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作品名:ふたり 作者:nottnghill_ann

第9回   9


    鶴見中央警察署の門をくぐったのは10月の初めだった。

    両親の事件を知ってから半年近く経っていた。
   その間、ずっと自問自答していた。
   ……行くべきか、行かざるべきか……でも、来てしまった。


    里佳子はさすがに緊張した。運転免許証の更新か、保管期限が過ぎたホテルの
   忘れ物を届けに行く時は何ともないのだが、個人的な殺人事件に関する用件で、
   警察署に入るのは怖かった。
 
    署内に入ると右側が交通課で左が地域課になっていたが、何処に行っていいか
   分からず、うろうろしていた時「何かご用ですか?」交通課のカウンター内にい
   る、眼鏡をかけた里佳子と同じ年ごろの婦人警官が声をかけた。

   「実は……時効になった殺人事件の事でお伺いしたい事があります」
    恐る恐るの様子の里佳子に、婦人警官は驚きの表情を見せた。

   「ちょっとお待ちください」
    そう言って、奥にいる上司らしきスポーツ刈りの年配の警察官に話を持って行
   った。
  
    ちらちらと、里佳子を見ながら話をしている二人の様子を見て、里佳子は益々
   不安な気分になった。
    婦人警官から話を聞き終えた年配の警察官が、デスクから里佳子の方に歩いて
   来て、「詳しいお話を伺わせていただけますか? ここでは何ですから、あちら
   の応接室に行きましょう」
    地域課の端にある部屋を指差し、カウンターから出て来て里佳子を導いた。先
   程の婦人警官が怪訝な顔をして里佳子を見ていた。

   「私は交通課の大森と申します。殺人事件ですと刑事課の管轄になりますが、取
   次ぐためにお話を伺わせて頂きます。事件の内容と事件との関係をお話ください」
 
   「西島里佳子と申します。突然お伺いしまして申し訳ございません。事件は昭和
   50年4月18日に起きた、横浜市鶴見区の教師一家殺害事件です。私は、その
   事件の被害者の家族で、唯一人の生き残りです。当時私は2歳前で事件の事は全
   く覚えておらず、両親亡き後は、父方の叔母に養女として育てられました。養父
   母から、両親は5月18日に交通事故で亡くなった、と聞いていましたが、この
   度、結婚をする事になりまして、その、結婚を機に両親の事を調べてみたところ、
   殺害され、しかも亡くなったのは4月18日という事が分かったのです。養父母
   はすでに亡くなっていますし、私の手元には、実の両親に関する物は写真が一枚
   しか残っていません。ネットなどで詳細を確認したのですが、事件のご担当の刑
   事さんがいらっしゃったら、直接お話を伺いたいと思った次第です」
    警察に来る前に、何度も反芻した事を伝えた。

   「そうですか……あの時のお嬢さんがこんなに大きくなられたのですか! 分か
   りました。刑事課に取次ぎますので、このまま少しお待ちください」
    大森はそう言って部屋を出て行った。

   「こんなに大きくなった」と大森は言っていたが、事件の事を覚えているのだろ
   うか? 
    大森が去ってしばらくして、先程の眼鏡の婦人警官がお茶を持って来てくれた
   が、さっきとは違って、里佳子に同情的な様子だった。

    刑事課の担当者が現れるまで随分と待たされた。
   里佳子は、バッグからプリントアウトした事件の概要を読み返しながら、警察が
   どういう話をしてくれるか?

   「大変お待たせしました」
    そう言って大森と一緒に現れたのは、刑事課の刑事と言うより、肉屋の店主の
   ような雰囲気の40代後半の体格の良い刑事だった。
 
   「西島さん、刑事一課の新井です。お話は新井にしてください」
    大森は新井を紹介して部屋を出て行った。

    新井は持っていた資料をテーブルの上に置き「こういう者です」と名刺を差し
   出した。名刺には「神奈川県警察 鶴見中央署 刑事一課 警部補 新井秀巳」
   と、あった。里佳子も慌ててバッグから名刺を取り出し、新井に渡した。
  
   「話は大森から聞きました。まず、時効を迎えてしまった事につきましては、改
   めてお詫びいたします」
    新井は里佳子に向って頭を下げた。
 
   「今日は、お忙しいのに突然に伺ってしまい申し訳ございません。最初に申し上
   げますが、警察でも一生懸命捜査して頂きましたので、その事につきましては、
   警察にどうのこうの、と申し上げるつもりはございません」」

   「そう言って頂けると有り難く思います。あの事件の事は覚えています。当時私
   は、藤沢署に勤務していましたが、小さな娘さんが無傷で無事保護された事を聞
   いて、署の仲間と奇跡だ、と喜んだ記憶があります。お待たせしてしまったのは、
   資料室で捜査資料を探していたためです。事件発生当時は県警本部の指揮の元、
   鶴見中央署に捜査本部を設置して捜査しておりましたが、年月が経つにつれ縮小
   を余技なくされてしまいまして、最終的には二名の捜査官が兼務で捜査にあたっ
   ていました。二名共退官してしまっており、一名は退官後病死しておりますが、
   一名の捜査官は元気でおります。上司とも話をしていたのですが、宜しければ、
   退官した担当捜査官を紹介いたしますので、直接その者とお話を頂いた方が良い
   と考えますが、いかがでしょうか? 私どもでも資料を見てのお話は出来ますが、
   細かい部分での話が聞けると思います。勿論捜査上の秘密としてお話出来ない事
   もありますが、西島さんもご納得出来るかと思います」

