― プロローグ ―
目が覚めると頭の中が割れそうに痛かった……
余りの痛さに寝返りをうつ事も出来ず、
真理は寝室の窓の外が白々としているのをそのままの姿勢で眺めた。
手を伸ばして、雄一郎がベッドに寝た形跡がないのを確かめた時…… 夕べの出来事が蘇ってきた。
川村真理の悲劇は「別れて欲しい」と夫である川村雄一郎からの突然の 言葉で幕を開けた……
1 (2010年 早春)
「今日はどれを着ようかな?」 寝室のクローゼットの扉を開け、川村真理は考える仕草をした。 「おかえりなさい!」と迎えた時に、嬉しそうに目を細める夫の川村雄一郎の顔が浮 かんだ。
「決まり!」 雄一郎好みの白いVネックセーターとジップ付きのジーンズを取り出し、通勤用の スーツを脱いで着替え「こういう風に好みの服を着ようと、ときめく事が別居生活の 醍醐味」鏡に向ってひとり言を言った。
もう別居生活を始めて10年近くが経つので、毎回そんなときめきを感じる事はな いが、ちょっとした何かのきっかけでそう感じる事があった。
今日はそんな気分だった……
38歳の春を迎えた真理は、横浜にあるロイヤルガーデンホテルのゲストサービス 部の支配人を勤めている。ゲストサービス部は、ドア・パーソン、ベル・パーソン、 コンセルジュデスク、横浜ロイヤルガーデンホテルが誇るプレミアムクラブフロアサ ービス等、フロントとは違うホテルの顔として重要な役目を背負っている。
今日は、10日ぶりに単身赴任で、ロイヤルガーデンホテル系列の山梨県八ヶ岳ガ ーデンリゾートホテルで、総支配人職に就いている夫の雄一郎が帰って来る日でもあ り、明日は午後からの出勤だったこともあり「今日は思いっきり飲もう」と計画して いた。
心が躍った。
リビングに戻り、ダイニングテーブルに座ってまずメンソール煙草を一本吸った。 仕事が終わった後の煙草の味は格別である。接客業はストレスが溜まる事が多いので 「身体に悪い」と知りつつも真理は煙草をやめる事が出来なかった。 4月1日からは「受動喫煙防止条例」が神奈川県で施行されるため、横浜ロイヤル ガーデンホテルも客室以外の全店舗、宴会場は指定の喫煙場所以外は全て禁煙となる。 当然、従業員にも自主的な禁煙指令が出されていた。 「辛いなあ……」 真理は煙草を吸いながらため息をついた。
「旦那さんが帰ってくるんだろう? 顔に書いてあるよ」 帰りがけに寄った本牧商店街にある、小学校時代の同級生で、魚正の店主の細川正 人の言葉を思い出し、思わず笑みがこぼれた。
「そうだ! 彼が好きな韓国風肉じゃがを作ろう」と急に思いたち、二本目の煙草は 諦めて、冷蔵庫を開けて材料があるかどうかを確認した。
「大丈夫」 材料は揃っていた。
真理はお気に入りのエプロンをつけ料理にとりかかった。 鍋を熱して、豚ばら肉を炒め、更に玉ねぎとにんじん、ジャガイモとしらたきを入れ た。豚肉と玉ねぎを炒める香ばしいにおいがキッチンに充満してきて、何故か幸せな 気分になった。鍋にお湯とめんつゆを入れ、最後にキムチの素を足して味見をした。 「なかなかいい具合」満足してお鍋に蓋をして火加減を調整した。
「思い切って飲むのなら先にお風呂にも入っちゃおうっと」 ガスコンロの火をとろ火にして風呂に入った。風呂から上がり「韓国風肉じゃが」 の様子を見ながら、薄化粧を施した。
アジアン風なランチョンマットをテーブルにセットして、アロマポットにマンダリ ンオレンジのアロマオイルを垂らして火を灯した。
「これで準備万端」
後は雄一郎の帰りを待つばかりだった。
7時過ぎに雄一郎は帰って来た……
「お帰りなさい!」 真理は雄一郎を迎えたが、今日の雄一郎の表情は冴えなかった。
「仕事の事で何かあったのか?」 感じたが何も言わないでいた。
