2004年
― 鴨川 ―
1 年が変わり、お正月も過ぎた一月半ば、祐貴と里佳子は鴨川に向かった。
「ご機嫌!」 祐貴の愛車のフェアレディ300ZXも、里佳子も絶好調だった。
二人が房総半島にある「鴨川シーサイドホテル」に到着したのは午後三時を回っていた。 上品でモダンな門を入ると、和風の趣があるしっとりと落ち着いたホテルが姿を現した。 名前から洋風なホテルをイメージしていた里佳子は驚いた。
「サービスの基本は笑顔」 その事をそのまま自然に実践している様な笑顔が温かい雅彦と美由紀に、ホテルの玄関で迎えられて、 二人はドライブの疲れも吹き飛んだ。
「お袋達が待っているみたいだから行くよ」 用意してくれたホテルの部屋でゆっくりする間もなく、祐貴が里佳子を迎えに来て母屋に向った。
家族が住む母屋はホテル裏側に建てられているが、ホテルからは裏側、母屋からは表側になる手入れ の行き届いた庭には寒咲きの水仙がたくさん咲いており、細かい部分にまでも気を配っているホテルの 配慮が伺われた。
「ただいま!」 祐貴が声をかけると「はーい!」と奥から着物姿の祐貴の母の由美子が走って来て「待っていたのよ」 と嬉しそうな表情で、祐貴と里佳子を迎えた。 由美子は、祐貴とは違って小柄で可愛らしい女性だった。
「初めまして。西島里佳子です」 直立不動で里佳子は挨拶をした。
「緊張するなよ」 緊張度100%の里佳子の様子が可笑しくて、祐貴は耳元で囁いた。
「まあ、里佳子さん! 本当によく来てくれて。さあさあ、上がって!」 由美子は二人を促した。
「お邪魔します」 里佳子は脱いだ自分のブーツと祐貴のスニーカーをきちんと揃えたが、その様子を由美子はじっと見 つめていた。
「お父さん! 祐貴達が来ましたよ!」 由美子はリビングに向かって声をかけた。祐貴に背中を押されて里佳子も遠慮がちにリビングに向っ た。
「よく来たな!」 義父の省三はリビングで二人を迎えたが、里佳子を見た省三が一瞬驚いた表情をしたのを、 祐貴は見逃さなかった。
「ご無沙汰しています。」 祐貴は何事もなかったかのように挨拶をし、省三に紹介するために里佳子を振り向いたが、 その里佳子の顔が強張っているのにも気がついた。
「何なのだ?」
……そう思った時……
「あらあら、どうしたの? みんな座って」 由美子がその場の雰囲気をほぐすように明るく声をかけた。
「改めて紹介します。西島里佳子さんです」 祐貴も気を取り直して、義父と母に里佳子を紹介した。
「はじめまして。西島里佳子です。よろしくお願いします」 まだ硬さの残っている里佳子が頭を下げた。
「祐貴の義父の村上省三です。こっちは母親の由美子です。しかし、祐貴には勿体ない位の綺麗な人だ!」 省三は、いつもの物静かな義父に戻って言った。
「本当に祐貴には勿体ないみたい! いつまで経っても嬉しい話を聞けないから心配していたけれど、 こんなに素敵なお嬢さんを連れてきて……お父さん、これで安心よね。里佳子さん、ありがとう! よろしくね」 由美子は嬉しそうだった。
「こちらこそよろしくお願いします。お庭の水仙が見事ですね」 笑顔が戻った里佳子が言った。
「ありがとう。私は水仙が大好きで……いつの間にか増えちゃったの」 由美子が満足そうに答えた。
「母さん、ビール!」 ソファーに腰を下ろした祐貴が言った。
「あら、もうビール? お風呂に入ってからにすればいいのに……」 由美子が呆れた様子で祐貴を見ながら笑っていた。
「いいじゃないか」 省三の言葉を受けて「はい、はい」と由美子はイソイソとした様子でキッチンに向った。
「早速、二人の馴れ初めを聞きたいけれど、ビールでも飲まないとまともに聞けないだろうな」 省三も嬉しそうだった。
祐貴と里佳子は思わず顔を見合わせたが「劇的な出会い」は省いて、祐貴は「ホテル仲間の会合で知 りあったのです。話をしたら気があって……」とさりげない出会い風の物語を手短に語った。
