村上 祐貴の章
1 「マネージャー、携帯が『寒い』ってふるえていますよ」 羽田がフロントカウンター内にいる祐貴に笑いながら声をかけた。 「風邪でもひいたかな」 祐貴も笑って答えた。里佳子かな? と思い慌てて携帯を手に取った。 「雅彦」着信名を確認して「もしもし」と軽快な調子で電話に出た。
「俺だ。いいか落ち着いて聞けよ。親父が死んだ。すぐに帰って来い」 雅彦の声が震えていた。 「親父が死んだ?」 その声に、目の前でデスクワークをしていた羽田が驚いた様子で祐貴を見た。 「何があったんですか?」 声を少し潜めて訊いた。
「詳しい事は帰ってから話す。千葉中央警察署に来い」 「待ってください。何が起きたのですか?」 警察という言葉は口には出さなかった。 「刺されて殺された。とにかく出来るだけ早く帰って来い。すぐに出れるか?」 雅彦の口調には逼迫間が感じられた。 「分かりました。マンションに戻って支度をしてすぐに向かいます」
「すぐに帰った方がいいですよ。後の事は私達に任せてください。支配人には私から伝えておきます」 電話を切り、顔色を失っている祐貴に、心配そうな顔の羽田が声をかけた。
「すみません。迷惑かけますがお願いします。何かあったらいつでも連絡してください。僕の方もまた 連絡を入れます」 そう言って祐貴は、カバンとコートを手に取りフロントオフィスを飛び出した。 従業員出入り口を出る時「マネージャー!」と後ろから声を掛けられた。 「まず、これでも飲んで落ち着いてくださいね。運転には充分気をつけてください」 そう言って羽田が暖かい缶コーヒーを手渡した。 「ありがとうございます」 祐貴は頭を下げた。羽田の気づかいが嬉しかった。それでも「感慨に浸っている場合じゃない」そう 思って駐車場に向かった。
「何があったのだろうか?」 車のエンジンをかけ、まだ充分にエンジンが温まらないうちに車を発進させた。
マンションの自室に入って、まず里佳子の携帯に電話をかけた。 「お客様がおかけになった電話は、電波の届かない……」 電源が切られているアナウンスが流れた。 「どうしたんだろう?」 少し疑問に思ったが、身支度を整え、着替えをバッグに詰めて部屋を出ようとして、ハッと気付いた。 「喪服も必要か」 部屋にとって返し、クローゼットから喪服のセットと白いワイシャツを用意した。
車に乗り込んでナビに「千葉中央警察署」と登録して、もう一度里佳子の携帯に電 話をかけたが、 やはり電源が切られたままだった。 一抹の不安が胸を過ぎったが「電池切れでも起こしたのだろうか」そう考えた。
山中湖ICから東富士五湖有料道路に乗り中央道に入った。 府中の先で渋滞に巻き込まれたため、警察署に到着したのは7時を過ぎていた。 降りる前にまた里佳子に電話を掛けたが状態は変わっていなかった。
遺体安置室の前の廊下で、母の由美子と義兄の雅彦がポツンとソファーに座っていた。 「母さん!」 思わず母に駆け寄ったが、由美子は祐貴の顔を見てそのままソファーに泣き崩れた。 数日前に会ったばかりであったが、和服姿の母がひと回り小さくなったような気がした。
「一体何が!」 祐貴は雅彦に詰め寄った。
「いいから、先に親父に会って来い」 雅彦に言われて、ドアをそっとノックすると、係官がドアを開け、祐貴を中に導き入れた。 白い布を外して省三の顔を見つめた祐貴の目から涙が溢れた。省三の顔は、苦しいようなそれでいて 満足しているような、不思議な顔をしていた。 「父さん……」 拳を握りしめて、しばらくの間省三の顔を見つめていた祐貴は「ありがとうございました」そう言っ て廊下に出たが、雅彦が険しい顔で祐貴を迎えた。
「刺されたって、誰に刺されたのですか? 何が起きたのですか? どうして鴨川じゃなくて千葉で?」 「里佳子さんに刺された……」 雅彦の口から飛び出た言葉が理解出来なかった。 「里佳子がどうしたのですか?」 思わず訊いた。
「親父は市内のホテル華月という所で里佳子さんと会っていた。会っていた、と言っても誤解するな。 変な事をしていたのではない。何かの話をしていたらしい。そこで里佳子さんに包丁で刺された」 由美子が、また肩を震わせ嗚咽を漏らした。
「ウソだろう? 兄さん、いい加減な事言うなよ!」 到底信じられる話ではなかった。 「こんな所で俺がウソを言うか? 里佳子さんはホテルのフロントに自分から、人を殺した。と言って 出たんだ。今、署内で取調べを受けている」 「署内の何処にいるんだよ!」
「待て!」 走り出そうとした祐貴の腕を雅彦が掴んで止めた。 「落ち着け! 里佳子さんに会える訳がないだろう!」 祐貴は雅彦の手から逃れようともがいた。
その時、廊下に二名の刑事らしい人の姿が現れた。
「お世話になります。これは弟の祐貴です」 雅彦が姿勢を正して刑事に祐貴を紹介した。祐貴がやっと大人しくなった。
「ご苦労様です。これからご遺体を司法解剖させて頂くようになります。ご遺体のお引取りは、明日以 降となりますので何卒ご了承ください。お引取りの時間が分かりましたらご連絡を差し上げます」
「里・・・・・・」 刑事に向かって言いかけた祐貴を雅彦が制した。 「西島里佳子さんはどうしていますか? 弟は里佳子さんの婚約者なんです」 雅彦から祐貴を紹介された刑事が顔を見合わせうなづき合った。