「別居生活の夫婦」にはそれなりのルールがあった。リアルタイムでのお互いの状況 が把握出来ないため「何かあると感じたとしても、相手が話せる状況になるまで待つ」 ……それは、仕事が第一であり別居生活の長い、真理と雄一郎との不文律であった。 相手の状態を上手く掴み取らないと、話が噛み合わない事があり、結果お互いにイラ イラして話が中途半端で終わり、ストレスとして残ってしまう事があった。 真理の不安を打ち消すように、雄一郎はテーブルに並べられた料理を見て「美味そ うだな」と笑みを浮かべ「日本酒も冷えているのよ」と言う真理に満足そうに頷いた。 しかし、風呂に入る様子もないし、服を着替えようとはしない。いつもは帰るとすぐ に風呂に入り、パジャマ代わりにしているTシャツとスウェットパンツに着替える。 今日の雄一郎は背広を脱ぎ、手だけを洗い、ネクタイを緩めてテーブルにつき、取り 出した煙草に火を点けて煙を吐き出した。 真理は煙草の煙は気にならないが、何故かその時は、雄一郎の吐き出した煙草の煙 が気になり、さりげなく顔を背けた。 冷蔵庫からお刺身と冷えた日本酒を取り出しながら「何かあったの?」とルールを 犯す質問をしてしまった。「そう言わないと場が持たない」今日の二人にはそんな空 気が漂っていた。真理の問いかけには答えず、雄一郎は待ちきれないように肉じゃが を一つ指でつまんで口に入れた。
「今日は飲む気なんだから、着替えるか、お風呂に入ったら?」と言おうとしたが、 雄一郎にただならぬ気配を感じて、黙って席につきグラスに冷酒を注いで「乾杯」と グラスを持ち上げた。雄一郎も「お疲れ」と言いながらグラスを上げた。
「やっぱり何かある」と感じた真理は不吉な予感をもみ消すように、一気に冷酒を飲 み干し「美味しい!」わざとおおげさに言って雄一郎の顔を覗き込んだ。
「別れて欲しいんだ」 雄一郎が煙草の火をもみ消しながら、苦しげな表情で口を開いた。 「エッ? 何? それって、別れるって……離婚という事?」 真理はグラスを片手に、首をかしげながら上目遣いに雄一郎を見た。そのポーズは 雄一郎から「可愛い」と言われているポーズである。咄嗟にそんな仕草をした自分に 戸惑いながらグラスを置いて「どういう事?」と今度はキツイ言い方をした。
「突然に悪い。本当に申し訳ない。ハッキリ言う。真理の他に好きな人がいる。真理 にどう言われても非は俺にある。弁解はしない」 頭を下げながら雄一郎は更に苦しげな表情をした。 「ちょっと、ちょっと待ってよ! そんな事急に言われて、ハイ了解しました。なん て言えない。何が不満? その人とはいつから? 相手は誰? どうして? どうし て?」 詰問口調で一方的に雄一郎に尋ねたが、余りにも突然な話に、頭の中には現実味が 全く沸いてこなかった。 「それって、私をからかっているんでしょう? エイプリルフールはまだまだ先よ」 「……」 雄一郎は答えず冷酒が入ったグラスを手の中で回しながら、そのグラスを見つめて いた。 言った後「なんて間抜けな事を言ったのだろう」真理はそんな自分に腹がたって、 また日本酒を飲み干した。日本酒のせいではないが、頭がクラクラしてきた。 「相手は誰かというのは勘弁して欲しい。時期は一年半程前から。真理には不満はな い。俺が一方的に悪い」 「そんな……」
真理のショックは大きかったが、雄一郎の口から出てくる言葉の「真の意味」がま だ理解来なかった。現実味も沸かないから、相手の女性に対しての嫉妬も感じなかっ た。
どの位時間が経ったのか……
「真理は一人で生きていかれる」 雄一郎が静寂を破った。
……真理が一人で生きていかれる……ことはない……それは夫である自分が一番分 かっている……しかし、今の雄一郎にはその事を言って自分を納得させるしかなかっ た。
「何それ?」 勝手な事を言う雄一郎に腸が煮えくり返る程の怒りが沸いた。 「私がこうして生きていられるのは、川村雄一郎というパートナーが居るからで、一 人で生きて行かれる。なんて、そんな勝手な判断しないでよ!」 言い返したかったが、言葉が出てこなかった。
