「川島、今晩付き合ってくれ」 真山は川島に声をかけた。吉田がチラッと二人の様子を見た。
「はあ……」 パソコンのキーボードを打つ手を止めて、川島は答えた。
「そんな情けない声出すなよ。刑事課の連中はみんな俺に誘われるのを待ってるんだぞ。 その俺がお前を誘ってるんだ。嬉しそうにしろよ」
「はい……」 川島の声には生気がなかった。
真山は冗談が通じなかったか? と気恥ずかしい気分になり頭を掻きながら自分のデ スクに戻った。そんな真山を、また吉田がチラッと見た。
「おい、いつになったら元のお前に戻るんだよ」 生ビールのジョッキを持ち上げて、乾杯の仕草をした真山が川島に言った。
「えっ、いつもの自分ですけど」
「そうか……まあ、いいけどさ。いつものお前だって、お前が言うのだったら。ところ で、最近、実家に帰ってるか?」
「実家……ですか? 帰ってないけど。何なんですか? 急に」
「小さな親切大きなお世話だよな。年取ると大きな世話ばかりやきたくなってな。嫌が られついでに単刀直入に聞くが、松っちゃんと何かあったのか?」
「松岡さんと……って、どういう事ですか?」 マイペースな川島に引きずりこまれそうになった真山は姿勢を正した。
「松っちゃんの話をして辛い事を思い出させて申し訳ないが。俺は、お前と松っちゃん はベストコンビだと思っていたからな。もう一度聞くぞ。本当に何もなかったのか?」
「自分は何もないって思っていましたよ。だけど、松岡さんが、自分に対してどう思っ ていたのかは分かりません。もしかしたら、自分はボーっとしているから、イライラし ていたかもしれないし」
「一緒に行動していて、妙な事を言われたり、お前に対して変な行動を取ったりした事 はないのか?」
「そうですね……どっちもないですよ。って、自分が鈍感だから気がつかなかったのか もしれないけれど……」
「おい、いい加減、この席で『自分』なんて言うのはやめてくれないか。飲んでるんだ。 気楽にしろよ」
「はあ……」
「こんな物が松っちゃんのデスクから見つかったんだよ」 真山はSDカードを川島に見せた。
「SDカードじゃないですか」 瑛子が言っていた証拠が詰ってるSDカードと分かったが、とぼけた。
「そうだよ。中に何が入っているか知っているだろう?」
「捜査関係の資料ですか?」
「とぼけるなよ」
「松岡さんと何かあったって聞く事は、このカードに自分……僕の悪口が書かれている 物でも入っているんですか?」
「悪口より性質が悪い物だ」
「エーッ! そんなの分からないですよ。だけど、本当にデスクの引き出しに入ってい たのですか?」
「そうだ。しかも剥き出しでな。吉田がデスクの整理をしている時に見つけた」
「……」
「しつこく聞くぞ。松ちゃんから何か話をされていなかったのか? トラブルとかはな かったのか?」
「トラブルって……特に何も」
「松っちゃんの奥さんと付き合っているのか?」
「……」 川島は答えなかった。
「このカードの中には、お前と松っちゃんの奥さんとのツーショット写真が沢山入って いるんだ」
「……」 やはり川島は答えなかった。二人は黙ってビールを飲んだ。
「お前のプライベートな事だ。言いたくなかったら言わなくていい。ただ、俺は気に食 わないんだ」 そう言って真山はビールを飲み干した。
「生ビール二つ」 真山は追加オーダーをした。
二人の間で沈黙が流れた。酒の席での沈黙は辛かった……
「鍵が掛かっていないデスクなんて誰が開けるか分からない」 真山は沈黙を破って言ったが、ビールが運ばれて来て話すのを一旦止めた。
「それに、誰かに見つけられる可能性もある。捜査関係資料だって思われてな。実際に、 吉田が見つけた。何で、こんな物を無防備にデスクにしまっておいたのか? 松っちゃ んの事が分からなくてそれが気に食わないんだ。だから、お前に聞けば分かるかもしれ ない。そう思ったんだ」 また話を始めた