   「そうして頂けると有り難く思います」

    里佳子にとっては願ってもない事だった。
 
   「担当捜査官は井上という者ですが、どうしましょうか? こちらから井上に連
   絡を取り、西島さんに直接ご連絡を差し上げる、という事で宜しいですか?」
 
   「はい、結構です」
    新井に渡した名刺の裏に、携帯電話番号をメモした。

   「かしこまりました。早速井上に連絡を取ってみます」

   「今日はご親切に対応頂き、本当にありがとうございました」
    新井には丁寧に礼を言い、里佳子は鶴見中央署を後にした。

    警察で、こんなに事が上手く運ぶとは思ってもいなかった。往きと帰りとでは
   里佳子の気持ちは大きく変化していた。
 
   「井上という捜査官からどういう話が聞けるかは分からないが、自分で出来る範
   囲で精一杯調べてみよう。そうすれば、亡くなった両親も弟も納得してくれるだ
   ろう。西島の両親は、私の事を思って事実を隠していたが、もしかしたら実の両
   親と弟は、私に、真実を知ってもらいたかったのかもしれない……」






    里佳子が横浜市菊名の井上の自宅を訪れたのは、鶴見中央署を訪れてから10
   日後の事であった。
 
    季節的に一番良い時期を迎えた10月半ば過ぎの平日、去年までは、祐貴と休
   みが合う度にドライブに行ったり、そんな楽しく平和な時間を過ごしていたが、
   今年は全く違っていた。
    祐貴が横浜に帰って来ない休日、里佳子は、図書館や警察に行って両親の事を
   調べていた。
    そして、今日は……いよいよ殺人事件の当時の担当捜査官の元を訪れる。
 
     気を引き締めた。

    菊名駅から歩いて10分程の場所にある井上の自宅は、FAXで届いた地図の
   お陰で迷う事なく見つかった。分かりやすく詳細な地図を見て、井上の几帳面さ
   を感じ取った里佳子は、井上の話には期待を抱いていた。

    門を入った時、ちょうど玄関のドアが開き、70歳前後の老夫婦が出て来た。
   外出する妻を夫が見送っているのであろうか……
 
   「お父さん、後はお願いしますよ。お客様に粗相がないようにね」

   「分かった、分かった。お前も余計な事を心配しないで、ゆっくり楽しんで来な
   さい」
    そんな会話を交わしていたが、里佳子の姿を見つけて、二人は照れた様子を見
   せた。

   「西島さんですね?」
    小柄ながらもガッチリ体型で、白髪の穏やかそうな顔をした男性が声をかけた。
 
   「あらっ?」と井上を見た里佳子は、井上と以前に何処かで会ったような気がし
   た。

   「はい。西島里佳子です」
    里佳子は二人の微笑ましい様子に、笑顔を見せて応えた。

   「駅から迷わなかったですか?」
    細身の小柄で綺麗なショートカットの銀髪の女性が、優しい笑顔で里佳子に尋
   ねた。
 
   「頂いた地図のお陰で迷わずに到着出来ました」
 
   「それは良かったわ。お見えになったところで申し訳ないのですが、私はこれか
   ら外出いたします。後は主人とごゆっくりお話をしてくださいね。じゃあ、お父
   さん、行って来ますよ」
    井上の妻は、里佳子に頭を下げ、井上に「ちゃんとしなさいね」とでも言う様
   な表情をして出かけて行った。
 
   「さあさあ、どうぞお入りください」
    井上は里佳子を招き入れた。

   「はじめまして、井上浩三と申します」
    向かい合った二人は、改めて挨拶を交わした。

   「家内は月に一度の、気の合う仲間とのお楽しみ会なのですよ。日帰り温泉に入
   って、お喋りをし、夕食を食べて解散らしいのですが、どうせ、話す事と言った
   ら、旦那や嫁の愚痴か、孫の自慢話ぐらいなのでしょうが。この日ばかりは、文
   句も言われず、ゆっくりと好きな酒が飲めるので、私にとっても嬉しい一日です」
    里佳子にお茶とお菓子を出しながら、妻の話をする井上は嬉しそうだった。
 
   「そんな貴重な一日にお邪魔してしまい、申し訳ございません」
 
   「いやいや、西島さんとお会い出来る事は、貴重な一日に花を添える事になりそ
   うです。花を添えるなどと、こういう言い方は失礼かとは思いますが……あの事
   件の事は私の頭から離れた事がなく、ずっと気になっていまして、時効を迎えた
   とは言え、調べ直してみたい。と常々思ってもいました。改めてお詫び申し上げ
   ますが、事件解決に至らず申し訳ございませんでした」
    井上は里佳子に深々と頭をさげた。
 
