「緊急指令。神奈川区松見町二丁目スカイハイツ麻生809号室で発砲事件発生……」 事件発生を告げる無線を、松岡と川島は車の中で聞いた。
「松見二丁目は目と鼻の先だな」 松岡はすぐに無線を取った。
「こちら松岡。現在現場付近。すぐに急行します」 連絡を終えた時には、現場であるスカイハイツを確認出来る場所に到着していた。 「相手は拳銃を所持しているぞ。応援が駆けつけるまで中には踏み込むな」 真山課長から指示を受けた。
「行くぞ」 松岡は川島に声をかけ、車から飛び降りた。 11階建てのスカイハイツは、発砲事件が起きているという様子はなく静まりかえ っていた。恐らく、住民は恐怖に駆られながらも、部屋の中でじっと息を潜めている のだろう。 松岡と川島はマンションの南側に廻って8階を見上げた。コーナー出窓とベランダ が交互に続いているマンションの構造では、ベランダ越しに隣に逃げ込む事は出来な い。それを確認して、二人は北側のエントランスから中に入った。管理人室の中では、 館内巡回で8階のエレベーターを降りた時、809号室で発砲音を聞き、肝を潰して 110番通報をした顔色を失って呆然自失状態の管理人がいた。
809号室の住人は長内雅也という若い男だった。管理人は発砲音を聞いただけで、 室内で何が起きたのか、何人いるのか、怪我人が出てるのか、何も分からない状況だ った。
「ここから出ない様に」 室内の間取り図を確認した後、既に駆けつけている交番勤務の巡査に指示をし、管 理人にそう告げて、二人は8階に上がった。 エレベーターを降りて辺りを警戒した時、809号室のドアがかすかに開く気配を 感じた二人はエレベーターホールの壁に身を隠した。ドアが少しだけ開いて顔を出し、 外の様子を探っている男を確認出来た。男はすぐにドアを閉めた。
松岡は川島に「行け」と手で合図をした。
「ここで見張っていた方がいいんじゃないですか? 中の状況が全く分からないんで すよ」
「いいから行け!」
「ベランダからは逃げられないし、応援が来るまで待つべきです」
「相手はすぐに部屋を出るつもりだぞ。だから、ドアから顔を覗かせたんだ」
「マズイですよ」
「部屋から出たらどういう結果になるか分からん。部屋の中で決着をつけるんだ。俺 が責任を取る。いいから行け!」
「松岡さん!」 松岡の考えている事が理解出来なかった川島は、声を荒げ松岡を制したが、松岡は 809号室に向かっていた。川島も覚悟を決めて後に続いた。
ドアの前で拳銃を手にして中の気配を伺った。 中でガタゴトと何かを荒らしている様な音が聞こえた。
「管理人」や「宅急便の配達人」になりすまして、チャイムを鳴らせる様な相手では ない。
「行くぞ」と言う様に松岡が目で合図をし、ドアノブに手をかけた。
鍵がかかっていないドアのノブが回った。
川島の中に、また言い様のない不安な気持ちが沸いた。自分より遥かに経験を積ん でいる松岡が、今まで謝った判断をした事は記憶には無いし、今の様な状況下で、上 司の命令を無視した事もない。しかし、今回だけは違う。「経験が無い自分の判断の 方が正しい」そう考えた。 「ダメです」目で訴えたが、松岡は無視をした。
「警察だ!」
銃を構えて室内に突入した。中にいた誰かが一瞬驚いた様な、気配を感じた。 室内を確認すると、ベランダに続くリビングルームの隣の出窓がある洋室のドアが開 いていた。中にいるのは驚いた男……長内雅也……一人だった。 長内は覚せい剤を打った直後の様で、トロンとした様な目を二人に向けたが、その 目がすぐに狂気と怒りに変わった。反射的に長内はテーブルの上のナイフを手に取っ た。
長内の動作で、また、川島の中に不安な気持ちが沸いた……「不安」などという様 な簡単なものではなかった……明らかに「間違いだった」という「後悔」と「恐怖」 ……その「恐怖」は長内に抱いたものではなく、松岡に対して抱いた感覚だった。
