季節は梅雨に入っていた。
夜8時を回ったのを確認して、家庭用電話機の受話器を取った。 交通事故のを調べるには、まず、母の乾早苗の兄である吉永元に聞いてみよう。 長い間、散々考えた末に出した結論だった。
30年近くも会っていない姪から突然電話をもらった叔父の気持ちを考えて、 プッシュボタンを押す時にはさすがに躊躇した。それでも、藁にもすがりたい 気持ちは抑えられず思い切ってボタンを押した。
数回コール音が鳴って、「吉永でございます」少し甲高い年配の女性の声が 応えた。 「夜分申し訳ございません。弘明寺の西島里佳子と申します。恐れ入りますが 吉永元さんをお願いいたします」 「西島様ですね。少々お待ちください」 叔父の吉永元の妻であり、里佳子の義理の叔母にあたる人だろうが、叔父同 様、里佳子は一度も会った記憶がないし、相手も「西島里佳子」が誰だか分か らない様子だった。 元が出てくるまで、長い時間がかかった…… 「お待たせいたしました。西島里佳子さん、あの里佳子さんですね?」 元は姪を懐かしがるように応えた。
「はい、乾里佳子です。突然お電話を差し上げて申し訳ございません。叔父様 はお元気ですか?」 そう言ったが、毎年年賀状だけでは挨拶をしているが、写真すら見た事がな い叔父に対しての感情は沸なかった。
「いやー、ビックリしました。私は何とか元気ですが、里佳子さんもお元気そ うですね」 「はい、私は元気です。今は横浜の関内にあるホテルで仕事をしています」 「ホテルのお仕事ですか。確か、亡くなられた西島さんもホテルのお仕事をさ れていた筈でしたね」 恐らく元は、里佳子よりも西島の両親との方に馴染みがあるのだろう。 「はい、多分に西島の父の影響があるかと思います。今日、突然お電話を差し 上げましたのは、実は、結婚をする事になりまして、叔父様には直接お電話で ご報告申し上げたいと思いましたので。本当に突然で申し訳ございません」
「いやー、そうですか。それはおめでとうございます。式はいつですか?」 「相手が2月に山梨に転勤になりましたので、まだ具体的な日取りなどは決ま っていません」 「離れ離れですか? それは淋しいですね。じゃあ、結婚式は山梨で執り行う 事になるのかな? ところで里佳子さんはいくつになったの?」 「あの……余り大きな声では言えないのですが、もうすぐ、31になります」 里佳子は年の事を気にした事はない。しかし、電話口の叔父の前では世間一 般の体裁を繕った。
「里佳子さんが31歳になるのなら、私が年をとるのも当たり前だな。元気と 言っても、定年を目前に控えて、あちこちガタが来ちゃっていますよ」
「身体の調子が良くないので、結婚式には出れませんよ」という事を元が言い たいような気がした里佳子は、結婚の話などせずに、単刀直入に電話した本当 の理由を言えば良かった、と後悔した。
「ご無理なさらずに、お大事になさってくださいね。叔父様にお伺いしたい事 があるのですが。実は……結婚を機にルーツを探ってみたい、と言うか、西島 の両親から、私の本当の父と母は、学校の先生で立派で素敵な人だったのよ。 という話を常々聞いていましたので、二人の事を知りたい、そんな気持ちにな りました。でも、私の手元にはたった一枚の写真しかないものですから、叔父 様にお話を伺えるかな? と思いました。突然のお願いで申し訳ないのですが、 事故の事とかご記憶にある事があったら、教えて頂きたいと思っています」
