―― 西島 里佳子の章 ―
2004年
1 「寒い……」 祐貴と別れて、電気もファンヒーターも点けずにしばらくの間ボーッとしてい た里佳子は、まだダウンジャケットも着たままの事に気が付いた。
ダウンジャケットを脱ぎ、部屋の電気とファンヒーターを点け、窓のブライン ドを降ろし、またダイニングテーブルに腰を下ろした。
「昨日から今日まで、突然浮かんだ光景は何なのだろう? フラッシュバック? 眩暈が起きたのは何? でも、どうして?」
もう一度、昨日の状態と蘇った光景を思い出した。
「最初に起きたのは……祐貴のお義父さんがリビングで二人を迎えてくれた時、 お義父さんは、庭に面した掃き出し窓を背にして立っていた。確か、西陽が細く 差し込んでいた。そして、その時に、昔に見た事がある様な光景が蘇った。次に 起きたのは……お義父さんの手の甲にあった傷を見た時。それは2回起きた。怖 くて泣きそうになって……眩暈がした。そして、祐貴に腕を掴まれ時……とても 怖かった……」
その時の、恐怖感に近い感情が戻って来て、思わず目を閉じた。
「何故? だろう……分からない……きっと、緊張が激しかったから、だから、 変な事が起きたのかもしれない」
考える事に疲れた里佳子は、熱いシャワーを浴び、荷物の整理をして、養父と 養母に昨日の報告をするために和室の襖を開けた。
和室には、養父の西島昇、養母の西島紀子、そして実の両親と弟の写真が飾っ てある棚が作りつけられていた。西島家には仏壇がなかった。養父の昇が亡くな った時「お父さんは、仏壇やお位牌より、好きな写真を飾って、その写真に手を 合わせて欲しい。生前からそう言っていたのよ」 紀子はそう言った。
半畳程の棚には登山が趣味だった西島昇の登山服姿の写真、養父母が仲良く肩 を並べている写真、一緒に京都に行った時に里佳子が撮影した紀子の写真、実の 両親と弟の写真が飾ってある
「祐貴さんの実家にご挨拶に行ったのよ。ご両親もお兄さん夫婦も良い人で、楽 しかったの。それにね、姪の美香ちゃんと美咲ちゃんが可愛くて、私は気に入ら れちゃったみたい。お父さんもお母さんもきっと気に入ってくれると思うの」
由美子からもらった水仙を供えながら、里佳子は昇と紀子にそう報告した。
そして、次に実の両親の写真を眺めた。両親との思い出がない里佳子にとって、 実の両親と弟には、養父母のような愛情は沸かなかったが、それでも同じ事を報 告した。
と……その時、花瓶に挿した水仙が揺れた……ハッとした里佳子は、また、祐 貴の実家で起きた事を考えた。
あれはフラッシュバック……?
フラッシュバック……強いトラウマ体験を受けた場合に、後になってその記憶 が、突然鮮明に思い出されたり、同様に夢に見たりする現象……
まさしく昨日と今日起きたのはそれだろう。
でも、どうしてその現象が起きたのか?