テーブルの上には覚せい剤と使用済みの注射器、拳銃があったが、松岡と川島は、 拳銃を向けたままの姿勢を取りながら長内の動作に神経を集中した。
長内は、菊名界隈に縄張りを張る「菊隆会」の準構成員であるが、組長と盃を交わ す組員として認められて欲しい、と思っていた。 「菊隆会」も勢力を伸ばすには一人でも多くの組員が必要だが、喧嘩が強ければ誰で もいいという訳ではない。組への忠誠心や仁義、頭の良さ、冷静な判断、実行力、ヤ クザ気質での男の観念、自分より強いものに媚びへつらう生き方なども要求される。 そこで、「菊隆会」では、目の上のたんこぶである、敵対する「旭星会」の日向義 行という、最近頭角を現してきた若頭の殺害を長内に命じた。 「菊隆会」も「旭星会」も、共に不動産業と、コンサルティング業を看板に掲げ「イ ンテリやくざ」とうそぶいているが、蓋を開ければ、みかじめ料などを要求する典型 的な暴力団である。最近は、組同士の小さな抗争がひんぱんに起き、刑事課組織犯罪 対策係でも目を光らせていた。 長内にとって、指令は命を賭けた就職試験だったが「菊隆会」では、成功しても失 敗しても「血気旺盛な準構成員が勝手にやった事」として逃げる事も出来る、と計算 していた。 重大な指名を帯びていた長内は、異常な程の精神の高ぶりと不安感を押さえる為に 覚醒剤を打った。しかし、拳銃を手にした長内は緊張の余りか、マンションの自室で 誤射してしまった。その時点で、長内の就職内定は取り消された様なものだった。下 手したら、内定取り消しより悪い事になる可能性もある。焦った長内が興奮状態で 「殺るしかない」と準備をしている所に、いきなり警官が飛び込んで来た。
「冗談じゃない! 俺の邪魔をする奴は容赦しない!」 頭にあるのは、目の前の警官を殺して、一刻も早く日向を始末する事だった。
「バカヤロー!」 突然長内が叫び、松岡に体当たりをして来た。 咄嗟の出来事だった。あれだけ長内に神経を集中していたのに、それも間に合わない 程、長内の行動は素早かった。
松岡が呻いて前かがみに倒れこみ、拳銃が手を離れた。
長内はナイフを抜いて、仁王立ちになった。
「撃て!」 松岡が叫んだ。
「このヤロー!」 長内も叫んだが、ナイフを手にしたまま動こうとはしなかった。
川島は急所を外した位置を狙って拳銃を構えた。
「狙え! 急所を狙うんだ! 撃て!」
川島は躊躇った。拘束目的の発砲で、撃ち殺すのが目的ではない。
「仕留めろ!」 松岡が苦し紛れに叫んだ時、長内がナイフを振りかざして川島に向かって来た…… 川島の拳銃が火を噴いた。
弾は長内の心臓を撃ち抜いていた。
「松岡さん!」
銃を撃った衝撃で後ろに倒れそうになる身体を立て直し、川島が声をかけた時に、 松岡は一度離した自分の拳銃を手に取っていた。
「松岡さん、大丈夫……」
川島は最後まで言えなかった。拳銃を手にした松岡の目が何かに取り付かれた様な 異様な目をしていた。
……撃たれる……川島は感じた……瑛子の顔が浮かんだ……覚悟をして目を閉じた……
銃声が響いた……しかし、身体に何も感じなかった。
目を開けると松岡が倒れていた。
「松岡さん!」 思わず松岡を抱き起こした。
「瑛子と……幸せになれよ……」 そう言って松岡は目を閉じた。
「……!」 初めて人を撃った事と、松岡の最後の言葉がショックだった。
……松岡さんは、知っていたのか……
……気がついた時……応援部隊が飛び込んで来た。
*****
「松岡警部補の勇気ある行動に対し、敬意を表わすと共に警部補の死を悼みます」 直立不動で立っている真山刑事課長と川島の前で、県警本部警務部監査室長の渋谷 洋一郎が、松岡の死を悼む言葉を述べた。
敬意を表わす?……その事がどうだったのか? 警察の威信を保つ事が出来るのか? その事を確かめたくて自分を呼んだのではないか?……話を聞く前にそういう言い方 をするのが、警察か……?
