2002年 7月
センチュリープラザ横浜
1 フロントの業務を終え、制服を私服に着替えた村上祐貴は「久しぶりにホテルのバーにでも 行ってみようか」という気分になった。しかし、忙しかったら行くのは忍びない。
「まだ7時過ぎだが、どんな様子だろう?」 内線電話でバーに電話を入れた。
「ありがとうございます。カサブランカ今野でございます」 気取った様子で、バーテンダーの今野真人が応えた。 「お疲れ! バーの入りはどう?」 「何だよ! 村上か! 気取って損したな」 笑いながら今野が応えた。 「センスないよな! この時間帯に、バーの入りは? はないだろうって。大変申し訳ござい ません、今日は予約で満席でございます。まあ、飛び切りの美人同伴だったら、カウンター席 を特別に用意してもいいけれど」 今野が憎まれ口をきいた。
「悪かったな。生憎、俺一人。カウンターでいいよ。今から行くからさ」 「だったら、モニター頼むよ」
それで話は決まった。 祐貴は従業員エレベーターを使ってバー「カサブランカ」がある最上階に向い、従業員用出入 り口からバーに入った。カサブランカは客がゼロだった。
「忙しそうだな」 客がいないのに、カウンターの中でシェーカーを振っている今野に、祐貴は声をかけた。
「ホテルマンに日焼けはご法度」と言われているが、程よく日焼けしたサーファーの今野を見 ると、その言葉は当てはまらない、と祐貴は思う。「今野はカッコイイ」
二人は同期入社で独身寮の隣人同士でもある。 祐貴は四年制大学卒、今野は専門学校卒で2歳祐貴の方が年上だ。 最初はお互い牽制しあっていて、隣人同士でも接点を持とうとしなかった。それがある日、 今野の部屋を訪れたガールフレンドが、祐貴の部屋の前に出された大量の酒の空き瓶を見て 「隣は誰? もの凄い呑み助みたいよ」と言った事から今野は興味を持った。 休みの日、隣室に人の気配を感じた今野が「飲みに来ませんか?」と誘った事から、二人の 付き合いが始まった。話をして仕事に対する姿勢や価値観が同じ、という事に気がついた二人 は、もう8年程の付き合いになる。
祐貴は今野の姿を眩しい気持ちで眺めた。
「お互いの姿勢を見ながら競い合い、磨きあう」 友達ってこういうものだ……今野にはそれを感じさせる魅力があった。
「フロントは客がいなかったら仕事にならないだろう? チェックイン、チェックアウトのロ ールプレイングでもしてサービスの腕を磨くか? バーは客がいない時こそ、自分の腕を磨く 場所になる」 勿体ぶった様子の今野は、祐貴がカウンター席についてもシェーカーを振る手を休めなかっ た。
「何かあった? お前が一人でバーに来るなんて珍しいからさ」
「何となく来たかった、という気分」
祐貴は、仕事が終わってロッカールームに向う途中、コンセルジュ勤務の吉岡里美とバッタ リ出会った。 「お疲れ」と声をかけた里美の目に涙が溜まっているのを見た祐貴は「どうした?」と尋ねた。 「ちょっといい?」と里美は祐貴を誘い、二人は休憩室で話をした。里美から聞いた話の内容 で、少しセンチメンタルな気分になっていた祐貴は、真っ直ぐに独身寮に帰る気持ちになれず 「バーにでも寄ってみるか」と決めたのだった。
「そういう時に劇的な出会いがある! って言っても、今日はそんな雰囲気もない夜だよね。 早速だけど飲んでみてよ」 今野はシェーカーからグラスにカクテルを注いで、祐貴に奨めた。 「何?」 用心深そうな様子で祐貴はグラスに軽く口をつけた後、味わうようにカクテルを半分だけ飲 んだ。 「ちょっと甘すぎる」 素直な感想を言った。 「分かった。若干甘い、by村上。イエローシャルトリューズをグリーンシャルトリューズに 変更……」 今野はメモ帳にメモした。
「口を洗って、次はこれを飲み比べて」 今野はチェイサーと一緒に2種類目の新しいカクテルを奨めた。