車から降りる時、あんなに取り乱した自分も分からなかった。
「きっと祐貴は悲しい思いをしたのだろう……」 祐貴に申し訳ない、という気持ちでいっぱいになった。
その時、リビングで里佳子の携帯が着信を告げた。相手は祐貴だ、と思った。 心配して電話をかけて来たのだろう。
「今、寮に着いたよ。事故渋滞に巻き込まれちゃって倍時間がかかったよ。どう した? 落ち着いた?」 祐貴の声はいつもと変わらず温かく優しかった。
弘明寺から三ツ沢までは、何も無ければ20分か30分で着くだろう。倍の時 間がかかったという事は、一時間近く考え事をしていた事になる。
「私は大丈夫よ。祐貴は元の祐貴に戻った?」 「里佳子の声を聞いた瞬間に、元に戻る事には失敗したみたいだな。夕飯はこれ から牛丼でも食いに行くかな、って思っているよ。里佳子は?」 「私は、この間祐貴と一緒に食べたカレーが冷凍してあるから、それを解凍して 祐貴の事を考えながら食べる。美味しそうでしょう?」
食欲はなかった。
「最高だと思うよ。だけど、今日は飲み過ぎるなよ」 「お互いさまでね」 祐貴に気付かれないように明るい声で答えた。
「来週の月曜日は早番だからマンションに行くよ。時間が分かったら連絡するか ら」 「私は休みだから弘明寺駅まで迎えに行くね!」 「分かった、連絡するよ。里佳子、いいか。何か心配事があったら何でも俺に話 せよ。自分一人で抱えるなよ」
「どうしたの? 急に。私はいつでも何かあったら真っ先に祐貴に話しているで しょ? 心配しなくても大丈夫だからね」
里佳子は、祐貴が何を言いたいのか充分に分かっていた。
「もう一度言うよ……飲み過ぎるなよ!」 里佳子は笑いながら「ありがとう、おやすみなさい」と言って電話を切った。
最後の「飲み過ぎるなよ」は「何かあったら俺に話せよ」と言いたかったのだ ろう。
里佳子は祐貴の温もりを確かめるように、携帯電話を胸に抱き、しばらくの間 動けなかった。
2 祐貴が山梨に赴任して一ヶ月が経った。
「山中湖プラザリゾート&スパは思った以上に質の高いホテルだ」 祐貴はそう言っていた。
「特に徹底した顧客管理は自慢出来るよ。それに、スタッフの意見に耳を傾け意 見を取り上げようとする。そういう環境が整えば、スタッフは客に対しても、明 るく、前向きにおもてなしが出来る。その会社の姿勢は見事だと思う。客にもい 顔をしても、社内で良い顔が出来ないと真のホスピタリティは生まれないしね。 だけど、32歳の余所者マネージャーは辛いよ。部下には年上の生え抜きスタッ フもいるし。何だこれは? という地方文化もあるけれど、それを上手く取り入 れながら、俺の考えを出して行く。正直言ってキツイし難しいよね」
少し弱気になっている祐貴も顔を出していた。
「だけど負けないよ。それに、迎合はしない。土台をしっかり築き、進んで悪者 役を引き受ける大きな人間になりたい」 最後には強気になる。そういう祐貴を里佳子は頼もしく思った。
*****
「明後日の美香と美咲の誕生祝いパーティだけど、急に行けなくなった」
大事な会議が入り、急遽休みが返上になった祐貴から電話があったのは、四月 に入り桜が散った頃だった。
「さっき、鴨川に電話したら、美香と美咲は、俺は来なくてもいいから里佳子に は絶対に来て欲しい。と言っているらしいけれど、どうする?」 少し残念そうだが、「来なくていい」と言われた方が仕事に専念出来るので、 スッキリもしていた様子だった。
「また、祐貴お兄ちゃんは嫌われちゃったね。私一人で良ければ、二人のお誕生 日を祝ってあげたいから行ってもいいけど」 不安な事があったが、里佳子は笑いながら言った。 「じゃあ、そう言っておくよ。また、里佳子の奪い合いでバトルが繰り広げられ るんだろうな」 祐貴は里佳子が快く承諾してくれた事を喜んだ。
