2003年
1 里佳子と付き合いだして、一年が経った……
「久しぶりにどう?」
珍しく今野が祐貴を誘いに来たのは、お盆も過ぎた残暑が厳しい日だった。 早朝番勤務が続く里佳子とはシフトが合わず、今日の夕食はラーメンでも食べに行くか、と考えていた祐 貴は二つ返事で誘いに乗った。 今野の部屋は、男の一人暮らしを絵に描いたような、雑然としてむさ苦しい祐貴の部屋とは違い、いか にも「海の男」風でお洒落れだった。壁際にはサーフボードが無造作に置かれているが「無造作」とは祐 貴が感じるだけであって、部屋のドアを開けた時、真っ先に目に付くように計算された位置に置かれてあ る。セミダブルベッドにはアジアンチックな布がかけられ、ベランダに面した掃き出し窓には、会社お仕 着せのベージュのカーテンではなく、ウッドブラインドが備え付けられていた。 ガラス製の丸いダイニングテーブルの上には、バリ風なランチョンマットが敷かれ、陶器で出来た酒器 や取り皿などが綺麗に並べられていた。小さなキッチンのレンジの上には土鍋が火にかかっていて、出汁 の良い香りが漂っていた。
「今日のメニューは何?」 エプロン姿で甲斐甲斐しく料理をしている今野に、祐貴は尋ねた。 見るからにサーファーっぽい今野には、エプロン姿も似合っていた。
「宮城のお袋から上等な肉が届いたから、今日はしゃぶしゃぶ鍋。暑い夏に鍋っていうのも意外性がある だろう? 最高の肉をお前に食べさせたい俺の友情。いい友達だよな、俺って」 今野は自慢げに言った。 「何言っているんだよ。他に友達がいないだけだろう」
「ひどい男だ! ホラッ、突っ立ってないで手伝え! 冷蔵庫から肉を出せよ」 今野に促されて祐貴は冷蔵庫を開けたが「上等な酒が冷えてるじゃん!」と宮城県産の地酒を見つけて 声をあげた。 「これもお袋さんからの残暑見舞い?」 「バカ言うなよ。これは俺のお・ご・り」 そう言って今野は祐貴にピストルを撃つポーズを取った。普通の男がそんなポーズを取るとキザで嫌味 になるが、今野にはそんなポーズが良く似合った。
「おつかれ!」 用意が整って、二人は地酒で乾杯をした。
「最高!」 肉を口に入れた祐貴が思わず声をあげた。
「益々色気が出てきたな」 夢中で肉を食べ、地酒に舌鼓を打つ祐貴を見ながら、今野がしみじみと言った。 「何だよ! 突然に変な事言うなよ!」
「そろそろ一年か。イイ女なんだろうな」 「誰が?」 祐貴はとぼけた。
「会社の女の子は騙せても、俺は騙されないよ。以前は女を連れた……と言うより女に連れられたお前の 目撃情報が耳に入ってきたが、ここ一年程、その情報がパッタリと途絶えた。おまけに隣は静か。だった ら何がお前に起きているか? って想像はつくよな。本気なんだろう? 隠してないで、もういい加減に 白状しちゃえよ!」 今野は「どうだ! マイッタか!」という様な表情で祐貴を見ていた。
「別に隠していたわけじゃないよ。話をすると幸せが逃げちゃいそうでさ……」 照れた様子で祐貴が口を開いた。
「お前、今、自分が言った事分かっている? 初恋を経験したガキんちょみたいな事言うなよ!」 今野が呆れ顔で祐貴を睨んだ。 「あー、でも、そうか! 初恋だ! そうなんだ……」 今野が納得したような顔をした。 「バカ言うなよ!」 祐貴は真っ赤になった。 「やだー、村上君、カワイイ!」 真っ赤になっている祐貴を見て、今野が、ホテルで「お局様」と言われている、ゲストサービス部の女 性マネージャーの口真似をした。 「いい加減にしろよ! 本気なんだから」 思わず祐貴は口を滑らせた。
「やっと白状したな……そうか……遂に巡りあったか……」 今野は感慨深げだった。
「いいよ、俺の話は。そっちはどうよ? あの美人はどうしたの?」 祐貴は恥ずかしくなって話題を変えた。 以前、今野の部屋を訪れる、いかにもビキニが似合いそうなモデルタイプのイケテル女の子を目撃して いたし、壁が薄い構造の隣室から怪しげな声も聞こえてきたが、最近は今野の部屋も静かだった。
「俺? 俺はさ……」 今野の顔が曇った。 「圭はさ、春に結婚しちゃったんだよ。去年の秋に行ったバリ島で、ヨーロッパ人のプロサーファーに恋 しちゃって。俺もさ、結婚って考えた事もあったけれど、しっかり捕まえておかなかったのが悪い。一時 期は落ち込んだけどね」 「そうだったのか。気がつかなくて悪かったな。」
「いいんだよ。そんな事より、お前の話を聞かせてよ。それで、幸せのお裾分けをしてよ。俺も、また幸 せを掴みたいから」 それで、祐貴は観念して里佳子との事を告白した。