川島は思いつめた様な表情でビールを飲んでいる。
「気を悪くするなよ。あの時の事を聞く。お前の言った事にウソはないのか?」
「ウソ?」
「そうだ。松っちゃんは自分で自分を撃ったのではないのか?」
「違います!」 川島は真山を見据えて言った。
「どうして松岡さんが自分を撃つ必要があるんですか? そんな事を言う課長の方が変 です」
「そうだと思うよ。そんな事を考えるのは松っちゃんに対しても申し訳ないと思うし、 何よりお前を疑って失礼な話だ」
「僕はどうでもいいですけれど、松岡さんに失礼ですよ」
「悪いな、謝るよ。だけど……」
「松岡さんは勇敢でりっぱでした。ただ、僕の判断が遅かったから、僕が躊躇ったから、 松岡さんが命を落とした。あれは僕の責任です」
「俺はお前を責めているんじゃない。それは分かってくれよ。そうじゃなくて、松っち ゃんに何か意図があったんじゃないか? そう考えているんだ」
「意図?」
「そうだ意図だ」
「有り得ません。あの時、現場の近くを通ったのは偶然でした……あーっ、松岡さんから、 捜査に偶然はない。偶然があったら疑え。そう教えられてきました。でもあの時は疑いよ うのない偶然です」
「そうだろう。長内と松っちゃんには接点が全くない。だからあれはお前の言う様に疑い ようのない偶然だ。だが、俺の指示を無視して突入した事は偶然じゃない。その時点で松 っちゃんには何か意図があった。俺はそう考えているんだ。死人に口無しだし、死んだ松 っちゃんの事を悪くは言いたくない。犠牲になったのは松っちゃんだ。でも、お前が犠牲 になる可能性だってあったんだ」 そう言って真山は川島を見たが、川島は表情一つ変えなかった。
「SDカードを見た時、松っちゃんの異常さを感じたんだ。毎週の様に奥さんを尾行して 写真を撮っている。それに、お前のマンションの部屋の前にも立っていた。『川島』とい う表札をも撮っている」
「……」
「刑事として捜査の中で、松っちゃんは執拗な位の執念を燃やしていたが、刑事ではなく、 一人の男としてみた時の松っちゃんはこんな事をする様な男ではない。俺はそう信じてい た。でも、実際にやっている。だから、信じられなくなってきたんだ」
「僕には分かりません……」
「他人事の様な事を言うなよ」
「……」
「お前と、松ちゃんと、松ちゃんの奥さんとの事なんだ。俺だって、こんな話はしたくな い」
「……」
「川島……」
「課長の指示を無視した事はあるまじき行為だと認めます。だけど、松岡さんの判断は間違 っていなかったのかもしれないと思います。覚醒剤を打った後の状態で、長内を取り逃がし ていたら、もっと大変な事になっていた可能性があります」
「それは可能性だ。まもなく応援も駆けつける、それを待つ方が賢明って事は松っちゃんが 一番良く分かってる。だけど、飛び込んだ……」
「ちょっと待ってください。あの時の事はもう正しい判断がくだされています。それが真実 です」
「それは分かっているよ。蒸し返すのは良くないって事も」
「じゃあ、蒸し返すのはやめましょうよ」
「ただ……あれからのお前を見て、お前が心配なんだよ。松っちゃんはお前を殺す気なんじ ゃないかって」
「課長……」
「お前を殺すって言ったって、命を奪うんじゃない。お前の魂を奪うんだ。お前は鈍感な男 じゃない。松っちゃんはいつも言っていた。川島はぼんやりした風を装っているけれど、芯 は負けず嫌いで神経が細やかだ。川島とコンビを組ませてもらった事に感謝しています、と。 松っちゃんはお前が可愛くて仕方がなかったんだ」
(魂を奪う……)