雄一郎は黙って真理の顔を見つめていた。 目を意識しながら「何だか、何が起きたか判断出来ない。分からない……そんな哀れ みの目で見ないで!」と顔を覆った。
また静寂が流れた。
その静寂を破ったのは今度も雄一郎だった。 「今日は桜木町のホテルにでも泊まる事にする。真理の気持ちが落ち着いたら、その時 もう一度、この話をしたい」 「随分簡単に言うのね。浮気している素振りなんてこれっぽちも見せずにいて……信じ ていた私に……」
真理は長い髪をかきあげる仕草をした。 「この仕草も彼は好きだった」またそんな事を考えた。
「真理を騙していて申し訳ない。それに簡単に解決出来るなんて思ったりもしていない。 俺だって苦しんだ……だけど……本当に申し訳ない」
雄一郎は覚悟をして帰って来たのだろう。そして、始めからホテルに泊まる事を考え ていたのだろう。しばらく真理の動向を伺っていたが「申し訳ない」と頭を下げて、着 替えを取りに寝室に入って行った。
雄一郎の背中にグラスを投げつけたい衝動をグッとこらえて「消えて……」とだけつ ぶやき真理は立ちすくんでいた。
少しして荷物をまとめた雄一郎が出てきたが「本当に申し訳ない。じゃあ行くから、 連絡を待っている」と言い残して出て行った。最後まで真理の顔は見なかった。 遠くでエレベーターが作動する音が聞こえたような気がした。 真理は、まだしばらくの間動けないでいたが、観念したようにドサッと椅子に座り込ん で頭を抱えた。
涙は出なかった。本心は雄一郎を失いたくなかった。 「行かないで」と泣いてすがれば良かったのか? しかし「しっかり者で時には男性を 守る側になることも。相手の気持ちに配慮もできて精神的にタフで、相手に弱味を見せ ないところがある」そんな真理の性格ではそれは出来なかった。
そういう真理を雄一郎は「一人で生きていける」と判断したのだ。と真理は思った。
「勝手よ、勝手過ぎる」
雄一郎が帰って来てから一時間も経っていないだろう。 二人の14年程の結婚生活はたった一時間足らずでピリオドを打とうとしていた。 しかも、感情的な単語を並べただけの会話で……それで、雄一郎は出て行ってしまった……
真理はテーブルに目をやった。 お刺身は手をつけられずに綺麗に盛り付けられている。雄一郎が口にしなかった冷酒の グラスを見てカッとなった真理は、切子のグラスをカウンター越しにキッチンのシンク に放り投げた。グラスはシンクの中で鈍い音を立てて回転していた。グラスが割れなか った事が悔しかった。
無性にタバコが吸いたくなり、メンソールタバコに火をつけながら、雄一郎が大好き な日本酒をグラスに注ぎ、また一気に飲み干した。
テーブルの隅にある雄一郎が忘れて行ったマルボロの煙草が目に付いた。 真理はベランダに出てマルボロの箱を夜空に向って放り投げた。
箱から飛び出した白い煙草が舞いながら「さようなら」と真理に向って別れを告げて いるようだった。
ホテルマンであり仕事が好きだった二人の結婚生活は仕事中心であった。 仕事で行き詰った時、真理はどれだけ雄一郎のアドバイスに助けられただろう。 真理には何の不満もなかった。
「雄一郎は最高のパートナー」そう信じていた。
しかし「私が仕事優先でも彼は満足している」と勝手に思い込んでいただけなのかも しれない。本当は家庭に入って欲しかったのかもしれない。
でも、別居生活はそれなりに楽しかった。
別居を始めた頃の二人の生活の一番の大きな出費は「電話代」であった。別居当初 「淋しいから切らないで」と真理は泣いて困らせて、電話を一晩中繋ぎっぱなしにし た事もあった。単休でも二人は夜行日帰りで横浜と山梨を行き来した。 その内に「通信手段の発達」で大きな出費も減り、不便さも感じなくなった。仕事 が忙しい二人は会う回数も減っていったが、携帯電話や携帯メール、パソコンメール で飽く事なくいろいろ話を交わした。しかし、会う回数が減った二人の会話は繋げて も、二人の心は繋げなくなってしまったのだろうか?