また、祐貴はグラスに軽く口をつけた後、味わうようにカクテルを半分だけ飲んだ。 「これは飲みやすいよ。若い女の子が喜びそうだし」 「こっちと比べてどっちがいい?」 「俺はこっち」 祐貴は赤い色がきれいなカクテルを指差した。 「これさ、二つとも同じ名前のカクテルなんだよ。こっちはブランデーベース、お前が気に入 ったのはジンベース。ブランデーベースはヨーロッパ、ジンベースはアメリカ。これは合格」 また、今野はメモをした。
「ところで、フロントはどう?」 モニターが終了して、祐貴の好みを知っている今野は、バーボンのロックを祐貴の前に置い て尋ねた。 6月の終わりに、フロント支配人の平野恭平の社内不倫が発覚して、平野の妻が会社に乗り 込む、という騒ぎが起き、フロント内がギクシャクしているのだが、今野はその事を言ってい た。
「あれ? ワイルドターキーじゃないだろう?」 そう言って、祐貴はグラスを置いた。 祐貴はガツンとくる旨みが強いワイルドターキーが好きだったが、出されたバーボンには優 しい甘味があった。 「バレタか!」 今野は「さすが!」という表情をした。 「何だよ! 俺で遊ぶなよ」
「このバーボンの銘柄を当てたら俺のおごり、はずしたら俺に一杯おごってよね」
「I.W.ハーパー!」 祐貴は迷わず答えた。
「残念! フォアローゼスだよ。I.W.ハーパーはもう少し甘い」 そう言って今野は、小さなグラスを祐貴に渡した。 「なるほど!」 I.W.ハーパーを味わった祐貴は納得した。
「どうする? 変える? もて遊ばさせてもらったお礼にこの分はサービスするよ」 「いいよ、これで。フォアローゼスも結構イケル」
「ところで、さっきの件だけど。確かに、最低な事をしでかした支配人は責任を取らざるを得 ないだろうが、フロントスタッフの対応はいただけないよな。あの大所帯を見事にまとめ上げ た功績を認めてあげようよ、って。俺は、支配人には随分とお世話になったけど、だからって 言うんじゃない。男気があるっていうのかなあ、仕事のやり方も間違ってないし、好きなんだ よね。遊んでいるって、ちょっと道は外れたけれど、それ位の人の方が気持ちを掴むのが上手 いと思う。会社もその辺を考慮して、去就を考えてくれればいいと思うよ」 「それでも、社会人としての資質は問われるよな。お前の気持ちは分かるが、会社は毅然とし た態度で臨むべきだよ」
「そうだな。お前の言う通りだ」
「ところで、彼女はどうしている?」 平野支配人の不倫相手は、吉岡里美だった。 「毅然として仕事しているよ。だけど、フロントの彼女を見る目が冷たい」
「お前はフォローしてやれないの?」 「何で俺が?」
祐貴は2年前に半年間程、吉岡里美と付き合っていたが、祐貴の態度が煮え切らないのに業 を煮やした里美は祐貴に「将来を共にする気があるのか?」と尋ねた。全くその気がなかった 祐貴は本心を伝えたが、祐貴との結婚を夢見ていた里美は、泣く泣く祐貴を諦めざるを得なか った。その傷を癒したのが支配人の平野であった。その事を祐貴は誰にも話をした事がなかっ たが、何処で何を聞いたのか、今野は事情を知っていて「里美と平野と不倫のきっかけは村上 祐貴にある」とでも言いたかったのだろう。
「お前はさ、情を通じた相手にはきっちりと責任を取るだろうから。今回の彼女の事で責任が ある、とかじゃないよ。それなりにフォローしているんじゃないかな? って思っただけ。何 と言っても相手が里美だからさ」 今野の勘は当たっていた。祐貴は、二人の不倫が発覚して会社で大騒ぎになったそ日、里美 と会って話をしていた。
「人が人を好きになる事には、誰も止められない。でも、俺は、倫理に反している不倫だけは 肯定は出来ない。それでも、支配人を本気で愛しているのなら、その気持ちに背を向けず、き ちんと最後まで貫いて、そして社会的な責任を取るべきだ。支配人も里美も好きだから、二人 が幸せになる事を望んでいるよ」 ……理屈で分かっていても、止められない事もあるんだよな…… 甘かったかもしれないが、里美の平野を思う気持ちは理解出来た。
