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作品名:ふたり 作者:nottnghill_ann

第17回   17
2010年  軽井沢 

1 
  軽井沢フォレストヒルは、夏の繁忙期を終え、そろそろ紅葉の時期を迎えつつあった。
 9月半ば過ぎまでは猛暑であったが、その後、秋を通り越して、冬になってしまったような気候に、
 祐貴は閉口していた。

 「そろそろ横浜に帰る事を考えよう」
  その事を思いながらも、中々踏み切れず、祐貴は相変わらず夜勤を進んで引受け、歯ブラシと歯磨
 きを洗面所に置き忘れ、その度に宮下洋子が、イソイソと忘れ物を届けに来た。フロントの桜井春奈
 は、自分が早番で、祐貴が夜勤明けの日には、必ず朝食を祐貴のために用意した。バーの高橋綾香は
 諦めたのか、あの日以降、小坂から飲み会の誘いはなかった。

  菅井力は一週間おきにホテルを訪れた。

 「俺は、兄貴の期待に添えるような生き方は出来なかった……いい加減な男になった」
  そう自分を責めていても、何故か菅井との事が刺激的で、ただそれだけの理由で、菅井の宿泊代の
 横領を終わりに出来なかった。

  何のために定期的に宿泊するのかは菅井は話さず、祐貴も聞かなかった。菅井は余計な事を詮索し
 ない祐貴が気に入った様子で、夏を過ぎた頃からは、東京からの土産を持って来てくれるようになっ
 ていた。正体は分からないが、来館する度に交わすちょっとした会話が面白かった。
  女性は「来るものを拒まず」だったが、男性に対して、好き嫌いがハッキリしていた祐貴も、一見
 キザだが、自分と同じ様に、世の中を斜めから見ている雰囲気がある菅井に、親近感を抱くようにな
 ってもいた。他人から、個人的な事を訊かれるのは嫌いだったが、里佳子との事以外、菅井には気を
 許して話も出来た。

  
  ……しかし、祐貴は知らなかった……

  菅井力の正体……岡田博人に雇われた探偵……という事を。


  まもなく軽井沢にオープンする「ペットと泊まれるホテル」が謳い文句の「軽井沢クラシックホテ
 ル」の視察に訪れた岡田は、偶然に、駅前のコンビニで祐貴の姿を見かけた。気付かれないように後
 をつけると、祐貴は軽井沢フォレストヒルの従業員通用口に消えた。
  溌剌さは陰を潜め、暗い影を抱えた祐貴の姿に、また嫉妬の感情が沸きあがった。
 
 「同じ軽井沢でホテルマンか……どこまでも気に食わない男だ」
  
  自身が仕組んだ事で、里佳子の精神状態を乱し、村上省三の傷害事件に繋がった事については心を
 痛めていた。警察からも散々事情を聞かれたが本当の事は話していない。

  そして、また、あの時と同じ菅井を使い、月に二度、フォレストヒルに宿泊させて、祐貴の様子を
 報告させていた。菅井には口止め料として充分過ぎる程の金を使った。
 
  菅井力にとって、月に二度の軽井沢での仕事は美味しい仕事だった。ただ、深夜チェックインで、
 早朝チェックアウトは辛かったが、ターゲットがナイト勤務が多い事から、それは仕方なかったし
 「一人勤務の時の方が、話が聞き出せやすい」岡田から、そう言われてもいた。確かに、何度が接
 する間に、ターゲットの祐貴から、いろいろな話を聞けるようになっていた。
  菅井は、腕の良い探偵という評判であったが、人の心の奥深くを探る事は出来なかった。
 「服役中の西島里佳子との接点はなし」毎回そう報告し、岡田はその報告を信じた。
 

  *****

 
  ドアのチャイムが鳴ったのは、11月30日の夕方の5時を回って、祐貴が横浜に 出かける準備
 をしていた時だった。
  覗き窓から訪問者を確認せずドアを開けると、フロントスタッフの桜井春奈が、恥ずかしそうな顔
 をして立っていた。