「宜しかったら、ちょっとお話を伺いたいのですが」 年上の刑事が祐貴に声をかけた。
「構いません」
「恐れ入りますが、上の刑事課で伺わせてください」 刑事が祐貴を案内しかけた時、「祐貴!」それまで俯いて目にハンカチをあてていた由美子が祐貴を 呼んだ。
「お母さん、ご心配なさらなくても大丈夫ですよ。息子さんに少しお話を伺うだけです」 刑事は、母が息子の事を心配しているのかと思っているようだったが、祐貴は分かっていた。 「里佳子さんの婚約者である前に、殺されたお義父さんの息子なのよ。その事を良く 考えて刑事さん と話をしなさい」 由美子はそう言いたかったのだろう。祐貴は黙って刑事の後を付いて行った。
「千葉県警本部捜査一課の田辺と申します。こちらは同じ捜査一課の斉藤です」
「村上祐貴です。山梨県のホテルに勤務していますので、到着が遅くなり申し訳ありませんでした。亡 くなった父とは義理の関係にあります。また、里佳子とは結婚の約束をしていました。一体何があった のですか?」 祐貴は挨拶も早々に刑事に尋ねた。 「まだ、被疑者は黙秘しているので、全く話を聞けていません」 祐貴には被疑者……という言葉と里佳子が結びつかなかった。
「今、分かっている事は、現場となったホテル華月での話しからでしか推測出来ない内容です。お父さん は、昼前にホテルに見えてお部屋を取られました。チェックインは3時からでしたが、早めに部屋を使わ せて欲しい、という事で、ホテルは部屋を用意しました。被疑者が1時前にホテルに到着しているのは、 防犯カメラで確認出来ています。部屋では何か話をされていた様子で、その話の内容に関する書類が残さ れていました。パソコンをプリントしたものと、被疑者がメモしたものです。話の最中にトラブルが起き、 恐らく被疑者が用意した包丁で刺されました。被疑者がフロントに現れたのが2時過ぎでした。一時間程 話をしていたと考えられます」 「本当に里佳子が父を殺したのですか? 一体、部屋でどんな話をしていたのですか?」 「本人はフロントでそう言っています。刺し傷は三箇所ありました。背中に一箇所。わき腹、そして心臓。 おそらく心臓の刺し傷が致命傷と思われます。話の内容については詳しい事は聞けていません。何か話を 聞いていませんでしたか?」
話をしているのはほとんど田辺という刑事だった。 「里佳子に、父と二人で会って話す程の事情があるとは思えませんし、私は何も聞いていません。ただ、 私達の結婚の事で問題がありました」
「トラブルがあった、という事ですか?」
「昨年末に、私と鴨川の実家に、里佳子と、里佳子が勤めるホテルの社長とのツーショット写真と、二人 が不倫関係にある。という内容の手紙が送られてきました。それが原因で、家族から結婚に待ったがかか りました。その時、私も激怒して里佳子に問い詰めました。しかし、その事に関しては、それはいたずら だという事が分かり、二人の間では誤解は解けましたが、家族からは『結婚に関してはもう少し時間を置 いて、様子を見なさい』と言われました。その結論に達したのが4日前で、家族の考えは里佳子に伝えて あります。ただ、私は自分の考えを貫き通すという事で、春になったら二人で結婚式を挙げるつもりで、 自分の気持ちは里佳子には伝えました」
「写真と手紙の内容を教えて頂けますか?」 「今、手元にはありませんが。仕掛けられた事でした……」 祐貴は内容を刑事に話をした。
「誰がその写真と手紙を送ったのか? という事は分かったのですか?」 「それは分かりませんでした。もしかしたら、父が犯人だったと里佳子は考えていたのですか? ホテル の部屋に残された書類というのは写真と手紙だったのですか?」 「それは違います。部屋に残されていた書類は、昭和50年の春に起きた殺害事件に関するものでした。 乾暁生、乾早苗、乾遼平、という名前を被疑者から聞いた事はありますか?」
「乾? 乾は里佳子の旧姓です。里佳子は2歳になる前に両親を亡くして、親戚に養 女として引き取ら れて西島になったのですが……昭和50年? 殺人事件? それはどんな事件ですか?」
「昭和50年4月の出来事ですが、横浜市鶴見区で教師一家が殺害された事件です。 結局、真犯人の特 定が出来ずに時効を迎えてしまっています。何か心当たりがありますか?」
「待ってください。里佳子は、自分の両親と弟は交通事故で亡くなったと言っていました。弘明寺の自宅 マンションに、両親と弟の写真がありますが、その写真の裏には確か、昭和50年5月幾日かの日付が書 かれていました。もしかして、里佳子の家族は交通事故ではなく、殺害されたのですか?」 「殺害された教師一家は乾暁生さん、早苗さん、遼平君の三人で、長女だけが無傷でした。今、村上さん からのお話を伺っての推測ですが、交通事故で亡くなったと信じていた事が、何かのきっかけで家族は殺 害された、という事を被疑者が知ったという可能性が考えられます」
「無傷の長女……というのは里佳子だった……という事ですか?」
「そうです。確認が取れています」
「でも、その事と父とどういう関連があるのですか?」
「それはまだ分かりません。何しろ、黙秘を続けているので、今回の動機も分かっていません。村上さん は何かお話を聞いていなかったのですか?」
