9月の三連休の最後の日、忙しかった仕事が終わりマンションに戻った里佳子 は、部屋に灯りが点いているのを見て驚いた。
「祐貴が来ている!」
急いで部屋に戻ってドアを開け「祐貴!」と呼びかけ走ってリビングに向った が、煙草とアルコールの匂いが充満したリビングのダイニングテーブルに、うつ 伏している祐貴を見て、驚いた。 テーブルの上には、テイクアウトした惣菜が散らかり、グラスが転がっていて、 紙容器に入った一升入りの日本酒は半分程が減っていた。
「祐貴、どうしたの?」 里佳子はそっと祐貴を揺り起こした。
「うん?」 薄目を開けて祐貴は里佳子を見たが「お帰り」と言って、そのままテーブルに うつ伏した。
「こんな所で寝てちゃだめよ。ソファーに行こう」 里佳子は祐貴の肩を抱いて起こした。
半分だけ目を開けた祐貴はヨロヨロと立ち上がったが、いきなり里佳子に抱き ついてきて、その勢いで二人はそのままソファーに倒れこんだ。
突然、祐貴が激しく求めてきた。
「待って!」 一瞬里佳子は拒んだが「いいじゃないか! やらせろよ!」そう言って里佳子 を押さえつけた。
「どうしたの?」
いつもと違う祐貴の様子に、里佳子が逃れようとした時「里佳子まで俺を拒む のかよ! バカヤロー!」 そう言って里佳子の上から転がり落ち、アクセントラグの上に大の字に寝転が った。
「ふざけるなよ!」
祐貴の目から涙が一筋こぼれるのを見た里佳子は、冷たい水を用意して飲ませ た。
「何があったの?」 祐貴の顔を覗き込んだ。
「ふざけるな!」 里佳子の問いには答えない祐貴の目からまた涙が溢れた。
里佳子はそっと祐貴の隣に横になり「少し眠った方がいいよ。落ち着いたら話 をしてね」そう言って頭を優しく抱いた。 少しして、祐貴が鼾を掻き始めたのを確認して、里佳子は起き上がり、祐貴の 頭にクッションを添えタオルケットをかけて、部屋の中を片付け、ソファーに座 ってじっと祐貴を見守っていた。
「土曜日からの三連休の間に、ホテルで何かあったのだろう。気が強い祐貴が涙 を流すなんて、余程悔しい事があったのかもしれない……」 こんなに泥酔して、取り乱した祐貴を見るのは初めてだった。 二時間程して祐貴は目を覚ました。 目を開けた時、心配そうな顔をしている里佳子を見て「あれっ?帰って来たの?」 と周りをキョロキョロと見回しながら祐貴は言った。
「具合どう?」 里佳子はキョトンとしている祐貴の顔を覗き込んだ。
「うん、頭が痛いし、まだ酔ってる」 頭を振りながら答えた。
「大変だったの。レイプされそうになったし……」 冷たい水を祐貴に手渡しながら笑って言った。
「ウソだろう?」 何も記憶にないようなフリを装って言ったが、目が「ヤバイ!」と、とぼけて いる事を語っていた。
「お風呂に入ったら? サッパリしたら話をして」 里佳子は祐貴を抱き起こして手を引き、風呂場に連れて行った。
「話せる?」 風呂から上がって来て、少しスッキリした様子の祐貴に里佳子は尋ねた。
「俺みたいなガキは横浜に帰れ! だとさ……」 自嘲気味な笑いを見せて祐貴は話を始めた。
9月18日の土曜日から今日までの三連休、山中湖プラザ・リゾート&スパの フロントは悲惨な状態になった。
支配人とナイト専門を含めて11人のスタッフがフロントに所属しているが、 支配人と女性社員が、結婚式のため休暇届けを出していた。地元での結婚式であ れば一日だけの休みで済んだが、二人とも遠方での結婚式で二日間の休みを取ら ざるを得なかった。二人は恐縮していたが、支配人は姪、女性社員は兄弟の結婚 式であった事もあり、その休暇は致し方なかったし、元々支配人はシフトに入っ ていなかったため、その時点では欠員一名で、ローテーションに大きな影響はな かった。 ところが、間際になって、若手の男性社員が、風邪をこじらせ肺炎を引き起こ し入院するという事態が発生した。 