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作品名:サイレントジェラシー 作者:nottnghill_ann

第10回   10
(1)

  「川島さんから銃の返還がないのですが」
   警務課の進藤が刑事課に現れた。

   今朝、京浜急行神奈川新町駅近くのファミリーレストランで、銃を持った男が暴れて
  いるという通報が入り、刑事第一課強行犯係の係員は拳銃所持の許可を得て、現場に急
  行した。
   男が持っていたのはモデルガンだったが、レストラン内に立てこもった。
  しかし、昼過ぎには観念した男が自ら投降して来て、無事に事件は解決していた。

  「おい! 川島は何処に行った」
   真山が残っている係員に声をかけた。

  「あいつ、調べたい事があるからそれを済ませて戻るって言っていましたよ」

  「何の件でだ?」

  「課長の許可も取ってあるって。そう言っていましたけど……」

  「そんなの許可していないぞ! お前ら、何やってるんだよ! 川島の行動には気をつ
  けろ! と言ったはずだろう」
   真山が舌打ちをしながら怒鳴った。

  「携帯に電話しろ!」

   言われる前に、吉田が電話をかけていた。

  「電源が切られてます」
  
  「川島のヤロー! 何やってんだ! 念のため、松ちゃんの自宅にもかけてみろ!」

  「松岡さんの家も出ません!」

  「探せ! マンションだ! 川島のマンションに行け! 松ちゃんの自宅にも行ってみ
  ろ!」
   真山が最後まで言い終わらないうちに、吉田と小笠原が部屋を飛び出していた。

   去年末、居酒屋で川島の本心を言葉で聞く事は出来なかった。しかし、あの笑顔と、
  立ち去る時に垣間見せた泣き顔で、真山は「川島の心」をハッキリと見る事が出来た。
  その川島が警察官としてあるまじき行動を執った。

  「魂を奪う……川島、俺が心配していたのは……こういう事だったんだよ。バカな事を
  するなよ……」
 


   *****


   その頃、川島は、みなとみらいのホテルの一室に瑛子と一緒にベッドの中にいた。

  「2301号室よ」
   ホテルにチェックインした瑛子から部屋番号の連絡があったのは、神奈川新町のファ
  ミリーレストラン立てこもりの犯人が確保された直後だった。

  「直ぐに行くから待っていて」
   川島は瑛子に答えた。しかし、直ぐには行けない状況だった。これから刑事として処
  理しなくてはならない事がたくさんある。でも、今日は瑛子との大事な日だった。一年
  前の今日、瑛子と初詣に行った。そして、思い出の日に、瑛子にプロポーズする日でも
  あった。そのために、ホテルのスィートルームを予約し、最上階のフレンチレストラン
  にディナーの予約も入れておいた。
   
   胸の内ポケットを触った。内ポケットには大事な物が入っていた。
  やるべき事を考えた……署でやる事。それは、自分じゃなくても、自分が居なくても処
  理出来る……自分しか出来ない事、自分が行かなくてはならない場所……それは瑛子が
  待っている場所……自分を本当に必要としている人……それは瑛子だった。

   迷わず瑛子が待っているホテルに向かった。


   *****

  「結婚しよう」

  「今、なんて言ったの?」
   川島の隣に横になって、ベッドに頬杖をつきながら瑛子は訊いた。

  「もう言えないよ。一度しか言えないんだ」

  「だって、好きって言われた事もないし、愛してるって言われた事もないのに?」

  「言って欲しかった?」

  「ううん……」

  「返事は?」

   人を嫌いになる薬があればいい……と思った事がある。川島に自分は相応しくない。
  今まで「若くなりたい」そう思った事はなかった……でも、今思う。「何が望み?」と
  訊ねられたら「若くなりたい。彼に相応しい人になりたい」そう答えるだろう。

  「……」
   瑛子は答える事が出来なかった。

  「何を気にしているか、って分かっているよ。だけど俺は決めたんだよ。瑛子と一緒に
  生きていくんだ。もう刑事も辞める。瑛子だけを守って生きていく……」

   瑛子は川島の胸に顔をうずめた。川島の胸に温かいものが流れ落ちた。

  「幸せ?」
   瑛子の涙に気付いた川島が訊いた。

  「幸せ……」

  「もう……いいんだよね?」

  「……」
   黙って頷く瑛子を川島はきつく抱きしめた。

  「だけどね、もう少し待ってくれる? 自分の中で考えている時期があるんだ」

   ……ぼんやりした自分じゃなくなっている、と本当に自信が持てた時……

  「大丈夫よ」
   瑛子は笑って、川島の鼻をつまんだ。

   ……署に戻らずに、ここに来て良かった……心の底から、その幸せを感じた。

  「猫を飼うんだよ」

  「猫?」

  「覚えてる? 一年前の今日、初詣に行く電車の中で猫を見た事。猫が『楽しんで来い
  よ』って言ったって、そう言っただろう? その時から、もし瑛子と一緒になれたら猫
  を飼いたいって、夢見ていたんだ……」