美香と美咲の誕生日の当日、鴨川の村上家では、一人で訪れた里佳子を大歓迎 してくれた。
お誕生日パーティは、近くのイタリアンレストランを予約してあったが、会場 に向うためのタクシーに乗り込む時から、お揃いの可愛いニットワンピースを着 ていた主役の二人は、祐貴の言う通り、里佳子の奪い合いバトルを始めた。 里佳子は、祐貴から婚約指輪の代わりにプレゼントされた腕時計をはめていた が、その時計を見つけた美香が「素敵!」と褒め、時計をしている左手をしっか り握った。 里佳子に「ありがとう」と言われ、得意げになっている美香が悔しかった美咲 も、里佳子の左手にまとわりつき、そこでまた喧嘩が始まった。
「じゃんけんしましょう」 腕時計をはめている左側に座る順番の決め方を里佳子に提案され、 二人はや っと納得し、じゃんけんの結果、行きは美香、帰りは美咲に決まった。 レストランでは席を巡って喧嘩が起きないように、里佳子は時計を外した。
食事中は里佳子の奪い合いもなく、終始穏やかに食事を楽しみ和やかな時間を 過ごせたが、ホテルに着きタクシーを降りた時に事件が起きた。
ホテルに着いたタクシーでは、一番先に美咲が降り、次に里佳子が降りた。
美香が降りるのを里佳子は待っていたが「里佳子お姉さん、早く行こう!」と 美咲が里佳子の手を取り先に帰りそうになるのを見た美香が「待って! 美咲、 一人占めしてズルイ!」と車から降りながら声を荒げた。
「大丈夫よ。美香ちゃんも一緒に行こうね」と里佳子が優しく言って手を伸ばし たが、その時すでに機嫌を損ねていた美香は「イヤ!」と言う様に手を後ろに回 した。
料金を支払って助手席から降りて来た由美子が「どうしたの? 美香ちゃん、 里佳子お姉さんが待っているわよ」と声をかけたが、美香は石のように突っ立た まま動こうとしなかった。 その様子を何人かのホテル宿泊客が見て、笑いながらホテルに入って行った。
過激な二人に少し閉口したが、どうにもならない状態に、美由紀と雅彦に助け 舟を出してもらいたい気持ちになった里佳子は、少しして、後続のタクシーに乗 った省三と雅彦と美由紀が降りて来た時はホッとした。
「どうしたの?」 美由紀が声をかけた時、それまで仏頂面をして立っていた美香が泣きべそをか き始めた。
「美香ちゃん、いい加減にしなさい。里佳子さんだって困っているでしょう!」 少しイライラした調子の由美子の言い方で、美香が本格的に泣き出した。 「ほらッ、里佳子お姉さんが手を繋ごうって待っているよ」 雅彦がなだめたが、それでも美香は手を後ろに組んだまま「イヤ! イヤ!」 という仕草をして泣いていた。
また、宿泊客がその様子を怪訝な顔つきで見ながら、ホテルに入って行った。
「美香、ここはホテルの前なんだよ。お客様が通るんだから、泣いてないで早く 家に行きなさい!」 美香の様子に堪忍袋の緒が切れたのか、今まで黙っていた省三が、美香の腕を 無理矢理つかんで連れて行こうとした時……
「イヤーッ!」と美香が激しく泣き出した。 美香の泣き声を聞いた省三が一瞬怯み、よろけそうになった。 その瞬間、また里佳子にフラッシュバックが起きた。
……手の甲に傷がある男に腕を激しくつかまれた瞬間、イヤーッと言って泣き 出した…… 目の前と全く同じ光景が蘇り、また眩暈がした。
手を握った美咲が心配そうな顔をしていたのに気付いた里佳子は、しっかりと 体制を立て直し何事もないようなフリをしたが、今回のフラッシュバックは鮮明 で胸の鼓動が激しくなった。
結局、美香は雅彦に抱きかかえられて母屋の子供部屋に戻った。
