瑛子の様子が変だ……松岡は気付いていた。
「いつ頃からか……そうだった。一月の終わり頃からだ……だが、それより だいぶ前、川島を連れて来た頃を境に……瑛子の雰囲気が変わった。昔、出 会った頃の瑛子になった」
松岡家では、松岡が非番の日「一人でゆっくり休ませてあげよう」という 事で、特別な事がない限り、午後から2、3時間瑛子が外出するのが長い間 の習慣になっていた。一時期、瑛子はパートで仕事をしていたが、瑛子が選 んだ仕事は週末出勤の販売業の仕事だった。松岡は瑛子が家に居たところで 気にはならない。
「私がちょこまか動いていると落ち着かないでしょう?」 そう言っているが「瑛子の方が自分がいると落ち着かないのだろう」そう 思って、瑛子の好きな様にさせていた。
それが……「ただいま。ゆっくり出来た?」毎回同じ事を言うが、外出し て帰って来た瑛子が、その時に限って自分の目を見ない様になった……余り 良い気分ではなかった。
そして、横浜中央署でも同じ様な気分を味わっていた。
休み明けの朝「おはようございます」と刑事課の部屋に入ってくる川島が、 その時だけ自分の目を見なかった……やはり、良い気分ではなかった。
……だから気付いた……間違いないだろう……
……勘……伊達や酔狂で長い間刑事をやっているのではない……そうでは ない。夫の勘だ……
瑛子を尾行してみる事にした。そのためにデジカメを購入した。
*****
4月半ばの日曜日、花見の時期は終わったが、天気も良く穏やかないつも の日曜日だった。
「行ってきます!」 いつもと同じ様に出かけて行く瑛子を、松岡はソファーに寝転んだままで 見送った。
その日はいつもと同じ様な日曜日ではなかった。
玄関のドアが閉まったと同時に、松岡は起き上がり、頭の中で時間を計算 して外に出た。
北側の廊下から下を見ると、瑛子がマンションのエントランスを出て、横 浜市営地下鉄ブルーラインの片倉町駅方面に歩いて行く姿が見えた。
尾行はお手の物だ。絶対に気付かれる事はない。松岡は瑛子の後を追った。
地下鉄の階段を降りた所で、改札口を抜ける瑛子を確認した。
時刻表を確認した。あざみ野行きも湘南台行きも、到着までにまだ5分以 上の時間があった。自動販売機の切符を買う時に、一瞬迷ったが、一番高い 料金の切符を買った。
片倉町駅のホームは地下四階にある、エスカレーターを何回も乗り継いで いると、松岡は深い穴にはまり込んでしまう様な気分になった。
瑛子はあざみ野行き方面のホームの黄色いラインの前に立っていた。浮き 浮きした様子が行き先を物語っていた。
「切符代を払い過ぎたか……」
松岡の思った通り、瑛子は岸根公園駅で降りた。地上に出て、信号待ちを している時に誰かに携帯電話をかけた。 駅の階段を昇りきった所で身を隠して様子を見ていた。電話を切った瑛子 は交差点を渡った。
……向かう方向は、新横浜駅篠原口方面……川島達也のマンション……
「分かっているんだ焦ることはない」
交差点を渡り、角のコンビニで買い物を済ませ出て来た瑛子は幸せそうな 顔をしていた。
瑛子は周りを気にする事もなく、そのまま川島のマンションに向かった。 5,6分歩いた所で、歩いた側にある、小綺麗ないかにも若者が好みそうな ワンルームマンションに入った。 松岡はマンションを通り過ぎ、少し先の酒屋の自動販売機の陰に隠れた。 三階の廊下を歩く瑛子の姿を松岡はデジカメで撮った。一番奥の部屋の前に 立った時、瑛子はバッグから何かを取り出した。 「鏡か」……その動作が瑛子の気持ちを表していた……また、デジカメで撮 った。チャイムを鳴らすとすぐにドアが開いた。
松岡は夢中でデジカメのシャッターを切った。
二人の姿がドアの中に消えて、松岡は何かにとりつかれた様に川島のマン ションに向かった。気がつくと部屋の前に立っていた。 「川島」の名前が書かれた表札をデジカメで撮り、じっと中の気配を伺った。
コンビニで買った弁当を食べ、お喋りをして、テレビを見て、オセロゲー ムやトランプを楽しむためではないだろう。そこで繰り広げられる事を思い 浮かべたが、不思議な事に「嫉妬」の気持ちはなく……感じたのは「諦め」 の気持ちだった。何故、自分がそんな気持ちになったのか? 松岡には理解 出来なかった。
「嫉妬」……警察官になってから、仲間に対してそういう気持ちを抱いた事 もある。「嫉妬」は場合によっては、自分の励みや自分を高める武器になる が、松岡にとって「嫉妬」は自分自身を見失う、その事でしかなかった。実 際にそういう経験をした事もある。関わった事案で「手柄」や「出世」に気 を取られ、功を焦って真実を見失いそうになった。「自分は、世の中の善悪 と戦う刑事だ。企業に従事する人間とは異なった仕事をしている」松岡理論 でそう考えた時「嫉妬」という気持ちを自分の中で排除する事にした。 そして、正しいかどうか分からない「松岡理論」で、瑛子を得る事が出来 た。瑛子と結婚をして充実した家庭生活があったから、刑事としての自分に 磨きがかかった。