シフト変更を余儀なくされたアシスタントマネージャーは悩んだ。 更に悪い事が重なり、ナイト専門スタッフの、以前から具合が良くなかった母親 が、危篤になり、ナイトスタッフは故郷の福島に帰省する事になってしまった。 残りの七人で、三連休という繁忙期間、早番、昼番、遅番、ナイト勤務をこなさ なくてはならなくなったがこれでギリギリで、もうこれ以上の欠員が出ない事を 祐貴は願っていた。 しかし、連休に突入する前日の金曜日、残った七人の一人である、地元生え抜 きのベテランスタッフの羽田政治から「近所に不幸が出て、自治会の組長をして いる自分は土曜日、日曜日と休みを取らなくてはならない」そう聞かされた祐貴 は頭を抱えた。 ローテーションは回せるが、チェックイン、チェックアウト時の人員配置が薄 くなり、客に迷惑をかける事になりかねないし、ミスが発生する可能性もある。
「事情は分かりますが、緊急事態を考えて近所付き合いのために、二日間の休み 届けは受理する事は出来ません」 祐貴がそう言った時「どうも、田舎での近所付き合いが分かってないようです ね。自治会の組長が、近所の葬式を放り出して仕事に行く、なんて身勝手な事は 出来ないのですよ」
日頃から祐貴に対して良い感情を持っていなかった羽田は、目を吊り上げて祐 貴に言った。
「何度も言いますが、事情は分かります。ですが、本当に緊急事態です。会社だ って、お互いに助け合っているのですから、ご近所の方に事情を説明して、ご近 所同士で助け合う事は出来ませんか?」
正直、祐貴は、仕事より近所付き合いに重点を置く、という事情は理解出来な かった。
「近所の葬式の手伝いをする事が近所同士で助け合う。という事なんですよ。み んなそうやって生活しているのです。組長がそんな事をしたら村八分になって、 この場所で生活なんて出来やしません!」 羽田は頑として祐貴の頼みを跳ねつけた。 羽田言っている事を無視して、祐貴は二日間の間の数時間でも良いから、出勤 は出来ないか? と何度も頼んだ。
「私は、マネージャーみたいに、出世の途中経過で、この地で生活しているので はありませんよ。ずっとこれからも、ここで生活して行かなくてはならないので すよ」
羽田の言葉には、フロントオフィスにいたフロントスタッフ全員が驚き、仕事 の手を止めた。
「そういう考えや言い方は止めましょう」 祐貴は沸きあがる怒りを堪えて、冷静に言った。
「いやいや、マネージャーにもそういう地元の人間の気持ちを理解して頂かない と、我々は連いて行きませんよ」 羽田は、自分より10歳若いマネージャーに憎憎しげな表情を向けた。
「確かに仰る通りで、僕も、皆さんのお気持ちを考えられるように努力をして行 きます。でも、今はその事ではなく、明日からのシフトをどうするかと言うのが 先決です。ベテランの羽田さんが抜けたらどうなるか? 羽田さんだったら理解 出来ますよね。お客様に迷惑をかける可能性もあります。私はその事が一番心配 なのです。何とか都合をつけて、僅かの時間でも結構ですから、出勤をして頂け ませんか? 羽田さんはカウンターに入って頂いて接客だけしてくれれば、それ で結構です。それ以外の事は、全て私が責任を持ちます。だから、考えてくださ い」
「それは命令ですか?」
堪忍袋の緒が切れそうになったが、また祐貴はグッと堪え「命令です!」とハ ッキリ答えた。
「聞けない命令もあるという事も勉強してください。ですので、申し訳ありませ んが、今のマネージャーの命令を聞く事は出来ません」
羽田の物言いは丁寧だったが、マネージャー憎しの感情が手に取るように表れ ていた。 二人のやり取りでフロントオフィスの雰囲気が気まずくなっていた。
「そうですか。分かりました。この事は僕の胸に留め置きます。宮下さん、悪い けれど、羽田さんを外してシフトをもう一度練り直してください」 祐貴は、目の前のデスクで困惑顔の宮下に向って言った。