「ルーツを探るですか? なかなかなお願いですね。そうですね……」 元は一旦言葉を切った。 「乾さんは真面目で立派な教師でした。妹も幸せそうでしたよ。だけど、あれ から28年ですか……事故の事は突然の出来事で私もショックでした。確か、 乾さんがカセットテープを拾おうとしてハンドル操作を誤ったと聞きました。 ただ、私は大学を卒業してからずっと福岡勤務で、おまけに子供が病弱だった 事もあって自分の事で精一杯で、二人とは季節のやり取り位で余りお付き合い もなかったのです。だから、二人の生活ぶりも知らなくて。せっかく電話を頂 いて、申し訳ないのですが、里佳子さんの期待に沿える話は出来そうにありま せん。父や母が生きていれば、何か話が聞けたかもしれませんが、すでに亡く なってしまっているし、弟の治も、大学からアメリカに行ってそのま向こうで 生活しているから、治に聞いても分からないと思いますよ」 期待はしていなかったが、事故の事はさらっと流す元の話しぶりから「関わ りたない」という雰囲気が伝わってきた。 もし、ここでフラッシュバックの事を話して、強引に事故の事を聞き出した らどうなるか? と一瞬考えた。しかし、その場合、元は貝の様に口を閉ざす だろう。
「そうですか……昔の嫌な事を思い出させてしまって申し訳ございません」 里佳子は丁寧に謝った。
「兄の口から言うのも何ですが、妹は、背が高くて本当に綺麗でしたよ。ハイ ヒールを履くと、乾さんと同じ背丈になると言って、いつも低いヒールの靴を 履いていました。里佳子さんも妹に似て綺麗なんでしょうね。でも、乾さんも 妹も、里佳子さんが結婚するまでに成長して、自分達の事を思い出してくれて いる、と知ったら喜びますよ。だから、それで良しとして余計な事を考えずに、 里佳子さんは自分の幸せを考えなさい。きっと二人と弟さんはそれを望んでい る筈です。また、結婚の日取りなどが決まったら教えてください」
「叔父様の仰る通りかもしれません。本当に今日はありがとうございました。 結婚の事が決まりましたらご報告させて頂きます。叔父様もお元気でお過ごし ください。おやすみなさい」 そう言って早々に電話を切ったが「それで良しとして、余計な事を考えに ……」という元の言葉がひっかかった。
「何かある」 里佳子は次にする事を考えていた。
*****
次の休みの日、里佳子は保土ヶ谷図書館に行き、昭和50年5月の新聞の縮 小を書庫から取り出した。 5月18日を開き、目を皿のようにして事故の記事を探したが、何処にも事故 の記事は載っていなかった。 紀子から「両親は保土ヶ谷バイパスで事故を起した」と聞いていたので、わざ わざ保土ヶ谷図書館まで出かけて来た。 社会面と地元面を指でなぞりながら記事を追ったが、やはり載っていない。念 のため、翌日から一週間後の分も開き、同じ様に指でなぞって探したが載ってい なかった。 一家三人が即死に近い状態での交通事故であれば、載っていない筈はないだろ う…… 何度も何度も新聞を見直しながら、思案した。 「警察の交通課で調べる事は出来ないか?」
そう考えて、諦めて縮小版を閉じようとした時、翌日の5月19日の日付の地 元面の下の方に「教師一家殺害事件発生から一ヶ月、依然として手懸りはなし」 という、殺人事件の小さな後追い記事を見つけた。 「教師一家」の文字に敏感に反応した里佳子は、記事の中に「乾暁生」の名前を 見つけて、心臓が飛び出る程の衝撃を覚えた。
「横浜市鶴見区で起きた、私立星光学院高等部教師乾暁生さんと妻の早苗さん、 長男の遼平君が惨殺された事件から一ヶ月が経ったが、警察では依然として容疑 者の特定が出来ていない。鶴見中央署では物盗りと怨恨とを視野に入れて捜査を 続けているが、物証及び目撃証言が乏しく捜査が難航している模様」
「一ヶ月が経過と言うのは、事件が起きたのは4月18日……」 里佳子は4月分の縮小版を取り出し恐る恐る開いた。
……あった!……
「高校教師一家惨殺さる」 社会面トップの大きな見出しが目に飛び込んで来た。