「全く聞いていません。あの……里佳子に会わせて頂く事は出来ませんか?」 「申し訳ないのですが、今は出来ません」
「そうですか? 里佳子の様子はどうですか? それだけでも教えて頂けませんか?」
「ご心配されるお気持ちは分かります。逮捕当初はかなり興奮状態でしたが、今は少し落ち着いて、犯行 は認めています。ただ、それ以外の事は一切話してはいません」
「里佳子は……どうなりますか?」 「動機や犯行状況など、それは被疑者の供述を得られないと具体的で確実な事は申し上げられません」
「でも、どうして……」 祐貴は俯いて頭を抱えた。 ……里佳子、何があったんだ……どうして俺に話をしなかったのだ?…… そう思うと胸が張り裂けそうになった。 「まさか……」 祐貴が顔を上げた。
「何か気付かれた事がおありですか?」 「父の事を聞かれた事があります。父は、私が中学生の時に母と再婚をして婿養子に なったのですが、 父の旧姓を聞かれました。話の流れでそうなったので、その時は何とも思いませんでしたが、今思うと、 その方向に話題を持って行ったのかもしれません。父が……里佳子の両親の事件に何か関係しているの かもしれない……」 鴨川での、省三と里佳子の様子が目に浮かんだ。しかし、その時に感じた不安感は話さなかった。
「その事も含めて、これからの捜査で解明していかなくてはならない事です」 「里佳子の事は、きちんと調べてください。それから、里佳子に伝えて頂けますか? 私は今は何も出来ないけれど、傍にいる、という事を忘れないで欲しい。そう伝えてください! お願 いします」 祐貴は田辺と斉藤に向かって深々と頭を下げた。 「分かりました。村上さんのお気持ちは伝えます」 「よろしくお願いします。それから、明日マンションに里佳子の着替えを取りに行きたいのですが、そ れは出来ませんか?」
「早朝から家宅捜査が入りますので、捜査中はご遠慮頂きますが、終了後でしたら構いません。ところ で、村上さん……」 田辺刑事の表情が柔らかくなった。 「西島里佳子さんが、あなたのお父さんを刺した事は間違いありませんが、私達はその裏に隠れている 事を探り出しますよ。ただ、覚悟しなくてはならない事が出てくるかもしれません」 最後の言葉に驚いた青木が、思わず田辺の顔を見た。
突然、祐貴の目から涙が溢れた。田辺刑事が「被疑者」という言葉を使わず「西島 里佳子さん」 そう言ってくれた事が嬉しかった。
「真実を突き止めてください。よろしくお願いします」
後ろ髪を引かれる思いで警察署を後にした祐貴が、鴨川の実家に戻ると、リビングには雅彦の姿しか なかった。 「母さんと義姉さんは?」 由美子と美由紀の姿がなかった。 「母さんはもう部屋で休んでいるよ。相当参っているから心配だけど……美由紀は美香と美咲を実家に 預けに行った。二人とも当分の間、実家から通学させる事になっている。美由紀は仕事があるから今晩 中には戻って来る」
四日前に、里佳子の事を話しに来た時に居心地が悪いと感じたのは、何かの前兆だったのか?
「警察で何を聞かれた?」 雅彦が訊いてきた。 「里佳子から何か話を聞いていないか? と訊かれたけれど、俺は何も聞いてなかった。里佳子も黙秘 しているらしい」 両親の殺害事件の事は話せなかった。 「一体何があったんだ。里佳子さんと親父が、二人で話をしなくてはならない理由は何だったんだ!」 雅彦は苛立っていた。
2 翌日、祐貴は午前中に鴨川を出発した。 行き先は弘明寺の里佳子のマンションだった。 館山自動車道の君津ICの手前で携帯が鳴った。 「雅彦」の着信名を確認した祐貴は車を停めて電話に出た。
「何処にいるんだ!」 いきなり雅彦が怒鳴った。 「黙って出かけて悪かったけれど、これから里佳子のマンションに行って、着替えを取って来ます。 そのまま千葉中央署に行きます」 「何やってるんだ! 戻って来い! 母さんの傍に居てやれよ」 「母さんには義兄さんや義姉さんが居るけれど、里佳子には誰も居ないんです」
「いい加減にしろよ! とにかく戻って来い!」
「すみません、母さんを頼みます」 そう言って祐貴は電話を切り、ついでに電源も切った。 ……里佳子には俺しかいない……
マンションに到着したのは昼を過ぎていた。 「家宅捜査は終わったのだろうか?」 マンション周辺に警察車両は見当たらなかった。
オートロックを開けようとした時、郵便配達員がマンションのポストに郵便物を配 っていた。里佳 子のポストにも、郵便物が配られる所を何気なく見ていた祐貴は、キーホルダーに付いている小さな鍵 でポストを開け、配られた郵便物を取り出した。 ダイレクトメールやクレジットカード請求書に混ざって「速達」と赤い印がついた封書があった。 「西島里佳子様」と、筆ペンの様な物で書かれた字体を見た祐貴はハッとした。達筆な文字に見覚えが あったが、差出人名は書かれていなかった。 周りを見回して、誰にも見られていないのを確認して、郵便物の束をバッグにしまい、急いで里佳子 の部屋に向かった。
捜査は終了したのだろう。里佳子の部屋は、何事もなかったかのように、綺麗に片付けられていた。
祐貴はソファーに座って速達で送られた手紙を開封した。