「俺は、松っちゃんとは同じ年だし、長い付き合いでいろんな話をしてきた。俺が松っちゃ んの上司になった時、聞いた事があるんだ。『俺が上司でやりにくくないか?』と。その時、 松っちゃんは言ったよ。『やりにくい? とは、俺に嫉妬の感情がある事を言っているのか?』 言いにくい事をズバリ言われて面食らったけど『そうだ』と俺は答えた。そうしたら、松っ ちゃんはまた言った。『嫉妬は自分を見 失う原因になる。若い時に、関わったある事件 で、嫉妬の感情のために苦い経験をした事がある。その時から、自分の中から嫉妬の気持ち を排除する事にした。だから、嫉妬なんてないし、やりにくい、とも思わない』それを聞い た時、松っちゃんらしい……と思ったよ。俺は自分が考えていた事が恥ずかしくなった」
「……」
「いつだったかな? 今年の夏前かな? 松っちゃんと飲んだ時『川島が俺を飛び越えそう な気がする』とポツリと言ったんだよ。悔しそう顔をしている松っちゃんを見て、俺は『嫉 妬か?』と言いそうになった。でも、言わなかった。自分の中に閉じ込めていた感情が出て 来て、戸惑っているんだな。そう感じたよ。SDカードを見た時、松っちゃんは、静かに嫉 妬の気持ちを抱きながら生きていたのか……って、思ったんだよ」
……瑛子も言っていた……静かな感情、静かな嫉妬……
「話は逸れたが、長い間封じ込めていた嫉妬の感情が沸いた松っちゃんが、とんでもない事 をするんじゃないか? って、俺は心配なんだよ。お前は大事な部下だ。部下だけど家族み たいに思っている。お前だけじゃない課員のみんなにも同じ気持ちでいる。俺の大事な家族 が、魂を奪われるなんて事は俺には耐えられない。だから、お前の胸の中につかえている物 があったら、俺の前で吐き出して欲しいんだよ」
……松岡さんが自分の魂を奪う……そんな事はさせない。自分がどう受けとめるか……自 分は瑛子と一緒に生きていく……
「僕の胸の中につかえている事は、松岡さんを助けられなかった、という無念な気持ちだけ です。松岡さんはりっぱな刑事だし、りっぱな人間です。それはいつも一緒にいた僕が分か っています。去年の末に松岡さんの自宅に呼ばれた事がありました。その時、松岡さんは早 くに酔いつぶれて申し訳ない。そう謝ったのですが、その時言いました。僕が来てくれた事 が嬉しいから酔いつぶれた、と。僕は昔気質の松岡さんの捜査方法が納得いかない事があっ て、時にはバカにして生意気な事を言った事がありますが、それでも松岡さんは可愛がって くれていました。だから、課長もそういう松岡さんを信じてあげてください」
「川島……」 真山は川島の顔を見た。川島も真山に顔を向け、ニコッと笑った。
「川島、お前は……」 真山は声を詰らせた。
剣道大会で初めて見た「松岡の笑顔」と今の「川島の笑顔」が同じだった。
「僕は松岡さんの奥さんと結婚します」
「……!」 真山は驚きで声が出なかった。
「まだ、プロポーズはしていません。あー、でも……すぐには結婚できない か……」 川島がまた少年の様な無邪気な笑顔を見せた。
「もし、彼女がプロポーズを受けてくれたら、僕は刑事を辞めます。突然に申し訳ないと思 います。迷惑をかけるけれど許してください。でも、僕は今、課長が仰ってくれた言葉、僕 が『大事な部下で家族だ』その言葉は一生忘れません。その言葉を聞いて『刑事になって良 かった。課長の下で働けて良かった』って、今、心の底からそう思いました。ありがとうご ざいます」 そう言って川島は突然立ち上がった。
「今日はご馳走になりました。ビール美味かったです」 川島は真山に頭を下げた。
「おい、川島!」 突然の出来事に真山は面食らった。
「おやすみなさい」 川島はまた無邪気な笑顔を見せたが、それが泣き顔に変わりそうになった時、踵を返して 逃げる様に居酒屋を出て行った。
|
|