「4月18日午後7時半過ぎ、横浜市鶴見区東寺尾、私立星光学院高等部教師、 乾暁生さん宅で、激しく泣く子供の声に不審に思った隣家の主婦が、乾さん宅を 訪ねたところ、暁生さん(32歳)、妻早苗さん(28歳)、長男遼平君(6ヶ 月)が殺されているのを発見し警察に通報した。 神奈川県警捜査一課は、強盗殺人事件として鶴見中央署に捜査本部を設置した。 調べでは暁生さんは、一階にあるリビングルームで植木鉢で頭部を殴られ死亡、 妻早苗さんは、同じリビングルームで絞殺されたような跡があり、長男遼平君は、 早苗さんの傍で倒れていて後頭部に激しい損傷があった。 リビングルームは激しく物色された形跡があったが、指紋など犯人の遺留物は 確認されていない。 現場は、アパートやマンション、倉庫などがある静かな住宅地で、比較的仕事 帰りの会社員などが通る時間帯にも関わらず、目撃者も現れていない。 また、早苗さんは、京都足立区にある実家に泊りがけで遊びに行く予定であっ たが早苗さんの母によると、途中で遼平君の具合が悪くなったため、自宅に戻る。 との連絡を入れていた。 尚、乾さんの長女(1歳)だけは無傷で無事に保護された」
記事の概要は以上の通りであったが、里佳子は余りの衝撃に震えが止まらなく なっていた。
「やはりそうだったのか……仏壇がないのも、亡くなった日を一ヶ月ずらしてい たのも、両親に関する物が何もないのも、叔父の吉岡元の歯切れが悪かったのも、 全てこの事があったからだ」
里佳子は全てを理解した。 「その後、犯人は捕まったのだろうか?」 その事が知りたかった。
「インターネットで検索すれば分かるかもしれない……」 そう思い、受付でコピー申請をし、新聞の記事をコピーして自宅に引き返した。 自宅に戻った里佳子は直ぐにパソコンを立ち上げた。普段は感じなかったが、 パソコンが立ち上がるまでの時間が異常に長く感じてイライラし、何度もエンタ ーキー叩いた。
検索画面で「横浜 鶴見 教師一家殺人事件」と打ち込むと、画面いっぱいに 関項目が表示された。その項目数を見て、事件発生当時、かなりセンセーショナ ルな取扱いを受けていた事が分かった。
「これは私の家族が殺害された事件なのよ」 里佳子は自分に言い聞かせたが、まだ実感が沸かなかった。 一番上に出ていた「教師一家殺人事件【事件概要】」をクリックした。作成者 は不明だが「鶴見教師一家殺人事件」と題して掲載されている内容を里佳子は読 み始めた。
「教師一家殺害事件とは、1975年4月18日(金)に横浜市鶴見区東寺尾で 発生た殺人事件。 【事件概要】 横浜市鶴見区東寺尾一丁目乾暁生さん宅で、子供の激しい泣き声が聞こえるの を不審に思った隣家の主婦が乾さん宅を訪れ、乾暁生さん(当時32歳)、妻の 早苗さん(当時28歳)、長男遼平君(当時0歳)が倒れているのを発見した。 泣いていたのは乾さんの長女(当時1歳)で長女だけは無傷であった。 直接の死因は、暁生さんは観葉植物が入った植木鉢で前頭部を殴打された事、 早苗さんは絞殺、遼平君は後頭部をドアの柱に打ち付けられた事と考えられる。 その他、暁生さんには後頭部をキャビネット(血痕あり……鑑定結果暁生さん の血液と判明)に打ちつけた痕が二箇所あったが、直接の死因である前頭部殴打 により、ぱっくりと開いた傷口からは、おびただしい量の出血があった。 検死の結果、暁生さんは午後5時前後、早苗さんと遼平君は午後6時前後で、 死亡時間に時差が生じていた事から、犯人は長い時間乾さん宅にいたと見られる。 遼平君にはおぶい紐が巻きつけられていたが、早苗さんに背負われていて何か の拍子に、ドアの柱(血痕あり……鑑定結果遼平君の血液と判明)に後頭部を強 く打ち付けたものと思われる。 部屋の中は酷く荒らされた跡が残っており、暁生さんと早苗さんの財布からは 現金が抜き取られていた。また、銀行の通帳や印鑑なども失くなっていた。 早苗さんを絞殺で使用した紐状のものもなく、暁生さん殺害のために使用した 植木鉢に指紋は残っていなかったが、残された植木鉢の破片を繋ぎ合わせた所、 何箇所か欠けている部分があった事から、指紋が付着した部分は、犯人が持ち去 ったものと考えられる。 また、絞殺の場合、抵抗し犯人を傷つける事もあるが、早苗さんの爪などから 人の残留物は見つかっていない。指紋や廊下なども丁寧に拭き取った跡があり、 行後、犯人は綿密に証拠を消し去っていた模様。