その時は泣くばかりで何も言わなかった里美と、さっきバーに来る前に話をした。
「支配人は覚悟しているし、離婚も考えている。私は決めたの。償いの人生になるかもしれな いけれど、そういう彼に連いて行くって。今、会社の中で私は針のむしろに晒されている。私 の事を支配人以外、村上君が見守ってくれていると思うと勇気が沸くの。今後どうなるか分か らないけれど、会社から辞めろ、と言われるまでは仕事での責任はきっちり果たす。絶対、後 ろ指を指されるような仕事はしない。何かね、村上君と知り合って私は強くなったみたい。あ りがとう!」 里美はそう言った。
「だけど、結局チクリなんだろう?」 また、今野が訊いてきた。 「それしか考えられない」
センチュリープラザホテルグループでは創設者がK大卒である事から、K大卒が幅を利かせ ている。 「学閥は過去の産物」だと言われているが、社内に学閥はまだ残っている。平野はK大卒では なく、公立大学の出身だった。
「学閥の権力闘争に彼女が巻き込まれたって事か」 「それは違うよ。『巻き込まれた』じゃなくて、結果的に『真実の愛を得た』って考えてあげ たい」 「お前らしい考えだよな。後任はチクリの張本人という噂の副支配人か?」
「まさか! 会社だってそんなにバカじゃないだろう」
フロント副支配人の山元剛は平野とは気が合わなかった。K大卒で日和見主義的な山元が祐 貴も嫌いだった。
「先週、本部の連中を引き連れてバーに来たけどさ、セッティングした後『誰も近づけるな!』 って横柄な言い方で追い払うように言ったらしくて、店長が怒っていたよ。社内の人間に聞か れたくない話をするんだったら、他で飲めよ! って。だけど、権力がある所を本部の人間に 見せたいんだろうな。嫌な奴だ!」
祐貴と同じで、山元が嫌いな今野が吐き捨てる様に言った。
2 「だけどさ……」祐貴がそう言った時「いらっしゃいませ」と、今野が満面の笑みを浮かべて 客を迎えた。
スパイシーな香りが漂ってきて、祐貴は香りがする方向に顔を向けた……
ミニスカートの裾を気にしながら、祐貴から2席離れた席に腰をかけた若い女性と目が合っ た。
……その瞬間、祐貴の中に電流が走った…… 激しい電流を感じた祐貴はもう一度その女性を見た。
祐貴の視線を感じたのか、カウンター席についた女性も再度祐貴を見た。
日本人離れした黒目がちでエキゾチックな大きな瞳の女性を見て、祐貴にまた新たな電流が 走った……心臓がドキドキし始めた……
「何だ! この気持ちは……?」 女性が長い髪を掻きあげる仕草をした。祐貴は何度となく同じ動作を見てきた。男の前で髪 を掻きあげる仕草をすれば男は参ってしまう。そういう女と何人も祐貴は付き合ったが、今、 横にいる女性は同じ動作をしても……特別だった…… 何処が違うのか? 分からない……その女性の仕草や憂いのある容姿が魅力的だった。
「何をご用意しますか?」 カウンター内にいる今野が女性に声をかけた。 「フォアローゼスの水割りをお願いします」 少しかすれ声で女性は答えたが、それと同時にまたスパイシーな香りが漂ってきた。
「かしこまりました」 今野はチラッと祐貴の顔を見た。 動揺を今野に見透かされた様な気がした祐貴は、さり気ない様子でバーボンを飲み干した。
「お代わりは?」 女性にフォアローゼスの水割りを用意し、祐貴のグラスが空になったのを見た今野が声をか けた。
「フォア……ワイルドターキーのロック!」 思わず、フォアローゼスと言いそうになった祐貴は慌てて言い直した。横にいる女性と同じ 銘柄のバーボンをオーダーしたら、その女性に飲み込まれそうな気がした。