読み始めた祐貴の顔色が変わった。 その手紙は、省三が己の犯した罪を告白した内容だった。 「なんだ、これは! ……こんな事……」 突然、里佳子の自宅の電話が鳴った。 「里佳子だ!」 あろう筈もなかったが、祐貴は、里佳子だと信じて受話器を取った。 「バカヤロー! 携帯の電源位は入れておけ」 いきなり怒鳴られた。雅彦だった。 「すみません」 「着替えは用意したのか? 早く帰って来い。親父から遺書が届いた。いいか、すぐ に戻って来い!」 それだけ言って電話は切られた。
「遺書?」 すぐに鴨川に帰らなくてはいけない、と思ったが、椅子から立ち上がれなかった。 気持ちの悪い汗をかいていたのでパーカーを脱いで、半袖のTシャツ姿になった。ベ ランダから降り 注ぐ暖かな冬の陽が、場違いのような気がして、祐貴はカーテンを閉めた。 もう一度、省三から里佳子に宛てた手紙を読み返した。
「西島里佳子様 いつかこういう時が来るのではないか。という事は去年、貴女と初めて会った時 から感じていました。そして、今日、貴女から電話をもらって遂にその時が来た と覚悟を決めました。 貴女が私と会って話をしたい事、知りたい事は、これから私が述べる事だと思い ます。 昭和50年4月18日の夕方、私は乾氏の自宅を訪問しました。 乾氏がある事に関わっていて、それを止めさせるのが目的でした。 内容については、乾氏の名誉に関わる事なので省かせて頂きます。 しかし、話は上手く進まず、結果、最悪の事態を招いてしまいました。 気が付いた時、乾氏が血を流して倒れており、私の手には植木鉢の破片が握られ ていました。 咄嗟に保身の気持ちが働きました。夢中で証拠を消しました。 どの位時間が経ったのかは分かりませんでしたが、気が付くと居間の入り口に、 遼平君を背負った早苗さんが、呆然と立ち尽くしていました。 乾氏から「家内と子供達は実家に帰っている」と聞かされていましたし、証拠を 消す事に夢中になっていた私は、早苗さん達が帰って来た事にも気付きませんで した。 そして、私は早苗さんと遼平君もこの手で殺害してしまいました。 茫然自失をしていた時、突然貴女が現れました。 私の姿を見て怖かったのでしょう、貴女が大きな声で泣き始めました。 私は、咄嗟に貴女に駆け寄り腕を掴んだ時、早苗さんが「ダメ!その子はあなた の……」必死で叫んで事切れました。 その言葉に我に返った私は、自分の跡を消してそのまま逃げ帰りました。
「運命」は時には幸せを運び、また時には不幸も運びます。 祐貴から「紹介したい人がいるから、会って欲しい」と言われた時、私も妻の由 美子もとても喜び、祐貴と貴女が訪れるのを心待ちにしていました。
しかし、貴女を初めて見た私は、天国から地獄に突き落されたような気持ちにな りました。私の目の前にいるのは、祐貴の婚約者は、乾早苗さんにそっくりだっ たのです。それだけなら何の問題もなかったのですが、貴女も何かに気付いた。 この事は鴨川での貴女の様子を見てすぐに分かりました。その事もあって、私は 貴女の事を専門家を使って調べさせました。そして分かったのです。貴女が乾暁 生氏と早苗さんの長女だという事が。
私が殺した家族の長女が、息子の婚約者として私の目の前に現れた。
その時から私の地獄が始まったのです。 それは私にしか分からない地獄ですが、当然起こるべくして起こった事なので す。 消せない過去の事、その事が暴かれない事をいつも願っていました。 しかし、私は分かっていました。真実を知った貴方が「祐貴の婚約者」としてで はなく「乾一家の長女」として私の前に現れる、という事を……
それでも「祐貴との事を大事にする」というあなたの気持ちに賭けていました。 貴女だったら理解出来るでしょう。
殺人罪という十字架を背負った私は苦しかったのです。しかし、捕まるわけには いきませんでした。病弱な妻と雅彦がいたからです。 二人のために、罪を隠して一生懸命働きました。その後、妻が亡くなり、千葉に 移り住んで、そこで由美子に出会って再婚しました。 当時、多感な年頃の祐貴は、危ない道に足を踏み入れる一歩手前でした。その祐 貴を正しい道に軌道修正させる事、そして、鴨川シーサイドホテルを発展させる 事に、私は全力を注ぎました。ホテルは大きくなり、祐貴もりっぱな男に成長し ました。
初めて、貴女が鴨川を訪れたあの日…… もし、貴女が、私が殺した乾氏の娘だったとしたても……目の前の幸せそうな祐 貴と貴女を見て……貴女が愛する祐貴を作ったのは私だ……そう思うと、私の罪 が消えたように思えたのです。
しかし……「貴女は私を許さない。貴女も覚悟をしている」さっき、電話をもら った時にハッキリ分かりました。
私がしなくてはならない事は、あなたに真実を話し、そして自分で自分を裁く 事。 こんな事をしても償いになるとは思いませんが、私に出来る事はその事だけで す。
貴女からの申し出をお断りしよう、と思いました。でも、最後にもう一度だけ貴 女には会いたかった。 この手紙を貴女が読む事になる時には、私はもう存在していません。
貴女は祐貴と幸せになってください。 祐貴は心優しいりっぱな男です。祐貴なら貴女を幸せにする事が出来る。 祐貴の愛に包まれてどうか、幸せになってください。