聞き終えた今野は何故かため息をつき「彼女、スタイルも抜群で日本人離れして妖精のような人だよね」 ポツリと言った。
「妖精か……」
里佳子の事を思い浮かべた祐貴の胸がキュンとなった。付き合って一年になり、いつも一緒にいるのに、 こんな気持ちになる自分が不思議だった。
「彼女、関内クラシックホテルなんて、あんな所……って言っちゃ失礼だけど、勿体ないよね。でも、あ れだけ綺麗な人がフロントにいたら誘惑多いだろうなあ……」
「言うなよ! 俺だって心配なんだから!」
「すげえ! 天下の村上祐貴も、ただのやきもち焼きの男だったって事か!」 今野は声を上げて笑った。
「お前を見事に落とした彼女に乾杯!」 祐貴に向って乾杯の仕草をした。
「結婚はいつ?」 改めて今野が訊いた。
「当分ない。結婚はしたいと思っているさ。だけど、居心地が良い関係ってあるんだよ。今はまだそうい う関係を楽しみたい。本当に幸せなんだ」
「そうかなあ。それはお前の本心じゃないだろう。お前って『プレイボーイ』とか言われていて、実際に たくさんの女と付き合ってきただろうけれど、決していい加減で軽い男じゃないよな。本気で惚れた女が 出来た時、即結婚を望むタイプだって俺は思っているよ。だから、居心地が良い、と言うのは彼女が、な んじゃないの。彼女に負けている……だけど、そうじゃないよな。負けていたらイイ男にはなってない。 関係を大切にしているから慎重になっている、と言うか、相手の気持ちを尊重しているのだろうな。って 言うか、それだけ惚れているって事なんだよな?」 今野は祐貴を覗きこんだ。祐貴は黙って笑っていた。
「たださ……お前が……俺は今のお前が好きだけど……」 そこまで言って今野は話を止めた。 「何だよ。最後までハッキリ言えよ」
「彼女の気持ちを大事にするのもいいけれど、お前はお前らしくいろよな」 今日の今野は早いうちから酔っていた。 「あー、なんか今日の俺はヤバイ。お前の毒気にやられたみたいだな」 そう言って今野はベッドに寝転んだ。 何故だ? 祐貴の中に「不安な気持ち」が首をもたげた。
今野を信じている。その今野の様子が変だった。
「大丈夫か? 俺は退散するよ」
「またゆっくり飲もうぜ。だけど、片付けなんかするなよ。そのまま帰れ!」
「分かったよ。しゃぶしゃぶも地酒も美味かったよ。ご馳走様」 そう言って祐貴は今野の部屋を後にした。 今野は自分とは正反対の感覚人間だ、里佳子も今野と同じ感覚人間だ。 だから、たった一度会っただけでも、今野は、自分には気付かない里佳子の事で何か感じた事があるのか もしれない。 そして、祐貴も感じている不安……何かあると何処かに行ってしまうような不安……その事を伝えたく て、誘ったのかもしれない……
「心配するなよ。里佳子と二人で幸せになる自信はあるし、俺は変わらないよ」 祐貴は、壁の向こうにいる今野に向かって呟いた。
「幸せになれよ」 今野はベッドの上で、いない祐貴に向って声をかけた。 親友が「幸せだ」と言い切るのは嬉しい事だから……しかし、今野は不安だった。 いつか、村上祐貴が自分を見失うような時がくるような気がした。 その原因を作るのは里佳子だろう。何故、そんな事を思うのか今野は分からなかった。 去年の夏にバーであっただけだが「妖精」の里佳子が「魔法使い」になって、親友の祐貴を奪って行くよ うな気がした。
「酔っているんだな」 今野はその不安を、酔いのせいにした。
2 今野真人が「話しがある」とあらたまった様子で、祐貴の元を訪れたのは、11月の始めの連休が終わ った頃だった。
その日、祐貴は公休日で、仕事を終えた里佳子と、本牧にあるお気に入りのエスニック料理レストラン で食事を楽しもう、と考えていたが、今野の尋常と違う様子に、里佳子とのデートは諦めて今野の誘いを 受ける事にして、二人は独身寮に程近い居酒屋に出かけた。
「会社を辞める事になった」 突然の今野の言葉に、祐貴は驚いた。 「結婚する事になったんだよ」 9月の初めに宮城県の実家に帰省した際、再会した高校時代の同級生とよりが戻った。という話を聞い ていたが、余りの進展の早さに祐貴は自分の耳を疑った。
「実はさ、出来ちゃって……来年の7月に生まれる……」 珍しく今野が顔を真っ赤にして照れながら言った。 「何だよ! 遠距離恋愛で中々会えない。って言っていた割には、やる事はやってたんだな」 「勘弁してよ。彼女の親父さんにも散々言われたんだから」
「俺の幸せのお裾分けをしっかりと受けとめたって事か」 「ちょっと、受けとめ過ぎちゃったけどね」 照れ隠しで、声をあげて今野は笑った。