 「どうしたの?」
  祐貴は驚いた。
 
 「おやすみのところ、すみません。ちょっとお話があります」
 
 「何かあった? ちょっと待ってて。車のキーを持ってくるから」
  外に出て喫茶店ででも話を聞こうと思っていた祐貴はそう言った。

 「あの……いいですか?」
  春奈は部屋の中を指差した。
 
 「構わないけれど……散らかっているから」
  春奈を部屋に招き入れる事に抵抗があった。
 
 「いいです。気にしないので」
  春奈は部屋に上がりこむつもりでいた。
 
 「じゃあ、ちょっと待ってて」
  春奈を玄関で待たせ、手早く部屋の中を片付けた。
 
 「いいよ」と祐貴に言われて「お邪魔します。結構綺麗じゃないですか」春奈は部屋 を見回しなが
 ら、テーブルの前に座り「実はこれなんですけれど……」そう言って手に提げていた紙袋から小さな
 箱を取り出した。

 「何? 宅急便?」
  箱を受取った祐貴は、箱に貼り付けられた宅急便の送り状の宛名を見て驚いた。

 「10時過ぎに、マネージャー宛に菅井様というお客様から電話がありました。帰社しました。と伝
 えましたら、私でも構わない、という事でお話を伺いました」
  そこまで言った春奈は意味ありげな視線を祐貴に向けた。

  何かマズイ事になったのか? 動揺を春奈に悟られないように、手に取った箱を裏返したりして確
 認するフリをした。

 「菅井様のご用件は、昨夜ご宿泊された301号室に、名刺入れを忘れたので確認して欲しい、との
 事で、私は301に行って、ベッドの下に落ちていた名刺入れを発見しました。菅井様にはすぐにお
 電話をして、着払いの宅急便で送る事で忘れ物の件は処理出来ました」

  早朝、菅井がチェックアウトした後、いつもの様に完璧に清掃を済ませたが、ベッドの下を確認す
 る作業を忘れていた事を思い出した。

 「でも、変だと思ったのです。私が部屋に確認に行ったのは10時過ぎでした。ハウスキーパーは、
 三階はまだ手を付けていないのに、301号室だけは清掃済みでした。もう一つ、変な事がありまし
 た。菅井様に住所を確認した時、何度も301号室 に宿泊しているのだから、住所は分かっている
 筈だろう? そっちで調べてよ。と仰いました。それでも、間違いがあるといけないので、確認のた
 め、と住所は伺いました。後で私は、端末で菅井様の宿泊履歴を確認しましたが、見つかりませんで
 した。菅井力というお客様の顧客履歴がないのです。菅井様はお話が好きなようで、私にいろいろお
 話してくださいました。7月半ばから、仕事とゴルフを兼ねて、一週間おき位に301号室に宿泊し
 ているが、あの部屋は居心地が良くて気に入っているとか、マネージャーの対応が素晴らしいとか。
 マネージャーの事は褒めていましたよ」
  春奈はここで話を止めて、祐貴を見つめた。

  ……そうじゃないだろう? 不審に思ったお前が話を引き出したのだろう? 菅井は自分から話を
 するような客じゃない……

  祐貴も、春奈をじっと見つめ返した。

 「帳票で客室履歴を確認しましたが、菅井様が仰った日程で、301号室の宿泊履歴はありませんで
 した。どういう事だかお分かりですよね?」
  
  春奈の言い方が「仕事が出来る女風」を装っていた。

  ……菅井の宿泊履歴を調べた? 客室履歴を調べた? ふざけるな! フロントミーティングでは、
 一言も意見を言わず可愛い子こぶりっこし、満足な接客も出来ず、言われた事しか出来ないくせに。
 お前みたいな女の事を、給料泥棒と言うんだ!……