   「最初にお断りしておきますが、私は時効の事をとやかく言うつもりはありませ
   ん。ご担当された捜査官の方達が一生懸命捜査してくださった、という事は承知
   しておりますので、その事に関してはご自分を責められないでください。亡くな
   った西島の両親も同じ気持ちだと思います。その事より、鶴見中央署でもそうで
   したが、突然、時効になった事件を穿り返すような私に、親切にして頂いて感謝
   していますし、井上さんの今のお話も有り難く思います」
 
  「こちらこそ、西島さんにそう言って頂いて有り難く思います。あの時、西島紀
   子さんにも同じような事を言って頂いて……あっ!」
    井上が突然声を上げた。
 
    その瞬間里佳子も何かを思い出したような顔をした。

   「私達お会いしていますよね!」

    あの当時、まだ里佳子は保土ヶ谷の借家に住んでいた。
   学校から帰ると、門の前で、玄関から養母の紀子に見送られて出て来た二人の男
   性と出会った。
    男性達は里佳子を見ると、里佳子にも深々と頭を下げ帰って行ったが、その二
   人は元気がなく、駅に向かう後姿が淋しそうだった。
 
   「今の人達は誰?」
    里佳子は紀子に訊いたが「セールスの人よ」そういう紀子の目に涙が光ってい
   たのを不思議に思った事があった。
 
   「あの時……そうだったのですね。井上さんは母に時効の事を伝えに見えたので
   すね。私は母から、セールスの方よ。と聞かされました」
 
   「そうです! あの時、セーラー服姿のあなたを見て綺麗なお嬢さんだと思いま
   したが、益々綺麗になられて……小さい時のあなたも可愛かったが……いや、す
   みません。事件当時のあなたを思い出してしまいました」
    井上の目は遠い昔を思い出していた。


   「早速ですが、あの事件当時の私の話をして頂けますか?」
 
   「いいのですか?」
    里佳子は黙ってうなづいた。

   「私が現場に駆けつけた時、あなたは事件を発見した隣の主婦に抱かれていまし
   た。何かに怯えたような悲しい顔をして、大きな目には涙がいっぱい溜まってい
   ました。余程怖い思いをしたのでしょうね。隣の主婦にしっかりしがみついて離
   れませんでした。とても、けなげな様子で可愛いかったのですよ。私達はあなた
   が無事だった事を本当に喜びました」
 
   「でも、私は何も覚えていなくて……」

   「人間は嫌な事を忘れる事が出来るようになっています。それに、あなたを育て
   てくださった西島さんがあなたをしっかり守って来たのでしょうね」
 
   「そうだったと思います。西島の両親はとても可愛がってくれましたから、ずっ
   と信じていました。事故で亡くなったと……実の両親のお墓は、父の生まれ故郷
   である大分の佐伯市にありますが、私は一度もお墓参りをした事がありません
   多分、墓碑に本当の命日が記されているからだと思います。それに、自宅には仏
   壇もありません。西島の母は、家にある三人の写真を大事にしていて、私はいつ
   もその写真に手を合わせていました。それでも、結局知ってしまった。自分でも
   戸惑っています。多分、結婚という事でナーバスになっていたのかもしれません。
   結婚が決まってから、時々夢を見るようになったのですから……」
  
    里佳子は、フラッシュバックの事は言わず、夢の話から疑問を持った事を井上
   に伝えた。

   「西島さんは何処までご存知ですか?」
  
   「犯人は誰か? という事以外は、大体の事は知っています」
  
    里佳子は事件概要をプリントアウトした用紙と、新聞記事をコピーしたものを
   井上に見せた。

   「このパソコンからの資料内の概要は凄い。こんな事がネットで確認出来るので
   すか?」
    老眼鏡をかけて読んでいた井上が、読み終わって驚きの声をあげた。
 
   「私も驚きました。疑問点とか容疑者の内容は警察以外知り得ない事ではないの
   ですか?」
 
   「この事件は当時センセーショナルに報道されましたから、マスコミ関係の人間
   が探り出せた可能性はあります。全て事実です」
  
    そう言って、井上は脇に置いてある段ボールから、たくさんの資料を取り出し
   てテーブルの上に置いた。

   「新聞とインターネットで事件の概要は分かっていますが、井上さんから、直接
   お話を伺わせて頂けますか?」
 
   「分かりました。長くなりますがお話しましょう」
  
    井上はゆっくりとした口調で、事件の事を話し始めた。
 

   「事件の概要は以上です……」
  
    里佳子は何も質問をせず、じっと、井上の話を聞いていた。
   話を終えた井上は、喉を潤すように、冷めたお茶を一息に飲み、また、話を始め
   た。

   「疑問点から警察は、物盗りより怨恨の線を疑っていました。当日、母上の早苗
   さんは東京のご実家に里帰りの予定だったのです。午後に自宅を出られたのです
   が、途中で遼平君の具合が悪くなり、途中で引き返してそのまま行きつけの病院
   に行きました。病院では突発性の発熱という診断をされましたが、母上はご実家
   には行かず、ご自宅に引き返されて被害にあってしまいました。その事から、犯
   人は母上、遼平君、それにあなたの三人が留守だという事を知っていた可能性も
   あります。そうすると、犯行時間が夕刻という、通常物盗りが避ける時間に犯行
   が行なわれた、という事の解釈がつくのです。それから、この中には書かれてい
   ませんが、キャビネットの引き出しから、ノートのような物が抜き取られていた
   可能性がありました。引き出し内のB5サイズ程の部分にだけ、埃がついていな
   かったのです。B5サイズの物が何か? その事に注目した結果、それは、学校
   で発行している年間ダイアリーだと判断するに至りました。乾さんにも当然配布
   されていました。自宅の遺留品の中に手帳はありましたが、年間ダイアリーは発
   見されませんでした。そのダイアリーに事件の手懸りが隠されている、と推察さ
   れましたが、結局見つからなかったのです」
 