「では、川島巡査長、報告をしてください」 渋谷の表情が変わった。
「自分は、松岡警部補と聞き込みを終えて署に戻る車の中で緊急無線を受けました」 今まで何度も同じ事を言ってきた。
「松岡警部補と自分が上の命令を無視して強行突入した事が、今回、松岡警部補が殉 職した一番の原因だという事は重々承知しております。自分の直の上司とは言え、間 違った判断を下す事に、最後まで抵抗出来なかった自分の力の至らなさを痛感してお ります」 ……それは事実だった…… 「命令を無視して突入した理由を述べてください」
「はい。自分達が8階に到着し様子を伺った時、部屋のドアが少し開いて長内が顔を 出しました。松岡警部補は、長内は直ぐに出かけるつもりでいる。部屋から出たら、 マンションの住民に危険が及ぶ可能性もある。部屋の中で決着をつける必要がある。 そう考えておりました」
「川島巡査長も同様に考えていましたか?」
「自分は、応援を待つべき。だと考え、松岡警部補に訴えました」 「続けてください」
「はい。銃を構えて強行突入したのは、一度発砲している事もあり、ドアチャイムを 鳴らして、という事が通じない相手だと判断したからであります。ドアには鍵がかか っていませんでしたので、松岡警部補と自分は部屋に突入しました」
川島は言葉を切り、唾を飲み込んだ。飲み込んだ唾が石の様に固く、重く感じられ た。
「入った瞬間、長内は驚いた様子で立ち上がりました。自分は、管理人から見せても らった部屋の間取り図を思い浮かべながら、咄嗟に室内の様子を見渡して、室内には 長内しかいないという事を確認しました。松岡警部補と自分は長内の動作に集中して いましたが、長内の動作は素早く、テーブルの上に置いてあったナイフを手に取り、 突然、松岡警部補に襲いかかりました」
……ここからが川島の勝負だった……
「松岡警部補の腹を刺したナイフを長内が抜いた時、松岡警部補は倒れそうになりま したが、体制を立て直し、長内に狙いを定めていました。長内が怯んだ様子を見せた ので、自分は『こっちは二人だ。大人しくしろ』などと長内を説得しました。松岡警 部補は、その長内に向かって銃を発射する素振りを見せましたが、引鉄はひけません でした。力が出なかったからです。自分は被疑者の急所を外す位置に拳銃を構えてい ました。松岡警部補はそんな自分に急所を狙って仕留めろ、そう言いました。その瞬 間、被疑者が松岡警部補の拳銃を奪い、至近距離で松岡警部補の胸を撃ちました」 「松岡警部補は拳銃を奪われた時、どういう状態でしたか?」
「はい。長内は松岡警部補を刺した時と同じ様に素早い行動だった事、拳銃を握る松 岡警部補の手の力が弱かった事もあり、簡単に拳銃を奪われました。恐らく、松岡警 部補は何が起きたのか分からない状態だったと、自分は考えています」
「川島巡査長はそれでも、発砲は出来なかったのですね」
「はい。自分は発砲する事は出来ませんでした。自分の判断が遅かった事で、松岡警 部補が命を落とした。と考えています。松岡警部補に対しては申し訳ない、という気 持ちでいっぱいで、自分はいかなる処分も受ける覚悟でおります」 川島の脇の下から気持ちの悪い汗が幾筋も伝った。
「松岡警部補は倒れこみながらも最後の力を振り絞って自分に言いました。仕留めろ。 お前が……自分の事ですが、殺られたら犠牲者が増える。自分達は警察官だ、市民を 守れ、無駄死にはするな。だから、自分は急所を狙って撃ちました。事実、あとほん の僅か、数秒ですが撃つのが遅かったら、自分も撃たれていました」
「真山課長。鑑識の検証はどうだったのですか?」 監査室長の渋谷洋一郎が訊いた。渋谷はいかにもキャリアを絵に描いた様なタイプ で、鋭い目の奥には揺ぎ無い自信が宿っていた。
「はい。横浜中央署鑑識課及び県警本部の協力を頂きまして、厳重に且つ慎重に検証 を行いました結果、撃った位置から判断した傷の具合、弾道その他、全て川島巡査長 の証言通りで相違ない、という結論に達しました」 「川島巡査長、あなたは拳銃を撃ったのは始めてでしたか?」
「いえ、自分が交番勤務時、暴走族同士の集団暴行事件の際に威嚇射撃をした事はあ ります」
「人を撃ったのは初めてですね」
「はい」
「分かりました。川島巡査長に関する処置については後日通告をいたします。川島巡 査長においては、今回の事案に縛られる事無く、業務を遂行すべく日々精進してくだ さい」
……この事案に縛られる事無く……そんな事は自分には出来ない。それは、そうさ せない様に松岡が導いた…… 「刑事」という職業に、事件を解決するという信念以外、出世とか、手柄とか、組織 への忠誠心、そういう事が含まれているとしたら、松岡は決して「良い刑事」ではな かった。自分もバカにしてる部分もあった。しかし、りっぱで優秀な「捜査員」だっ た。警察を題材にした本を読んだ事もある。その本を読んだ時、あくまでもフィクシ ョンの世界だったが、自分が松岡に抱いていた「立派な捜査員」という気持ちは間違 っていない、と感じた。 その「立派な捜査員」が最後の最後に「捜査員」ではなく「ただの男」になった。 自分を「捜査員の部下」としては見ず「妻が情を通じる相手」としか見なかった事が 悔しかった。
もし、自殺という事が分かったら、被疑者死亡で不起訴処分になるだろうが、松岡 は銃刀法違反の罪を犯している。松岡にその罪を背負わせる事よりも、自分が背負う 十字架の方が重い様な気がした。
だから……偽装工作をした……
手袋をはめて、松岡の手から拳銃を外し長内の手に握らせた。目で見て、頭で様々 な事を考えた。
松岡はこういう事は想定していなかっただろう。それなのに……あれは、自分に対 する制裁なのか……
数日後処分が下された。
川島は警察官職務執行法7条により正当防衛が認められ、殉職した松岡は二階級特 進で警視に昇格した。
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