「子宮外妊娠で一度は生を受けた子供を失い、子供が産めなくなった事が原因?」 酔った頭の中で分析を始めて、其処に行き着いた。それは真理にとって「一番辛い 原因」だった。
「どれだけ辛い思いをしたか? 雄一郎も一生懸命真理の精神的なフォローをした。 「彼も辛かっただろう。それは認める」でも「体外受精という方法もありますが、 自然妊娠は諦めてください」と医師に宣告された真理の「真の辛さを彼も分かってい てくれて、分かち合ってもいてくれた」と思っていた。結局はそうではなかったのだ。
「『苦しみ』を私だけに預けて、彼は逃げ出した。あの後、うつ状態になって、仕事 に復帰して『ホテルの仕事が天職』と再認識した……『子供を失った悲しみを癒すの は仕事。そして、自分に出来る精一杯の努力をして会社に認められて……良い仕事を して人間として成長し、輝く事が彼への償い』と考えていたのは、独りよがりの考え で、やっぱり間違いだった」
突然、あの時……病院で雄一郎が言った言葉が蘇ってきた…… 「『仕事より大切なものがあるだろう』そう言った。『仕事』ではなく、彼のそばに いて『妻』としてだけで生きて、それで輝く事も出来た。その事に目を瞑ったのは私。 彼だけが逃げたのではない。私も逃げた……」
2
真理の携帯のバイブが着信を告げた。真理はふらつきながら携帯を取るために立ち 上がった。
「相手は雄一郎だろう」と一瞬胸が疼き「無視しようか」そんな事を考えながら携帯 に手をかけた。どうしようもない位に雄一郎に腹を立てながらも、真理はまだ雄一郎 を求めていた。
着信名を見て、真理は落胆と安堵を同時に感じた。相手は渡辺雄次だった。
雄次はロイヤルガーデンホテルを辞めて名古屋で車関係の仕事をしていると聞いて いた。転職した当時は何度か電話で近況を報告し合っていたが、雄次も仕事が忙しい のだろう、最近はご無沙汰だった。
「真理さん、ご無沙汰してます。どうしてる、元気?」 「うん。元気よ。仕事は相変わらずだけどね。それにしても久しぶりじゃない。今何 処にいるの?」 真理は動揺を隠して雄次の端正な顔を思い浮かべながら返事をした。
「どうした? 何かあった?」 雄次は鋭い。久しぶりに聞く真理の声の変化を見逃さない。
「今ね、横浜に帰って来ているんだよね。久しぶりで飲めるかな? って思って電話 したんだよ……」 「グッドタイミング!」 受話器を持つ手を変えながら「良かったら家に来ない。実はさ、私一人で結構いい 気分」 真理は迷わず雄次を誘った。 「いつもずるいよな」と笑いながら「本当にいいの? 俺乗っちゃうよ」 来る気でいるようだ。 「こっちの雄ちゃんは、今日山梨から帰って来るとばかり思っていたのだけれど、急 遽帰れなくなったの。それを知らなくて宴会の準備していて……一人で持て余し気味 だったから、大歓迎よ」
それで話はまとまった。
真理は雄次を迎えるために「韓国風肉じゃが」を温め直し、テーブルセッティング をし直し、化粧をし直した。その間、真理は雄一郎の事は忘れていた。
「これでOK」と確認した時にドアホンが鳴った。
「いらっしゃい!」 笑顔で迎えた真理に、二人の好きなチリワインボトルを差し出しながら「お邪魔し ちゃいます」そう言って、雄次は入って来た。
久しぶりに会う雄次は相変わらずカッコ良かった。
「三月なのにまだ寒いよね」 雄次の頬は寒い所から暖かいリビングに入ってか赤くなっている。コートを脱ぎ 「勝手知ったる他人の家」と雄次は食器棚からワイングラスを取り出し、ワインを注 ぎ、久しぶりの再会を祝って乾杯をして、しばらくは雄次の話に耳を傾けた。
