はそれだけ言って、我慢しきれない様に雄一郎に身体を預け た。雄一郎は真理の身体をしっかりと受けとめて、自分の喜びを表すように更 に真理をきつく抱きしめ「いつ?」と尋ねた。 「こうの鳥が配達予約を入れてきたの」 笑いながら真理は、雄一郎の首に手を回した。 「期待させて、それが間違っていたら? って思っていたので内緒にしていた の。それでね……一昨日、みなとみらい病院に行ったの。二ヶ月だって。予定 日はね、7月24日」 そう言って真理は雄一郎の胸に顔をうずめた。 「ウソだろう?」 まだ雄一郎は信じられなかった。
二人ともそんなに若くはない。それにもう子供は諦めていた。
「男の子だったら雄真で、女の子だったら理子だからね」 真理は潤んだ目で雄一郎を見上げた。 「雄真はいいけど、理子は却下だ。俺の字が入ってない」 雄一郎は笑いながらまた真理を抱きしめた。
40年近く生きて来ていろんな幸せを味わった。 でも、今までの「幸せ感」は今の「幸せ感」と比べたらちっぽけだった。 「子供が出来た」という幸せは何事にもかえがたく、雄一郎は、真理を強く抱 きしめる事でその感動を表現した。 「理子ちゃんが苦しいって」 真理が笑いながら言ったが、それでも雄一郎は真理を離さず、そのまま二人 はベッドに倒れ込んだ。 「ごめん。大丈夫?」少し激しかった動作に真理の身体を案じたが、じわじわ と雄一郎の中に喜びが広がって行った。
「具合は悪くないのか?」 真理の髪の毛を優しくかきあげながら雄一郎が尋ねた。 「うん、大丈夫みたい」 「絶対に煙草はやめろよな」 「はい。でも、私達ってどんなパパとママになるのかなあ?」 「こんな風だよ」 雄一郎はそっとキスをした。喜びが身体中を駆け巡った。優しかったキスが 激しくなった。 「先生が無理しないように、って。だから、やさしくね」 真理は目を閉じた。
興奮の嵐が過ぎ去り、リビングに戻った二人の会話は現実の話になった。 「仕事はどうする?」 ビールを飲みながら雄一郎が口を開いた。 「私の希望ではこのまま仕事は続けたい。でも、これはあくまでも私の希望よ」 「子供が生まれてもこのまま別居生活を続ける。と言うのか?」 「それが叶うならそれも有りかな? って思うけど……でも子供の事を考えた ら可哀相でしょう? それでね、幸いつわりもないし、だから……この仕事が 済んだら……それをきちんと考える。それまでは保留にして欲しいの」 「この仕事?」 「本当はね、今日の議題はその事だったの。だけど、突発的な幸せな出来事で 次の議題になっちゃった。来月の半ばに世界規模の『児童の性的搾取からの保 護を訴える国際会議』が横浜で開催されるのは知っているでしょう? 子供救 済に手を差し伸べている国連機関や、世界中のその事に携わっているNPOや NGO団体、それに外務大臣クラスも参加する。会議はみなとみらいの国際会 議場で行なうけれど、それに伴う主だった関係者の宿泊はロイヤルガーデンが 請け負っている、ってその事も前に話をしたでしょ。その仕事の細かい手配の 責任者は村上マネージャーよ。私は別の仕事の担当だったのだけれど、急遽、 サポート役を任せられたの。サポート役と言ったって細かい手配だけよ。それ でも私はそういう社会的に大きな意義を持つ仕事に携わっていたいの。その事 は分かってくれるでしょう? だから、その仕事が済むまで……私に猶予を与 えてくれる?」 真理は懇願するように必死の気持ちで雄一郎を見つめた。
「社会的に大きな意義を持つ仕事」……それは分かりすぎるぐらいに分かって いる……俺だって……雄一郎は昔を思い出した。
「転勤命令」はサラリーマンには絶対の「命令」であり、それを断るという事 は「業務命令違反」となり、懲戒解雇を受ける事にもなりかねなかったが、八 ヶ岳ガーデンリゾートホテルに転勤の内示があった時に、雄一郎は躊躇するも のがあった。「ガーデンリゾートホテル」は日本のトップクラスの「ロイヤル ガーデンホテル」の系列会社である。「フロント支配人」の命を受けていたが、 年齢的にも異例の抜擢であった。その後には「宿泊部支配人」そして「総支配 人」の地位を約束されていた。 立場的にはどうであれ、雄一郎の中には「都落ち」という感覚があった。大 都会の「ロイヤルガーデンホテル」でリアルタイムで「現在の日本」を味わい たかった。それなりの人物と接する事で「自分自身を高めたい。そして本部の 幹部になってロイヤルガーデンホテルチェーンを動かしたい」という野心もあ った。 八ヶ岳に赴任する前の送別会の席で「八ヶ岳ガーデンリゾートのフロント支 配人については、フロントの川村君と、セールスの村上君のどちらかにするか で会社は揉めたのだよ」と本部の重役から雄一郎は聞かされた。 