  「覚えているわ。猫が好きなの?」

  「うん、猫は媚びない。だから、子供の時から好きだった……」

  「猫と私とどっちが好き?」

  「決まってるだろう……」

  「猫でしょ」

  「バカ!」
  
   川島は瑛子とまた一つになった。

   ……「愛してる」……と言いたかったが、言葉に出来なかった……その言葉を無限に
  使っても……この思いは伝えきれない……


  「指輪を買いに行こう!」
   川島が瑛子の手を引いて、二人はベッドから離れた。

  「でも、その前にこれにサインして」

  「何?」

  「婚姻届だよ。瑛子の気が変わらないうちに」

  「せっかちなのね。気が変わるなんて事ないのに……」

  「いいから、サインして」
   すでに「川島達也」のサインがある婚姻届を瑛子に渡した。

  「証人は誰にするの?」
   サインを済ませた瑛子が訊いた。

  「一人は真山課長。課長は俺の事を家族、そう言ってくれた。もう一人は別れたおふく
  ろ。これを見たらおふくろはもうため息をつかなくなる」
   瑛子から受取った婚姻届を大事そうに白い封筒にしまった。

  「おふくろに郵送するんだ」

  「お母さんには直接渡せばいいのに」

  「まだ会えないんだよ。正式な夫婦になったら、二人で会いに行く。その頃には、俺は、
  ぼんやりした俺じゃなくなっている」

  「ぼんやり……って、お母さんは、あなたがぼんやりした子なんて思ってないわよ」

  「ぼんやりしてるんだよ」

   そうなんだよ……川島は瑛子に言わなくてはならない事があった。

  「指輪を買いに行く前に、署に寄って拳銃を返してくる」
   何気なさを装って言った……敢えて「何気なさを装う」自分を感じて、不安になった。

  「拳銃を持って来ちゃったの?」
   案の定、瑛子が不安そうな表情を見せた。

  「うん、署に戻らずにホテルに直行した」

  「だって、それって、職務上に違反している事じゃないの?」
   瑛子は嫌な予感がした。

  「そんな難しい事言うなよ。ちゃんと正当な理由は言ったよ。ウソついたけど」

  「ウソはダメよ」

  「だって、瑛子がどっかに行っちゃう様な気がして」
   不安な気持ちを瑛子に気付かれない様に、わざと子供っぽい事を言った。

  「ほらっ、子供みたいな事言ってる。これじゃあ、やっぱり、まだお母さんには会えな
  いわね」

  「だよね……」

  「私は何処にも行かない。あなたが来るまでずっと待ってたのに。おバカさんの川島達
  也ね」

  「多分……ずっと、瑛子の前ではおバカさんだと思うよ。それでもいい?」

  「覚悟してる……」


   ホテルを出て、横浜駅までの道……川島は瑛子の肩を抱いた。
  すれ違う人が自分達を批判的に見ている様に感じた瑛子は、自分の肩を抱く川島の手か
  ら逃れようとした。

  「気にする事はないよ」
   川島は瑛子の肩を抱いたまま真っ直ぐ前を見つめていた。

  (違うの……私が気にしているのは、その事じゃないの……)
   瑛子は川島の横顔を見つめた。
  (松岡の静かな嫉妬は消えていない……まだ残っている……)

  「どうしたの?」
   川島の優しい眼差しが、瑛子を更に不安にさせた。
  沢山の批判的な目が一つの大きな塊になって、自分と川島を睨みつけている様に感じて、
  瑛子は川島が肩を抱く腕を解き、川島の腕にしがみついた。

  「何処にも行かないでね」

  「何を心配してるの? バカだな。ずっと瑛子の傍にいるよ」
 
   横浜駅前の郵便局で母親宛の手紙を投函して、二人は駅に続く地下道を降りて行き、
  地下構内に入って行った。

  「どこかでお茶でもして待っていてくれる? 署に拳銃を返してすぐに戻って来るよ」

  「分かったわ」

  「タクシーで行く事にするよ。その方が早いしね」
 
   瑛子はタクシー乗り場に続く階段の下で川島を見送った。階段を昇りきる一歩手前で
  川島は振り返った。

  「行ってらっしゃい」
   そう言って、瑛子が笑顔で手を振っていた。



(2)
 