【現場付近】 現場は、マンションやアパートなどが立ち並ぶ閑静な住宅地で、金曜日の夕刻 にも関わらず、不審人物の目撃情報もなく、事件発生時に不審な物音などを聞い た、という話もないが、空き巣による被害届が数件出されていた。
【被害者】 乾暁生さんは鶴見区にある、私立星光学院高等部の世界史の教師の職に就いて いるが、穏やかな性格で教育熱心な事もあり、生徒や父兄の評判も悪くない。特 に付き合いが良い方ではないが、同僚との間に問題を起こすようなタイプでもな かった。 妻の早苗さんも、結婚までは同じ星光学院中等部で音楽の教師を勤めていた。 美人でお姉さんタイプの先生だった早苗さんは、生徒にも人気があり、暁生さん 同様評判も良かった。暁生さんとの結婚を機に星光学院を退職しており、長女と 遼平君を可愛がる近所でも評判の仲良し家族であった。 また、親、兄弟、友人との間に金銭トラブル等も全くなかった。
【疑問点】 (1)物盗りの場合、比較的在宅が多い夕刻を避けるのではないかという点。 (2)綿密すぎる程の証拠隠滅。 (3)荒らされているのは殺害現場となった居間だけで、他の部屋に侵入した形 跡がない。また、室内を物色した痕跡はあるが、被害者と犯人が争ったよ うな形跡は見られない。 (4)テーブルの上のパーコレーターには、二人分のコーヒーの粉が残っていた が、用意されていたコーヒー碗皿は一客で、暁生さんの胃の中からは一杯 分の量のコーヒーしか検出されなかった。暁生さんはコーヒー好きで、キ ャビネットにはコーヒー碗皿が揃えられていたが、不自然な隙間があった 事から、やはり訪問客があり、犯人が使用したコーヒー碗皿は持ち帰った 可能性もある。 (5)最大の疑問点は、長女だけが無傷だったという点。
【容疑者】 警察は上記の事柄から、物盗りを視野に入れながら、怨恨の可能性が大きい、 と判断して、学校関係者から事情を聞くなどしており、実際に数人が容疑者と して浮かび上がったが、証拠や動機に乏しかった。 また、無傷の長女を隣家の主人が風呂に入れようとした際、激しく泣きじゃ くった。と、事件を発見した隣家の主婦から証言を得ている。日頃、長女は、 子供がいない隣家の主人には懐いており、その長女が激しく泣きじゃくった事 から、犯人は隣家の主人と同年代の40歳前後であった可能性もある。 しかし、犯人検挙には至らなかった。
【結果】 1990年 4月18日 時効成立 以上」
ここまで一気に読み終えた里佳子は脱力感に襲われ、椅子の背もたれにもたれか かった。
「『最大の疑問点は長女が無傷だった点』その『長女』と言うのは私なのだ」そ う思ったが、全く記憶がない事で、実感として沸いてこなかった。 それより何より「時効成立」と「隣の主人と同年代の可能性がある」その事が 重くのしかかり、不安が広がっていった。 口の中がカラカラに乾き、心臓が激しく鼓動し、頭が痛くなった。頭痛薬代を 探していた時、フォアローゼスの瓶を見て岡田の顔が浮かんだ。こんな時、昔の 事を知っているが、当事者ではない岡田だったら相談に乗ってくれるだろうし、 適切なアドバイスをしてくれるだろう。そう思ったが、里佳子から別れを告げた 岡田には、自分の弱みを見せたくなかった。
祐貴には話をする気にはなれなかった……心の何処かに義父の省三の陰を感じ た。
「でも、このネットの記事は余りにも詳し過ぎるけれど、一体誰が書いたのだろ うか? 警察関係者かそれとも報道関係者なのか?」 「警察に行ってみよう」 その決心をして、また一歩を踏み出そうとしていたが、躊躇うものがあり、す ぐに行動に移す事が出来なかった。
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