「村上君も優秀な人材で今後の事を考えて、営業畑の村上君にフロントを任せ る事も必要かと、考えていたが、それには少し無理があるという事で会社は君 を選んだ。君のフロントでの仕事ぶりを会社は高く評価しているし、君の人間 性も高く買っている。横浜も八ヶ岳もこれからは厳しい時代に突入する。我が 社としては、リゾートホテルにも更に力を注いで行く必要がある。徐々に、中 高年層がその方面に金を使い始めているからな。それに添える力を持っている のは川村君、君だよ」 酔った勢いでぽろっと内情を話してしまった重役は、苦笑いをしている雄一 郎を見て「余計な事を喋ってしまったかな」と困惑したが「君には大いに期待 を寄せている。八ヶ岳ガーデンリゾートのクオリティを高め、甲信越地域のト ップホテルに押し上げる。君なら出来る」 そう雄一郎を褒め称えた。
上高地にある老舗高級ホテルが頭に浮かんだ。
しかし……「競争が激しくなる都会のホテルに必要なのは村上で、俺は八ヶ 岳か」雄一郎は、自分が負け犬になったような気分になった。
村上健司と雄一郎は同期であった。村上は営業畑、雄一郎はフロント畑と別 の道を歩いていたが、何故かお互いに引き合うものがあり親友でもあり、良い 意味でのライバルでもあった。 それが少し変化したのは、真理がセールスマーケティング部に異動で、村上 の部下となった時からだった。雄一郎の目から見ても、セールスマーケティン グ部に異動になった真理は輝き始めた。それは「天職」という事を真理が悟っ たためであったが、雄一郎は「真理の輝き」を村上と結び付けていた。そうい う自分を「ちっぽけな男」と思ってもいたが、その思いはなかなか拭い去る事 が出来なかった。 村上に対して「親友」より「ライバル」という気持ちが膨らんでいった。そ して「真理もライバル」になっていった。
真理の妊娠は雄一郎にとって心の底から嬉しい事であったが、やはり二人の 前に壁が立ちはだかった。真理にとって「貴重な経験である大きな仕事」は 「身体の一番大事な時期」と同時期であった。 雄一郎はその話を聞いた時すぐにでも「辞めてくれ」と言いたかったが「真 理の仕事に対する熱意」を感じて事で言えなかった。もし、「真理の仕事」が なかったならそんな事には悩まず「子供が生まれる」幸せに浸っている事が出 来ただろう。しかし、ここでも結局、雄一郎は真理に押し切られた。 数年前に宿泊部支配人のポストに昇格していたが、転勤の時に感じた「都落 ち」という劣等感が心の片隅に残っていた。 そうであっても、八ヶ岳に戻ってから、雄一郎は仕事をしながらも、子供の 事を考えると自然に笑みがこぼれ、部下であるフロント支配人の吉野浩之には すぐに気づかれた。 とにかく心配で、真理を、子供が産まれるまでガラスのケースにしまってお きたかったが、ケースに収まっていない真理は、いつもと同じ様に仕事をして いた。 一日に何回も、雄一郎は真理に電話をかけた。 「理子ちゃんのパパは心配性」と生まれてくる子供は女の子、と決め付けてい る真理は、雄一郎の電話に毎回同じ事を言って笑っていた。休みの日は必ず横 浜に帰った。真理が仕事に行く時はホテルまで車で送り迎えをし、主夫役も進 んで引受けた。
そして真理の仕事は無事に終了した。国際会議の様子はテレビのニュースで 流されたが、勿論「その裏で働いた真理と雄一郎の苦労」は誰も知らなかった。
その日の夜、真理は雄一郎に電話で「ありがとう」と伝えた。 「大丈夫か?」 真っ先に雄一郎は真理の身体を心配した。 「私は大丈夫。もう、これで心残りはない。退職願いを出すつもりよ」 「ホテルを辞める決心がついたのか?」 「なんかね、私にとっての大事な仕事をし終えて気がついたの……」 真理が急に口をつぐんだ。 「何?」 雄一郎の問いかけに返事がなかった。 「……」 かすかに聞こえたのは嗚咽だった。大きな仕事を終え興奮がまだ残っていて、 少しナーバスになっていた真理は泣いていた。 「泣いているのか?」 「ううん、泣いていない」 優しい雄一郎を感じながら真理は意地を張った。 「真理はバカだな」 その言葉の中には愛がいっぱい詰まっていた。真理はその幸せを心の底から 感じた。 「バカな真理と一緒で幸せ?」 「分かっているだろう?」 「でも言って。幸せだって。真理を愛しているって、言って」 「電話じゃ言えないよ」 「だったら……今から横浜に来て」 「バカ、行けるわけないだろう。水曜日に横浜に帰るよ。具合が悪いのか? 真理、大丈夫か?」 雄一郎は急に心配になり電話に呼びかけた。 「大丈夫よ。後三日して会ったらね、そうしたら私も気がついた事を言うか ら。ね、でも言って。幸せだって」 「俺も水曜日に会ったら言うから。真理は待てるよな?」 面と向って言えなくても、電話だったら伝えられる事があるが、今の雄一郎 は真理の目を見て、自分の気持ちを伝えたかった。 「うん、分かった。水曜日ね。もう電話切るね。なんだが眠くなった。このま ま幸せ気分で眠りたい」 「そうか。本当に大丈夫か? 何かあったらすぐに電話しろよ」 「本当に大丈夫。眠いだけ、おやすみなさい。理子ちゃんもね、パパにおやす みって」 「ハッハッハ、分かったよ。おやすみ」 電話は真理の方から切られた。