「そうだったの、結構普通な出会い方だったのね……」 ビールとつまみを用意し終えた由美子が話しに加わった。
「飲めるんでしょう?」 省三がビール瓶に手をかけながら里佳子に訊いた。
「飲める、なんてもんじゃないよ!」 そう言われた里佳子は祐貴を睨んだが、持ったグラスにビールを注ぐ省三の手を見た里佳子の手が突 然震えて、ビールがテーブルにこぼれた。
一瞬、その場の雰囲気がまた乱れた。
「すみません。祐貴さんが変な事言うから」 慌てた里佳子は言い訳をして、膝の上に置いたハンカチでテーブルを拭いた。
「勿体ない、っていうさっきのお返しだよ!」 里佳子の様子が変だ、と感じた祐貴が咄嗟にその場を繕った。
「結婚が決まって少しは大人になったかと思ったけれど、相変わらず駄々っ子の末っ子なのね」 テーブルの上を綺麗に拭きながらの由美子の言葉で、その場の雰囲気が少し柔らいだ。
「あらためて、乾杯!」 省三の音頭で四人はグラスを上げた。
「里佳子さんは、ご両親と横浜にお住まいなの?」 由美子が尋ねた。
「両親と弟は私が2歳になる前に交通事故で亡くなりました。その後は、父方の叔母の養女として育て られましたが、養父は高校生の時に病気で亡くなり、養母も私が25歳の時に癌で亡くなりました」
「そうだったの。ごめんなさいね、辛い事を聞いてしまって。ご苦労されたのね」
「実は、そうでもないんですよ。養父や養母から、甘やかされてわがままいっぱいに育てられたので、 苦労していたのは二人だったと思います」
省三は黙って、由美子と里佳子の会話を聞いていた。
祐貴は、里佳子を見た瞬間に顔色が変わった義父の姿を思い浮かべていた。
「最初に会った時に、凛とした人だと思ったのは、そういう経験をされているからなのですね。ご苦労 をされているんだ」 省三が、里佳子を誉めた。
「そう言って頂いて嬉しいですけれど、少し恥ずかしい気もします。祐貴さんの駄々っ子といい勝負に なりそう、と言うか私の方が勝っているかもしれませんから」
「ほら! 見ろよ! 人は見かけで判断しちゃダメなんだよ」 祐貴の得意げな様子に皆が声を上げて笑ったが、さっきの省三と里佳子の様子が頭から離れない祐貴 は、不安な気持ちを振り払うには自分がピエロになるしかない……と思っていた。
「ところで、山中湖のホテルってどんなホテルなの?」 由美子の質問で祐貴は転任先のホテルの話を始めた。楽しそうに会話に加わっている里佳子を見て、 祐貴の中から、さっき感じた不安が少し遠のいていった。
2 「お義母さん、お夕食は7時でいいですか?」 女将の美由紀が母屋に来て声をかけた。
「私達は大丈夫だけれど、美香や美咲は大丈夫なの?」
「美香と美咲は、今日特別にピアノはお休みにしました。おめかしして二人に会うって言って、今から 大騒ぎです。じゃあ、7時で準備を進めますね」
義姉の美由紀の対応は見事だ。いつも良いタイミングで現れ、出る時と退く時をきちんと考えている。 ホテルの大女将として厳しい由美子の教育の賜物でもあるだろうが、福顔で、人を穏やかな気持ちにさ せ雰囲気を持っている美由紀の努力も並大抵ではないのだろう。本来は自分が継ぐべき鴨川シーサイド ホテルを継いでくれた義兄の雅彦と美由紀に、祐貴は改めて感謝の気持ちを抱いた。
「今日の夕食は、板さんにお願いしたのよ。ホテル自慢の料理を楽しんでもらおうと思って」 美由紀が去った後、由美子は言った。
「そうじゃないだろう? 自分の料理に自信がないんだよね」
「駄々っ子の次は憎まれ口? 美香も美咲もおめかしをしているっていうから、二人ともそろそろお風 呂にでも入って来たら?」
「母さんの分が悪くなってきたって証拠だな。じゃあ、言葉に甘えて風呂に行こうか」
「はい!」 二つ返事で里佳子も腰を上げた。
「お食事の時は浴衣で構わないのよ。里佳子さん用には、美由紀さんが選んだ浴衣がお部屋に用意して あるから。遠慮しないでリラックスしてね」
「お気遣いありがとうございます」