「私も月曜日からは休み返上で勤務しますよ! だから、土曜、日曜とマネージ ャーだって、偉そうにデスクにへばりついてばかりいないで、カウンターに出て 働いてくださいよ!」 羽田は捨て台詞を吐いてカウンターに入って行った。 益々、オフィスの雰囲気が悪くなったのを感じた祐貴は「宮下さんどう? 一 緒に考えましょうよ」 その場の雰囲気を変えたくて明るい口調で言ったが、爆発する一歩手前まで来 ていた。 支配人の進藤は帰社してしまっていて、今頃は九州に向っているだろう。 この場に支配人がいたら、支配人はどう対応していたのだろうか? それより、 支配人がいたら、羽田はこんな事は言わなかったかもしれない。宮下も、羽田も 自分より年上だし、二人とも地元出身者だった。特に羽田にとっては、横浜から 来た若造の自分がマネージャーだ、という事が気に食わないだろう。 「悔しかったら、尚更、俺を負かす位の気力で仕事をしろよ! 近所の葬式の手 伝いをしながら会社に来て皆を助け、俺に、参った! と言わせろよ! そんな 事もせずに、出世の途中過程だと? 聞けない命令もあるだと? くだらない事 考える暇があったら仕事をしろ!」
心の中で悪態をついたが、祐貴は部下にマネージャーとして認めてもらえない 自分が悔しかった。 結局、宮下と考えた末に出来上がった究極のローテーションで、六人は二日間 死にもの狂いで業務をこなした。 祐貴が、総支配人、予約や経理、レストラン関係に事情を話し、フロントへの 協力体制と、合理的に且つスムーズにフロント業務が遂行出来るようなシステム を考えた事もあり、細かな問題はあったが、大きなトラブルに結びつく事なく、 二日間を無事終わらせる事が出来た。 日曜日はナイト勤務にも関わらず、月曜日の勤務時間終了まで、約24時間勤 務をこなした祐貴は、身体は疲れていたが気が張り詰めていたため、神経は疲れ ていなかった。 月曜日、支配人に二日間の業務報告を終え、帰社しようとしていたところに羽 田が出勤して来た。
「おはようございます」
いつものように笑顔で羽田に挨拶をし「私は明日から連休を頂きます。今から 横浜に帰りますが、何かあったらいつでも携帯に連絡してください」と告げた。
「了解しました。お疲れ様でした」 羽田はそう答えたが、二日間の休みをもらって迷惑をかけた事については何も 言わなかった。
「ガキは横浜に帰れ! って言うんだ」
誰に言っているのは分からなかったが、オフィスを出た祐貴に、羽田のその言 葉がハッキリと聞こえてきた。
「そんな事があったの。ホテルで何かあったのかな? って思っていたけど、地 元の先輩の洗礼を受けたって事ね」 里佳子はニヤニヤしていた。
「今まで溜まってたものがどっと噴出して来ちゃったんだよ。だけど、俺は間違 ってる?」 自信がなさそうな顔をして祐貴が尋ねた。
「たまにはこうして吐き出さないと……ね。それに、祐貴は間違っていないと思 うよ。だけど、羽田さんという人も、本当は、地元付き合いと仕事の狭間で悩ん でいたんじゃないの? その気持ちを祐貴は分かってあげていなかったのかな? って。だから、羽田さんから嫌味な言葉が出て来ちゃった。そう感じたの。だっ て、ずっと地元で生活していかなくちゃならない、そう言っているんでしょ? 多分、そのイライラを祐貴にぶつけただけなのよ。本気でそう思っていたら、ガ キは横浜に帰れ! なんて言えないもの。マネージャー勉強しなさいよ、って。 憎まれ口をたたいのは、相手が祐貴だからよ。穏やかに言うよりキツイ言い方の 方が、祐貴は『負けるものか』って頑張ると思っているのよ。その人は」
「そうかなあ……」 里佳子の話をじっと聞いていた祐貴は、半分は納得出来たが、もう半分は納得 出来なかった。
「だけど、俺が気に食わないのなら、仕事で俺を負かせよ! って思うよ」