   階段を昇りきって、タクシー乗り場に向かっている時、背の高い猫背の男とすれ違っ
  た。何故か、注意信号が発せられたような気がして、川島は立ち止まり振り返ってその
  男を目で追った。
   タクシー乗り場には二組の客が並んでいた。川島はそのまま列の後ろに並んだ。  
  順番が回って来て、タクシーの自動ドアが開いた時、また……感じた。

  「乗らないんですか?」
   タクシーの運転手が助手席の方に身を乗り出して訊いたが、川島は答えず、背の高い
  猫背の男が歩いて行った方向をもう一度振り返った。

  「ちょっと、どうするんですか?」
   川島の後ろでタクシー待ちをしていたサラリーマン風の若い男が、イライラした様子
  で川島の背中を突いた。

   その瞬間、川島の中で激しく警報が鳴った。身につけている拳銃を触った……自分は、
  とんでもない間違いを犯した!……その事に気付いた。
  「刑事」として「責任ある人間」として間違った行動をとってしまった!……魂を奪う
  ……そういう事だったのだ!……

  「松岡さんを飛び越えなくてはいけない!」その思いで、咄嗟に背の高い猫背の男が歩
  いて行った方向に歩き出した。急いで走りたいが、足がもつれて上手く進まない……気
  持ちばかりが急いていた。昇ってきた階段を降りて、駅のコンコースを確認すると背の
  高い猫背の男がゆっくりとした様子で歩いているのが確認された。男の向かう先には小
  さな花屋があった。その花屋の店先で白いコート姿の客が花を選んでいた。

   刑事の勘……川島の注意信号が更に激しく鳴り出した……辺りを見回した。

  「キャアーッ!」
 
   一歩踏み出そうかと迷っていた時、女の激しい声が駅構内に響き渡った。
  声がした方向を向くと、サアーッとその部分が空白になった。
   空白の部分以外では、起きた事を知らない人間が「スタバでお茶しようか」などと、
  いつもの賑わう駅の様子そのものだった。

   その空気が一変したのは「警察だ!」と叫んだ川島の一声だった。

  「皆殺しだ!」
   男の怒号が聞こえた。

  「ワアーッ!」
   また、何処かで叫び声が聞こえた。

   花屋の前で、白いコートの胸元を真っ赤な血で染めた女が仰向けに倒れていた……花
  を選んでいた客だった……気付かなかった……

   一瞬、シーンと静かになったが「自分は安全圏内」と悟った群集が、一斉に逃げ惑っ
  た。
   駅の構内は大騒ぎになった。

  「空白」と感じた場所には、足を押さえて痛がっている男子高校生、腰を抜かして尻餅
  をついている年配の男、ナイフを持っている背の高い猫背の男、そして、白いコートの
  胸元を血で染め倒れている女……がいた。

  「警察だってよ。お早いご登場じゃん、オッサン立てよ」
   猫背の男が、尻餅をついている年配の男を無理矢理起こして、後ろから羽交い絞めに
  し、男の胸にナイフを当てた。

  「何やってるんだ!」
   川島は怒鳴った。

  「見れば分かるじゃん」
   猫背の男は薄気味悪い笑いを浮かべた。

  (瑛子……何処にいるんだ……)川島は猫背の男に拳銃を向けながら、目で周りを探し
  た。猫背の男の後ろで倒れている白いコートが、また真っ赤な血で染まり出した。
  「瑛子!」……やっと気付いた……薄いピンクのジュリアンが、鉢からこぼれていた。
  思わず駆け寄りそうになったが、川島は自分の立場を考えた……自分は……刑事だ!