最後になりますが、貴女は私の娘ではありません。 鴨川で、貴女の血液型はB型と、祐貴は言いましたが、私とは血液型が合いませ ん。貴女は、紛れも無く乾暁生さんの娘です。 西島里佳子様 本当に申し訳ございませんでした。心からお詫び申し上げます。
緒方正昭」
署名は「村上省三」ではなく「緒方正昭」となっていた。
「この事に里佳子は気付いていたのか……」
3 鴨川の実家に帰った時は夕方になっていたが、家には誰も居なかった。 母屋に電気が点き、祐貴が帰って来たのに気が付いたのか、祐貴が子供の時から、 鴨川シーサイドホテルに仕えている、中居頭の田島晴美が母屋に飛んで来て「お帰り なさい。大女将と総支配人と女将さんは、警察にご遺体の引き取りに出かけています」 それだけ言ってホテルに戻って行った。 雅彦からは何の連絡もなかった事で「かなり怒っているのだろう」祐貴はそう感じ た。 省三の遺体が戻って来たのは、それから一時間後の事だった。 母の由美子はまたひと回り小さくなったようだったが、祐貴を見ても何も言わず、美 由紀に抱きかかえられるようにして自室に入って行った。 省三の遺体が運ばれて来た時、ホテルから数人のスタッフが手伝いに来たが、祐貴 は何をどうして良いのか分からず、ただ突っ立っていた。
「使えない奴だ!」という様な顔をして雅彦が祐貴を見ていた。
和室に省三を寝かせ、ホテルスタッフが引き上げたところで「酒の支度をしろ!」 雅彦が美由紀に命令口調で言った。義姉にそういう口を利いた事がない雅彦の様子に 祐貴は驚いた「相当苛立っているのだろう」祐貴は何も言えなかった。
雅彦は線香を灯し、省三の枕元に好きだった酒を置き、手を合わせた。 祐貴も雅彦の隣に座り省三の顔をじっと見つめた。 「お父さん、あの手紙は本当なのですか?」 声に出さず省三に問いかけた。 「着替えは届けたのか?」 手を合わせ終えた雅彦が祐貴に訊いた。 手紙の事で頭がいっぱいだった祐貴は、少しの間答える事が出来なかった。
「聞いてるのか?」 雅彦がイライラした様子で祐貴に言った。 「着替えは明日届ける事にします。それより、親父の遺書を見せてください」 祐貴は雅彦の苛立ちを無視した。雅彦は黙って白い封筒を祐貴に手渡した。
遺書は母に宛てた物だった。
「今、いろいろな思いが交錯しています。 由美子を一人残して逝くのは心残りですが、祐貴がきっと大事にしてくれるで しょう。雅彦も美由紀も、きっと支えになってくれると思います。 村上の家に入ってから、新しい家族と出会ってからは、本当に幸せな日々を過 ごせました。 由美子も、雅彦を実の息子同然に大事にしてくれた事に感謝しています」
読み終えた祐貴は黙って、遺書を雅彦に返した。 里佳子の両親の事、自分が犯した罪の事には一切書かれていなかった。
祐貴は怒りを覚えた。中学生の時に父の遺書を見てしまった時とは、また違う「怒 り」だった。 「綺麗事だけじゃないか! 死を覚悟していながら、母には真実を伝えず、里佳子に だけ真実を伝えた。それは何故なのだろうか? どうして昨日、里佳子と会ったのか? 本当に、自ら命を絶とうと考えていたのだろうか? 里佳子への手紙に『祐貴 と幸 せになってください』そう書いてあったが、心からそれを望んでいたのだろうか…… そうではない。真実を知った里佳子が、その事を自分の胸にだけ納めて、何事もなか った様に幸せになれるだろうか? なれる筈がない。里佳子は俺の元を去って 行く だろう。親父はそれを望んでいたのだ。里佳子は、親父と会う時に包丁を用意してい た。それは電話で、里佳子にそう仕向けるように、親父が導いたのかもしれない。 そして、そうせざるを得ない様な話をした……何のためにそんな事をしたのか? 里佳子宛の遺書の内容は真実なのか?」 今まで尊敬していた義父に「怖さ」を感じた。 「親父は壊れていたのかもしれない……」
「祐貴さんもあなたも少し休んでください。お酒の用意が出来ましたよ」 美由紀が遠慮がちに声をかけた。美由紀に促されて、祐貴はダイニングテーブルに ついたが「帰りに警察に行けば良かった」と真っ直ぐに家に帰ってしまった事を悔や んだ。雅彦と電話で話した時は「省三の遺書を確認するのが先だ」そう思っていたの だが、それは間違いだった。どうしようもなくなって、落ち着かない気持ちになり、 思わずテレビのスイッチを点けた。
「テレビは点けるな!」 また雅彦に怒鳴られた。 「お義父さんの事は、ニュースでセンセーショナルに扱われているの」 美由紀の声が小さかった。 「ホテルの周りにも、報道関係者が居たのに気付いていないのか?」 雅彦が祐貴を睨みつけた。昨日から祐貴は、雅彦ときちんとした会話も交わしてい ない。 「すみません。気が付きませんでした」
そう言えば、不幸があった時、真っ先に掛け付ける近所の人間が誰も顔を見せなか った。事情を察して遠慮しているのだろうか。それとも「また、村上家で問題が起き た。あの家は呪われている」近所でそう噂されているのだろうか。
「祐貴、お前は何を考えているのだ? 何か知っているのだろう? 話せよ」 少し前までと違って、雅彦が祐貴を見る目が優しくなった。それでも、祐貴は何も 言えなかった。 「何で犯人が里佳子さんなんだ!」 雅彦の目から涙が溢れるのを見た祐貴に、雅彦の辛い気持ちが伝わった。