  そう怒鳴って春奈を追い返したい衝動にかられた。

  春奈と祐貴の視線がぶつかり合い、しばらく沈黙が続いた。

 「君はどういう事だと思っているのか?」
  祐貴が口を開いた。
 
 「301号室の宿泊履歴が残っていないのは……チェックイン入力されていない事、だと思います」
 
 「部屋番号の確認間違いだってあるだろう?」
 
 「そう思ったので、何度も確認しました」

 「客が間違えているのかもしれない」

 「それは有り得ません。菅井様は、毎回木曜日泊だと仰いました」
  
  祐貴は、必要以上に敬語を使っている事にも腹を立てた。
  
  ……普段は、フロントオフィス内でカウンターに聞こえるような大きな声で「ウッソー」とか「マ
 ジ」という言葉を連発し、時には俺にさえもタメ口を叩くくせに……

 「それで、君は僕に何を言いたいの?」
  感情を抑えて訊いた。

 「私は、私は……マネージャーが良くない事をしているのではないか? そう思っています」
 
 「良くない事? 例えば?」
 
 「分かりません……」
  春奈は、知らないフリをして、甘えるような目つきで祐貴を見た。

 「教えてくれてありがとう。何かの間違いをしたのかもしれない。明日、僕も調べてみるよ」
  わざと、明るく言った。
 
 「今日は金曜日で忙しかったんだろう? 疲れているだろうから、帰ってゆっくり休みなさい」

 「分かりました。あんな事に気がつかなければ良かったんです。余計な事をしてすみません」
  そう言って春奈は、素直に帰って行った。

 「余計な事をしやがって!」
  ドアが閉まった途端、祐貴は悪態をついた。

 「潮時という事か……どうやって処理するか……」

  少しして、また、ドアのチャイムが鳴った。
 覗き窓を確認すると、また、春奈が立っていた。

  舌打ちをした祐貴は一瞬躊躇ったが、思い切ってドアを開けた。
 
 「どうしたの? 忘れ物?」

 「はい……」
  部屋を振り返ったが、忘れ物らしき物はない。

  祐貴が後ろを振り返った隙に、春菜がスッと室内に滑り込んだ。いつもの、ビーチの匂いが鼻につ
 いた。

  ドアが閉まった途端、春奈が思いつめたような表情で口を開いた。
 「私は、この事は誰にも言いません。だから、マネージャーも……もう止めてください……私の言っ
 ている事が間違っていたら謝ります。でも、間違っていないのだったら、マネージャーが良くない事
 をしているのだったら……お願いします。こんな事はもう止めてください」
  祐貴を見つめる春奈の目から突然涙が溢れた。

  ……春菜が恐ろしい……と、祐貴は思った。

 「どうして君が泣くのか、君が何を言っているのか、僕には分からない」

 「マネージャー……」
  春奈は目に涙をいっぱい溜め「お願いです……もう悪い事はしないでください」
 
  バッグからハンカチを取り出して目頭を押さえた。

 「良く分からないなあ。僕が調べると言っただろう。さあ、泣くのは止めなさい」

  当然言いたい事は分かっていたし、泣けば済む、とでも思っているような春奈に益々腹を立てたが、
 それでも、精一杯の優しさを込めて祐貴は言った。

  自分の感情を抑えきれなくなった春奈は突然、祐貴にすがりついてきた。

 「どうしたの?」
  春奈を突き放そうとしたが、刺激しない方がよい……と思った。

 「君が心配してくれる気持ちは有り難いよ。だから、もう泣かないで」
  
  さりげなく、逃れる素振りをしたが、春奈の力は強かった。そのまま春奈に奥に押され、ベッドに
 倒れこんだ。慌てた祐貴は、春奈を押し避けようとしたが「マネージャーが好きなの……」と祐貴の
 唇を求めてきた。

 「だめだよ。自分を大事にしなくちゃ、ね」
  祐貴はさりげなく春奈の唇から逃れた。
 
 「違うの、自分の気持ちを大事にしているから」
  春奈は夢中で、祐貴の頭を手で抱え込んだ。
 
 「言う事を聞きなさい、ねっ」
  祐貴は、春奈の唇から必死で逃れようとしていた。

  ……やはり、部屋に入れたのは間違いだった……二度も部屋に入れた事を後悔した。

 「私が嫌い?」
  春奈が悲しげな目をして訊いた。
 
 「嫌いじゃないよ。君は僕の大事な部下だ。だから、大事な部下には、軽はずみなこういう事は出来
 ない」
  精一杯の優しい気持ちを込めたフリをして、祐貴は諭すように言った。
 
 「部下……なんていやっ!」
  必死の春奈は、祐貴を離さなかった。
 
 「無理言っちゃだめだよ」
  色白で可愛い春奈にこんな事を言われたら、すぐに受け入れる男はいるだろうが、自分は絶対に受
 け入れる気持ちはなかった。
 
 「どうして? 私が嫌いじゃないでしょう? いいの、部下でも……だから……」
  絶対に離さない! 春奈は夢中で祐貴を抱きしめ「好きなの、好きなの」と何度も繰り返していた。