  「ナイフを寄越せ! その人を放せ! 撃つぞ!」
   川島がまた怒鳴った。

  「面白いじゃん。撃ってみろよ。その前に、このオッサンの喉をかき切るぞ!」
   男も怒鳴った。

   長内の部屋に突入した時の事が蘇った。撃とうと思えば撃てたが、男を撃つ事に躊躇
  いが生じた。

  「どうしたんだよ? どうせ撃てねえんだろう。チッ!」

  「いいから寄越せ」
   川島が静かに言った。

  「それより、その拳銃をこっちに寄越しなよ」

  「助けてください……」

  「やだよー。オッサン教えてあげようか、俺さー、助けてくださいなんて言われると、
   余計に虐めたくなっちゃうのよ」
   猫背の男は、年配の男の顔にナイフを当てた。

  「お、お願いだから……助け……」

  「おやー? 今なんて言った?」
   猫背の男の目が異様に光った。

  「ワアーッ!」
   突然、年配の男性の顔を切った。

  「拳銃寄越せよ。そしたらこのオッサンをこれ以上傷つけない。助けてやるよ」

  「お願いします……」
   人質の男が、痛みを堪えながら恐怖の表情で言った。

  「もうお前は逃げられないんだ。もうこれ以上罪を重ねるな! 放せ!」

   銃を構えた川島と、猫背の男の睨み合いの時間が続いた。

  「うっせえーっ! 罪なんて関係ねーよ! 人間なんてみんないっぱい罪を抱えてるん
  だ。このオッサンだってそうだぜ。このオッサンさ、さっき階段の下から女子高生のス
  カートの中を覗いていたぜ。あんただってそうだろう? 偉そうに『刑事』なんて言っ
  てるけど、誰一人まっとうな人間なんていやしねーよ。だから、俺が裁いてやる!」
   沈黙を破って、猫背の男が喚いた。

  「お前の言う通りだ。みんないっぱい罪を背負って生きている。だけど、一生懸命生き
  て、そして、罪を一つずつ消していくんだよ。だから、落ち着けよ……」

  「あんたは本当に刑事か? 似非牧師じゃねえーの。そうゆう綺麗事ばかり言っている
  人間ってたくさん知ってるんだよ。そういう事を言う人間に限って、悪い事をしている
  って事もさ。俺はそういう人間にいっぱい傷つけられてきたんだ!」

  「だけど、その人とは関係ないだろう?」

  「うぜーよ!」

  「お……お願いします……助けて……助けてください……」

  「ホラッ! よっ! 刑事さん、オッサンが助けてくれ! ってすがってるぜ。拳銃を
  寄越せよ」
   そう言って猫背の男は、また人質の男の頬を切った。

  「刑事さん……お願いします……家族がいるんです」

  「笑わせるぜ! 家族だってよ。スカートの中を覗いているスケベ親父なんて、家族の
  方で願い下げだ。いらねえーってさ」
   猫背の男は、ナイフを喉元に当てた。

  「もし、私に万が一の事があったら……家族に伝えてください……幸せになれよ……と」
   ナイフを当てられながらも人質の男は、涙ながらに訴えた。

  「幸せになれよ」……松岡さん……

   川島の胸にその言葉が刺さった……

   猫背の男の狂気じみた目をじっと川島は見た。
  「撃たれる」と松岡に感じた時の恐怖感が襲ってきた。

   川島は観念して拳銃を男の方に放り投げた。

  「おーっ! これが警察の拳銃か……痺れる……」
   猫背の男は、人質を抱える手は緩めず、ナイフを捨てて川島の拳銃を手に取った。

  「もう、これで満足だろう。人質を放せよ」

  「アレッ? そんな約束したっけ?」

  「言っただろう。助けるって」

  「あー、そういえば言ったな」
   猫背の男はそう言いながら、銃口を川島に向けた。

  「だったら放せよ! お前は男だろう? 男は言った事は守るんだ!」

  「あんた、バカじゃねえーの。古いよ、そんな言葉。男が守るのは約束じゃない! 自
  分の事だけだよ」

  「ふざけるな!」
  突然、川島は猫背の男に向かって歩いた。

  「ふざけるな、は俺が言う言葉さ」
   猫背の男は薄ら笑いを浮かべていた。

  「面白いぜ! お前に興味が沸いた。オッサンにはもう用がねえー。あっちに行きな」
   そう言って猫背の男は、人質にしていた中年の男を離した。

  「ワアーッ!」

   自由になった中年の男は、叫び声を上げながら一目散で逃げ出したが、途中でよろめ
  いて倒れた。

  「キャアーッ!」
   遠巻きに観ていた群集がまた声をあげた。


   真山が、横浜駅東口駅構内で殺傷事件発生の報を聞いたのは、川島と瑛子の自宅の様
  子を見に行った吉田と小笠原が署に戻って来たばかりの時だった。
  「とんでもない事件が起きた」と思ったが、管轄外の事件……そう捉えていた。