「だけど、子供を産むのは彼女で、どうしてお前が会社を辞めなくちゃならないの?」 祐貴は疑問だった。
「うん、彼女の親父さんが仙台市内でバイク屋を経営しているんだけど……バイク屋って言うと怒られる んだよな、オートショップって言えって。スペースがあるから、そこでサーフショップをやらないか? って言われてるんだよね。彼女一人娘だから、親父さんは手放したくないんだよ。それに、なんか、お袋 も最近弱気になって。兄貴と姉貴も傍にいるからいいだろう。と思っていたけれど、末っ子の俺にも傍に いて欲しいらしくて。9月に仙台から帰る時には泣かれたりしちゃってさ、気になっていたんだよ。まあ、 日本一のバーテンダーになる夢を持っていた俺としては散々悩んだんだけど、いい転機かなと考えたら、 アドレナリンが駆け巡って来て、別方向になるけれど、いろいろやりたい事が出て来た」
「そうか……そうだったのか……だけど、おめでとう!」 今野の幸せを願う気持ちと、親友が去って行く淋しさを同時に感じた祐貴は、ちょっと声が詰った。
「退社の時期はいつ?」 「真っ先にお前に話をしたかったから。その後、来週には退職届を出すつもり」 「そんなに早くにか! なんだよ!」
何故か祐貴の目に涙が溢れた。
「どうしたんだよ!」
祐貴の涙を見た今野は面食らったが、祐貴の気持ちが嬉しかった。
「お前と付き合って9年になるけど、俺はお前と知り合って良かった、と思っているよ。会社の中で本音 で話せるのはお前だけだ」 今野がしみじみと言った。 「よく言うよ! 最初は嫌いだったんだろう」
「俺は自分が一番! って思っていたからさ。同じ匂いがするお前が気に食わなかった」
「俺は、自分が一番なんて思ってなかったよ。謙虚な気持ちでいたよ」
入社して、全社研修が終わり「横浜」と配属先の発表が済んで「横浜組」が集まった時「何だ、コイツ は!」という様な顔で、今野に睨まれた時の事を祐貴は思い出した。 独身寮で隣同士にも関わらず、今野は出社してフロントオフィスに「本日の宿泊者リスト」を取りに来 る際にも、何故か祐貴を避ける様な態度を取っていた。それが変化したのは、今野のガールフレンドの一 言がきっかけだった。
「あの時さ、洋美だ、あれっ? 洋美じゃなかった。誰だっけ? そうだ、そうだ加奈子だ!」
「こんな場面でコケルなよ!」 笑いながら祐貴が口を挟んだ。
「俺はさ、お前と違って付き合った女の名前は全部覚えているからな。加奈子が言ったんだ。隣は誰? 凄い呑み助みたいよ。って。呑み助という言葉に敏感に反応しちゃってさ。それが運命の分かれ目だった よな」 今野も、昔を思い出して懐かしそうな目をした。
「付き合って分かったんだよ。俺も自信家だけど、お前も自信家だって。最初は気に食わなかった同じ匂 いに、段々と親近感が沸いてきた」 今野の祐貴を見る目が優しかった。
「そうさ、自信はあったし、今もあるよ。自信をつけるために勉強して頑張ってきた」 祐貴の実家は、千葉県の房総半島で「鴨川シーサイドホテル」という観光ホテルを経営している。 婿養子に入った祐貴の父親の村上祐介は、ホテルの経営者と言うよりは、生真面目な学者肌タイプの男だ ったが、祐貴が小学三年生になった年の春、鴨川シーサイドホテルを背負っていく事に疲れ果て首吊り自 殺を図った。 小さかった祐貴は、何も事情が分からずただ父の死を悲しんでいたが、中学生二年生の夏休みに、父の 自殺の原因を知る事になった。
「母さん、部活に行って来るよ」 夏のバスケットボール部の強化練習に出かけるため、祐貴は母の部屋に行って声をかけた。 その時「女将さん、お願いします」と仲居頭が女将である母を呼びに来た。再婚が決まって、部屋の片 づけをしていた母は、笑顔で「行ってらっしゃい。頑張ってね」と言って、慌てて立ち上がり部屋を出た が、祐貴とすれ違った時、母の着物の袂から白い紙が落ちた。
「何か落ちたよ」 祐貴は母に声をかけたが、母は気付かずそのままホテルに向ってしまった。
「何だろう?」 二つに折りたたまれたその紙を開いた。
それは「私にはもう自信がないし、何も出来ない。そんな私を許してほしい。村上祐介」とだけ書かれ た父の遺書だった。
祐貴はしばらくの間動く事が出来ない位の大きなショックを受けた。どうしようもない程の怒りが込み 上げてきて「ふざけるな!」と声に出し、仏壇に飾ってある父の位牌を思わず放り投げた。
「自信がない」 その事で、父は、母と自分にあんなにも悲しい思いをさせたのか!