「了解! だけどさ……」 祐貴の動揺をいち早く感じ取っていた今野は、祐貴の緊張をほぐすように、さっきの話の続 きを始めようとしたが、ウェイターからのオーダー対応に忙しくなり、祐貴の事を構っていら れない状態になった。 今野に相手にされなくなった祐貴は、横にいる女性の事が気になって、急に落ち着かなくな った。カバンから車の雑誌を取り出してページをめくったが、頭の中は隣の女性の事でいっぱ いになった。接している左半身に神経がピリピリと集中して、吸う煙草の本数が増えた。
「助けてくれよ!」 心の中で今野に救いを求めたが、今野は益々忙しくなっていて、祐貴の相手どころではなく なっていた。 女性はピスタチオをつまみながら、バーボンをゆっくり味わっていた。
「劇的な出会い」……時々祐貴を見る今野の目がそう言っていた。
「お代わりはいかがですか?」 グラスが空になったのを確認した今野が女性に訊いた。
「同じのをお願いします」 そう答えながら、女性が祐貴をチラッと見た。
見られているという事を感じた祐貴の心臓がまたドキドキしだした。
「しっかりしろよ!」 自分に言い聞かせた時……
「こちらのホテルの方ですか?」 女性が祐貴に声をかけた。
「そうですが……」 だから、何なのですか? とでも言う様に、わざとぶっきらぼうに答えた。 「すみません。バーテンダーの方との会話でそう感じたものですから。車がお好きなんですか ?」 (好きです)と即答しようと思ったが、バーボンを一口飲み、間をあけた。
「良かったら席を移動しませんか?」 思いもがけず、誘いの言葉が自然に口をついた。
祐貴は自分から女性を誘った事はない。いつも誘いは女性からだった。 特に意識をした事はないが、いつの頃からか「自分は女にもてる」そう感じていた。付き合っ た女性の数はかなりになるが、社内だろうが、社外だろうがそういう事に祐貴はこだわらなか った。「来るものは拒まず、去るものは追わず」そして、必ずと言っていい程、ハッキリしな い祐貴の態度に、誘った相手は自分から去って行く。 会社で「プレイボーイ」と評判になっている事も知っていたが「そんな事はどうでもいい。 それが悪名ならば、その悪名は仕事で返せばいい」と思っていたし、社内で付き合った数人の 女性で、今も残っている相手とは良い仕事仲間になっている。 「優柔不断なのか?」と自己分析していたが「そうではないだろう。本当に愛する女性と出会 っていない、そういう事なのだ」と祐貴は信じていた。 だから、カウンターの女性に、当たり前のように自分から誘った事には、祐貴自身が大いに 戸惑っていた。
「お言葉に甘えて移動させて頂きます」 女性は笑顔で言って、席を移動してきた。ミニスカートから覗いた足が綺麗だった。
様子に気付いた今野が、新しいコースターとバーボンのお代わりをカウンターに置きながら、 意味ありげな視線を祐貴に送った。
「村上と言います」 祐貴は名刺入れから名刺を取り出して渡した。
「西島です。西島里佳子と申します」 里佳子も名刺を渡した。
「里佳子」……という名前を聞いた祐貴の胸がときめいた。
「関内クラシックホテルの方なのですね」 「そうです。センチュリープラザさんとはレベルが違いますから、私の名刺をお渡しするのは ちょっと気後れしますが、同じフロントマンです」 同業者で、しかも同じフロントマンという事を知った祐貴は嬉しい気分になり「忙しいです か?」と、ありきたりの事を訊いた。
「ワールドカップが終わったのでヒマになりました。外国選手が宿泊されていたセンチュリー さんや、日本代表が宿泊していたプリンスさんを羨ましい、と横目で見ていましたが、お陰様 で各国のサポーターの方の宿泊を頂いて、期間中は忙しかったのですが楽しく仕事が出来まし た」
「うちも忙しくて大変でしたが、ワールドカップ期間中は本当に楽しかったですよね」
ワールドカップ万歳! 祐貴は心の中で感謝した。 サッカーは好きだがあの時期、トラブルもいっぱいありとてつもなく忙しかった。 でも、今はそれが話のきっかけになった。里佳子もその時のエピソードを面白可笑しく話し、 二人の会話が盛り上がった。