   「怨恨? と言うと学校関係者という事ですか?」
 
   「まず一番にそれを疑いました。名前は申し上げられませんが、事実数名の学校
   関係者が容疑に挙がりましたが、アリバイがあったり、乾さんとのトラブルなど
   なく、全て決め手に欠いて除外されていった次第です」
 
    資料の中から学校名簿のコピーを取り出して井上は里佳子に見せた。
 
   「見せて頂いて宜しいですか?」
 
   「どうぞ構わないですよ」

    井上の許可をもらった里佳子は、名簿のコピーをパラパラと捲った。
   井上の手前、さりげなさを装ったが、里佳子はある名前を探していた。
   「省三」村上家には婿養子に入ったと聞いているから苗字は違うだろう。
    高等部に「乾暁生」の名前を確認した時は思わず目が釘付けになり、何とも言
   えない気持ちになった。何度か捲り直して確認したが、「省三」という名前は何
   処にも見当たらなかった。

    すると……「この感触?」名簿のコピーの厚さと手に持つ感触が何かを思い出
   した……どこかでこの名簿に触れた記憶がある……

   「ありがとうございました」
    名簿を触れたのは何処だろう? と考えながらも、黙って井上に名簿を返した。

   「学校関係者以外はどうだったのですか?」
    里佳子は井上に訊いた。
 
   「そうですね。乾さんは余りお付き合いの広い方ではなかったようで、親しい方
   やご親族とのトラブルなどは全くありませんでした」
 
   「差し支えがなかったらで結構ですが、容疑者の中に、手の甲に傷があったとい
   う人はいませんでしたか?」
 
   「手の甲の傷? 何か心当たりでもあるのですか?」
  
    里佳子は井上の目が鋭くなった気がした。
 
   「いいえ、特に心当たりがあるとかではないのですが……絞殺の場合、犯人に傷
   が付くという話をネットの記事で見たものですから」

    省三の手の甲の傷……里佳子はその事は話さなかった。

   「そういう事例はありますが、母上の爪などには抵抗した際に出来る犯人の遺留
   物、皮膚とか血痕は付いておらず綺麗でした。ただ、正直に申し上げますと、確
   かに、手の甲に傷のある人物はおりました。その傷は自宅の裏庭で、板から出て
   いた釘に手と足を引っ掛けた、という事で調べました。結果、釘からは血痕が発
   見されましたし、手と足の傷痕も釘と一致しました。そして、その人物と乾さん
   を結びつける特定な関連性やトラブルも無かった事から、除外されています」
 
   「学校関係者なのですか?」
    里佳子は何故か胸騒ぎがしてきた。

   「そうです。学校関係者です」
    井上はハッキリと答えた。

   「2000年に、東京の世田谷区で一家が殺害された事件が起きましたが、あの
   事件は、犯人が残した遺留品がたくさんありました。しかし、ご両親の事件では
   遺留品が全くない。時効まで、鶴見のご自宅はそのまま残されていましたので、
   私は何度も足を運びました。月日が経つのと並行して、手懸りも無くなってしま
   っていました。本当に無念です」
 
   「鶴見の家は、時効までそのままで残っていたのですか?」
 
   「そうです。時効後、西島さんから処分する、という報告を受けました」

   「その時は西島の父は亡くなっていましたから、母が一人で処分したのですね。
   でも、私は全く知りませんでした……母も辛かったと思います」

   「西島さんは、心の底からあなたを大切に思っていたのだと思います。その西島
   さんのお気持ちを考えると、何とか真犯人を捕まえたいという気持ちは今でも残
   っています」
 
   「井上さんは、真犯人は何処かでのうのうと生活していると思いますか?」

   「のうのうと言うのはどうでしょうかね。時効を迎えた今となっては、罪に問わ
   れる事はありませんが、人間は最後は辻褄が合う様に出来ている。と聞きます。
   逃げ得なんて有り得ないのです。だから、最後には何かある筈です。その事をし
   っかりと受けとめて、何がしの事をしてくれればいいと思っていますが」

   「最後には辻褄が合う……ですか……」
    井上の言葉は里佳子の胸を刺した。

   「そうです。最後ではなくても、決して良い人生を歩んでいるとは思えません。
   私はそう信じます」
 
    気がつくとだいぶ陽が傾き始めていた。 




   「すっかり長居してしまって。今日は本当にありがとうございました」
    里佳子はいとまを告げた。

   「西島さんのお役に立てたのでしょうか?」

   「私は乾の両親と弟の苦しみを全く知らずに、それこそのうのうと生活して来ま
   した。でも、事実を知って、そして、井上さんをはじめとして、一生懸命捜査を
   担当された方の事も知って良かったと思っています。これからの人生を本当に大
   事にしなくてはならない。その事の重みを感じました」
 