あの時、幼なじみの真知子から「祐貴君のおばちゃんは怖くないよね?」と聞かれた事があった。
「怖くないよ。母さんはやさしいよ」 祐貴はそう答えた。 「そうだよね? でも、うちのおばあちゃんとお父さんが言ってるんだよ。祐貴君のおばちゃんは鬼嫁だ って。鬼って怖いんでしょう?」 真知子は不安そうな顔をしていた。
「バカ! 母さんは鬼じゃないよ!」 祐貴は泣きながら真知子の前から逃げ出した。
そうだったのだ。この狭い町で、母は「婿養子の夫を死に追いやった鬼嫁」と陰口を言われていたのだ。
葬儀が済んだ翌日から、女将の母は客を笑顔で迎えた。辛かったのだろうが、祐貴は母の泣いた顔を見 た事はなかった。そして祐貴には「お父さんは優しかったね」いつもそう言い聞かせた。
「母さん、そうじゃないだろう?」 祐貴は心の中で母に問いかけた。 優しかったら、本当に優しかったら、母や自分を悲しませるような事はしなかった。 「許してほしい?」 冗談じゃない! 父は優しくなんかない、ただ、気が小さくて自分勝手な男だった。
死を選んだ父も苦しかったのであろうが「自信がないのなら、どうして自信をつける努力をしなかった のか? 努力しても、自信をつける事が出来なかったとしたら、他に選択肢はあっただろう」
祐貴は悔しかった。自分がこんなに悔しいのなら、母はもっともっと悔しいだろう。 その証拠に、母が再婚で選んだ相手は、自信に満ち溢れた堂々とした男だった。
「自信を持てる男になる!」 祐貴はその時に決心をした。
「俺もさ……お前に礼を言うよ」 今野の言葉で祐貴は、ハッと我に返った。子供の頃の辛い記憶と今野を失う淋しさが混ざり合って、ま た祐貴の目から涙がこぼれた。
「たまには、男の涙を酒の肴にするのもいいものだな」
「涙を流しているのが天下の村上祐貴で、涙をつまみに酒を飲むのが日本一のバーテンダーだからな」 祐貴はおしぼりで流れる涙を拭った。
「俺も日本一のサーフショップの親父になるから、お前も日本一のホテルマンになれよ!」 今野がそう言って、また二人はグラスを合わせた。
「ところで、結婚式には来てくれるだろう?」
「いつ?」
「12月24日!」
「ウソ? だろう……マイッタよなあ……」 祐貴は、クリスマスイブのシフトの事を考えた。
「その日のホテルがどういう状態だか、知っているだろうに」
「お前の一人や二人いなくたってホテルは回るよ。仕事と俺とどっちが大事なんだよ!」
「仕事に決まってるじゃん!」
「よく言うよ。彼女と一緒に来いよ」
「待てよ」 祐貴はそう答えたが、頭の中では里佳子と一緒に仙台に行こうか?と考えていた。
「フロントシフトはお前が作っているんだろう? おそらく、関内アーバンホテルのシフトも彼女が作っ ているんだろうし、合わせちゃいなよ」
今野は何でもお見通しだった。フロントアシスタントマネージャーの里佳子の業務内容に、フロントシ フト作成業務も入っていたので、時々、二人で示し合わせて休みのシフトを組んでいた。
「バカ言うなよ。無理だって……」
「顔に書いてあるよ。彼女と一緒に仙台に行くよ!って」 可笑しそうに今野は祐貴の顔を覗きこんだ。
「ここのホテルで結婚式を挙げるんだけど」 今野はバッグの中から、ホテルのパンフレットを取り出して祐貴に見せた。
「話はしてみるけどさ……」 祐貴は一応ポーズをとったが、決めていた。
「里佳子と一緒に仙台に行こう! そして……二人で幸せになるんだ! 思い切ってプロポーズをしよう」
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