2 翌日、雄一郎は昨夜の「幸せな余韻」を感じながら出社した。車の中でこれ から対処しなくてはならない様々な事の段取りを考えていた。 今は会社が用意してくれたマンションで生活をしているが、真理が来るなら もっと広いマンションを探さなくてはならない、横浜のマンションはどうする か? 年末年始で仕事が忙しい時期と重なるが、それは嬉しい事でもあった。 雄一郎がいつもの仕事である館内巡回をしていた時に携帯が鳴った。 「真理かな?」と思ったが「フロント」という表示に「何か問題でも起きたか ?」と一瞬不安な気分になった。 「お疲れ様です。吉野です」 電話の相手はフロント支配人の吉野裕之だったが、その声はいつもの軽快な 吉野ではなく硬かった。
「何かあったのか?」 「今、横浜のみなとみらい病院から支配人あてに電話がありました。折り返し 電話が欲しいとの事ですが、メモ出来ますか?」 みなとみらい病院? そうだ真理だ。嫌な予感がして動揺した雄一郎はすぐ にペンを取り出せなかった。 「もしもし支配人、大丈夫ですか?」 吉野の声は更に硬くなった。 「大丈夫だよ。電話番号を教えてくれ」 「いいですか? 045 628…… 産婦人科の吉岡先生宛にお願いします。 との事です」 産婦人科という事で吉野もただならぬ事態が起きた、と感じていたのだろう。 何度も「大丈夫ですか?」と心配そうな声で尋ねた。雄一郎はペンは取り出せ たものの手帳が取り出せず、仕方なく掌に電話番号をメモして、吉野からの電 話を切ってすぐにみなとみらい病院の吉岡という医師に電話を入れた。
「川村真理さんのご主人ですね? 奥さんの真理さんが先程救急車で搬送され ました。電話では申し上げられませんが良くない状態になっていますので、こ れからすぐにこちらに来て頂けますか?」 産婦人科の吉岡という医師は穏やかだったが、強い意志をもったような声だ った。 「家内に何が起きたのですか?」 「申し訳ないのですが、電話では詳しい事はお伝えする事は出来ません。今は 山梨にいらっしゃるのですね。 お仕事中だとは思いますが、早急にこちらに 来てください」 「分かりました。これからすぐに車で伺います。今からですと渋滞がなければ、 午後の早い時間には到着出来るかと思います。真理は、家内の様子はどうなの ですか? それだけでも教えてください」 雄一郎は懇願した。 「奥さんは今は落ち着かれていますし、命に別状はありません。お車でいらっ しゃるという事ですが、くれぐれも運転には注意して来てください。お待ちし ています」 雄一郎がオフィスに取って返すと、おそらく事情を察しているのであろう吉 野が、心配そうな表情を浮かべていた。雄一郎は気丈に振る舞い、仕事の引継 ぎをしたが、真理の事が心配で心臓が破裂しそうになっていた。 「こっちの事は僕に任せてください。だけど車で大丈夫ですか?」 吉野は、雄一郎を気遣ったが、その事には応えず「迷惑かけて申し訳ないが、 頼む」とだけ言って社員用駐車場に急いだ。 途中、八王子付近で渋滞に巻き込まれたが、それでも予定より30分程遅れ ただけで、みなとみらい病院に到着する事が出来た雄一郎が逸る気持ちを抑え て、産婦人科のナースステーションに立ち寄り、案内を請うて病室に向うと、 真理の病室の前にはうな垂れている村上がいた。 「川村!」と言ってきた村上を雄一郎は思わず殴りつけた。 「どうして村上がここにいるのか?」 看護師がその様子に慌てて駆けつけて来た時、村上は唇を押さえて立ちすく んでいた。 廊下でのただならぬ気配に真理の病室から医師と看護師が飛び出してきた。 吉岡医師はその様子を見て、看護師に雄一郎を自分の部屋に案内するように目 配せをした。「家内に会わせてください」雄一郎は吉岡医師にすがった。 「その前に私と話をしませんか?」 小太りで誠実そうな吉岡医師は雄一郎に穏やかな口調で話しかけた。先程の 電話と同じように吉岡は穏やかだったが「従いなさい」という強いものがあっ た。 「分かりました」 雄一郎は唇から血を出している村上を横目で睨み、吉岡医師の後を連いて行 った。
