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作品名:サイレントジェラシー 作者:nottnghill_ann

第5回   5
   物思いに耽っていた瑛子はドアフォンが鳴って、我に返った。

  「はい」
 
  「俺だ」
   応えたのは松岡だった。
 
   珍しい……松岡は帰宅の際は自分の鍵を使ってオートロックを解除し、ドアを開ける……
  玄関に向かう前に洗面所の鏡で自分の姿を確認した。

  「お帰りなさい」
   玄関のドアを閉めた途端、お酒の匂いがマンションの狭い玄関に充満した。

  「あらっ、飲んできたの。今日は早く帰って来るのかと思って夕食の支度をしていたのよ」
 
  「うん、課長に誘われた」
   松岡は持っていたカバンを瑛子に渡しながら答えた。

  「早く帰って来る……なんて、女の勘か?」
   瑛子の背中に向かって、松岡が言った。

  「そう、刑事の妻の勘」
   松岡を振り向かずに瑛子は答えた。

   何か得たいの知れない不安が襲った……



   *****


  「俺が時間を作れたという事は、松岡さんも早く帰るという事だよ。帰る時には、それを心
  していた方がいい」
   瑛子は、川島からそう言われていた。


   *****


  「晩飯は何だ?」
   和室で脱いだジャケットを瑛子に渡しながら、松岡が訊いた。

  「お刺身とおでんよ……これは何?」
   
   ジャケットを受取った時、ポケットに重い何かが入っているのに気がついた瑛子が訊ねた。

  「デジカメだよ」
   着替えながら松岡がぶっきらぼうな調子で答えた。

  「まあ、珍しい! こういうのを扱うのは一番苦手なのに……」

  「捜査に必要になったのさ。これがないと現場を押さえられない」
   瑛子の手からデジカメを奪うように、松岡がまたぶっきらぼうに答えた。

  「あなたがデジカメ? 意外……でも、苦手なデジタルな物に関心を示さなくてはならなく
  なった、という事なのね」

  「そういう事だ。面倒くさい世の中だ」

  「お食事はどうしますか?」

  「せっかく刺身を用意してくれているんだ。食べるよ。熱燗もつけてくれ」
 
  「だったら、先にお風呂に入ったら? 酔いつぶれちゃったらお風呂にも入れなくなるでし
  ょう?」

  「風呂は面倒だ。入れる気分だったら入る。入れなかったら、明日シャワーでも浴びる」

  「分かりました。すぐに用意しますね。でも、本当に面倒くさがり屋なのね」
   笑顔で答えた。
  
   瑛子は素早く、テーブルに卓上熱燗器を用意し、冷蔵庫から刺身の盛り合わせと、コンビ
  ニで買い求めたおでんをテーブルに用意した……全て調理しなくても良い献立だった……
   長年連れ添った子供のいない夫婦の会話は少なかった。松岡は黙って、熱燗を飲み、刺身
  に手をつけ始めた。

  「最近、川島が生意気になった」
   一本目の徳利が空になった頃、松岡が口を開いた。

  「川島さん? どうして?」
   さりげなさを装ったが、松岡の痛い程の視線を感じた。

  「俺はいつか、あいつに追い越される」

  「そうね、いつか仕事では追い越されるかもしれないけれど、あなたが長い間培った刑事と
  しての勘や、人生では追いつかれる事はないと思うわ」
   心の動揺を押し隠した。

  「でも、川島さんが生意気になった。という事は、あなたの指導力が功を奏しているって事
  でもあるでしょう?」

  「そうならいい……」
 
   ……今日の松岡は変だった……普段は、余り部下の事は話さない。

  「仕事が一段落しているなら、今日はゆっくり飲んで。そういう時も必要よ」
   瑛子は松岡に熱燗を勧めた。

  「お前は川島をどう思う?」

   ……川島を思い出して胸が疼いた……

  「どう思う?……って。一回しか会っていないのよ。よく分からないけれど、あの位の年齢
  が一番良い時期かもしれない」

  「それが気に食わない」
 
  「そんな事で気に食わないなんて……言ったって仕方ないじゃない。でも、あなたと同じ年
  頃になった時にどうなっているか? そうじゃない?」

  「うん……」

  「今日は何か変よ。いつもは鍵を使ってドアを開けるのに。それにデジカメも。課長さんと
  どんな話をしたの?」

  「くたびれた親父同士の他愛無い世間話さ」

   やはり、いつもの夫ではない……瑛子は、松岡に「静かな怖さ」を感じた。

  「こんな事言って、でも誤解しないでね。やっぱりあなたには事件が必要なのよ。今は少し
  落ち着いているのでしょう? あなたの場合は、エアポケットが良い方向に左右しない……
  でしょう?」

  「もう一本つけてくれ!」

  「怒ったの?」

  「そうじゃない。お前の言う通りだ。事件がないと余計な事ばかり考える」

   テーブルの上の刺身もおでんも綺麗に片付けられていた。瑛子は、日本酒を熱燗器にセッ
  トした。松岡は、テレビのリモコンを手に取り、テレビのスィッチを入れた。テレビからは、
  今人気のお笑い芸人達の笑い声が聞こえていた。 

  「くだらない!」
   すぐにリモコンを操作してテレビを切った。

   松岡は何かに苛立っていた……自分が川島に追い越されそうだからか?……そうではない
  だろう……本当に、課長と飲んだのだろうか……?