「そうね、祐貴の事を分かってくれていても、この野郎! っていう気持ちはあ ると思う。でも、ちょっと引いて考えてみたら? 祐貴が言う様な『戦う気がな い人』だっていると思うの。もしかしたら、出世とか考えていないのかもしれな い。こういう言い方をしたら羽田さんに失礼かもしれないけれど、仕事も近所付 き合いもそれなりに無難にこなしたい……祐貴の様に『仕事が最優先』って考え ていないのかもしれない。人間の物差しはそれぞれ違うのよ。祐貴は、その事を もっとしっかり見つめないといけないと思うの。それに、どう考えても祐貴の方 が立場が上なのよ。だったら、目線を落として考えてみたら……どう?」
「……」 祐貴は黙って里佳子を見ていた。
「そうやって、会社の人といっぱいぶつかって、それでお互いが理解し合える事 があるでしょう? 間違った事を言っていないと思ったら、悪者になったってい いじゃない。そもそも悪者になりたかったのでしょう? その羽田さんっていう 人、今日は休日分を挽回するぐらいに、一生懸命仕事をしたと思うのよ。会社に 行ったら誰かにコッソリ聞いてみたら?」
「うん……確かに羽田さんはそういう所がある」 だいぶ納得出来るようになった。
「でも、山中湖プラザのフロントマンって、みんな仕事が出来るのね。たった6 人で、300室余りの満室状態のフロント業務を二日間もこなして、客からの大 きなクレームもなかった……なんて、祐貴が上手く皆をまとめている、って事じ ゃないの? 祐貴は羽田さんに会ったら、自分がいない間に頑張ってくれた労を 労って『お休み頂いてありがとうございました』ってお礼を言って折れればいい のよ。部下を信頼し、感謝の気持ちを持って、権力が有る者が先に折れれば、部 下はちゃんと連いてくるもの」 「里佳子の言う通りかもしれない」
「かもしれないじゃなくて、言う通りなのよ」
「言うじゃん! いつからそんなに自信家になったんだよ!」
「祐貴と付き合ってから。彼女になれた事が自慢で、そして自信に繋がったの!」
「そうか、成長したな!」 祐貴は笑って里佳子の頭を撫でた。
「ねえ、ところでいつまで一緒にいられるの?」 さっきと違って甘え口調で里佳子は訊いた。
「明後日までいられるよ」
「今日は、私の前で悪者になるのよね?」 里佳子の目が誘っていた。
*****
目の前の祐貴が、ビーナッツを放り投げて上手に口に入れて遊んでいた。
「そんな事していると、喉に詰らせちゃうから」 里佳子はテーブルに頬杖をつきながら、無邪気に喜んでいる祐貴を見ていた。
「上手いんだよ!子供の時から自慢だったんだから……」 口いっぱいにピーナッツをほうばりながらも、止めようともせず、せっせとピ ーナッツを放り投げて喜んでいた。
もう、明日の夕方には祐貴は山梨に帰ってしまう。 また、当分会えないだろう。それに、結婚式の具体的な話も出ていなかった。
「実父の自殺」という悲しい出来事を経験している祐貴も、口には出さないが、 それなりに苦労をしてきているのであろう。里佳子は祐貴の過去を気にした事は ないが、どういう経験を積んで来たかは分からない祐貴は、自分の前で、ピーナ ッツを口に入れる事に夢中になっている無邪気な男だ 。
そんな無邪気な祐貴も好きだった。 里佳子は祐貴と初めて出会った日の事を思い出していた。
あの日……仕事から解放され着替えを済ませ、従業員出入り口を出ようとした ところで、社長の岡田とバッタリ出くわした。
「今日はもう上がり? 久しぶりに寿司でも食いに行くか?」
岡田の誘いはさりげなかったが、社長の岡田が余り足を踏み入れない従業員エ リアに現れた事に「もしかしたら、私のシフトを知っていて待っていたのかもし れない」そんな事を感じた里佳子は「お誘いありがとうございます。でも、今日 はこれから短大時代の友達と食事会なんです」とウソを言って誘いを断わった。
「そうか、それは残念だな」 岡田は心の底から「残念」という顔をしていた。