雄次はロイヤルガーデンホテルの「ミロ・カッサーノ」というイタリアンレストラ ンのホールサービスを勤めていた。 ホテルを退職後、名古屋の外車販売会社に転職したが、今はその会社も退職し、同 じ名古屋で雄次の叔父の高杉健太郎が経営するイベント会社に世話になっている。
「今の時代結構厳しいけど、叔父さんは俺の好きなようにやらせてくれてさ。感謝し てるんだ」お刺身に「美味しい、美味しい」と舌鼓を打ちながら、今の仕事に満足し ている様子で、雄次は仕事でのエピソードも交えた現状報告をしてくれた。
持って来たワインが残り少なくなった頃「ごめん、俺の話ばかりで。そっちはどう よ?」と話の矛先を真理に向けた。
さっきの事がなかったら、真理はロイヤルガーデンでの話をしたかった。 だが、今はそういう気分ではない。雄次に話そうかどうか迷いながらの真理に「様子 変だよ。何かあったんじゃないの?」真理のグラスに今度は日本酒を注ぎながら「話 しちゃいなよ」と促した。
そこで真理は決心をしてさっきの信じられない出来事の話を始めた。
黙って聞いていた雄次は、話を終えた真理に「川村さんが……?」まさか信じられ ないという様に首を振った。
雄次も離婚経験者である。ロイヤルガーデンの「ミロ・カッサーノ」のホールスタ ッフとして入社して来た時にはすでにバツイチだった。学生結婚をした雄次の結婚生 活は二年と持たなかったらしい。相手がどんな人だったかとか、離婚理由の詳しいい きさつを真理は知らない。「お喋りな雄次」だがその事について話をしなかった。ま た二人の関係にその事は全く影響していなかった事もあって、敢えて真理も聞かなか った。 「俺もさ、離婚に関しては真理さんより先輩だけどさ、だけど俺のとはケースが違う よな」 雄次は腕組みをして天井を見上げ、どう真理に話をしたらいいか考えあぐねていた。
三歳年下の雄次がロイヤルガーデンホテル「ミロ・カッサーノ」のホールとして入 社した時、真理はセールスマーケティング部に所属していた。雄次がレストランに立 つとその場がピリッとした空気に変わった。真理は「ミロ・カッサーノにいる雄次」 が結構好きだった。 入社早々「キザ男」というあだなをつけられた雄次の、ホールサービスぶりには目 をみはるものがあったが「俺が」という部分がある自信過剰の雄次は、レストラン仲 間からは敬遠されているようなところもあった。真理は、雄次に対するレストランス タッフからの悪評を、聞いてはいたが、見事な程の接客態度で顧客を掴んでいる雄次 とは気が合い、真理は姉のような態度で接していた。雄次もそんな真理を慕っていた。
今、目の前で苦悩している真理を見て、敵が多いロイヤルガーデンホテルで「数少 ない理解者としていつも支えになってくれていた真理」に対して雄次は「真理が納得 する気の利いたアドバイスをしてあげたい」と必死で考えていた。だが出て来た言葉 は「別れた方が良い」だった。
「別れる理由は川村さんの女性問題で、すでに川村さんはその女性と歩む事を考えて いるんだろう? 万が一だよ、二人で話し合った結果やり直そうとなった時、すんな り過去は忘れて出直すって気持ちになれる? そういうケースは多々あるだろうけど、 浮気だったら有り得ても、少なくとも本気だった川村さんを許せる? 真理さんには 酷だけど、今までそんな素振りを見せなかったのは、よっぽどの『本気の気持ち』だ ったんだと思うよね。分からないけどさ……それでさ、これからの事は川村さんにな って考えたんだけど……本気でも隠して行く事は出来たんだよね。川村さんもそれを 望んでいてさ。真理さんとも別れる気がなかったんだろうな。だから真理さんは何も 気がつかなかった。だけど、ここに来て隠せない事情になったんじゃないかのなあ? ハッキリそうとは言えないよ。言いにくいけど、一番酷な事態」 「いいの、いいの、もうハッキリ言ってよ。子供が出来たんじゃないか? でしょう? 私もそれを考えたの。相手は誰だか知らない。きっと若い子、会社の子かもしれない」 「待ってよ。そうだとは断定してないぜ。可能性もあるって事だよ。川村さんだった ら自分の責任をきっちり取るだろうし、誠意を見せるよ」