里佳子は、省三の顔色が変わっているのには気がつかなかった。 「すみません。いつも私の事でいさかいを起こさせちゃって……」 リビングに腰を落ち着けた里佳子はどうしていいか分からずに謝った。 「里佳子さんが謝る事はないのよ。返って気を使わせてごめんなさい」 美由紀が申し訳ないという顔をして里佳子に謝った。 「どうして、里佳子さんの事になると二人はあんなになっちゃうのかしらね?」 半分笑いながらも、不機嫌そうな顔をしている由美子を見て、里佳子はちょっ と嫌な気分になった。
「本当に済みませんでした。気分転換に一杯やりますか?」 子供部屋から戻った雅彦が里佳子に謝りながら、酒の用意を始めた。
里佳子はホテルの部屋に引き上げたかったが、ここで帰ると皆が気分を悪くす るだろう、と思い我慢をしていた。 雅彦がビールで乾杯をしたが、省三の表情が硬く場の雰囲気も良くなかった。
「祐貴がいてくれれば良かったのに」
由美子の不機嫌さはその事もあるのだろうか?……それとも、自分には分から ないけれど、私が持つ独特の雰囲気なのか?……里佳子は憂鬱な気分になったが 「でも、考えたら、皆さん『美』が付くのですね」 場の雰囲気を和らげるように言った。
「そうなのよ。私は由美子で、美由紀に、美香、それに美咲。村上家はみんな 『美』が付くのよ」 誇らしげな表情の由美子を見て「言わなければ良かった」とまた里佳子は嫌な 気分になった。
「村上家の一員になる私は『美』は付かない……もしかしたら、この中には入れ ないし、なれないのかもしれない……」 何故か、ふとそんな気がした。
やっとお開きになり、部屋に戻った里佳子はお風呂に入って、さっき起きたフ ラッシュバックの事を考えた。
フラッシュバックが起きるのには「省三」「腕を掴む」「子供が激しく泣く」 「手の甲の傷」の4つの要因があった。
「何故、祐貴のお義父さんが出てくるのだろう……?」
その事が訳もなく怖かった。
3 夕方、鴨川から帰った里佳子は、真っ先に祐貴の携帯に電話を入れた。 シフトに入っているのかその時は留守電に切り替わったが、30分程してコール バックがあった。
「どうだった?」 祐貴も気にしていたのであろうか、真っ先にそう訊いてきた。 「お誕生日会は楽しかったのよ。お食事のイタリアンも美味しかったし。でも、 祐貴の言う通り大バトル勃発」
里佳子は笑っていたが、内心、ウンザリという思いもあった。二人に好かれて いる事は嬉しかったが、会う度に奪い合いをされて、由美子にチクリと言われる のは勘弁して欲しかった。
「問題、って言う俺の言っていた意味が理解出来ただろう? 何があったの?」
「祐貴からプレゼントされた腕時計をしている私の左腕の奪い合い」 里佳子は一連の出来事を説明した。
「大変だったんだな。取り合いにも程があるって。だけど、いい迷惑だよなあー」 「大丈夫よ。でも、祐貴がいなくて心細かったの……」 「どうした? 泣いてるのか?」 「うん、なんか祐貴の声を聞いたらホッとして、涙が出てきちゃったの」 泣いているのは、バトルのせいだけではなかった……もっと祐貴に甘えたい気 分になった。
「淋しい思いをさせて悪かったな。もう、マンションに帰って来ているからずっ と話をしていられるよ」 「ねえ、昨日と今日の代休は取れそうなの」
「今、スタッフが調整してくれているけれど、春のイベントシーズンに入っちゃ っているから難航中」
都会のホテルと違って、四季のメリハリがあるリゾート地のホテルは、オンシ ーズンに入り、ゴールデンウィークを控えた今、忙しいのだろう。
「お休みが決まって単休でも、横浜に帰って来てくれる?」 祐貴の立場を考えて、今まで自分から催促した事がなかった里佳子だが、今は 祐貴に傍にいて欲しい気持ちでいっぱいになった。
「勿論そうするつもりだよ……」 電話の向こうで泣いていて弱気になっている里佳子を感じて、祐貴もすぐにで も横浜に帰りたい気持ちになった。