「関内クラシックホテルの社長は確か、岡田さんという方ですよね?」 「社長の岡田をご存知ですか?」 里佳子が驚いた表情をしたが、それが何故か艶っぽかった。 「春に、伝説のホテルマンと言われている、元グランドオリエンタルの妹尾さんの講演会で、 名刺を交換させて頂いた事があります。発想が面白く大陸的な雰囲気でりっぱな方だな、とい う印象を受けました」 「ありがとうございます。社長の岡田は私の亡くなった父の親友で、子供の時から可愛がって もらっていました。それが縁でクラシックホテルに勤めさせて頂いたのです」
話をする時に身体を寄せる癖があるのか、時々里佳子の肩が触れてくるのが、祐貴は心地良 かった。 先程までは「助けてくれよ」と思っていたのに、グラスが空になった時だけ、二人の前に現 れる今野の気遣いに祐貴は感謝をした。 里佳子も酒に強いのだろう、会話を楽しみながら、すでに4杯目のグラスも空になりかけて いた。
「いかがですか?」 今野がお代わりを勧めに来たのを機に、里佳子は腕時計を確認した。 その動作につられて祐貴も自分の腕時計を確認したが、まだ9時半を過ぎたばかりだった。
祐貴が「お代わり!」と今野に向ってグラスをあげた時「もう、こんな時間。帰らなくちゃ。 今日は本当にありがとうございました。とても楽しい時間を過ごせました」里佳子が帰る素振 りを見せた。
内心「エッ、もう帰っちゃうのか」と思ったが「そうですか。こちらこそ楽しかったです。 ありがとうございました。僕はもう少しバーボンを楽しみます」と冷静さを装い、笑顔で祐貴 は答えた。 今野がまたチラッと祐貴を見た。
「邪魔したな、お前のせいだ」 心の中で今野に悪態をついた。
「会計をお願いします」 里佳子は今野に言って席を立った。
「ありがとうございました」 別れ際に里佳子は祐貴にもう一度お礼を言ったが、里佳子の目を見た祐貴は、どうしようも ない位に切ない気持ちになっている自分に気付いた。
「一目惚れ? ……」 胸がまた疼いた。
ウェイターに合図をして里佳子のオーダーシートを手渡しながら、今野が「いいのか? 送 ってやれよ」という目つきで祐貴を見た。 自分の気持ちを今野に見透かされた、と感じた祐貴は今野から目を背けた。
「ごちそうさまでした」 里佳子は、今野にも礼を言って帰って行った。
祐貴は帰る里佳子の姿をわざと見なかった。見たら後を追って行きたくなっただろう。 里佳子が去ったバーは、味気のないホテルのバーだった。
「うん?」 今野が置いた新しいグラスのバーボンを飲んだ祐貴は思わず今野を見た。グラスのバーボン はワイルドターキーではなく、里佳子が飲んでいたフォアローゼスだった。 今野は知らん顔をしてカウンターの端でシェーカーを振っていた。
「帰るよ」 席を立ったのは、里佳子が帰ってから20分程してからだった。
「恋……したのかもしれない……」 里佳子を思う胸の疼きを感じながら、ほろ酔い加減で従業員出入り口に向うと「村上さんご 機嫌だね」 警備員の原田が声をかけた。
「いい気分だよ。ホラッ、幸せのお裾分け!」 原田にハイタッチをした。笑いながらも唖然としている原田を見た祐貴は、世界中のみんな が「始まりかけた恋」を祝福してくれているように感じた。
従業員出入り口の思い扉を開けた祐貴の目に、みなとみらいの夜景が飛び込んできた。 いつも見慣れた夜景が今日は違うものに見えた。煌く夜景も、海から流れてくる心地良い風も、 自分を祝福してくれていた。
人気のない広い道を幸せ気分で歩いていた時、向こうから誰かが歩いてきた。
何気なくその人影を見ていた祐貴の目が輝き出した。
「始まるんだ!」
……歩いて来たのは里佳子だった……
3 一時間後、祐貴は里佳子と一緒にいた。
「淫らな女って思ってる?」 ときめきの時間が終わって、祐貴の胸に顔をうずめた里佳子が小さな声で祐貴に訊いた。