  ……余程自分に自信があるのか……? 
  祐貴の気持ちは冷めていたが、必死な分、春奈の力は強かった。

 「誰にも言わないから……だから……だから」

  ……秘密にしているから、抱けと言うのか?……

 「ずっと、マネージャーが好きだったんです……」

  ……ふざけるな!……
  声に出さずに叫んだ。

  ……逃げられない……だから、このままされるがままになっている方が無難だろう。俺が反応しな
 ければ、そのうち、諦めるだろう……

  簡単な事だと思っていた祐貴は、力を抜いて目を閉じた。

  春奈はまだ、祐貴にしがみついていた。

  ……目を開けた祐貴に、キッチンの水切りカゴに置かれている包丁が飛び込んできた……じっとそ
 の包丁を見つめた……

 「殺意」に似た感情が急に沸き上がった。

  ……バカな事をするな!……理性がそれを押し止めた。

  目を閉じた瞬間に、里佳子の顔が頭に浮かび「里佳子……」と、心の中で名前を呼んでしまった。
  
  里佳子と別れてから、一度も女性の身体には触れた事はない。
 今、自分の唇を奪っているのが、里佳子の様な気がした祐貴の身体が反応し始めた。
  
  それに気づいた春奈が、着ているブラウスのボタンを外した。




  昨夜、事が済んだ後、それまで敬語を使っていたのが「あなたの秘密を知っているのよ。もう、あ
 なたは私のもの」とでも言いたげに、急に恋人口調になった春奈を、空恐ろしく感じたし、心とは反
 対に身体が反応してしまい、夢中で春奈を抱いた自分にも、嫌悪感を覚えた。


  夕方、出勤した祐貴は、いつもより、香水の匂いがきつい春奈の熱い眼差しに迎えられた。カウン
 ター内で、一人で引継ぎ用の業務日報を見ていると、春奈がスッと身を寄せて来て「昨日は、素敵だ
 った……」と囁いた。
 
  祐貴は寒気がした。

 「今日で会社を辞めよう!」
  そう決心した……

  明日から出社する気持ちはなかった。
 突然に自分が姿を消したら、春奈が会社に訴えるかもしれないと思ったが、それならそれでも構わな
 かった。バレたとしても60万円程の金額では、告訴等とか大した事にはならないだろう。

  休憩時に、近くのコンビニのATMで横領した金額をおろし、全額を揃えてきていた。

  遅番が帰り、一人になって、手元の653,856円の現金を、どういう扱いで入金するかを考え
 ていた時、春奈がフロントオフィスに現れた。

 「夜食を作って来たの」
  そう言って、サンドイッチとコーヒーが入っているポットを祐貴のデスクに置いた。

 「頑張ってね」
  会社には不似合いな、胸の谷間が見えるチュニックに薄いカーディガンを羽織り、レギンス姿の春
 奈は、怪しげな視線で祐貴を見つめ、そのまま帰って行った。

  祐貴は蛇に睨まれた蛙の様な気分になり、益々春奈が恐ろしくなった。

 「バカな事をしたツケが回ってきた……里佳子と出会った大切な日に、宿泊代金を横領する、などと
 いう悪事を働き、それをいつまでも続けていたからだ」
  
  祐貴にとっては、おぞましい出来事としか思えない、昨夜の事を思い出し「里佳子からの罰だ」と
 自分を責めた。

  落ち込んだ気分になったが、気を取り直し「作業開始」ひとり言を言った。
 
  最初に、一つの会計部屋を作り、その部屋に「菅井力様宿泊代金」として、7月からの宿泊代金を
 打ち込み、菅井力の顧客情報を入力した。今までのお礼の気持ちを込めて、そして、次回宿泊した時
 に迷惑がかからない様に、備考欄に「優良リピーター。301号室指定」と入力した。

  ……菅井力は……祐貴がフォレストヒル軽井沢から去れば、宿泊する事はない。

  次に、チェックインしていない部屋を架空名義で数室チェックインさせ、宿泊代金を打ち込んだ。
 残った半端な金額は、フロント雑収入の項目にした。

  入金処理が済んだ後、バッチ作業を開始した。

 「今日でバッチ作業も終わりか・・・・・・」
  
  もう、ホテルマンになる気持ちはなかった。端末のキーボードを叩き、変わる画面を見つめながら
 ひとり言を言った。

  フロントマンになってから約16年。幾度となくこのバッチ作業に携わった。
 正常に処理が終了して、帳票でその日の売上データを確認する度に「一日の仕事が終わった」という
 充実感と満足感を感じた。そして、更新された予約画面を見て、明日の仕事に思いを馳せる。
  その日に売れ残ったホテルの客室は「明日売ればいい」という訳にはいかない。売れ残りは永遠に
 売れ残りだ。フロントとして、予約や営業と一日勝負の客室販売について、施策を練り、稼働率をア
 ップする対策を考える。接客だけに留まらないフロントマンの仕事が好きだった。