「ねえ、祐貴……」 里佳子が呼びかけた。 「うん? どうした?」 「……」 「どうした?」
しばらくの間、二人はお互いの愛を感じ合いながら何も言わなかった。
「もう、大丈夫よ。このまま祐貴の余韻を感じて、今日は素敵な夢が見れそう」 「じゃあ、ゆっくり休めよ。休みが決まったら連絡するから、待っていろよな」 「祐貴も淋しくても、お酒に溺れちゃダメよ」 「無理だな、もうフォアローゼスを飲んでいるよ」
「ずるい!」 「じゃあ、私も飲み始めようかな。」
「離れた場所で同じ酒を飲みながら愛を確かめ合う。と言うのもドキドキしそうだ よな」 「早速、実行したいから電話を切るね」
「おやすみ」
電話を切った里佳子は、フォアローゼスを飲み始めたが、胸がチクッと痛んだ。 「フォアローゼス」は祐貴とは別の人との「想い出の酒」だった。
里佳子が短大卒業後、就職先をホテルに選んだのには、老舗ホテルのゲストサ ービス部門の支配人を勤めていた養父の西島昇と、養父の親友であり、関内クラ シックホテル社長の岡田博人の影響が大きかった。
里佳子が幼稚園に通い出した頃から、岡田は頻繁に西島家を訪れるようになっ た。昇より若干若く、お洒落でハンサムな岡田からはいつも良い匂いがした。里 佳子は良い匂いがする岡田に懐き、岡田も里佳子を可愛がってくれた。 いつも、昇と岡田は二人でバーボンを飲みながら楽しそうに話をしていた。 里佳子は、二人が飲む真っ赤なバラの花が描かれている、フォアローゼスのボト ルが好きで、岡田が訪れると「里佳子が持って行く!」と言っては、大事そうに ボトルを抱えて二人の前に現れた。そうすると岡田は必ず里佳子を膝の上に座ら せ「里佳ちゃん、ありがとう」と言って頭を優しく撫でてくれた。
「おじさんはどうしてこのお酒が好きなの? 赤いお花が可愛いから?」 ある時、里佳子は岡田に訊いた。 「それもあるけれど、このお酒は美味しいんだよ。でも、一番は里佳ちゃんが持 って来てくれるから。おじさんはそれが一番嬉しいんだよ」 「里佳子が大きくなったら、おじさんと一緒にこのお酒を飲んでみたいな」 「いいよ。約束するよ」 「指きりげんまんウソついたら針千本飲まーす」
指きりをした岡田の指が力強くて温かかいのを、里佳子は幼心に感じていた。
その時から、里佳子は岡田が好きなフォアローゼスのボトルが更に好きになっ た。
関内クラシックホテルオープンに際して、岡田は昇を総支配人とする構想を練 っており、昇からも承諾を得ていたが、オープンを目前にして昇は大動脈瘤破裂 で急逝してしまった。
ホテルは無事にオープンしたが、昇の死後も岡田は、西島母娘を心配し何かに つけ支えになっていた。そして、里佳子には、いかに昇が立派なホテルマンであ ったかを説いていた。いつの頃からか、自然に里佳子もホテルマンの道を歩みた い。と望むようになり、当たり前のように里佳子は関内クラシックホテルに就職 をした。 入社後、岡田は里佳子に予約係を二年間務めさせ、その後、企画運営の仕事を 三年間経験させ、ホテルの全てを把握させた。その間、岡田は個人的に里佳子に ホテル業の何たるかを教え込み、入社五年目にフロント職に転属させたが、その 年に里佳子は養母の紀子を癌で失う事になった。
家族を失った里佳子の悲しみは大きかったが、その悲しみを救ったのは岡田で あった。 仕事以外、プライベートでも里佳子を気づかい、里佳子一人では背負いきれな い様々な面倒な事を解決してくれた。