「お寿司はとっても魅力的なので、短大の友達との食事はキャンセルしても構わ ないのですが、今日は赤レンガ倉庫で合コンなので、そっちにちょっと期待して いて……」
残念そうな岡田をからかってみたい、という気分になった里佳子は、新しくオ ープンした若者に人気スポットの名前を出し、ウソの上塗りをした。
「赤レンガでの合コンか、美味しそうな話だな。それで、いよいよ、彼氏いない 暦返上か?」 岡田は笑っていたが、里佳子はウソを見破られた! と思った。 アクセサリーは小さなピアスだけで、ジーンズにボーダーのキャミソール、グ レーのコットンカーディガン姿は「赤レンガ倉庫での合コン」には相応しくない 服装で、そういう事に岡田は敏感であった。
「赤レンガまで乗せて行ってあげるよ」 岡田の好意に甘える事にして、里佳子は岡田の愛車のジャガーに乗り込んだ。
「ゆっくり楽しんで来いよ」 車から降りようとする里佳子に岡田は笑顔を向けた。
「ありがとうございました」 そう言って里佳子は車から降りたが「割り切れていないのは自分かもしれない」 と感じた。
短大時代の友達との会食や、赤レンガ倉庫での合コンの予定などない里佳子は、 赤レンガ倉庫をブラブラした後、隣にある大きなショッピングモールに向った。
ショッピングモールは仕事帰りの若い女性や、楽しそうなカップルで賑わって いた。行き交う人々を見ながら「私はいつも一人ぼっち……」自分の境遇に淋し さを覚えた。 それでも、セレクトショップで、ラインが綺麗なデニムのミニスカートと、胸 が広く開いたシンプルな黒のカットソーと、ブランド物の女性らしいサンダルを 購入した時には、満足した気分になった。 メキシカンレストランで、タコライスを食べ、ショッピングモールを出た里佳 子の目に「センチュリープラザホテル横浜」の尖った屋根が飛び込んできた。 このまま弘明寺のマンションに帰る気分になれなかった里佳子は「たまには、 ホテルのバーにでも行ってみよう!」そう思ってホテルに足を向けた。
「バーに行くなら着替えよう」とホテルロビーのドレッサールームで、買ったば かりのミニスカートと黒のカットソーに着替えた。
「なかなか、シックでチャーミング!」 トイレの鏡に写る自分の姿に自信を持った里佳子は「カサブランカ」というバ ーに向った。
カサブランカは半分程の客の入りだったが、カウンターにしようか? ボック ス席にしようか? と迷っていた時、カウンターの中でシェーカーを振っている カッコいいバーテンダーが目に入り、そのカッコ良さに引きつけられるように、 カウンター席に向った。
「いらっしゃいませ」 カッコいいバーテンダーに声をかけられ、ちょっと嬉しい気分になった。
席につく時に、数席離れた、それまでバーテンダーと親しげに話をしていた男 と目が合った。 その瞬間、里佳子の胸が激しくときめいた。 鋭い中にも色気がある男の眼差しが魅力的だった。 二度目に目が合った時には、もっと激しいときめきを覚えた。
「素敵な人……」
オーダーを聞かれて、思わず「フォアローゼス」と答えた。 言った後、もっと女性らしいカクテルをオーダーすれば良かった、と後悔した。
ずっと隣の男を意識しながらバーボンを楽しんでいたが、自分の胸のときめき を押さえられなくなった里佳子は「こちらのホテルの方ですか?」と思わず声を かけた。男はぶっきらぼうに答えたが「席を移動しませんか?」と誘ってくれた。
……もし、誘われなかったら自分から「移動してもいいですか?」と言おうと 思っていた……
「村上祐貴」名刺をもらって名前を確認した里佳子は、目の前の祐貴が「運命の 人」に思えた……祐貴は魅力的だった。
……だから、これから更に話が発展しそうな時間、まだ別れるのが名残惜しい 時間に「帰ります」と告げた……