  「もう、寝るぞ!」

   新しくつけたお銚子を半分も飲まないうちに、松岡はそう言って、ヨロヨロとした足取り
  で寝室に向かった。

  「大丈夫?」
   瑛子は松岡の後を追った。

  「刑事バカの刑事さんはゆっくり休みなさいね」
   求められそうな気配を感じたが、かなり酔っていそうな松岡に手を添えてベッドに寝かせ、
  その気を起こさせない程度に優しく声をかけた。

  「明日は6時半に起こしてくれ」
   そう言って、松岡は瑛子に背を向けた。

   リビングルームに戻った瑛子は、ダイニングテーブルに座って大きなため息をついた。
   何かが変わってきている……以前から、少しずつ自分の中で感じていた事が、今日は、ハ
  ッキリとした形になって現れてきた……大きなため息は、それが原因だった。



   *****


  「考えた事はないのか?」
   今日の午後、川島から言われた言葉を思い出していた。

  「何を考えるの?」という事は聞かなかった。

  「松岡と別れると考えた事はないのか?」
   川島はそう言いたかった……充分分かっている。

   今まで、川島から「好きだ」とか「愛している」と言われた事はなかったし、瑛子も言わ
  なかった。言わなくても、川島を見ていれば分かる。言葉に出すと「終わり」が来そうで怖
  かった。

   問いに瑛子は答えなかった。
  その事は考えた事はあるが、気持ちは閉じ込めていた。年齢の差……お互いの立場……真剣
  に考えられる範囲を超えていた。
   そして、今日……問われて「別れたいの」その気持ちが益々膨らんだが、それでも言えな
  かった。川島と一緒になる事と同じ位、それ以上に難しい事。

  「ごめんね」
   黙っている瑛子に川島はそう謝った。

   二人でいる時間を辛い時間にしたくなかったから、瑛子は何も答えなかった。
  でも、その代わりに、川島のわき腹を人差し指と中指で歩く仕草をしてなぞった……「二人
  で歩みたい」そういう気持ちを込めた。

  「くすぐったいよ」
   川島は瑛子の仕草に無邪気に笑った。

   川島の無邪気な笑顔が大好きだった……もし……松岡と別れて川島と一緒になったら……
  無邪気な笑顔が消えるかもしれない……怖かった。



  *****


   ……そして、さっきの夫の態度……

   瑛子は寝室の気配を確かめた……起きてくる気はない……松岡のカバンから、デジカメを
  取り出した。

  「証拠」……覚悟していたが、それでもショックは隠せなかった。

   デジカメの中には「幸せな川島と瑛子」がいっぱい存在していた。


  *****

  
    一週間後……

   朝一番で、事件の被害者の婚約者に会いに行くために車に乗り込み、行き先をナビに入力
  している所で松岡が川島に言った。
  「悪いが、自宅に寄ってくれないか」

  「えっ……」
   川島はナビ入力の手を止めた。

  「大事な物を忘れたんだ……」

   聞き込みに行く先は戸塚で、松岡のマンションは片倉町。方角が違うし、時間もかかる。

  「分かりました」
   川島は車を発進させた。


  「すぐに戻るから待っててくれ」
 
   マンションの前で車を停めた。三階のベランダで洗濯物を干している瑛子が、車から降り
  てくる松岡に気付いてベランダから消えて行った。川島は恐る恐るベランダを見上げた。松
  岡と瑛子の二人の生活を物語る物が干されてあった。一番見たくない光景……川島は下を向
  いた。


  「悪かったな」
   5分程して、松岡が手に茶色の封筒を持って戻って来た。

  「もう一つ頼みがある。その先の宅急便の配送所に寄ってくれ」

  「はあ……」

   川島は理解に苦しんだ。宅急便を出すのなら、わざわざ取りに寄らなくても瑛子に頼めば
  いいのに……配送所の事務所に消える松岡の後ろ姿を見ていた。


   *****

  「着払いの送り状をください」
   配送所の受付で松岡はそう言った。荷物の発送依頼はしなかった。

   送り状を受取った後、持って来た封筒からエアクッションに包まれている小さな物を取り
  出し、付いていた送り状を剥がしカウンターの脇のゴミ箱に捨て、封筒と小さな物をポケッ
  トにしまった。
  「署に戻ったら鑑識で指紋の検査をしてもらおう」時間を計算して配送所を出た。

 
   *****

   瑛子は不安な気持ちでいっぱいになっていた。
  朝、松岡が出かけた後、玄関の下駄箱の上で、宅急便の送り状が貼り付けられている茶色の
  封筒を見つけた。手に取って確認をすると、送り状の宛先が刑事課長の真山の自宅宛になっ
  ていた。封をしていないのが変に思ったが、中味を取り出すと、中にエアクッションに包ま
  れたSDカードが入っていた。