二人は母屋を後にした。
「貸切風呂に入る?」 部屋の前で祐貴が里佳子を誘った。
「ごめんね、ノーよ。一人で大きなお風呂でゆっくりするの」
「何だよ!せっかくなんだからさ……」 祐貴は不満そうに口を尖らせた。お風呂に入ってリラックスした所で、さりげなく、さっきの事を訊 いてみたかった……
「駄々っ子祐貴君、じゃあ、後でね」
里佳子は笑って自分の部屋に入って行ったが、祐貴には里佳子が「逃げた」様に感じた。
「お待たせしました」
母屋のリビングには、省三と由美子、風呂に入りリラックスした祐貴と里佳子が顔を揃えていた。
美香と美咲は恥ずかしそうに雅彦の陰に隠れていたが、祐貴の姿を見つけて「祐貴お兄ちゃん!」と 飛びついてきた。
長い髪をポニーテールにしてクリクリッとした目が可愛いが、二人とも奇妙な格好をしていた。
「よう! 元気だったか? 何だよ! その格好は。おめかししているっていう割りにはダサいよなあー」 二人のいでたちに祐貴は目を丸くして驚いた。
美香は胸元にりぼんが付いたピンクのセーターに水玉模様のギャザースカートをはき、おまけにボー ダーのレギンスまではいていた。美咲は真ん中にピンクの大きなハートのアップリケがある黒のセータ ーに黒のプリーツスカートまでは良かったが、裾にフリルがついたハート柄のレギンスをはいていた。
「ひどい!」 美香が怒って祐貴の足を叩いた。
「自分の一番好きなパーツを組み合わせたら、こういう格好になった。美由紀が泣いていたよ」 言葉とは裏腹に、雅彦の表情には「娘可愛さ」が表れていた。。
「こんにちは。美香ちゃんと美咲ちゃん。私は西島里佳子です。よろしくね」 里佳子は二人の目線に合わせるようにかがんで声をかけた。
「わあーっ! 綺麗なお姉さん! それに、りかこっていう名前も素敵!」 美香が口元に手をあてて恥ずかしそうに言った。美咲はモジモジしていた。
「この二人が鴨川シーサイドホテルの看板娘。6歳なんだよな……だっけ?」
「違うよ! 7歳だよ。春には8歳になるんだから!」 また美香が祐貴の足を叩いた。
「お姉さんの浴衣……カワイイ!」 遠慮がちに美咲が言ったのを受けて、里佳子は「ありがとう」とお礼を言った。
「凄くカワイイ!」 美咲に負けてたまるか、と言う様に、美香が美咲を押しのけて里佳子の浴衣に触れた。 美香に押された美咲が美香を押し返し、そこで二人は押し合いっこを始めた。
「いい加減にしなさい」 二人の間に雅彦が割って入った。
「フン」という顔をして美香が美咲を睨んだが、急に表情を変え「ねえ、一緒に貸切風呂に入ったの?」 遠慮容赦なく祐貴に訊いた。
「ひ・み・つ」と答えた祐貴に「エッチ!」美香が祐貴を指差した。
「ねえ、里佳子お姉さん、一緒に入ったの?」 それでも美香がまだしつこく訊いた。
「ううん、入らなかったのよ。大きな露天風呂に一人で入ってとても気持ち良かったの」
「なーんだ。祐貴お兄ちゃん、残念だったね」
「言っただろう。問題はこの二人だって。最初に言っておくけれど、この家は飲み物はセルフなんだよ。 みんな酒飲みだから、人の事なんて構っていられないんだよ」 祐貴が言う様に、ワゴンの上にはクーラーボックスに入ったワインや、ウィスキー、焼酎のボトルが 揃っていた。
そこに、女将の美由紀と中居が料理を運んで来て、和室の大きな掘りごたつの上に料理を並べた。
「美香はここ!」と早速、美香は祐貴と里佳子の間に座った。
「ズルイ! 美咲だってそこに座りたいのに!」 美香に先を越された美咲が泣きべそをかき始めた。
「美咲は祐貴お兄ちゃんの隣においで」 祐貴が優しく声をかけたが「ヤダ!」美咲はふくれっ面をした。
「じゃあ、こっちは?」 里佳子が自分と美由紀の間を指差した。
「そっちならいい」 美咲はそう言ったが席につく時に美香に「あかんべえー」と返した。
ホテル自慢の板さんの料理を楽しみながら村上家の会話が弾んだ。村上家で一番のお喋りは祐貴で、 一番の無口は省三だった。