美由紀が、何とも言えない苦悩の表情を浮かべて顔を背けたが、苦悩の表情の中に は、里佳子に対しての憎しみが見えたような気がした。 祐貴は、美由紀の表情を見て理解した。 付き合い始めた頃、里佳子に言われた事があった。 「私は、何故かホテルで嫌われ者なの。だから、会社では特に親しい友人はいないの。 私は何にも判らない。でも、周りの人間にそう思わせる自分が悪い。そう思っている けれど、何をどうしていいか判らないの」 祐貴には分からなかった。 「こんなに綺麗でチャーミングな里佳子を嫌う人間がいるのか?」 そう思っていた。
「俺だって、バカじゃないさ。里佳子さんが現れてから親父の様子が変だった。それ 位は感じていたよ」 雅彦の言葉は祐貴の胸をグサッと刺した。
……兄貴も感じていた? 俺も一瞬感じた事があったが、その事に目を瞑っていた…… ……もしかしたら、母も義姉も、雅彦と同じ様に何かを感じていたのかもしれない。 そして、里佳子が不幸をもたらす元凶のように思っていたのかもしれなかった……
……でも、そんな事はない!…… 祐貴は心の中で叫び、里佳子に宛てた省三からの手紙を雅彦に渡した。
「何だこれは?」 「今日、里佳子のマンションに届いていました」
手紙を読む間に雅彦の顔色が変わった。
実母亡き後、男手一つで自分を育て、そして、鴨川シーサイドホテルの社長になり、 ホテルを発展させ、地元の名士にまでなった父が……殺人者だった。 夫の様子が変わったのを見た美由紀が、雅彦の手から奪う様にして手紙を読み始め た。日頃気丈な美由紀も、最後まで読み終える事が出来ず「なんて事を……」と言っ て、泣き出した。
「親父は悪魔だ。里佳子にこの手紙を送り、母さんには何も告げなかった。どうして だか判りますか?」 雅彦や美由紀の辛い気持ちは判るが、誰よりも一番辛いのは里佳子なのだ。
「親父は自らの手で命を絶ち、お袋には綺麗事の遺書を書き、あわよくば、過去の事 が葬り去る事が出来ると思っていた。卑怯だ、と僕は思います。命を絶つ、などとい う事をしないで、生きて、自分が犯した罪と向き合い、その罪を償わなくてはいけな い、そう思います。里佳子に、自分の胸の中だけに納めて、俺と幸せになれ。そう訴 えているのですよ。そんな事無理だ! 遺書を送る位なら、どうして里佳子と会った のか? 会った時に告白をすれば良かったじゃないか。親父は残酷な悪魔なんだ!」 「言っていい事と悪い事がある。それを考えろ!」 雅彦と祐貴の視線がぶつかり合った。
「お前はその手紙をどうするつもりだ?」 先に雅彦が視線を外した。 「明日、警察に届けます。そうすれば里佳子も話を始め、真実が見えて来る」 「祐貴さん、待って……」 泣いていた美由紀が顔を上げた。 「お願いですから、その手紙は警察に届けないでください」 美由紀が祐貴に頭を下げた。
「私達は全てを受けとめる事が出来るけれど、美香や美咲をこれ以上苦しめないで欲 しいの? お願いだから、その手紙は無かった事にしてください」
祐貴の中にまた猛烈な怒りが沸いた。 この期に及んで、村上家の人間は、真実を捻じ曲げてでも、自分の家族は、身内だけ を守る事しか考えられないのか。
「ふざけるな!」 祐貴が怒鳴った。 「お願い……」 美由紀が激しく泣きじゃくった。
「祐貴! 言葉を慎め!」 雅彦が声を荒げた。
「祐貴、美香や美咲の事を考えてやってくれないか?」
祐貴も美香や美咲は可愛い。 省三の過去が暴かれたら、美香や美咲はこの場所では生活出来ないだろうし、一生心 の傷を背負って生きて行かなくてはならない。その事を考えたら、胸が張り裂けそう になる位に辛い。それでも、真実に目を瞑る訳には行かない。 雅彦と美由紀にとって、美香や美咲が大事な様に、祐貴にとって、里佳子が大事な のだ。そうではない、もし里佳子が関係していなくても、真実に目を背ける事は出来 ない。
……里佳子のマンションにある、乾親子の写真が目に浮かんだ……
「すみません。義姉さんに生意気な口を利いた事は謝ります」 祐貴は素直に自分の非を詫びた。 「兄さんや義姉さんの気持ちは判ります。でも、それは出来ない。それに、警察でも 里佳子の両親殺害事件と、親父の関連を調べ始めていると思います」 「関連を調べると言っても、親父は亡くなったし、真実を突き止める事は出来ないだ ろう」
「兄さん、人間として本当にそれでいいのですか?」 祐貴の中に一度治まった怒りがまた沸きあがった。 ……兄貴まで壊れてしまったのか?……
雅彦がこの家に来た時、雅彦は高校三年生だった。 雅彦の部屋には本がたくさんあった。 実父の遺書を見た事でショックを受けた祐貴は「もう、どうでもいい」と、あれだ け夢中になっていた、バスケットボールにも興味を失い、危ない道に逸れそうになっ ていた。 そんな時、雅彦が祐貴の気持ちを救ってくれた。お互いに一人っ子同士という事も あり、5歳の年の差はあったが、二人は自然に仲良くなっていった。雅彦は良き相談 相手になってくれ、人間として正しい道を歩む事、自分が信じる道を歩むことを祐貴 に説いた。
「僕は里佳子の真実をきちんと伝えたい。この手紙を持って明日警察に行きます」 「どうしたらいいの……」 美由紀は手で顔を覆って泣いていた。
誰も何も言わなかった。 それぞれの中でいろいろな思いが交錯していた。何をどうすればいいのか?