 「足を洗えるか?」
  また、ひとり事を言った。

 「だが、本当にこれが最後だ……」
  現実に戻って、長い作業になりそうな引き継ぎを開始する事にした。

  会社は、訳の分からない入金に疑問を持ち、支配人は朝7時番のスタッフに「マネージャーから何
 か引継ぎを受けているか?」そう確認するだろう。
  明日の7時番は誰か? とスケジュール表を確認した祐貴は苦笑いをした。桜井春奈だった。
 「分かりません」と言うか「実は……」と菅井の事を話すだろか。
 
 「勝手にやれよ」

  引継ぎ作業を開始する前に、バックヤードに設置されている自動販売機で、缶コーヒーを買い、
 煙草を吸った。六畳程の広さの、ゴチャゴチャして整頓されていないバックヤードを見回した。
 コンクリートが剥き出しの壁には、会社からの通達事項や、フロントシフト表などがベタベタと
 貼り付けられ、フロントマンの休憩用に用意された細長いテーブルの上には、缶コーヒーや缶ジ
 ュースの跡が残っている。
 
 「俺に構うヒマがあったら、バックヤードの整理整頓ぐらいしろよ!」
  春奈の顔を思い浮かべ、憎々しげに呟いた。今の祐貴の一番の敵は春奈だった。二本立て続け
 にタバコを吸って、引継ぎ作業を開始した。

  引き継ぎが終わった後、架空名義で、本日分としてチェックインさせた部屋を全てチェックア
 ウトさせた。ルームインジケーター画面を開いて、チェックアウトした部屋を清掃完了に修正し
 た。会計画面で、数えたレジの現金が間違っていない事も確認した。
 
  ・・・・・・金銭上で罪は消えたが、道徳上の罪は消えない・・・・・・

 「何の大義名分もない、こんな馬鹿な事をした俺を、里佳子は受け入れてくれるのだ ろうか?」
  昨夜の春菜との出来事を思い浮かべ、また激しい自己嫌悪に陥った。

  デスクの引き出しから、フォアローゼスの瓶を取り出し、瓶に口をつけてそのまま流し込んだ。
 喉が焼けるようなバーボンは美味しくなかった。喉が咽せて苦しくなり、涙がこぼれた。

  落ち着いたところで、辞表を書いて支配人のデスクの上に置き、仮眠も取らず、出来たデータ
 ファイルを添付し、アシスタントマネージャー宛てに社内メールを送った。
  デスクの中も整理して私物は全て処分し、フォレストヒル軽井沢の中から「村上祐貴」の存在
 を消し去った。「やり残した事はないか」と確認し終わった時には朝の6時半になっていた。

  7時少し前に、春奈がウキウキした様子で出勤してきた。
 
 「おはようございます! はいっ、朝食」
  今日の差し入れは、小花柄のハンカチに包まれていた。
 
 「今朝は、茸ご飯を炊いてきたの」
  恋人気取りの春奈は、そう言ってハンカチをほどいた。

 「俺はこれで帰る。じゃあ、後は頼む」
  祐貴は春奈の顔を見ずに言った。
 
 「エッ?」
  自慢げに弁当箱の蓋を開けかけた春奈の手が止まった。
 
 「待って! 引継ぎは? ねえ、これを持って行って!」
  突然の事に驚いた春奈は祐貴の背中に向って叫んだ。
 
 「昨夜は何もなかったから引継ぎはない。それに朝食はいらない!」
  振り向きもせず祐貴はフロントオフィスを後にした。

  車に乗り込んだ所で携帯が鳴った。
 「フロント」の着信名を確認して電源を切った。

 「これで終わった……新しい携帯に変える必要もある。マンションを整理して、今日中に横浜に
 帰ろう。当分は、ビジネスホテルにでも泊まって部屋探しと職探しだ。そして、里佳子の出所を
 待つ。後、二ヶ月半もしたら里佳子は戻ってくる……だが、戻って来てくれるだろうか?」
  
  里佳子と新しく出直せる。という期待感と、自分を受け入れてくれるのだろうか。という不安
 感が入り混じり、祐貴は大きなため息をつき、車を発進させた。


   *****


  マンションを整理するつもりでいたが、仮眠も取らずの徹夜は、さすがに身体に堪えた。会社
 から持ち帰ったフォアローゼスを煽り、そのまま眠りについてしまった祐貴が、目を覚ました時
 には午後三時を過ぎていた。
 