心の中で「場所を変えませんか?」と誘われる事を期待していたが、祐貴は何 も言わなかった。 お礼を言ってバーを出た里佳子はトイレで化粧直しをして、ホテルのロビーで 時間を潰した。
ロビーに降りてくるかもしれない……
……もう一度会いたい……未練心……15分程待ったが祐貴は現れなかった。
「そんなに簡単に、自分の思うように白馬に乗った王子様は現れない」
そのまま桜木町駅に向おうと思ったが「彼がいる場所から立ち去りたくない」 と、駅とは反対方向に歩き出した。
程よく酔いが回った里佳子には海から吹く風が気持ちよく、幸せ気分が広がっ た。
向こうから誰かが歩いて来た……
真っ直ぐ前を向いて祐貴の事を考えて歩いていたが、相手が歩くのを止めたと 同時に、里佳子も足を止めた。
「白馬に乗った王子様!」
歩いて来たのは祐貴だった。
「何処かに行きませんか?」 祐貴に誘われて……
「ちょっと遠いけれど、素敵な所があるの」
里佳子はそう答え、タクシーを止めるために手を上げた。祐貴が先に乗り込み、 後から乗り込んだ里佳子は「弘明寺までお願いします」と運転手に告げた。
その日から「悲しい酒」だったフォアローゼスは、「幸せな酒」に変わった。
*****
「里佳子……」呼ばれたような気がして里佳子は目を覚ました。
隣の祐貴は規則正しい寝息を立てて寝ていたが「呼んだ?」と訊いた。 「うん? 夢を見ていたから呼んだかもしれない……」 そう言って、また祐貴は眠りの世界に戻って行った。
里佳子も祐貴の規則正しい寝息に誘われてまた眠りについた。
「里佳子……聞こえる?」 また誰かが呼んでいた。
「誰?」 どこか遠くから、里佳子と呼ぶ声が聞こえるが姿は見えなかった。
「階段の途中で止まったままで上に行けないの。だから、里佳子に私達の姿が見 えないし、私達も里佳子の花嫁姿が見えないの。三人共、綺麗な花嫁姿が見たい のに……上に行けば姿が見えるのよ。里佳子、お願いだから花嫁姿を見せて……」
遠くにぼんやりとした影が見え、白いウェディングドレスを着た里佳子は裾を つまんで、その影の方向に歩き出した。数歩歩いたところで、ドレスの裾を踏み つけてしまいよろめいた。
「大丈夫?」 遠くの影が心配していた。
「大丈夫よ。今、行くから待っていてね」 里佳子がドレスの裾を持ち上げて歩き出そうとした時、行く手を誰かが塞いだ。
「どいて!」 必死で頼んだが、行く手を塞ぐ影がどんどん大きくなった。
「お願い! お義父さん! どいて!」 里佳子は省三に向って叫んだ。
そこで、目が覚めた。 心臓がドキドキしていて「夢」と気がつくまで時間がかかった。
まだ、夜が明けきらない時間で、隣の裕貴は気持ち良さそうに眠りについてい た。
またビッショリと寝汗をかいていて気持ちが悪かった。こういう夢を見る時は 必ず寝汗をかいていた。
祐貴を起こさないようにそっと起きてパジャマを着替え、またベッドに潜り込 んだ。 気配に気がついた祐貴が、訳の分からない事を言って里佳子を抱きしめてきた。 祐貴の胸に抱かれていた里佳子は、祐貴のぬくもりだけを感じて、嫌な夢の事は 忘れよう、と思って祐貴の胸に甘えたが、目を瞑ると省三の顔が現れた。
目を開けて祐貴を見ると省三がいなくなり、目を瞑ると省三が現れた。 そんな事を何度も繰り返して我慢が出来なくなった里佳子は、祐貴を揺り起こし た。
「どうした?」 祐貴は目を瞑ったまま答え、里佳子を自分の方に抱き寄せた。
「ねえ、お願い……」 さっきより強く祐貴を揺すった。
「何? どうしたの?」 目は開けたが半分寝たままの状態で答えた。
里佳子は自分の胸に祐貴の手を添えた。 祐貴の手が無意識にパジャマのボタンを外したが、里佳子の胸に手を触れただけ で動きが止まった。 ……必死に何かを訴えようとしている両親と弟の顔と、唇の端に不敵な笑みを 浮かべている省三の顔が浮かんだ……
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