「そろそろ美香と美咲はお風呂に入って寝る時間よ」 テーブルの上の料理が残り少なくなった頃、美由紀が二人に告げた。
「はーい」 二人は声を揃えた。
「聞き分けがいいじゃん」 祐貴がそう言った途端「美香は里佳子お姉さんと一緒に寝たい!」「あっ!ズルイ!美咲だって、 里佳子お姉さんと一緒に寝る!」また二人がわがままを言い始めた。
「何言っているの。里佳子お姉さんは、おじいちゃまやおばあちゃまとお話をするために来たのよ。 だから、邪魔しないの。それに、明日は学校でしょ。言う事を聞いてね」 美由紀が二人をたしなめた。
「学校の支度はさっきしたよ。それにお風呂にも入って早く寝るよ。でも、里佳子お姉さんと一緒にい たいの。」 省三は孫が可愛くて仕方がない様子で、わがままを言う二人に目を細めて見ていた。
「里佳子さん大人気なのね。でも、今日はおとなしくお母さんの言う事を聞きなさい。二人がわがまま 言うとお姉さんが困っちゃうでしょう?」
由美子が間に入ったが「だって、里佳子お姉さんは明日帰っちゃうんでしょう? お願い、お姉さん と一緒に寝たい!」「美咲も!」 二人は一歩も引かなかった。 里佳子は笑いながらも困った表情をしていたが「じゃあ、こうしない?」そう言いかけた時、祐貴が 里佳子の足を軽く蹴った。
「二人のわがままを聞くなよ」ではなく「二人に自分達の時間を邪魔させるなよ」と祐貴が言いたいの を感じた里佳子は「美香ちゃんと美咲ちゃんがお風呂から出たら、お姉さんに教えて。少しだけだけど、 二人と一緒にいるから。それでどう?」
「大丈夫ですよ」という表情で里佳子はみんなを見回した。
「やったあ! じゃあ、お風呂に入る!」 二人は同時に席を立った。
「ごめんなさいね」 美由紀が申し訳なさそうに里佳子に謝った。
それから30分程して、お風呂にも入りパジャマに着替えた二人が里佳子を呼びに来て、里佳子は二 人の部屋で本を読み、二人が満足した所で「じゃあ、おやすみなさい」そう言ってリビングに戻った。
大人だけになったリビングは落ち着きを取り戻した。
「美香と美咲のわがままに付き合わせちゃって本当にごめんなさいね」 美由紀が里佳子に謝った。
「おじいちゃまが甘やかすから……」 由美子が省三を睨みつけたが、顔は笑っていた。
「だけど、親父はしつこい位に甘いくせに、泣いてぐずると知らん顔するんだよな」 雅彦が由美子の言葉を受け継いだ。
「いつだったか? 確か美香と美咲が2歳の頃かなあ、ギャーギャー二人が泣き喚いているから、驚い て母屋に行ったら、二人を目の前にして、親父が真っ青な顔をして冷や汗かいていたよな」
「そんな事はない!」 雅彦の言葉に、ムッとした表情を浮かべた省三が声を荒げた。
省三が不機嫌な顔をして、少し場の雰囲気が悪くなった。
「いつもは、祐貴さんを取りっこして大騒ぎなのよ」 笑顔の美由紀が場を繕った。
「でも、今日の祐貴は全く無視されているのね」 由美子も可笑しそうに笑った。
「来るそうそう、俺には勿体ないとか、美香にはエッチって言われて。今度は無視されているって」 祐貴はむくれた。
「だけど『幸せ!』って顔に書いてあるぞ」
祐貴が雅彦に冷やかされて、皆はは声をあげて笑ったが、省三の笑顔が少し強張っていた。
「本当に駄々っ子の末っ子なのね。里佳子さん、こんな祐貴で本当にいいの?」
「どうしたらいいと思いますか?」
「だけど、俺は0型で里佳子はB型なんだよ。大きな目標に向う強い意志を持つ頼りがいのある0型の 男は、その日の気分次第のB型女の最高のパートナーなんだよ。どれだけ俺が苦労しているかって…… いいよ、そうやって俺を酒の肴にして……勝手に飲んでよ!」
祐貴のふくれっ面が絶好調になったが、省三の不機嫌な様子に、また、祐貴の中に不安感が戻って来 た。
「いい?」
楽しくて賑やかだった食事が済み、里佳子の部屋の前で祐貴はそっと里佳子に訊いた。 こういう時、当たり前のように部屋に入って来ない祐貴が里佳子は好きだった。