   現場では管轄の横浜西署の捜査員と機動隊員が遠巻きに様子を伺っていた。

  「あれは横浜中央署の川島じゃないか!」
   捜査の陣頭指揮を執っていた横浜西署の安藤警部が叫んだ。

  「どうして川島がこんな所にいるんだ! 横浜中央署に連絡を入れろ!」
   安藤は怒鳴った。


  「撃つ瞬間には呼吸を止め、銃がぶれないようにする……」
   猫背の男は、ひとり言を言って、狙いを定めていた。

   川島はジリジリと猫背の男との距離を縮めて行った。

   緊張感が極限に達した時……「ワアーッ」と突然猫背の男が声をあげ、銃を撃った。
  弾は川島のわき腹をかすめた。焼け付くような痛みが走ったが川島は怯まなかった。
  腹から血を流したまま歩いた。

  「何だよ! お前は……来るなよ……!」
   怯んだのは猫背の男の方だった。

  「来るなよ!」
   猫背の男は、川島に銃口を向けたまま後ずさりした。

   川島はそのまま歩き出した。

  「どけ!」
   川島は猫背の男を睨みつけ、手で男を払う仕草をした。

  「うっせえー!」
   猫背の男は怒鳴ったが、銃を持つ手と足が震えていた。

   その時、また銃声が響いた。

   心臓のすぐ近くを撃ち抜かれた川島は、衝撃で仰け反ったが必死に体制を立て直した。

  「どけ!」
   川島のわき腹と胸元から真っ赤な血が溢れ出た。それでもまだ気力で、猫背の男を思
  いっきり突き飛ばした。川島に突き飛ばされた勢いで、猫背の男は尻餅をついた。手か
  ら拳銃が吹っ飛んだ。

   その瞬間、警察が動いた。

  「被疑者確保!」
   怒鳴り声が飛び交い、構内は騒然となった。

  「川島!」
   安藤が川島に駆け寄ろうとした時……「来るな!」川島が怒鳴った。

  「瑛子……」
   川島は瑛子の前にひざまづいた。大粒の涙が溢れた。

  「どうした?」
   瑛子の頭を抱きかかえて訊いたが、瑛子は答えなかった。
  いぶし銀のフープピアスの片方が外れて、白いコートの胸元に刺さっていた。川島はそ
  のピアスを瑛子の耳につけ様としたが、手が震えて上手くつけられなかった。途中で意
  識を失いそうになり、何度もピアスが手から離れた。

   ……一年前のちょうど今頃……鶴岡八幡宮に参拝した時の事が蘇った。

  「何をお願いしたの?」
   瑛子に訊かれて「秘密」と答えた。
   ……一緒に選んだフープピアスをつけた彼女とまたデートが出来ますように……そう
  お願いをした……

   コートの上に落ちたピアスを手に取った。ピアスが血で染まったが今度は瑛子にピア
  スをつける事が出来た。
   残っている最後の力を振り絞って、ズボンのポケットから手錠を取り出し、瑛子の腕
  と自分の腕に手錠をかけた。

  「守れなくて……ごめんな……」
   声を上げて泣きながら瑛子を抱きしめた。
  
   誰も動けなかった……ただ、じっと川島を見ていた。

  川島はもう苦しくなかった。瑛子と一緒になれた事が嬉しかった。

  「愛してるよ……」
   瑛子に、初めて自分の気持ちを言葉に出して伝えた。

   ……瑛子の顔が微笑んだ……

   川島は……瑛子が好きだった無邪気な笑顔を浮かべて……そのまま瑛子の上に重なっ
  た……



  「川島巡査長の死亡が確認されました」
   真山がその報告を聞いたのは、横浜駅東口に到着し車から降りた時だった。
  真山は、溢れかえっている群集を掻き分けて夢中で現場に向かって走った。現場に到着
  した時、川島と瑛子が並んで担架に乗せられていたが、二人の手は手錠で繋がれていた。

   捜査員が川島のポケットを探って手錠の鍵を取り出した。

  「待ってくれ!」
   真山は制した。

  「このままにしておいてくれないか。頼みます」
   真山は捜査員に頭を下げた。

   真山は一瞬目を瞑った。川島の顔を見るのが怖かった……「おい! いくらぼんやり
  しているからと言ってこんな所で寝ているな!」……そう怒鳴りたかった……でも、見
  なくてはいけない……勤めだ……覚悟をして目を開いた。

  「何だよ、こいつ……何、笑ってるんだよ!」
 
   それが……精一杯の……勤務中の……横浜中央署刑事第一課長としての真山秀作が言
  える言葉だった。


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