そんな二人が「社長と社員の関係」から「男と女の関係」に変わるまでには時 間がかからなかった。 紀子の四十九日の法要が済んだ直後、里佳子は心労のため、体調を崩し一週間 程仕事を休んでしまったが、順調に回復し、明日から仕事復帰を考えていた里佳 子の元を岡田が訪れた。 実の両親を幼い時に失い、そして、養父母までも失った里佳子の心の中に、岡 田はスッと入って来た。 忙しい仕事の合間をぬって自宅を訪れてくれた岡田を見て、幼い時、岡田の膝 に抱かれて頭を撫でられ、それがとても嬉しかった淡い気持ちが蘇った。
……初恋の人だったのかもしれない……
気がついた時……里佳子……は岡田の胸の中で「一人ぼっちになって可哀相に。 でも、もう大丈夫だ。里佳子には僕がいるよ」と優しく頭を撫でられていた。
親子程年が違う岡田を里佳子は本気で愛した。
「関内の他に、リゾート地にもう一軒ホテルを建てたいという計画がある。その 時は、西島と果たせなかった夢を、里佳子と一緒に実現させたい」 岡田は目を輝かせて言った。 里佳子も一生岡田の元で仕事をして、岡田の夢を実現させたい。そう望んでい た。
そして二人が会う時にはいつもフォアローゼスが用意されていた。
3 関内クラシックホテルは小さなホテルであったが、二人の関係が誰にも知れる 事なく三年程続いたある日……
里佳子はフロントカウンターで、出入りの花業者から「バーに行ったのですが、 不在だったのでこちらで預かってください」と見事な真っ赤なバラの花束を受取 った。 「分かりました」と受け取りのサインをし、花束を確認した里佳子は打ちのめさ れる程のショックを受けた。花束の中には綺麗なメッセージカードが添えられて いたが、それは、妻の誕生日を祝う岡田から妻への愛のメッセージだった。
「そうだったのか……社長は妻の誕生日をバーで祝う予定にしていたのだ」
養父の親友であり、子供の頃から知っていた岡田に妻子がいる事は承知してい たし、里佳子はその岡田との未来を夢見ていたわけではないが、自分と岡田のた だ一つの大事な場所だと思っていたこのホテルで、岡田が妻の誕生日を祝う事に 激しく嫉妬した。
しかも、真っ赤なバラの花束まで用意して。
真っ赤なバラは二人の大事な花……フォアローゼスのラベル…… その日、仕事を終え自宅マンションに戻った里佳子は、今頃、岡田と妻はホテ ルのバーで幸せな時間を過ごしている。その事を考えて嫉妬に身を焦がし、一人 で酒に溺れた。半分程残っていたフォアローゼスを一本空にし、二本目の封を開 けていた。酔った勢いで何度も岡田の携帯に電話を入れたが、電源が入っていな くて繋がらない事に、嫉妬の炎が更に激しく燃え上がった。
仕事のパートーナーとして割り切ったつもりでいたが、割り切れていない自分 が悲しかった。 翌朝、喉の渇きで目を覚ましたが、昨夜、自分がどういう状態になったのかは 全く覚えていなかった。リビングの床に服を着たまま、化粧も落とさず寝ていた ので身体と頭が猛烈に痛かった。時計を見ると出勤時間が迫っていたが、仕事に 行く気分にはなれず仕事は休む事にした。
「激しい偏頭痛が起きてこれから病院に行きます。突然で申し訳ないのですが、 お休みさせてください」 フロントマネージャーに詫びたが、突発休みにマネージャーは不機嫌だった。
その日はずっと気分が悪かったが病院にも行かず、ベッドの中で過ごした。
昇と紀子の葬儀で会った事のある岡田の妻と、岡田の幸せそうな様子が頭の中 に浮かんだ。 岡田に別れを告げられる夢を見た様な気がして、目が覚めたのは夕方になって いた。枕が涙でビッショリと濡れていた。 身体の具合は少し良くなっていたが、それに反比例して胸の痛みが激しくなっ た。
岡田の事を思って涙が溢れた。 「この辛さを忘れるにはお酒を飲むしかない」 そう思ってリビングに行きバーボンを飲み始めた。
「もうホテルは辞めよう」 考えていた時、携帯が鳴った。
着信名の「フロント」を確認して電話に出た。相手はフロントマネージャーで 里佳子の容態を心配していた。 またウソをついた。