「二人が何を考えているのか……分かりますよ……僕が里佳子を連れて来なければ良 かったんだ……」
また、美由紀の泣く声が大きくなった。
「『運命』は時には幸せを運び、また時には不幸も運ぶ……そうなんだ……だけど ……僕と里佳子は本当に愛し合っていた……今でも愛し合っています」
「分かった……俺が間違っていた……お前が知る範囲でいいから、話をしてくれ」 雅彦が顔を上げて、祐貴に頭を下げた。
祐貴はしばらくの間、じっと雅彦の顔を見つめていた。
「話します……里佳子は、昭和50年5月に起きた、教師一家殺人事件のたった一人 の生き残りです。その事件は犯人が捕まらないまま時効を迎えました。里佳子は、自 分の両親が殺害されたとは知らなかった。西島の両親から、交通事故で亡くなった、 と言われた事を信じていた。僕は里佳子からは何も聞いていません。里佳子も、僕に は何も言えなかったのだと思います。だから、警察から聞いた話と手紙から推測する 事しか出来ません。里佳子は去年、親父と会った時に、幼い時に起きた何かを思い出 して、それで、交通事故の事を調べ始めた。恐らく図書館で当時の新聞を見て、両親 が殺害された事を知ったのだと思います。去年、僕は、里佳子から親父の旧姓を聞か れた事があります。里佳子の両親は、横浜の星光学院の教師をしていた……」
「待てよ。星光学院? 里佳子さんの両親はそこで先生をしていたって? 親父は星 光学院の事務局に勤めていた」
雅彦は忘れたいと思っていた出来事を思い出した。 父の勤める学校で殺人事件が起きた事は知っていたし、警察で事情聴取を受けた事も、 薄々気がついていたが、病弱な母と自分のために、一生懸命働いている父を信じてい た。 ある日……夜中にトイレに起きた雅彦は、母のすすり泣きを聞いた。 足音を忍ばせて両親の部屋の前に行き、両親の会話に耳をすませた。 「もう、私の疑いは晴れたから、何も心配する事はないよ」父が、母に言っているの を聞き「やっぱり、お父さんは無実だったんだ」子供心に、胸をなでおろした。 里佳子と会った父の様子が変だ、と気付いていたが、その事と、昔の忌まわしい出 来事を結びつける事はなかった。
「学校の名簿か何かで、親父と里佳子の両親との間に、繋がりがある事を知ったのだ と思います。ただそれはあくまでも疑惑であったから、直接親父と会って、真実を探 り出したかった。でも、電話で、何か里佳子を怒らせる事を親父が言ったから、里佳 子は包丁を用意して親父と会った。話をしている時に何かが起きた」 そこで祐貴は一息ついた。
「兄さんが気が付いたいたように、僕も変だと思った事がありました。初めて、里佳 子を鴨川に連れて来た時の事です。里佳子を見た親父の顔が変わりました。その時、 里佳子も何かに怯えたような顔をしていました。他にも、里佳子の様子が変だと思う 事がありました。小さい時の怖い経験が、何かの拍子に蘇った」 「トラウマから来るフラッシュバックか……」 「分かりませんが、そういう事かもしれない。僕は、あの時、里佳子に聞こうと思っ たけれど、聞かなかった……聞かなかったのではなくて、聞けなかった。勇気がなか ったからです」 「親父は……小さな子供が激しく泣くのを異常に嫌がる。それも……トラウマなのか もしれない……」 「里佳子は切羽詰っていたんだ。あの写真や手紙も親父の仕業かと思っていて、結婚 の話が上手く進まない事もあって、追い詰められて行った……」 雅彦はじっと黙って祐貴の話を聞いていた。
「『運命』だった。最初はそう思いました。里佳子は、僕が初めて結婚を意識した相 手です。里佳子も僕と出会った事が『運命』だと思っていた。でも、その『運命』を 導いたのは、里佳子の両親と弟だった。僕は気が付かなかったが、里佳子はそれに気 付いていたのだと……そう思います。僕と出会った事が『運命』ではなく、僕との出 会いはきっかけで、本当の『運命』は親父と対峙する事。そして、真実を暴く事」
「里佳子さんはたった一人で悩み、そして実行した……のか……」
「待って! どうしてあなた達は里佳子さんの事ばかり庇うの?」
それまで黙っていた美由紀が口を開いた。
「庇っているんじゃないよ」