「川村さん、今朝、奥さんは会社で強い腹痛を訴えられて救急車で搬送されま した。子宮外妊娠です。卵巣に癒着を起こしていますので、卵管が破裂する前 に、緊急に卵管摘出手術を行なう必要があります」 「そんな……この病院で家内は妊娠を告げられて……そう出産予定日は7月だ って、そう言われていたのですよ。それに、家内は、今までその事で具合が悪 くなるなんて事はなかった……仕事をしていたので、その事で無理があったの ですか?」 「卵管破裂などが起きない限り、妊娠初期では発見が難しいのです。また、今 回の事とお仕事をされていた事との因果関係はないと思います」 吉岡は雄一郎が少し落ち着くまでじっと黙っていた。 「もう一つですが……赤ちゃんは二卵性双生児です。二卵性であるがために、 肥大している両方の卵管を摘出せざるを得ません」 吉岡は雄一郎にエコー画像を見せながら説明をした。 「大変申し上げにくいのですが……体外受精などの方法はありますが、将来的 に自然妊娠は望めなくなります」 吉岡は辛そうな表情でその事実を雄一郎に告げた。 「おそらくもう子供は無理だろう」 雄一郎は悟り、エコー画像を見た。 「雄真と理子だ……」 真理の嬉しそうな顔が浮かび、涙が出そうになったがグッと堪えた。 「摘出以外に方法はないのですか?」 「抗がん剤を使って妊娠組織を消滅させる方法がありますが、これは副作用が ひどいのと、抗がん剤ですので細心の注意が必要で一般的にこの方法は用いら れておりません。今お話した手術が、奥さんには有効手段となります」 「その事は本人は知っていますか?」 「私からはお伝えしていません。ご主人に話をしてご了承を頂いて、まず、ご 主人から奥さんに伝えて頂いた方が宜しいかと考えています。詳しい事はその 後、私がお二人にご説明いたします」 「分かりました。ご配慮頂きありがとうございます。手術はいつになりますか ?」 「緊急を要しますので、明日の午後からを予定しています。局部麻酔での手術 になりますが、時間は一時間位になります。術後の経過次第ですが、特に問題 がなければ、二週間程で退院出来るでしょう。ただ、その後のケアには、ご主 人の力が必要になると思います」 吉岡がボールペンを手で回しながら、ゆっくりとそしてはっきりとした口調 で告げた。 「入院の手続きや病室の選択など細かい事は看護師が後程ご案内いたします」 「分かりました。よろしくお願いいたします」 雄一郎は丁寧に頭を下げ、真理の部屋に向った。 廊下に村上は居なかった。右手に村上を殴った感触が蘇り、その右手をきつ く握り締めた。病室のドアを開けようとした時、どこかの部屋からか新生児の 泣き声が聞こえてきた。その泣き声から逃れるように慌てて病室に入った。 眠っている真理の目の端には涙が溜まっていた。起こさないようにそっと椅 子に腰をかけ、しばらくの間寝顔を見つめた。 「昨夜『今から横浜に来て』と言われた時に横浜にすぐに帰れば良かった…… もしかしたら……真理は具合が悪かったのかもしれない、何かを予感していた のかもしれない……」
しばらくして気配を感じたのか真理が目を覚ました。 「来てくれたの?」 傍に雄一郎がいる事が嬉しかったのか、真理は笑顔を浮かべて手を差し出し た。 「仕事は大丈夫なの? 年末の忙しい時なのにごめんね。吉野さんとか八ヶ岳 の人は、みんな困っているでしょう? もう、私は大丈夫だから仕事に戻って もいいのよ」 雄一郎が着ている制服のブレザーのエンブレムを真理はじっと見つめた。 「とるものもとりあえず駆けつけて来てくれたのだろう」 真理はそう思って嬉しかった。 「バカだな。仕事より大切なものがあるだろう?」 真理の手をしっかりと握って雄一郎も笑顔で話しかけた。 「救急車なんて呼んじゃって、ホテルに迷惑かけちゃった」 「具合いが悪いところはないのか?」 「さっきまではとってもお腹が痛かったけれど、少し治まってきた……村上さ んが一緒に連いてきてくれたのよ。村上さんはホテルに戻ったの?」 「うん、俺が来たからさっきホテルに戻ったよ。あいつも心配していたよ」 雄一郎はウソをついた。 「でも、本当に良かった。大事な仕事が終わった後で」 「真理が良い仕事をしたから……だからだよ」 「でも、まだクリスマスの準備とかいろいろあるんだけど……だってね、仕事 だって途中で出来なくなっちゃったの。マネージャーに報告しなくてはならな い事あるのに……あのね、来週のトラスト・コーポレーションのパーティの手 配書は、パソコンの手配書フォルダーに入っている、って伝えてくれる?」 雄一郎の指を弄びながら、でも顔は見ずに、真理はさっきからずっとブレザ ーのエンブレムだけを見つめていた。