   「仰る通りです。あなただけが無事だったのには、何か大きな意味があるのです。
   だから、これからも一生懸命生きて幸せになってください。それを実のご両親や
   弟さん、そして西島さんご夫妻も望んでいると思います。ところでご結婚はいつ
   なのですか?」
    井上の表情が柔らかくなった。

   「まだ、具体的な日程は決まっていません。相手が今年の二月に山梨に転勤にな
   って、その土台作りがしっかりと出来たら、と言われているものですから」

   「ほうっ! それは随分と頼もしい方ですね」
 
   「頼もしい、と言うのか、負けず嫌いなんです。でも、結婚したら村上里佳子に
   なるのですよ。女優さんと同じ名前です」
    里佳子の顔から笑みがこぼれた。
   
   「いらっしゃいますね。綺麗な女優さんですよね。そうですか、村上里佳子さん
   ですか。お相手の方はどんなお仕事をされているのですか?」
 
   「ホテルのフロントマンです。私も西島の父がホテルマンで、彼の実家も、千葉
   県で鴨川シーサイドホテルを経営しているので、ホテルマン二世なんです」
 
   「鴨川シーサイドホテル……ですか? 鴨川シーサイドホテルの村上さんですか?」

   「ご存知ですか?」
 
    井上が何かを思い出したかのような表情をしたので、里佳子は尋ねた。
 
   「昔、家族を連れてそういう名前のホテルに遊びに行った事があったような気が
   したものですから。勘違いかな?」
  
    井上が取り繕ったような気がしたのが、里佳子は気になった。

   「もう一つ私達は共通点があるのです。私も養父母に育てられ、彼も……村上祐
   貴という名前なのですが、実のお父様は小さい時に亡くなられて、義父に育てら
   れました。お義父様は村上省三という方ですが、彼も可愛がって育てられたそう
   です」

   「それだけ共通点があるのでしたら、きっと上手く行きますよ」
    井上の顔から怪訝な表情が消え、里佳子の結婚を祝福する笑顔に変わっていた。
 
   「みんなの分も幸せになる自信はあります」
 
   「いやーっ、それはご馳走様ですな」
  
    二人は顔を見合わせ、声をあげて笑い合った。

   「本当に長居してしまいました。井上さんはこれからごゆっくり楽しむのですね」
    里佳子は腰を上げた。
 
   「鬼の居ぬ間にゆっくり楽しみます。西島さん、また何かあったらいつでも言っ
   てきてくださいね。一人で抱え込まないでください。お役に立てる事はないかも
   しれませんが、お話を伺う事は出来ます。それに、私は毎日が日曜日ですから、
   遠慮なさらずに」

   「はい、ありがとうございます」
  
    井上に見送られて里佳子は井上の自宅を後にした。
   


    玄関先で里佳子を見送り姿が見えなくなった後、井上の顔が刑事の顔になった。

   「鴨川の村上省三……それで、彼女は気がついたのか。手の甲の傷の話も、それ
   が原因だったのか。私の動揺を見逃さなかったのだろう。それで、わざと名前を
   出した……まさかあろう事に、そんな偶然が……」
 
    井上はリビングにとって帰し、里佳子には見せなかったが資料の中から「容疑
   者関連」と記したノートを取り出し「緒方正昭」のページを開いた。

   「村上省三、いや前の名前は緒方正昭だった」

    井上は、がっしりとした体格で、いかにも女性に好かれそうな、端正な顔をし
   た、時代劇俳優のような緒方の姿を目に浮かべた。
    緒方は星光学院の事務局に勤務していたが、手の甲に新しい傷があって、事件
   が起きた時間帯のアリバイもハッキリしなかった。
    当日、妻と息子が留守で家の鍵を忘れた緒方は、勝手口の足拭きマットの下に
   隠してあるスペアキーを取りに行った際に、釘で手の甲と足を引っ掛けたと供述
   していた。
    確かにその傷は釘と一致していたが、アリバイだけがなかった。仕事が終わっ
   てパチンコをして自宅に戻ったと言っていたが、パチンコ店でも緒方の証言の裏
   が取れず、最後まで有力容疑者として井上はマークしていた。
   「釘に引っ掛けた傷」に納得がいかなかった。釘が刺さった板を、いつまでも残
   しておく事も気に入らなかった。
    しかし、どんなに調べても乾との接点がなかった。

    それでも井上は密かに緒方の後を追っていた。
   緒方は病弱な妻と一人息子の三人家族で、事件から三年目に妻を亡くしていた。
    その後、男手一つで息子を育てたが、妻を亡くした一年後に故郷である千葉市
   に戻り、損害保険の営業の職に就き、そしてしばらくしてから、鴨川シーサイド
   ホテルの女将と再婚をして、名前を村上省三に変えた。
 