里佳子は黙ってうなづき祐貴の手を取った。
「一緒の部屋でいいのに!変な所に気を使い過ぎなんだよ!」 里佳子の部屋に入った祐貴がまたまた吠えた。
「本当に今日の祐貴は、駄々っ子の末っ子だね。」
「そんな俺は嫌い?」
「大嫌い!」 そう言って里佳子は祐貴に抱きついた。
「俺だって意地悪な里佳子が大嫌いだ!」 駄々っ子の末っ子状態の祐貴は里佳子にキスの雨を降らせた。
「だんだん好きになってきた」
「里佳子お姉さんは悪いお姉さんだ!」
二人は布団の上に倒れこんだ。
3 翌日は朝から雨が降っていた。母屋ではなくホテルの「お食事処」で朝食を済ませ、午前中は温泉に 入ってのんびりした二人は、昼過ぎに出発する事にした。
昨夜が楽しかった分別れが淋しかったが、これからの事を考え、それぞれが幸せな気分になっていた。
「里佳子さん、これを持って行ってね」 由美子が庭に咲いている水仙の花束を里佳子に手渡した。
「困った事があったらいつでも言って来なさい。二人とも仲良く元気でな」
昨夜の不機嫌さが陰をひそめた省三は祐貴と握手を交わし、次に里佳子に握手を求めた。
……その瞬間、里佳子の身体が眩暈を起こしたかのように揺れ、祐貴は思わず里佳子を支えた……
「大丈夫?」
省三も由美子も心配そうな顔をしていた。
「大丈夫です。昨夜が楽し過ぎて、ちょっと飲み過ぎました」 里佳子は誤魔化した。
「本当に大丈夫?」
「ごめんね、心配かけて。もう大丈夫よ。でも、素敵な家族で楽しかったし、そういう家族の一員にな れると思うと嬉しいの。でも、お義母さんは、本当にお義父さんが好きなのね。なんか、二人の様子を 見ているとほのぼのとした気持ちになったの」
里佳子は笑顔だったが、顔色が悪かった。
「本当にありがとう! 俺も嬉しいよ」 祐貴は里佳子の手を握り、そして車を発進させた。
バックミラーには二人を見送る両親の姿が写っていたが、省三の表情が強張っているのには、祐貴は 気が付かなかった。
海沿いをドライブし、鴨川駅近くの寿司屋で旬の魚を味わった二人が、弘明寺の里佳子のマンション に到着したのは夕方過ぎだった。
「寄ってく?」 里佳子が祐貴の顔を覗き込んで訊いた。 祐貴はまだ里佳子と一緒に過ごしたかったが、帰りの車中でいつもより口数が少ない里佳子の様子に、 かなり疲れているのだろう、今日はゆっくり休ませてあげよう。と思い「駄々っ子で末っ子の祐貴を元 の祐貴に戻さなくちゃならない。戻すには時間がかかりそうだから、今日はこれで帰るよ。里佳子もゆ っくり休めよ」とやんわりと断った。
「そうね、早く戻してね。それと……鴨川では気を使ってくれてありがとう」
里佳子は軽く祐貴にキスをして車から降りようとした。 もう一度里佳子とキスを楽しみたかった祐貴は、周りに誰もいないのを確認して、ドアを開け降りよう とする里佳子の腕を掴んだ。
「イヤッー!」
突然里佳子が激しく叫び、手で顔を覆った。
「ごめん……」
余りの取り乱し方に祐貴は驚いて詫びた。
「キスしたかったんだけど驚かせちゃった? 本当にごめん……大丈夫?」 祐貴が声をかけた時、里佳子は震えていた。
「だめなの、手を掴まれるのが……昔、怖い事があったみたい……」 里佳子はシートにもたれかかって呼吸を整えていた。
「帰るね」
しばらくして落ち着いた里佳子はそう言って、もう一度祐貴に軽くキスをして車から降りる気配をみ せた。 「一緒にいようか?」と声をかけようとしたが、何故か祐貴は躊躇った。
「ゆっくり休めよ」 トランクからバッグを取り出しながら祐貴は優しく言った。
「ありがとう。またね」
バッグを受取った里佳子は、エントランスに入る前に「バイバイ」と笑顔で手を振ってマンションの 中に消えたが、祐貴はしばらくの間、車を発進させる事が出来なかった。
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