「村上には俺が伝えておくよ。仕事の事は忘れてゆっくり休めよ」 「交通費の精算も終わっていないの。経理に怒られちゃう。それにね、今日帰 って来るって思わなかったから、部屋の中グチャグチャなの。お風呂も掃除し ていないし、洗濯物だってたたんでいないの。冷蔵庫なんて空っぽ状態だと思 う。ごめんね、何にもしていなくて」 「何言っているんだよ。そんな事を俺は気にしないよ」 おそらく「最悪の事態になった」と真理は感じているのだろう。だから、今 言わなくてもいい事の話をしている。 「ねえ、言って」 しばらくしてから、今度は雄一郎の顔をしっかりと見て真理は言った。 「何を? 昨夜の事?」 「昨夜の事は水曜日って約束したでしょう? 今、私に伝えなくてはならない 事があるでしょう?」
その時、雄一郎の胸ポケットの携帯のバイブが震えた。 慌てて携帯を探って着信を確認したが、見知らぬ電話番号が表示されていた。 「村上からだ」 雄一郎はまた真理にウソをついて廊下に出た。かかってきた電話は間違い電 話であったが、雄一郎はその相手に感謝をした。吉岡医師から聞いた辛い事を 話さなくてはならない時が来たが、どう対処してよいか分からなかった。間違 い電話はその雄一郎に覚悟を決める時間を作ってくれた。
「村上が具合はどうかって」 椅子を引いて腰を下ろし、そして、意を決して真理に事実を告げ始めた。 「さっき、吉岡先生から話をされたよ。真理は子宮外妊娠だった。卵巣に癒着 が見られて、卵管破裂の恐れがあるから、明日の午後に卵管摘出手術をする事 になった。でも、手術をすればまた元気になるから心配する事はない」 雄一郎は自分自身にも言い聞かせるように、一つ一つ言葉を繋げた。 「元気になるって、もしかしたら、子供が産めるという事なの?」 真理から視線を外したかったが、真理の必死の視線がその事を許さなかった。 「雄真と理子だった」 その言葉しか浮かばなかった。 「何?」というように真理は眉根に皺を寄せた。 「『雄真か理子』ではなくて『雄真と理子』だったんだ」 ……子供はだめになる。二卵性双生児だから、両方の卵管を摘出しなくては ならない……という具体的な言い方は出来なかった。 「雄真と理子……」 真理はそうつぶやいて窓の方を向いた。 「そうだよ、双子だったんだよ。四人家族だよ。それが、俺と真理の川村家の 家族だったんだよ」 わざと過去形を使った。その言葉で真理は理解したのだろうか、横を向いて いる真理の肩が震えた。 真理は声をあげずに泣いていた。一緒に泣きたかったが「泣くな」と自分を 戒めた。 「我慢なんてするなよ。真理と一緒に泣けよ」 村上の声が聞こえたが、雄一郎は涙を堪えた。 「雄真と理子は遠慮したんだよ。ずっと離れ離れだったお父さんとお母さんに さ。やっぱり二人にしておいてあげたい、って」 言った後「どうしてドラマの台詞のような気休めの言葉しか出て来ないのだ ろう」雄一郎は自分を悔いた。肩を震わせ声をあげずに泣いている真理を、布 団の上からそっと抱きしめ「何があっても俺は真理を守るよ」声に出して伝え、 抱く手に力を込めた。真理は雄一郎の手を取り、その手を自分の顔に添えて 「ごめんなさい」そう言って、雄一郎の手の中で泣いていた。
しばらくして、落ち着いた時、遠慮がちにドアをノックする音が聞こえた。 雄一郎は、真理から離れてドアに駆け寄った。ドアの外で温かそうな雰囲気の 看護師が立っていた。
「こういう場面を沢山経験していた看護師は、自分が出向くタイミングを考え てくれていたのであろう。『ホスピタリティ』という言葉は、ラテン語の看護 収容施設全般をさす『ホスピス』という事から来る言葉だと聞いたが、今、自 分の目の前いる看護師はその『心』を分かっているのだ」
廊下のソファーに座って、看護師から明日の手術の説明を受け、入院や手術 に際しての諸々の手続きを済ませた。最後に看護師が「お部屋の件ですが、こ のままの個室で宜しいですか? それとも大部屋に移られますか?」と聞いて きた。「個室と大部屋とでは差額ベッド代に大きな違いがあるのだろう」と単 純にその事だけを考えていた雄一郎は「それはお任せします」と簡単に答えた。 「産婦人科は、無事に出産を終えた方や、婦人科の病気で入院されている方も いらっしゃいます。奥様のような場合、経産婦の方やこれから出産を控えてい る方との同室は、避けられた方が宜しいかと思います。ただ、個室は差額ベッ ド代がかかってしまいます。ご家庭のご事情がありますので強制はいたしませ んが、私の個人的な考えでは今の個室をお奨めします。今のお部屋は廊下の外 れで、赤ちゃんの泣き声とかが比較的届かない場所にありますから」 「精神的なケアという部分ですか?」 