   「再婚と同時に過去を抹殺したいのか?」
    井上は名前を変えた事にも疑問を持っていた。
  
    休みを利用して家族と鴨川シーサイドホテルに泊まり、仲居にさりげなく緒方
   の事を探った。仲居は「名前を変えたのは、姓名判断からですよ」と簡単に教え
   てくれた。
    疑わしい部分はあったが証拠が全くなく、特定出来ないまま、結局時効を迎え
   てしまったが、井上はたった一つだけ後悔している事があった。
    それは、乾早苗の手をルミノール反応で調べなかった事であった。
   当時、捜査本部ではその事に関して意見が分かれた。井上は、緒方の手の甲の傷
   から、ルミノール検査の必要を主張したが、どう調べても早苗の爪は綺麗だった
   ため、敢えて、遺体を損傷させる恐れがあるルミノール検査の必要性を捜査本部
   は認めなかった。
    さっき、里佳子に指摘されて、その事の後悔の念が増してきた。

   「西島里佳子さんは夢を見るようになった、と言っていたがそれだけだったのだ
   ろうか? 緒方と会って、何があったのだろうか?」
    井上は里佳子に問うかどうか思い悩んだ。
 
     ……結局、里佳子に確認する事はしなかった。その事で井上は後悔する事にな
   るとは知らずに……



    井上と別れた里佳子は名簿を何処で見たかを思い出していた。
   確か、西島の両親の遺品の中に入っていた。
    そして「鴨川シーサイドホテルの村上さんですか」言った井上の言葉と表情か
   ら「やはり何かある」という事を感じとっていた。

   「早くマンションに帰って名簿を探してみよう」
    帰りを急いだ。





    マンションに戻った里佳子は、すぐに和室の写真が飾ってある棚下の扉から
   「西島家」と書かれた茶箱を取り出した。
    中には、西島の両親の葬儀関係の書類や写真、手紙などがいっぱい入っていた。

    茶箱の中に入っている年賀状の箱を開けた時、その名簿が出て来た。
   名簿がある事を確認した里佳子は、壁に掛かっているカレンダーで祐貴のシフト
   を確認した。今日の欄には何も書いていないので、10時から7時までの勤務だ
   ろう。でも、7時までまだ1時間もある。我慢が出来なかった里佳子は祐貴の携
   帯に電話をかけた。

   「はい、村上です」
    応えた祐貴の声は硬かった。
 
   「ごめんね、まだ仕事中なのね。また、後で電話します」
 
   「了解です。申し訳ありませんが、その件でしたら7時半頃にお願いします」
 
    最後まで硬い祐貴の声が可笑しかった。9月の連休に、地元出身の先輩フロン
   トマンといさかいを起こしたが、その後、話す機会を設けた事で徐々に関係は改
   善されている、と祐貴は言っていた。恐らく、そのフロントマンが傍にでもいた
   のだろう。もっと普通に話しても良さそうなのに、弱みを見せたくないというか、
   虚勢を張っているような、祐貴の負けず嫌いの性格が、さっきの受け答えにその
   まま現れていた。
  
    お風呂にも入り用意万端な里佳子だったが、時間が経つのが遅く感じられた。
 
   「祐貴に、この事を話したらどう言うだろう? 最後まで徹底的に調べなさい。
   そう言うだろうか? それとも、もう忘れて幸せになる事だけ考えよう。そう言
   うのだろうか?」
 
    7時半を少し過ぎた時間に里佳子は電話を入れた。

   「さっきは悪かったな」
    まだ声が硬かった。

   「羽田さんが傍にいたの?」

   「羽田さんだけじゃないよ。全員揃っていた」

   「ごめんね、だったら出なくても良かったのに」
    里佳子は笑いながら言った。

   「勤務中って知っているのに、電話を掛けて来るって、何かあったのかと思った
   んだよ」
  
    だからまだ声が硬いのか、里佳子は心配してくれた事が嬉しかった。
 
   「実はね、夕方から飲んでたの。それでね、急に電話したくなったの」
    まだ、お酒は飲んではいなかった。
 
   「何だよ、飲んでたのかよ! 本気で心配したんだからさ!」
    いつもの祐貴に戻った。

   「祐貴は飲んでいるの?」
 
   「まだ飲んでないよ。飲もうかなって思っていたら電話が掛かって来たんだから。
   ところで、今日は何をしてたの?」
    いつもの優しい祐貴が、電話の向こうにいた。
 
   「今日はね、横浜までウィンドショッピングに行ったの。可愛い子供服見つけた
   ら、何となく美香ちゃんと美咲ちゃんに会いたくなったの」
    我ながら上手い出だしだ、と里佳子は思った。
 