*****
瑛子と知り合ったのは20年以上も前だった。瑛子の実家に空き巣が入り、 松岡が捜査を担当した。 母親が台湾人の瑛子は、切れ長の目が涼しい美人だった。8歳年上の松岡 は特に取り立ててハンサムでもなく、40歳を目前に控えた極々普通の中肉 中背の男だったが、一人娘の瑛子に一目惚れをした。
「分不相応だ」 そう思ったが恋の炎が燃え上がった。事件が解決した後でも「巡回です」 とかこつけ瑛子の実家を訪れた。
「娘を射たければ親を射れ」 考えて、瑛子が不在でも足繁く通い、思惑通り両親に気に入られた。しか し、肝心の瑛子は興味を示さなかった。今は結婚適齢期があるようでないよ うになったが、当時、28歳という娘の年齢に危惧を抱いていた両親は「渡 りに船」と瑛子に松岡との結婚話を薦める様になった。 その事を知った松岡は押しの一手で瑛子に迫り、デートらしき事が出来る までにはなっていた。ところが、プロポーズをしよう! と決め、指輪を用 意していた日……瑛子から告白された。
「私には5年程前から付き合っている人がいます。相手は会社の社長で、世 間で言う不倫関係です」
告白を聞いた松岡はショックだったが「そんな事だったのだろう」そう思 った。嫉妬の感情はなかった。
「あなたは幸せですか?」 松岡は訊いた。
「幸せです」 瑛子は答えた。
「どうして幸せですか?」
「人を愛しているからです」
「自分は、あなただけを愛しています」
「……」 瑛子は答えられなかった。
「だから、あなたを幸せにする自信があります。今日はあなたにプロポーズ をするつもりで来ました。しかし、僕は待ちます。あなたが僕の気持ちを受 け入れる時が来るまで。そういう気持ちになったら連絡してください」
松岡はじっと待った。その間「彼女の相手はどういう人だろう?」「今頃、 彼女は……」そういう事は一切考えなかった。ただ、刑事としての仕事に励 んだ。
それから半年後、瑛子から連絡があった。 もし、自分が嫉妬に狂い、自分を見失っていたら、この日は来なかった…… 松岡はそう信じていた。
***** あれから20年以上経った今、最愛の妻が自分の部下と密会している部屋 の前に立っている。 「これは嫉妬なのか?」自問自答しながら……
松岡は張込み場所を探していた。 「良い張込み場所を探すのも刑事の大事な仕事の一つだ」
「あそこにしよう」 マンションの北西に小さな公園を見つけた。
川島の部屋の前から立ち去ろうとした時、何かが割れる音が聞こえ、松岡 は思わず立ち止まった。姿を見られていないか? 周りを見て、誰もいない 事を確認した松岡はドアに身体を寄せて耳を澄ませた。
「あー、やっちゃったよ」 川島の声が聞こえた。
「怪我はなかった?」 そんな事を言っている様な瑛子の声も聞こえた。
ドアから聞こえて来るのは、ごく普通の幸せそうなカップルの会話だった ……いつもの日曜日、瑛子がそういう会話を交わす相手は、この自分の筈じ ゃなかったのか?
「嫉妬」の感情が沸いている自分に気付いた。
しかし、松岡はそのまま公園に向かった。 ちょうど張込みに最適の場所も見つかった。大きな木があるから身を隠す事 も出来る。
出て来るまでに二時間はあるだろう。 公園のベンチに座って持って来た文庫本を開いた……持って来た本は外国人 作家のスパイ小説だった。本を選ぶ時、直木賞受賞作家の本を手に取ったが、 思い直して、集中しないと読めない本にした……湧き起こるかもしれない 「嫉妬」を抑える必要があった……
松岡は本を読み始めた。一頁を読み終えた時、余計な事を考えた。
「勝負だ」 自分を制して本を読んだ。読み進めて行くうちに本に没頭する事が出来る 様になっていた。
部屋のドアが開く気配を感じた松岡は腕時計を確認し、慌てて木陰に身を 隠した。
「読み通り、二時間」 刑事の勘は正しかった……夫の勘か……
一度開いたドアが閉まり、少ししてまたドアが開き瑛子が出て来た。デジ カメを構えた。川島が姿を現した時、シャッターを切った。
周りを気にする事無く堂々と二人はマンションを出て、新横浜駅方面に歩 いて行った。 川島の後を連いて行く瑛子の後姿が幸せそうだった。「愛しているから幸 せ」と言ったあの時の瑛子を思い出した。
「お前は俺を愛していないのか?」 その後姿に向かって松岡は声を出さずに問いかけた。
その日から毎回、松岡が休みの日に外出する瑛子を尾行する様になった。 瑛子が向かう場所はほとんどが川島のマンションだったが、そうではない事 もあった。そして、いつの間にか「瑛子を尾行する事が自分の休日の過ごし 方」松岡にとって当たり前の事になった。
いつもの様に、帰った後自分の目を見ない瑛子、翌日の朝、自分の目を見 ない川島。次第にその二人に、特別な感情を抱く様になって行った。 「嫉妬」なのか?……「嫉妬」を通り越した「憎しみ」なのか……? 自分でも分からなかった。それが……いつからか……二人が自分を排除しよ うとしている……被害妄想を抱く様にもなってきた。 そういう事件を何件も取り扱っていた。愛人と共謀して妻を、夫を殺害し た事件を……
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