「おい、松っちゃんは何処に行った?」
神奈川県警横浜中央署真山秀作刑事課長が誰にともなく訊いた。
「トイレじゃないですか? あー、でも、それにしちゃ長いか……」 答えたのは、松っちゃんこと松岡健一警部補とコンピを組んでいる川島達也巡査長だった。 殺人事件が発生し、緊張感が漂いバタバタしている刑事課の部屋にはふさわしくないノンビ リとした声だった。
「奥さんが、着替えを届けに来てるらしいんだよね」
川島は松岡の携帯を鳴らしたが、自分のすぐそばで携帯の着信音が聞こえた。
「あっ、ここで鳴ってる。携帯を置いていってるから署内じゃないんですか……」
「松っちゃん何処に行ったんだよ」
「自分が代わりに行きましょうか?」
「頼むよ」 真山課長からそう言われて、川島は松岡の妻が待っているという玄関に向かった。
師走に入り歳末特別警戒が始まった事や、午前中に東神奈川で起きた理髪店夫婦殺害事件 があった事もあり、警察署の一階はごった返していた。 川島は階段を降りきらない途中で松岡の妻らしき人物を探したが、それらしき人は確認出 来なかった……と、言うより、松岡の妻を知らなかった…… 交通課の受付カウンターで確認しようと思ったが、交通課は忙し過ぎて相手にしてくれそ うにない。
その時、入り口の隅で、申し訳なさそうに立っている女性の姿が目に入った。
「あの人じゃないだろう……」 松岡には似つかわしくはない……松岡は50歳も半ばを過ぎている。だいぶ額も後退しか けた中肉中背の中年男だった。そのイメージに添った女性を捜していた。しかし、他に見当 たらない。
「あの……松岡さんの奥様ですか?」 川島は、松岡の妻らしくない女性に声をかけた。
「はい、松岡です」 声をかけられて女性が、顔を上げて答えた。
「……!」 川島は一瞬、息を呑んだ。
「署内かと思いますが連絡が取れないので、自分が代わりに伺いました。松岡さんにはお世話 になっています川島と申します」 「こちらこそ、いつもお世話になりありがとうございます。お忙しいのに、ご足労をおかけし 申し訳ございませんでした。松岡から頼まれました着替えを持って来ました。これを渡して頂 けますか」
松岡の妻が眩しかった。
「わかりました」 無愛想な言い方になったが、そういう態度を取らざるを得ない雰囲気を松岡の妻から感じた。 精一杯の無理したポーズだった……そうしないと……目の前の女性が、スッと自分の中に入り 込んで来てしまうような感覚を覚えた……
松岡は大学も出ていないいわゆるノンキャリアだ。テレビドラマや小説のモデルになりそう な捜査に時間を取られて、昇進試験も満足に受けていない刑事だ。本人はそれで良しと思って いるが「科学的な捜査」より「勘が頼り」の捜査方針に、川島は納得出来ない部分があった。 「勘」は大事だと思うが「これからはそういう時代じゃない」何処かで松岡のやり方に納得し ていない部分がある川島にとって、松岡のプライベートなどはどうでもよかった。 まもなく40歳を迎える川島は独身である。恋愛経験がなかった訳ではないが「結婚」に全 く興味がなかった。警察官になって18年、現在勤務している横浜中央署、その前の勤務地で ある横浜港湾署、いずれの署でも、家庭を顧みる事が出来ず「離婚」の憂き目に会い、子供に も会えずに淋しい思いをしている先輩刑事を見て来た。好きで選んだ「刑事」の職に就いてい る限り、余程の事がない限り「結婚はしない」と考えていた。 だから、同じ刑事課の課員の家族に興味を持った事が一度もなかったし、ましてやいつもコ ンビを組んでいる冴えない風貌の松岡の家族の事などは考えた事もない。 しかし……目の前にいる自分よりはるかに年上であろう「松岡の妻」はどうでもよくなかった。 何故、そんな気持ちになったのかは分からなかった。
「携帯を置いて出かけたみたいで連絡が取れなくて申し訳ありません」 川島はまた頭を下げた。
「こちらこそご迷惑をおかけしてしまったみたいで申し訳ありません。こっちに着替えが入って います。こっちは……あの……炊き込みご飯で握ったおにぎりです。松岡が帰ってくるとばかり 思っていましたので、たくさん炊いたのですが、私一人では食べきれないので、余計な事かと思 いましたが、お夜食にでも皆さんで召し上がってください……」 そう言って、川島に紙袋を二つ手渡した。
松岡の妻のほつれ髪が艶かしかった。
「ご馳走になります」 川島は紙袋を受け取りながら頭を下げた。
「よろしくお願いします」 松岡の妻は頭を下げて帰って行ったが、何故か川島はその場から動く事が出来ず、後姿を見つ めていた。
妻がエントランスの階段を降りきった時、外から松岡が戻って来た。 妻は立ち止まって、手振りを使って何か話をしていた。「不在だったので他の人に渡しました」 とでも伝えているのだろう。松岡が「悪かったな」とでも言っている風に、妻の肩を2、3度叩 いたのを見た時、川島に嫉妬の感情が沸いた。
「バカな事を……」
ひとり言を言って苦笑いをした瞬間「済まなかったな」階段を早上がりで駆け上ってきた松岡 が声をかけた。
「わざわざ届けに来てくれたんだから、ちゃんと居なくちゃダメじゃないですか。何処に行って いたんですか?」 心の動揺を隠すように言った。
「今夜は署に缶詰だ。だから気分転換に外にタバコを買いに行っていたんだ。それに、こんなに 早く来るとは思わなかったんだよ」
「夜食用にと、炊き込みご飯で握り飯も用意してくれてますよ」
「なんだ、余計な事をして。大して美味くもないのに……」 川島から手渡された紙袋の中身を確認しながらの言葉とは裏腹に「嬉しい」という気持ちが表 情に表れていた松岡を見た川島に、再び嫉妬の感情が沸いた。
「神奈川区広台太田町二丁目、カットサロンスパイクで、中年男性と中年女性の絞殺体を発見」 の臨場要請を告げる署内放送が流れたのが午後1時半。管轄である横浜中央署刑事課の捜査員と 鑑識は現場に急行した。 明らかに事件性を物語っている死体を確認し「帳場」が立てられた。 所轄の刑事はすぐに、現場の聞き込みに走った。神奈川県警本部捜査一課の応援を仰ぎ、横浜中 央署がそのまま特別捜査本部になった。まもなく、捜査会議が始まる。初動捜査を終えた、所轄 の刑事全員は顔を揃えていた。
「当分、帰れそうにないな。お前は準備してあるのか?」 松岡が川島に訊いた。
「自分は、一週間分の着替えをいつもロッカーに用意してあります」
「いい心がけだな」 松岡が川島の肩を叩いた。
……松岡さんの様に、届けに来てくれる相手はいません……その言葉を呑み込んだ。松岡が癪 だった。
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