「困るよなあ」という様子のマネージャーは、里佳子の具合悪そうな声を聞いて、 心配しているフリをしたが「もうこれ以上は調整出来ませんよ」と嫌味を言った。
里佳子はまたバーボンを飲んだ。
岡田と一緒に飲むバーボンは美味しかったが、岡田を忘れるために飲むバーボ ンは不味かった。
「このまま飲み続けたら、本当に病気になる」 それでも、ついバーボンに手がいってしまい、部屋の中も里佳子もお酒まみれ でアルコール臭くひどい有様になっていた。 里佳子がバーボンの飲むのを止めたのは、翌々日の明け方になってからだった。 頭では飲みたい、と思っていても胃が受け付けなくなっていて、バーボンを口元 に持っていくと吐き気が襲ってきた。 二日半酒浸りになっていたので、頭の中が変になっていてまともに岡田の事も 考えられなくなり、その日はバーボンの代わりに胃薬を飲み、また一日中ベッド の中で過ごしたが、ピロケースに岡田のコロンの残り香を嗅いだ時は、また涙が 溢れた。 深夜になって身体からアルコールが抜け、やっと正常に近い自分に戻った里佳 子は、一昨日からつい先程まで、岡田からの着信履歴がズラッと並んでいる携帯 を見つめた。
「別れを告げられた訳ではなく、当然分かっていた事を再認識しただけなのに、 どうしてこんなに落ち込んだのだろう」 そう考えたら、何故か急に自分がバカバカしくなった。
「もう、潮時なのかもしれない。いつまでも未来のない恋愛に溺れていないで、 自分らしく生きていく事を考えなくてはいけないのかもしれない」
翌日、三日ぶりに出勤するとフロントマネージャーから「社長がお呼びですよ」 と意味ありげな様子で言われた。二人の関係は誰も知らない筈だが、唯一人マネ ージャーの石井和博だけは疑っている、と感じた事があった。 社長室に行くと、岡田は部屋の鍵をかけ、いつもの様に里佳子を優しく抱きし め唇を求めてきた。
「具合が悪かったようだが、もう大丈夫なのか?」
電話を何度もかけた事は言わないのが岡田らしかった。
「偏頭痛が起きて、三日間お休みを頂いたのでもう良くなりました。でも、フロ ントに迷惑かけてしまいました」 岡田に抱きしめられたまま里佳子は答えたが、いつものような甘え口調にはな らなかった。
「なんだ、まだ本調子じゃないらしいな。今晩、スタミナをつけるために美味い 肉でも食いに行くか?」
硬い雰囲気の里佳子の気持ちをほぐすような、岡田の優しい言い方に心が揺れ た。
「ありがとうございます。でも、まだ胃の調子が悪いのでお気持ちだけ頂いてお きます」 そう言って里佳子は、するりと岡田の腕から逃れ、岡田と向かい合った。
「それから、もう一つお礼を言わせてください。今までありがとうございました。 これからは、私は社員として、フロントの西島里佳子として社長をバックアップ させて頂きます」
キッパリと言って丁寧に頭を下げ、唖然として立ち尽くしている岡田を残し、 そのまま社長室を後にした。
ドアを閉めた瞬間、涙が溢れたが後悔はしていなかった。
4 ふと気がつくと、フォアローゼスがだいぶ減っていた。
祐貴と「フォアローゼスを飲みながらお互いの事を考えて愛を確かめ合う」そ う約束したが、岡田との過去の事を考えていた自分に気付き「ごめんね」祐貴に 謝った。
もう一度祐貴に電話をかけた。電話に出た祐貴は珍しく酔っている様子で、少 しろれつが回らなかった。 「祐貴がこんなに酔ってるなんて珍しい。疲れているのかもね。今日は早く寝な さいね」 姉が弟に話しかける様に言って電話を切ったが、その瞬間「里佳子お姉さん」 と呼ぶ小さな男の子の声を聞いたような気がした。