   「美香と美咲? うるさいあいつらの事なんて放っておいていいんだよ。だけど
   里佳子は満足したのか? 昼飯は何を食った?」
 
    畳み掛けるような言い方だったが、自分を思う祐貴の気持ちを考えると、後ろ
   めたい気持ちが沸いた。
 
   「ショッピングは満足よ。お昼は、地下街でパスタを食べたの。祐貴は何を食べた?」
    またウソをついた。
  
   「俺は社食のしょうが焼き定食。美味かったよ」

    他愛無い会話だったが、この他愛無さを大事にしたかった。
    ……だから、止めた方がいいのか……?
    里佳子は迷った。

   「鴨川に行く予定はあるの?」
    出て来た言葉は迷ってはいなかった。

   「どうして? 鴨川に行って美香や美咲に会いたいの?」

   「祐貴は会いたくないの? だって、二人とも可愛いじゃない?」

   「あれが可愛いか! おませで生意気な口ばかり利いてるくせに」
 
   「そうか! 祐貴は二人にやきもち焼いているんだ!」

   「バカ言うなよ! まあ、鴨川は年が明けてからだな」
 
   「なんかね、また、あの賑やかな家族の雰囲気に浸りたくなったの。お義母さん
   もお義父さんも優しいし……」

   「里佳子にそう言ってもらえるのは嬉しいけれどさ、俺は面倒くさい」
 
   「そうなの? 私には分からないけどな。でも、お義父さんって、村上の前は何
   ていう苗字だったの?」
 
    祐貴から「鴨川の事はもういいよ」という雰囲気を感じた里佳子は核心に入っ
   て行った。

   「親父の苗字? 確か、緒方だったよ。でも、どうして?」
 
   「さっきね、祐貴に電話をするまで飲みながら考えていたの。私は祐貴と結婚し
   たら、三度目の苗字変更だって。女でも苗字が変わる事にはいろいろな感慨があ
   るけれど、祐貴のお義父さんは男だったから、どうだったのかな? って考えて
   いたら、前の苗字に興味が沸いたの。じゃあ、緒方省三っていうの? 私も村上
   里佳子で女優さんと同じ名前になるけれど、お義父さんも俳優みたいな名前よね」

    祐貴に話をするか迷っていた割には、次から次へと出てくる自分の言葉に驚い
   ていた。

   「えーっ! 俳優みたいかなあ? だって、本名は違うんだよ。緒方正昭だよ。
   緒方は糸偏の緒に方向の方。正昭は正しい昭和の昭だよ。何かダサくない? お
   袋は兄貴の事も考えて、婿にならなくていいと言ったらしいよ。でもさ、お袋に
   一目惚れした親父が婿で良い、って言い張ったという話も聞いたよ」

   「お義父さんは、お義母さんの事がよっぽど好きだったのね」

   「俺は、そういう話を聞くのは嫌なんだけど……お袋は親父の好みのタイプだっ
   たらしいよ。小さくて勝気で、可愛くて……そういう女性が好みだったって。結
   婚式の席で聞いたよ」
 
   「お義父さんにやきもちやいてるの?」
    里佳子は可笑しかった。

   「そうじゃないよ! 何故か、あの時、複雑な気持ちだったんだよ。子連れで、
   しかも曰く付きのホテルを背負っているお袋と、再婚してくれた親父の気持ちは、
   有り難いって思っていたよ。でも、敢えて、結婚式の席上で、その事を他人に言
   わせる事に、何て言うかなあー、年の割りに軽い……って言うか……なんか、そ
   んな気がしたんだよね」
 
   「名前を変えても構わない、という位に、お義母さんの事を愛していたんじゃな
   いの?」
 
   「そうだと思うけれど、そんなに自分の気持ちを外に見せつけたいのかなあ? 
   って。そういう大事な気持ちは、自分の中に大事にしまっておけばいいのに……
   子供心に俺は思ったんだよね。ちょっと、わざとらしかったよ。母さんに惚れて
   ます、自分の理想の女性、自分の好みって、言って! 言って! みたいで……」
 
   「そうなんだ……でも、純愛じゃないの?」

   「だけどさ、姓名判断してるんだよ。愛しているのなら、姓名判断なんてする必
   要ないのにさ。無条件で村上でいいのに……それで、姓名判断で村上正昭は良く
   ない、って言われたから村上省三にしたんだよ。俺はそれを知っていたから、何
   だよ! って、ちょっと拍子抜けしちゃってさ」

    祐貴の話は里佳子が期待していた内容になってきた。

   「でも、緒方よりは村上の方が好きだな。祐貴だって緒方祐貴より、村上祐貴の
   方がいい、って思わない?」
 
   「名前に左右されるような俺じゃないよ……って言うと、里佳子に自信家って言
   われるよな。本音言えば村上祐貴の方が俺らしくていいよね?」
 
   「うんうん、本音言えば、祐貴に名前が無くても好き!」

   「じゃあ、愛してるって言えよ!」

    まだ飲んでないよ、と言っていた祐貴も電話をしながら飲んでいるのか、気分
   が良さそうだった。

   「強制されて言う事じゃないから言わない!」
    期待していた事を聞き、酔いが回ってきた里佳子もハイになっていた。

   「いいよ! 分かったよ!」

    突然の祐貴の声が冷たくなり、何かイライラしているような雰囲気が伝わった。

    ……離れ離れで二人とも同じように淋しい思いをしている。その淋しさのジレ
   ンマが時には、イライラの言葉になって表れる。祐貴は少しでも早く、私を迎え
   ようとして、私のために職場で戦って頑張っている。私は自分と家族のために戦
   っている。それは祐貴のためにはならないかもしれない……突然、辛い気持にな
   った。
  