「お義父さんが、本当に殺人を犯したとしても……今までの長い間、お義父さんがあ なた達のために、どれだけ一生懸命生きて来たという事を考えた事があるの? 祐貴 さんを立派に育てて、だから、里佳子さんと知り合った。その事がどんな事か? 祐 貴さん、だから、お義父さんを許してあげてください。遺書がなければ、あくまでも 疑惑でグレーのままなのでしょう? 美香と美咲とお義父さんは血が繋がっているの よ。何度も言うけれど、あの子達と血が繋がったお義父さんを殺人者にしないでくだ さい。あの子達の為だったら、真実を封印したという十字架を私は一生背負って生き て行けます」
「義姉さんの気持ちは分かります。でも、考えてください。里佳子は血の繋がった両 親と弟を親父に殺されたのですよ」
「でも、それは……」
「僕の話を聞いてください。遺書を無かった事にする、そんな十字架は重くもないし いつか忘れる。でも、里佳子が背負った十字架は……例え、罪を償ったとしても、一 生、里佳子を苦しめる事になる。その事がどんな事か、よく考えてください」
祐貴は美由紀に対して湧き上がる怒りを必死で堪えた。
「美香と美咲の事は、僕だって辛いんです。でも、二人には義兄さんと義姉さんがい る。愛情で二人を救い、守る事が出来るんです。里佳子を救う事が出来るのは、真実 を明かす事だけなんですよ」
「でも……」
また、美由紀は泣き崩れた。 「これからお前はどうするつもりだ?」 雅彦はずっと無表情だった。 「僕は……」 雅彦の余りにも辛そうな顔を見て、祐貴は次の言葉が言えなかった。ある日、突然、 亡くなった父が殺人者だと知った雅彦は辛いだろう。美由紀や美香、美咲を抱え、ホテ ルの事もある。
「いいんだよ。正直に言えよ」 「僕は……僕は、親父を尊敬していました。ここまで育ててくれた事には感謝してい ます。それに、母さんの事も心配しているけれど……僕は、里佳子を待ちます。その 事がどんな事かは良く分かっています。でも、里佳子には僕しかいない。すみません ……」
「祐貴……」 その時、突然由美子が現れた。 「あなたは、この家から出て行きなさい!」 「お義母さん……」 美由紀が慌てて由美子を支えてダイニングの椅子に座らせた。 「お父さんも殺人者なら、里佳子さんも殺人者よ。同じ殺人者なのよ。血の繋がりの ないあなたを、可愛がって育ててくれたお父さんに背を向けるのなら、あなたは村上 家の人間じゃない。だから、出て行きなさい!」 由美子の顔は能面のようだった。 「私の事なんて心配してくれなくても大丈夫よ。一人で生きて行かれるから」 「母さん、聞いていたのですか?」 雅彦も慌てて立ち上がった。 「祐貴が里佳子さんを連れて来なければ、こんな事にならなかったのに。雅彦さんや 美由紀さんには本当に申し訳ない事をして、ごめんなさい」
「母さん……」 母がこんな事を言う事が祐貴は悲しかった。
「明日、警察に行ったらそのまま横浜にでも何処にでも行きなさい」 「確かに僕が里佳子を連れて来なければ、こんな事にはならなかった。親父は一生逃 げ遂せた。でも、母さん、それで良かったのですか? 殺人という大きな罪を犯した のに、罪の償いもせず生きていく。それが人間ですか? そして、里佳子の気持ちを 考えた事がないのですか?」 「お父さんは、罪を償うかの様に一生懸命生きて、私やあなたを愛し、あなたを立派 に育て、そしてこのホテルをここまでにした。私はそういうお父さんを信じています」 由美子は毅然としていた。
「分かりました! 兄さん、義姉さん、母さんの事をよろしくお願いします。長い間 お世話になりました」 祐貴はそう言って立ち上がった。
「祐貴、待てよ!」 雅彦が祐貴の手を掴もうとしたが、祐貴は逃げるように居間を後にした。
ドアを閉める時、美由紀の号泣が聞こえた。 車に乗り込んだ祐貴はしばらくの間、エンジンをかける事が出来なかった。 「母さん……」 思わず涙が溢れた。
「里佳子を待つ」その事がどういう事になるのか、覚悟をしていたが、母があんな事 を言うとは信じられなかった。
「そうなんだ。誰も里佳子の真に辛い気持ちを分かろうとしていないで、自分を守る 事しか考えていないのだ。里佳子が疫病神そう思って、里佳子に憎しみを抱いている のだ」 そうとしか思えなかった。 「いつの間に、家族はあんなになってしまったのか? そうじゃない。突然の悲劇に みんな人間としての気持ちを失ってしまったのだ。でも、仕方ない……そうさせたの は俺かもしれない。俺は……何も気付かずに、自分の事しか考えていなかった」 涙も拭わず、祐貴はエンジンをかけ車を発進させた。
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