「誠意? それは相手への誠意でしょう? 私への誠意はどうなの?」 雄次が雄一郎の味方になったような気分がして、真理は無性に腹が立った。 「川村さんの肩を持っているんじゃないよ。自分のした事に対して責任を取ると言っ ただけだよ。真 理さんへの誠意はこれからの対応で見せるつもりなんだよ」 自分の言葉で真理が怒 ったのを感じて、雄次は慌てて言葉を繋いだ。 「川村さんが家を出てホテルに行ったのは、きっと真理さんを一人にした方がいい、 と思ったんじゃないかなあ。つきつけられた現実は辛くて簡単には乗り越えられない だろうけど、一人で考える時間を用意してくれたんだよ」
と、突然真理が嗚咽を漏らし始めた。今日初めて泣いた。
「一人」という言葉に敏感に反応したからだ。 雄次も「真理が一人で生きて行ける」と思っているのだ……そうなんだ……何故か 世の中の全てが自を一人ぼっちにしているような気がした。
「泣いた方がいいよ。思いっきり泣きなよ」 泣きじゃくっている真理に弟のように優しく声をかけた。
「そうかもね、彼が居たら修羅場になって冷静に考えられなかったよね。だけど…… 修羅場も良かったのかもしれない……そしたら『一人で生きて行かれる』なんて言わ れなかっただろうし……」 自分自身に言い聞かせるように言った。 「好きなんだな川村さんが。短時間の間で冷静に考えるなんて無理だよな。川村さん に電話しろよ。多分心配しているよ」 「それはしない。気持ちが離れた人に……泣きながら考えたの。もうジ・エンド…… だけど……離婚はしない。籍はこのままにして別居でOK。今度話をするのはその事 だけ……」 髪をかきあげながらの毅然とした様子の真理の目から涙は失せていた。 「別れた方がいい、と俺も思うけど、そんなに早く結論出す必要ないよ。話し合いは 出来なくても少し時間を置いた方が良いと思うけど」 「14年の結婚生活に、ピリオドを打つには時間が短すぎるかもしれないけど、ずる ずる引きずりたくはないから。でも……籍を抜かないから、引きずる事にはなるかも しれないので、矛盾しているけどね。未練たらしく思われてもいいけど、私にも一つ だけ抵抗をさせてもらいたい。真理を甘く見るなよ! って。私も苦しむけども…… 彼も苦しむ。その相手も苦しむ。もし私が籍を抜く決心をした時は全て吹っ切れた時。 今はそういう時が来るとは思えないけど、時間が解決してくれるって、ねっ?」
……いつかそういう時が来るよ…… と雄次は言いたかったが、真理の真摯な表情に圧倒されて何も言えなかった。涙です っかり化粧も落ちた真理の素顔は美しかったが、その中に少し意地悪な一面が浮かん でいるのが見えた。
「でも、10年近くも『生活』をしていなかったから。その元を作ったのは全部私。 彼はそんな私の我がままをずっと許していてくれて、私は彼に甘えていたのよね。仕 事は面白いし、充実して幸せだとずっと思っていたけれど、どこかで実体のない不安 な気持ちも感じた事もあったの。でも、その不安にきちんと向き合う事もせず、逃げ ていたのは私だったのだと思う。自業自得」 淋しそうに言う真理の顔から意地悪な表情が消えた。
雄次も辛かった。
「まだ時間は大丈夫?」 「日付が変わったら帰るよ何かの時には『俺がいる』って思ってよ。余り頼りにはな らないけどさ……」 気の利いた言葉ではなかったかもしれないが、雄次にとっては、真理に伝えられる 精一杯の気持ちであった。