*****
「里佳子おねえさん……里佳子おねえさん……」 誰かが呼んでいた。 「誰?」 里佳子は呼ぶ声に向って訊いた。 「僕だよ」 「誰? 祐貴?」 「違うよ。遼平だよ! 里佳子お姉さん、聞こえるの?」 「聞こえるよ。どうしたの?」 「あのね……」 「何?」 「痛いの、頭が痛いの」 小さな子供が急に泣き出した。 「どうして痛いの? どうしたの? 何があったの?」 里佳子は必死に尋ねた。
「頭が痛い」と泣いていた子供が急に駆け出した。 「待って!」
里佳子は子供の後を必死に追いかけたが、なかなか追いつけない。突然、省三 が現れて行く手を塞いだ。
「どいて!」
子供の後を追いたい里佳子が叫んだ。それでも省三はどいてくれなかった。
「ダメ! その子は……ダメ!」 誰かが叫んだ。
*****
思わず里佳子はベッドから飛び起きた。 マンションの寝室で寝ている、という事に気がつくまで少し時間がかかった。 「夢……だったの? ……痛い、と言って泣いていたのは弟の遼平? どうして 祐貴のお義父さんが現れたの? ダメと言った人は誰?」 ビッショリと寝汗をかいていて気持ちが悪かった。
思い立った様に和室に行き、実の両親の写真を手に取った。
里佳子が、養母の紀子から「生い立ち」を聞いたのは小学校一年生の時だった。 「レ・ミゼラブル」の本を読んでいた里佳子は、紀子に「養女ってなあに?」と 聞いた。 以前から、里佳子には本当の事を話そうと思っていた紀子は、ちょうど良い機 会だと思い、全てを話した。 本当のお父さんとお母さんと弟がいたけれど、三人共交通事故で亡くなった事、 そして、その後、本当は「叔父さん」と「叔母さん」だった二人が「お父さん」 と「お母さん」になり、里佳子はコゼットと同じように「養女」になった事。 じっと最後まで黙って聞いていた里佳子は「養女って、可愛がってもらえる女 の子の事なんだね」とポツリと言った。 「そうよ。お父さんもお母さんも里佳子が可愛くて大好きよ」 紀子はそう言って里佳子を抱きしめた。 「里佳子の本当のお父さんとお母さんは、交通事故にあった時痛くなかったの?」 里佳子は訊いた。 「里佳ちゃんは優しいのね。心配しなくて大丈夫よ。お父さんもお母さんも遼君 も、痛くはなかったのよ。だから、ずっとお空の上で里佳子の事を見守ってる事 が出来るのよ」 「良かった! 痛かったら可哀相だものね」 その日から、今まで里佳子は何も疑問を抱く事はなかった。
両親の写真を額縁から外した。 写真の裏側には「乾 暁生 昭和50年5月18日 享年32歳、乾 早苗 昭 和50年5月18日 享年28歳 乾 遼平 昭和50年 5月18日 享年0 歳」と書かれていた。
養父母からは「里佳ちゃんは私達の家に泊まりに来ていて事故に合わなかった の。だから、里佳ちゃんは運が良い子なのよ」ずっとそうも言われていた。
「事故の現場にいなかった……本当にそうだったのだろうか? 一緒にいたが、 何かのために私だけが助かった。そうではなかったのだろうか? それとも…… 私を助けるために両親と弟が命を落とした……そんな事はなかったのだろうか? そして、痛くて苦しかったのかもしれない……両親の事故に……もしかしたら、 祐貴のお義父さんが、関係しているという事はないのだろうか? もし、そうだ ったとしたら……あの時何も言わなかったのは何故? 事故は単独事故で父の過 失と聞いていた。でも、本当に過失だったのだろうか? あのフラッシュバック とさっきの夢は……私が小さい時経験した事だったのではないか?」
考えれば考える程疑問が広がったが、 里佳子に、両親の事故の真相を調べて みたい、という思いが強く湧き起こった。
しかし、その事がどんな結果に繋がるか……その時の里佳子は、そこまで深刻 には考えていなかった。
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