「そうですね。奥様にはそれが一番大事だと思いますよ」 「分かりました。今のままで結構です。しかし、吉岡先生もそうでしたが、こ ちらの病院では、細かいご配慮を頂いてとても感謝していますし、安心して家 内を預けられます」 「ありがとうございます。でも川村さんが仰るような事ではなく、病院として の当然の対応ですよ。吉岡先生が5時に病室にご説明のために伺います」 「久保美代子」というネームプレートを付けた温かで信頼出来そうな看護師は、 笑顔でそう答えた。 「藁にもすがりたい」と思って病院の配慮に感謝している患者の家族に「当然 の事」と言い切り、絶対的な安心感を与える久保美代子という看護師に「真の ホスピタリティの姿」を見た気がした。 病室に戻ると真理は泣きやんでいた。 そして「本郷町のさかえフルーツのマンゴジュースが飲みたい」と甘えるよう な言い方でおねだりをした。少し元気になった真理に安心したが、そんな真理 の様子に戸惑いもあった。 もっと辛い場面を覚悟していた。 「両卵管摘出の話をしたら、気が狂ったように泣きわめき、手がつけられない 状態になるかもしれない」そんな事も想定していた。だが真理は辛い事実を受 け止めて、それは耐え難いものであっただろうが、取り乱す事もなく比較的冷 静だった。 昔から余り喜怒哀楽を表に出さず、辛い事があってもじっと何かに耐え「強 さと優しさを内に秘めている」そんな真理が雄一郎は好きだった。でも「この 辛い時にも取り乱さない」というのはその「芯の強さ」だけなのだろうか? 「俺は泣けなかった。泣けなかったのは真理に弱い自分を見せたくなかった。 弱い自分を見せたら、真理も崩れてしまう。それは真理も同じだったかもしれ ない。お互いにそんな部分でガードを築いていた。そうではなく、二人で一緒 に泣いて、泣き崩れて、そしてそこから強くなる。そうなった方が良かったの ではないか?」
3 雄一郎は面会時間ギリギリまで病室にいて、8時を過ぎたのを機に、後ろ髪 を引かれる思いで病室を後にした。真理は雄一郎が帰る時に涙を流した。普段 と違う弱気な真理を見て、このまま病室で看ていたい、と訴えたが、病院側か らは許可が下りなかった。 みなとみらい病院とマンションまでは歩いて5分程の距離にある。 エレベーターで最上階に上がると、部屋の前で村上が寒そうに立っていた。
「なんだよ!」と不機嫌そうな雄一郎に「素晴らしい眺めだよな。こういう景 色を見ていると、横浜って本当に凄い所だって俺は思うよ。それに、さすがベ イエリアだよな。そこのコンビニでこんな極上の酒を売っているんだから」 口に絆創膏を貼った村上が笑いながら、持っていた日本酒の一升瓶を雄一郎 に差し出した。 「お前みたいなのが簡単に入れないためにオートロックが付いているのに、ど うやって入り込んだんだよ」
「タイミングと運さ」
「全く懲りない男だよな。入れよ。だけど散らかってるぞ」 苦笑いをして雄一郎は村上を家に招き入れた。 「家の中はグチャグチャよ」と言った真理の言葉はウソだった。部屋はきちん と片付けられていた。「出かける時に真理は、もしかしたら何かを感じ取って いたのかもしれない」胸に熱いものがこみあげた。
「冷えたから、暖かいシャワーを浴びさせてくれよ」 村上はコートを脱ぎながらそんな事を言い出した。 「シャワーなんて家に帰ってから浴びろよ。子供やかみさんが待っているだろ う?」 「悪いけど今日は泊めさせてもらうよ。だから極上酒を奮発した。これは宿泊 代。まあ、原価だけどね。時と場合によっては家族よりも大事に感じる人間が いるって事さ」 「全く勝手な男だ。好きなようにしろよ」 そう言う雄一郎から自然に笑みがこぼれた。
雄一郎は村上のために給湯器のスィッチを入れ、タオルを用意し、風呂上り の着替えに、自分のパジャマを用意した。 そして村上がシャワーを浴びて出て来た時には、ダイニングテーブルに「飲 み会」の準備が整っていた。「真理は、村上と俺が飲む事を予感してセッティ ングをしていたのか?」と思われる程、冷蔵庫にはいろいろな物が揃っていた。
「真理はどうだった?」 日本酒を飲み干して、煙草に火を点けた村上が口を開いた。口の絆創膏は剥 がしていたが、唇がはれ上がった村上には凄みがあった。 「しかし、今のお前の顔はなかなかいけるぞ。傷があって凄みがある」 自分の不始末を誤魔化すように村上をからかった。 こうして二人で酒を飲むのは何ヶ月ぶりだろう。差しで向い合っている村上 は「心休まる親友」だった。