「うん、ありがとう。偶然だけど、こうしてそばにいてくれて、どんなに私が嬉しか ったか言葉では言えない」 「真理さん、絶対に自分らしさだけは失っちゃダメだよ。明日は仕事?」 「明日は遅番。仕事には行くよ。自分らしさは失いたくないから」
「そうか」 そう言って、雄次は真理の傍に行って真理をきつく抱きしめた。真理も雄次の背中 に手を回して、雄次の「心の温かさ」を確かめた。
このまま帰って「真理は大丈夫か?」と心配だったが、明日は仕事で埼玉に行かな くてはならない。かなり酔っているであろう真理は、雄次の為に深夜営業のタクシー 会社に電話をかけタクシーの手配をしてくれた。タクシーの手配をしてくれた気使い に「いつもの真理さん」と安心したが、後ろ髪を引かれる思いで雄次は真理の家を後 にした。
雄次が居なくなったリビングはタバコとお酒の臭いが充満していた。 こんな最悪の時に、偶然にも何年かぶりかで姿を現した雄次に感謝し、一生懸命真理 を励まそうとしてくれた雄次の気持ちを感じながら、真理はまた泣き出した。不思議 だった。雄一郎の話を聞いても涙は出なかったのに……
「彼の前で泣けなかったのは、結局自分は殻を被っていたのかもしれなかった。 私は気がつかなかったが彼は気づいていて、淋しかったのかもしれない」 また胸が大きく痛んだ。
3
桜木町駅近くにあるビジネスホテルに部屋を取った雄一郎は、眠れずにベッドの上 で何度も寝返りをうっていた。
「真理はどうしているだろう?」 覚悟して背を向けたはずだったが、今すぐ真理の元に帰りたくて心が乱れた。
「だがそれはもう出来ない」
途中のコンビニで買い求めたウィスキーをまたストレートで飲み始めた。ウィスキ ーは半分まで減っていたが、雄一郎は全く酔えず、眠れなかった。
「俺は最低な男だ」
真理に告げた理由の他にある事実……それだけは問われても決して言わない、と決 めていた。夏が終わったら、勤務しているホテルに退職願を出し、真理に、自分の噂 が届かない別の場所で、新たな生活を始める予定にもしていた。
しばらくした頃、携帯が鳴った。慌てて携帯を取り「真理」と表示された画面をじ っと見つめた。受話ボタンを押そうとした時「電話に出ないで!」という菅原梓の声 が頭の中で響いたが、その声を振り切って電話に出た。
「もしもし……」 「……」 電話は繋がっているが何の応答もない。 「真理、どうした?」 再び声をかけたが、やはり応答はなかった。少しの間、気配を伺っていたが、一向 に応える様子がない事に諦めた雄一郎は電話を切った。
*****
ベッドの中で、水が飲みたい。と思ったが身体が動かなかった。壁に掛かっている 時計は、朝の7時半を指していた。
「今日は12時過ぎに家を出れば大丈夫」
将来に夢も希望もない、と思っていたが、無意識に「仕事」の事は考えていた。 無性に煙草が吸いたくなり「煙草の誘惑」に負けて真理は重たい身体を起こした。
寝室を出ると同時に吐き気を催し洗面所に駆け込んで吐いた。出たのは水分だけで 涙が出る程苦しかった。鏡に映し出された、涙でグショグショの自分の顔を見て「真 理、醜いよ」とつぶやき、そのまま洗面所に座り込んだ。
「もう綺麗になったって何にもならない」 また絶望感が襲ってきた。
「自分らしさを失っちゃダメだよ」 雄次の声が聞こえて、真理はヨロヨロと立ち上がって、もう一度鏡に映る自分を見 つめた。でも やはり「醜かった」そして、目の前にいっぱい残っている「雄一郎」 を見つけた。歯ブラシ、ヘアートニック、コロン。手を伸ばして「雄一郎」を排除し ようとしたが出来なくて、真理は自分の醜い顔を見ながら声を上げて泣き出した。