「出会ってすぐに寝る女」と思われたくなかったし、それに、激しく乱れた自分が恥ずかし かった。
「思ってないよ」 祐貴は優しく言って、里佳子の顔を自分に向け「好きだよ……」甘く囁いて里佳子の潤ん だ目を見つめた。
「好き……」 里佳子はまた祐貴の胸に顔をうずめた。
「いいんだよ……好きなんだから……こんなこと……いいんだよ、愛してる……」 祐貴はうわ言の様に言って、里佳子の唇を求め、抱く手に力をこめた。
今、唇を離したら、抱く手を離したら、里佳子が遠くに行ってしまいそうで切なくなった。
里佳子を愛しい、と思う気持ちがじわじわと広がって、祐貴は里佳子の身体に、また自分 の身体を重ねた。
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三ツ沢にある独身寮に戻ると、隣の今野の部屋には電気が点いていた。 忍び足で向かった3階の自室のドアノブに小さな紙袋がかかっていた。今野に気付かれない ように、そっとドアを閉めて紙袋の中身を確認した。
中には「彼女の忘れ物」と書かれたメモが一枚と「Rikako」と、ゴールドで彫られ たネーム入りの濃いピンクの真鍮のボールペンが入っていた。
「忘れ物を渡す事を口実に、次の約束をしろよ」 今野が気を利かせたのだろう。祐貴の顔に笑みがこぼれた。
祐貴は今野の部屋に向って「任せろよ!」とVサインを送った。
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いつの間にか、センチュリープラザ横浜では、祐貴の「女の噂」が消えた。その事で「村 上さん、今、彼女はいないみたいよ」と期待する女性スタッフも現れた。
8月の忙しい最中、不倫問題を起こしたフロント支配人の平野は、センチュリープラザホ テル系列の八幡平プラザリゾート&スパに転任となった。 同時に吉岡里美も退職し、平野と共に八幡平に移り住んだ。
「結婚する事になるの」 出勤最後の日、里美は祐貴に告げた。
「幸せになれよ。だけど……」 祐貴が言い終わらない内に「判ってる」と里美は祐貴を制した。
「私達が犯した事の償いをする覚悟は出来ている。いろんな意味で大変だけれど、彼は、会 社には仕事で借りを返す。私はその彼をサポートする事で借りを返す」 そう言って里美は、祐貴に握手を求めた。
「でも、村上君、最近いい顔してる。何故? という理由は聞かないけれど、お互いに幸せ になろうね」 里美の目から涙が溢れた。 K大閥から外れている祐貴も、平野支配人には入社当時から可愛がってもらっていた。当時、 フロントアシスタントマネージャーだった平野を手本にして祐貴は仕事に励み、そして、会 社に認められ、30歳前にしてチーフフロントマンになった。
里美とは今野同様、同期入社であったが、入社当時はベルパーソンであった里美が自分に 気がある、という事には気がついていた。しかし、祐貴にはその気がなかった。 ところが、里見が仕事上で犯したミスが里美の運命を変えた。 その里美をフォローしたのが祐貴だった。祐貴のフォローに助けられた里美の誠意ある対応 で、事なきを得たが、お礼の気持ちを込めて、里美が祐貴を食事に誘った事がきっかけで、 二人は親密な交際に発展した。しかし、長い間の思いが叶い、有頂天になった里美は、僅か 半年で失恋を味わう事になってしまった。 里美の誘いにのり、流されるままに恋人同士になり、結局、ハッキリしない態度で、結果 的には男とし申し訳ない事をしてしまったが、それでも、仕事上では変わる事なく気持ちよ く接してくれた里美に、祐貴は感謝をしていた。
自分を育ててくれた平野と里美との別れは悲しかったが、大事な人との別れと引き換えに 里佳子と出会った。
……これは運命なんだ…… 祐貴はそう考えていた。
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