「悪かった。そして今日は本当にありがとう」 雄一郎は素直に村上に頭を下げた。 「山梨からの道中辛かったんだろうな。冷静なお前が俺を殴るなんて10年早 い、って言いたいけれど、俺に素直な感情を表してくれて嬉しかったよ。痛か ったけれど」 唇をさすって「痛いッ!」と村上が声をあげた。 「バカな事いうなよ」 突然雄一郎の目から涙が溢れた。 「お前も年を取ったよなあ。いつから泣き上戸になったんだよ? だけど、ま だそんなに飲んでないだろう。飲めよ」 村上の声は温かかった。 差し出されたグラスの日本酒を一息に飲んで、雄一郎は吉岡医師から告げら れた事を話した。
ずっと黙って聞いていた村上の顔から「凄み」が消え「友を心配する優しい 親友」の顔に変わった。 雄一郎も長身だが、村上も180cm近くある。「イケメンの雄一郎」と 「アウトロー的な村上」の無粋な男がいる部屋の空気も温かい雰囲気に変わっ た。
「俺みたいに、結婚して当たり前のように子供が生まれた人間が『元気だせ よ』なんて言ったって、気休めにしか聞こえないだろうから、俺はそんな事は 言わない。だから、何も言えないよ」 「いいんだよ。お前がこうしてここにいる、それだけで充分だよ。お前の気持 ちは有り難い」 雄一郎は溢れ出る涙をタオルで拭った。
「忘れないうちに真理からの業務引継ぎを伝えておくよ。トラスト・コーポレ ーションの手配書は真理のパソコンの手配書フォルダーに入っている事と、交 通費の精算もしていない事。迷惑かけるけれど、よろしく頼む」 「病院で真理はそんな事を心配していたのか? バカだよなあ。ちゃんとメー ルで報告が届いていたのに。交通費の精算書も添付されていたし……恐らく、 具合いが悪かったんだろう、メッセージは誤字だらけだったから。全くバカだ よ。真理は」 苦しかったのであろう真理の事を思って、村上は胸が熱くなった。雄一郎の 目からまた涙が溢れた。 「本当に真理は大丈夫か?」 「かなり参っているけど……だけど俺が守るしかない」 「ちゃんと守ってやれよ。いい加減に真理を山梨に連れて行っちゃえよ」 「そのつもりでいる。真理は退職願を出すつもりだった」 「いろんな事情があるだろうから一概には言えないけれど、夫婦は一緒に住む べきと、言うのが俺の考えだからさ」 「俺だってそう考えているさ。だけど、真理が別居を言い出した」 「真理は仕事が好きだからな。俺も真理が居なくなると困る、って言うのが正 直な気持ちだけど……真理は意地っ張りだからな……」 「俺だって結構苦労しているんだよ」 二人は同時に真理の事を思って笑った。
「お前が単身赴任で八ヶ岳に行くって聞いた時、俺は真理に言ったんだよ。 『ロイヤルガーデンホテルでは真理の代わりはいるが、川村にとって真理の代 わりはいない。だから一緒に八ヶ岳に行け』そう言ったらさ、真理は何て言っ たと思う? 『両方にとって私の代わりはいない。という存在になります』っ てさ。俺は『バカヤロー』って怒鳴ったよ。だけど真理はひるまなかった。 『強い子だな』って思って『仕事と家庭とどっちが大事なんだ?』ありきたり の質問をした。『私は生きるために仕事をしている』確かそんな事言ったよな」 村上は昔を懐かしく思うような表情になった。 「男は本能と言うかそういう部分で、仕事と家庭の両方を大事に考えられる部 分がある。真理もそうだ、その部分では、真理も男だ。って俺はいつも感じて いたよ」 「今回の仕事では真理に部屋割りを担当させた。真理だったらホテルの部屋を 知り尽くしているし。部屋割りと言ったって重要な仕事で、単純じゃなかった んだけどさ。大臣クラスも宿泊したし、それぞれの団体の思惑や我がまま満載 で結構難しかったよ。それに変更だらけでさ。真理は変更の度に部屋割り表を 作り直しているから『表作成は最後にしろ』って言ったら『変更の過程を把握 したいから』そう言うんだよな。ただ無作為に部屋割りをしているのではなく て、部屋割りに意図を持たせて、間際の変更にも即対応出来るように、その場 合の部屋割りや、予備部屋まで考えていてくれてさ、案の定、当日の人数変更 もあったりしたけど、真理のお陰で、ああいったイベントにつきもののトラブ ルやクレームもなく、気持ち良く客は宿泊が出来て、ロイヤルガーデンは面目 躍如だった。『ホテルにとって自分の代わりはいない』その言葉通りの仕事を したよ、真理は。俺にとっても、仕事の部分だけだったけど……真理の代わり はいないよ。それは認める」 「無理するなよ。お前も真理に惚れてたんだろう?」 笑いながら雄一郎が言った。 「しかし、お前もキツイよな。純な俺の、かさぶたを剥がすような事を平気で 言えるよな……」 村上は声を出して笑い、照れを隠くすようにグラスの酒を飲み干した。 今まで何となく感じてはいたが、雄一郎の推理は図星だったようだ。雄一郎 も笑いながら村上のグラスに酒を注いだ。