夜中に雄一郎の携帯に電話をかけた履歴があったが全く記憶はなかった。 履歴を見て「バカみたい」と覚めた気持ちになり携帯をテーブルに置きながら「何の ために電話をしたのだろう?」と自分の行動が分からなくなった。「頭がおかしくな った」と思い「いつもの真理に戻ろう」とシャワーを浴びに風呂場に行った。風呂場 も雄一郎で溢れていた。シャンプー、洗顔フォーム、髭剃り……
シャワーを浴びてリビングに戻り、携帯を確認すると雄一郎からの着信があり、留 守電に「真理、大丈夫か?」というメッセージが入っていた。「雄一郎の声」は長い 間聞きなれた愛情いっぱいの優しい声だった。気持ちが折れそうになったが、昨夜の 雄一郎の言葉を思い起こし「こんな未練たらしい事をしないでよ! 自分で勝手に決 めて私を捨てて出て行ったのだから、電話なんかしないで!」自分から電話した事は 棚に上げて雄一郎を責めた。
その日から真理は雄一郎のベッドで寝た。それは雄一郎を身体で感じる事、未練だ ったのだろうが、雄一郎に対する自分の気持ちと向き合って、自分の考えを決めたか った。決して簡単ではないけれど「逃げずに現実に向う事で自分が強くなれるかもし れない」そう思っていた。
*****
「本牧の桜を見に横浜に遊びに行く」と約束していた雄次から連絡が入ったのは、三 月の彼岸の時期だった。
「その後、川村さんと連絡を取っている?」 雄次は心配していた。 「まだよ。でも、別れる事に同意するつもり。手紙を書こうと思っているの」 「納得したの?」 思っていたより元気な真理に、雄次は少し安心をして尋ねた。
「納得は出来ないけれど、彼がそう望んでいるのなら、叶えさせてあげよう、っ て。 そう思うようになったの。彼はずっと淋しい思いをしていたと思うのよ」
「真理らしい……」と雄次は思った。 あの時「離婚はしない。彼も苦しむ……」と言ったが、一度も悪口は言わなかった。 「自分を裏切った人は憎いだろうが、恨み事を言わないのが真理だし、良い所でもある。 でも、それでいいのか?」
「真理さんらしさを失っちゃダメだよ。って言ったし、真理さんが、川村さんを思う気 持ちは分かるけれど、時には、川村さんの前では、自分を見失う位に気持ちをぶつける、 っていう事が必要な場合もあると、俺は思うよ」 「そうかもしれない……でも、出来ないって事もあるしね。心配してくれてありがとう。 それにしても、万博の仕事なんて凄いじゃない! チャンスだから、良い仕事して来て ね」 真理を心配してくれて、電話で元気つけてくれていた雄次の長期海外出張は、心細か ったが、雄次が心配すると思って泣きたい気持ちをグッと堪えた。
「急な受注でしかも下請けで、実は余り美味しくない仕事なんだけどさ……それに、中 国語だって満足に話せないし」 いつもは自信タップリな雄次が少し自信なさそうに答えた。 「私の事を考えて、そんな言い方をしているのだろう」 そう感じた真理は「仕事に対する前向きな姿勢ががあるから問題ないじゃない。帰っ て来たらお土産話をいっぱい聞かせてね。それまでに私だって負けない位に輝くように なっているから。乞うご期待ね」 明るく答えた。
「多分、これ以上言っても真理は考えを変えないだろう。そういう人なんだよ。だから 心配なんだよ」 そう思ったが、雄次は「行って来ます」と元気に電話を切った。
しかし……もう自分は真理の力になる事は出来なかった。 「上海万博で長期出張」はウソだった。叔父の会社が不渡りを出してしまい、雄次はそ れどころではなくなっていたのだ……
真理は、また大事な人を失う事になった……
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