  「まさか!」
   確認せずにいられなくなった。丁寧にエアクッションに付いているセロテープを剥がし、
  SDカードを立ち上げたパソコンに挿入した。不安が的中した。SDカードは「証拠品」だ
  った。

  「課長にこれを送りつけてどうするのだろう……?」
   
   激しく動揺したが、慌ててSDカードを抜き取りパソコンの電源を切った。元の様にカー
  ドをエアクッションに包んで封筒にしまい、封筒を元の位置に戻した。
   洗面所で洗濯機が終了を告げていたが、何も手につかなくなった。しばらくダイニングテ
  ーブルに座りこんで考え事をしていた。

  「何か変……」
   しっくり来なかった……刑事の妻の勘……

  「カードを渡すのなら、こんなまだるっこい事をしなくても署で直接手渡せばいいのに……
  本当にSDカードを課長に送るのだろうか?」
   冷静になって推理を始めたが、その前に家事を片付けよう……主婦に戻った。

   ベランダで洗濯物を干している時、シルバーのセダンがマンションの前に停まり松岡が降
  りて来た。慌ててに玄関に走って封筒の位置を確認した。

  「さっきと同じ場所」
   安心してリビングに戻った瞬間、玄関のドアが開いた。

  「どうしたの?」
   リビングルームのドアを開けて言った。

  「……」
   何も答えない松岡は茶色の封筒を持っていた。

  「どうしたの?」

  「これだ。忘れ物だよ」
   そう言って、これ見よがしに封筒を瑛子に見せた。

  「気付かなくてごめんなさい」

  「……」
   それには答えず松岡は玄関から出て行った。

   瑛子がベランダに出ると、車に乗り込む際にベランダを見上げた松岡と目が合った。

   瑛子の背筋が凍った……松岡は口元に笑みを浮かべていた。
 
   セダンは静かに発進した。

  「気をつけて……」
   運転席には何も知らない川島がいる……その川島に向かって瑛子は呟いた。



   素手で封筒の中身を探った事を後悔した……罠に嵌められたかもしれない……刑事の妻の
  勘……

  「松岡はわざと封筒を忘れて行った……私が気付かない筈はないという事を知って。そして、
  やはりわざと封を開けておいた。私が中味を確認する事を承知で。課長には送らない……後
  で指紋を調べるだろう」
 
   妻の不貞を知りながら、何も言わず、しかし、真綿で首を絞めるような事をする松岡が怖
  くなった。

   瑛子は昔を思い出した……


   会社の社長との不倫を告白した瑛子を、松岡は待っていてくれた……あの時、瑛子は松岡
  を試した。
   社長との関係は終わりに近づいていた。松岡に好意を持ち始めていたが、踏ん切りがつか
  なかった。かなりしつこく迫っていたが、松岡の「静かな感情」が飛び込む事を躊躇わせて
  いた。だから、思い切って告白をした。
  「自分はあなただけを愛している」熱い気持ちを打ち明けてくれたが、激しく、嫉妬などの
  感情をぶつけてくれた方が迷う気持ちを解消させてくれる、と感じた。
  「待っています」という松岡の中に潜む「静かな感情」が怖い様な不安な気持ちになった。
   その後、社長との関係は完全に終わりになったが、瑛子は悩んでいた。
  親しい友人は「松岡さんは本当に瑛子の事を愛しているのよ。心が広い人だと思うわ。松岡
  さんと結婚すれば幸せになる。だから、迷う事なんてないじゃない」そう言った。

   何も知らない両親からも散々言われた。
  「いい加減にしないと、幸せが遠のいていくだけよ。松岡さんを逃がしたら次はない」
  
   時間が経過し、松岡と会わない日々を過ごしていく間に、徐々に瑛子から不安感が薄れて
  行き「愛されている」という安心感が広がり始め、そして、松岡と結婚をする決心をした。
   結婚生活は穏やかで平和で幸せだった。ただ、時々、松岡の「静かな感情」に影響されて
  自分も「静かな感情」を持ち始めている事に気が付いた時「これでいいのだろうか?」とい
  う思いが起きた事もあった。
   淡々と日々を過ごし、人生を終える……それが幸せなのかもしれないが、本当の自分は違
  うのに、いつしか松岡のペースに巻き込まれてしまった……その事を考えた時「なかなか踏
  ん切りがつかなかった自分の感情」を思い出し、選択は正しかったのか? そう思う事もあ
  った。

  「贅沢な悩みよ。子供がいないのは淋しいかもしれないけれど、瑛子を見てると松岡さんに
  愛されてる。って感じるわよ。だって、幸せそうだし綺麗だもの」
   やはり友人はそう言った。

  「愛されているから幸せ」なのか? 「愛しているから幸せ」なのか?

   答えを見つけられないでいる時に……川島と出会った。


   *****


  「宅急便です」
   松岡の実家から野菜が届いた。

   宅急便の送り状を見て、さっきの事が蘇って来た。
  「松岡は何をどうしたいのだろう?」 
  
  「知っているんだぞ」と分からせておいて、じっと悩み、苦しむ姿を見ていたいだけのか? 
  それとも昔の様に……いつか川島と別れる自分を待っていたいのか……?」


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