二人の中で、真理は「女神」だった。
夫婦にとっての最大の不幸に見舞われ失意のどん底にいる雄一郎は、今こう して村上と話をする事で癒されているが「真理はどうしているだろう?」と雄 一郎の中に「女神の真理」が舞い降りてきて、急に心配になった。
真理は……少し前までは興奮気味で看護師を手こずらせたが、今は病室で眠 りについていた……
「そう言えば、酔った時に真理は言ってたよな。俺と会わなかったら、お前と 結婚してたかもしれないって。強調して言うよ。真理がかなり酔った時だった けど」 「いい加減にしろよ。かさぶたを剥がしてその上にまた傷をつけるのかよ」 村上はまた声をあげて笑ったが、少年のように胸がキュンと疼いた。 雄一郎から「生意気な女の子がフロントに入社してきた」という話を聞いて、 さりげなくフロントに見に行き、フロントカウンター内で、先輩フロントマン の後ろで、不安そうに立っていた透明感の美しさのある真理に、村上は一目惚 れをした。 女性社員の憧れの的であり、それなりに女性経験があった雄一郎とは違い、 子供の時からサッカー少年の体育会系で、女性と付き合う経験の少なかった村 上は、好きな女性にどういう風に接してよいか分からず、恋心を打ち明ける事 も出来ず遠くから真理を見つめていた。 そんな事をしている間に真理は雄一郎にさらわれてしまった。社内の噂でそ の事を聞いた時、村上は休みを利用して京都に一人で失恋旅行に出かけた。そ んなロマンチストの自分に酔ったが現実は辛く、失恋を癒す事は出来なかった。 村上の気持ちを知らない雄一郎は、村上を誘って真理と三人で飲みに行った り、遊びにも行った。村上の前で、雄一郎と真理は「恋人」という雰囲気は見 せなかった。それは「救い」であったが、それと同じ位「辛い」部分もあった。 二人の結婚式の前日、村上は六角橋にある小さな居酒屋で喧嘩騒ぎを起こし た。店の主人と喧嘩相手の計らいで、無難に事を納める事は出来たが、自分を どん底に落とし虐める事で辛い気持ちに決着をつけたかった……が、決着はな かなかつかなかった……真理は結婚と同時に自分の部下になった。 「惚れていたのは矢沢真理で、川村真理ではない」と自分に言い聞かせて感情 を抑えた。 村上は、雄一郎と真理が結婚した一年後に、友人の紹介で弓恵と結婚をした。 三歳年上の弓恵は真理とは全く正反対で家庭にどっぷり浸るタイプの女性で、 真理ほど美しくはなかったが魅力的だった。 弓恵との間に長男が生まれた時に、雄一郎の単身赴任を知らされた。失恋の 果てでの弓恵との結婚であったが、姉御肌で大らかな性格の中にも、細やかさ を持っている弓恵との結婚は幸せで、その幸せな家庭生活がベースになってい るから、仕事に励む事が出来た。だから、真理には「一緒に八ヶ岳に行け」と アドバイスをした。雄一郎や村上の言う事も聞かず「雄一郎と別居していても、 しっかりとした夫婦の絆を築いていたのであろう真理」は生き生きと仕事をし ていく中で、人間としても成長していった。 そういう真理を複雑な思いで見ていた村上は、時々自宅に真理を招いて家族 で食事を楽しんだ。酒が好きな妻の弓恵は酒に強い真理と会って「飲み仲間が 出来た」と喜び、何かの度に真理を家に呼んだ。賢い弓恵は夫の村上が真理に 対して「部下」以上の気持ちを抱いている、という事を感じていたのだ。村上 はそう思う。最初は品定めではないが、そんな部分で真理を見ていた。そして、 弓恵は真理が気に入った。真理も弓恵を姉のように慕っていった。
……仕事に追われていて余裕がなくなった時などに、大事な何かを思い起こ させてくれる……真理にはそんな魅力があった。しかし、その事に気が付く事 が出来るのは「真理」の存在だけではないだろう。「川村雄一郎」「妻の村上 弓恵」「自分である村上健司」そして「仕事」それらの全ての魅力が揃う事で、 何とも言葉では言い表せない「人間として生きている充実感や、幸せ感を味あ う事が出来る」村上はそんな事を思っていた。 ただ、悲しい出来事が目の前に迫っている雄一郎と真理に対しては何も言っ てあげられないし、何もしてあげられない。無力な自分が空しかった。 弓恵に、真理が救急車で搬送されて「もしかしたら子供がダメになるかもし れない」と伝えた時「余計なおせっかいかもしれないけれど、今日は川村さん と一緒にいてあげたら? パパには人をホッとさせる魅力があるから。帰って 来なくていいからね」 そんな事を言われた。
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