   「ねえ、祐貴」

   「……」
    祐貴からの返事はなかった。

   「祐貴、怒ってるの?」

   「……」
    それでもまだ返事がなかった。
  
   「祐貴、聞いているの?」
 
   「聞いてるし、怒ってるよ。自分の気持ちに対してだけどね」
    やっと祐貴が答えた。
 
   「どうしたの? 何を怒ってるの?」
    姉が弟に話しかけているようだった。

   「うん、自分自身の訳の分からないイライラ感に対して……」

   「いいのよ、いっぱい怒って。だって、それって私を愛している、って事でしょう?」

   「うん、愛しているよ。今までこんな気持ちになった事がない位に愛しているよ」
 
   「私も同じ……祐貴に会いたいの……」
    里佳子は切なかった。

   「もう少し我慢出来る?」
    祐貴の声のトーンが少し落ちた。
 
   「我慢?」
    里佳子は分かっていた。
 
   「結婚式の事。俺の都合で具体的な事も決まらなくて、里佳子には申し訳ないっ
   て思っているんだよ」
 
   「ううん、私は祐貴の都合で、でいいの。信じて待っているのもいいものよ」

    ……信じているのなら、どうして話が出来ないのだろう……?

   「……」
    また、祐貴からの返事がなかった。

   「仕事への思い」と「里佳子への思い」その狭間で揺れている祐貴の辛さが伝わ
   った。
 
   「来週は単休だけど横浜に帰るつもりでいるよ」
 
   「待ってるから……」

   「もう、電話を切るけれど大丈夫?」
 
   「私は大丈夫よ。おやすみなさい……」

   「おやすみ」


 
    祐貴は「里佳子と話をしていて、どうして急に苛立ったのか?」
   自分の中に漠然と芽生えた不安感と戦っていた。
 
    何気ない里佳子との会話の中で、義父の話しになった時、初めて里佳子を見た
   義父が、一瞬驚いた様な顔をした事を思い出していた。
    そして、鴨川での里佳子の様子も変だった……あれは何だったのだろう……?

    その事を疑問に感じながらも里佳子と会話を続けたが「強制されて言う事じゃ
   ないから」と里佳子は「愛している」とは言わなかった、その事で自分は妙に苛
   立った。あれは「里佳子の言葉遊び」だと分かっていたが、里佳子が自分に秘密
   を持っているようで、それが義父と関係があるようで不安だった。


   「お前はお前らしくいろよな」
    親友の今野真人の言葉を思い出した。
 
   「さっきの俺は俺らしくなかった……」
    祐貴はバーボンを一気に煽った。
 
   「仕事でストレスが溜まっているからか、結婚の事が頓挫していて里佳子に淋し
   い思いをさせているからか……そうなのだろう。俺自身の気持ちの問題だ」
   祐貴はそう考えた。



    里佳子は、途中から元気がなくなった祐貴が気になった。
   何か感じたのだろうか?

    祐貴の電話を切った後、しばらくの間は動けなかったが、急に何かに取り憑か
   れた様に立ち上がった……このために、祐貴に電話をしたのだ……
    用意しておいた「星光学院教職員名簿」を手に取った。それでも、開く時はさ
   すがに躊躇した。

   少し前に交わした祐貴との甘い会話を思い出した。
 
   「ごめんね」
    声に出して祐貴に謝った。

   「許してね」
    また声に出して、そして名簿を開いた。

    探す名前は祐貴から聞いた「緒方正昭」。
   高等部と中等部の教員の中にはその名前はなかった。前頁の事務局を開いた。

   「あった!」
    里佳子はその名前を食い入る様に見つめた。

   「教職員名簿が残っているという事は、両親亡き後、養父母が、学校関係の人と
   年賀状等のやり取りをするために残しておいたのだろうが、省三と両親とは付き
   合いがなかったのか」
  
    緒方正昭名でも、村上省三名でも、年賀状はなかった。
 
    思案した里佳子は、プリンターから取り出したコピー用紙に「星光学院、乾暁
   生、乾早苗、村上省三」と記した。その名前を見て「村上省三」を線で消し「緒
   方正昭」と書き直した。
    空白に「フラッシュバック(1)緒方正昭が西日を浴びて立っていた(2)手
   の甲の傷を見た事(3)泣きじゃくる小さな子供(4)腕を強く掴まれる」と書
   いた。

    そして、フラッシュバックが起きた瞬間の状況を思い出した。

    次に「夢」と書いた。
   「(1)痛いと訴えている(2)階段の途中に居て、上まで行けないからお互い
   の姿が見えない(3)緒方正昭が邪魔をする」

   「緒方正昭が何か関係している」
   それは歴然としているように思えた。
 
    でも、もうこれ以上祐貴を巻き込むような事はしたくなかったし、誤魔化して
   祐貴に何かを尋ねる事は出来なかった。
 
   「次に私は何をしたらいいのだろう? この疑問を誰に問えばいいのだろう? 
   井上さん?……それとも……」
  
  里佳子は自分が考えている事が恐ろしくなった。
   



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