 「夕方になったら、またあの女が様子を見にくるかもしれない」
  春奈の事を考え、その春奈に怯えている自分が嫌になった。
 
 「だったら、あの時、拒んで追い返せば良かった」
  また、激しく後悔した。

  部屋の中を見回して、荷物をどうするか、と考えた。
 「家財道具は処分すればいい。持って行くのは本位だから、それは、また後で整理しに戻って来
 よう。契約は一ヶ月残っている。取り合えず身の回りの物だけ持って横浜に行こう」
  そう考えて、旅行カバンに衣類を詰め込んだ。

  部屋を出て向かった駐車場の奥に、見慣れない赤いフィットが停まっているのが気になったが、
 そのまま愛車のグランドチェロキーに乗り込みエンジンをかけた。
  車のエンジン音に反応したかのように、フィットの運転席に人影が現れた。

 「いい加減にしろよ!」
  祐貴が舌打ちをした。
 
  フィットの人影は春奈だった。
 
 「この時間帯はまだ勤務内のはずだが、早退でもして様子を見に来たのだろうか」
  祐貴は無視して、そのまま車を発進させた。
 
  おそらく春奈は後を付けて来るだろうと覚悟をしたが、途中で撒く事を考えていた。

  碓井・軽井沢ICに向う途中でコンビニに寄ったが、買い物を済ませ出て来た時には、コンビ
 ニの駐車場に春奈の赤いフィットは無かった。
 
 「気にしすぎか……」
  
  安堵し、左折のウィンカーを出し、駐車場から県道に出るため右方向を確認した時、信用金庫
 の前に、ハザードランプを点滅させて停まっている赤いフィットを見つけた。遠目に運転席の春
 奈と目が合った。祐貴はまた舌打ちし、そのまま車を発進させた。
  
  しばらく走り続けたが、赤信号の交差点で停まった時、バックミラーとサイドミラーで、4台
 後ろに停まっているフィットを確認した。
  
  歩行者用の信号が点滅を始めた時、祐貴はアクセルに軽く足をかけ、直ぐに発進出来る体制を
 とった。信号が青に変わった瞬間、突然、右折のウィンカーを出して、アクセルを踏み込んでU
 ターンをした。
  向かってくる車や、右折が出来ずにイライラしている車が激しくクラクションを鳴らしたが、
 慌てずに落ち着いて、何度もハンドルを切替してグランドチェロキーはUターンに成功した。


  フィットとすれ違う時、唖然とした顔をしている春奈に向って「あばよ!」のポーズをとった。



  *****


 「マネージャーは何か言っていたか?」
 
 「何も言っていません」
  桜井春菜は、フロント支配人から尋ねられたが、不機嫌そうに答えた。
 
  今朝の祐貴の態度を「許せない」と思ったが「自分が知ってしまった事を、支配人に話そう」
 という気持ちにはならなかった。

 「すみません。熱があって体調が悪いので早退させてください」
  ウソを言って、半ば強引に早退をした。

 「支配人は何か気が付いたかもしれない……すぐに、マネージャーに報告しなくちゃ」
  使命感に燃えるまま祐貴のマンションに行った。
 
 「教えてあげれば、また、優しくしてくれる」
  そう思って携帯に電話したが、電源が切られたままだった。
 
 「どうしちゃったの?」
  部屋に行きたかったが、何故か車から降りる事が出来なかった。
 
 「どうしようか?」
  迷っていた時、祐貴が部屋から出てきた。

  目が合ったような気がしたが、思い詰めたような祐貴の表情が気になり、そのまま車の後を付
 けた。ICチェンジに向かう様子に「どこか遠くに行っちゃうのかもしれない」と不安になった。
 
 「どこまでも、付いて行こう」
  そう決心した。

  しかし、4台前の祐貴の車が交差点で、突然Uターンを始めた。
 クラクションが激しく鳴った事で、春菜はパニックに陥った。
  
  不安が大きく膨らんで、どうして良いか分からなくなっていた時、祐貴が……ずっと憧れてい
 て、大好きだったマネージャーが……「あばよ」と不敵な笑みを浮かべて、自分を見た……

 「サヨナラなんだ……」
  春菜はそのままアクセルを思いっきり踏み込み、前の車に激しくぶつかった……


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