1 二日後、祐貴が来期の予算組み会議をしている最中、里佳子は電話をかけていた。
この時間帯だったら、大女将の由美子はホテルで仕事をしているだろう。
「もしもし」と電話に応えたのは省三だった。 「ご無沙汰しています。西島里佳子です」と言った時、受話器の向こうにいる省三が息を呑んだような 気配を里佳子は感じた。
「里佳子さん!」 省三は驚いていた。 「突然お電話を差し上げて申し訳ございません。また、この度は私の事でご迷惑をお かけしお詫びい たします。今、宜しいですか?」
「由美子ですか? 由美子はホテルの仕事に入っていますが」 何故か省三の声は他人行儀だった。 「いいえ、お義母様ではなく、お義父様に用があります」 里佳子の声も硬かった。 「実は折り入ってお話ししたい事がありますので、お時間を作って頂きたいのですが」
「私に……ですか? 祐貴との事でしたら、私達の考えは全て祐貴に伝えてありますよ」 「祐貴さんとの事ではありません。全く別の事です。お義父様と私に関する事です。詳しく言うと、私 の家族に関する事でお伺いしたい事があります。こちらからのお願いですので、鴨川に伺うのが筋かと 思いますが、他の人には聞かれたくない内容ですので、大変申し訳ないのですが、お近くで結構ですが、 別の場所でお会いして頂く事は出来ませんか?」 「いきなり言われても……どんな事でしょう? 電話ではダメですかね?」
「お電話では申し上げられません」 里佳子は毅然として言い切った。 「急ぎますか?」
「出来れば早い方が有り難いのですが」 「ちょっと待っていてくださいね」
電話が保留メロディーに変わった。 祐貴の実家に電話をするのは二度目である。前回は、去年の春、美香と美咲の誕生日の日に「鴨川駅に 着きました」という電話をかけた。その時、由美子が「美香と美咲が電話で話をしたいっていうの」そ う言い、二人に代わる前に保留メロディーを聞いた。あの時は少しウキウキした気持ちでメロディーを 聴いていたが、今聴くメロディーは耳障りだった。
「お待たせしました」 長い時間待たされたが、省三の声は何か覚悟を決めたようだった。
「明後日はどうですか? 明後日は由美子が、旅館組合の集まりがあって泊りがけで出かけます。他の 人に聞かれたくない、と言うのであればその日が好都合だと思いますが。場所は何処にしましょうか?」 「日程は明後日で結構です。場所はお任せいたします」 「それでは、千葉市にある『ホテル華月』……華やかな月です。そこのホテルのフレ ンチレストラン がお気に入りで、由美子とよく行きますが、そこで1時でどうでしょう? 場所は駅からタクシーで5 分程です」
「『ホテル華月』、分かりました。ロビーで待っていて頂けますね?」 「そうですね。部屋を取りましょうか? 直接部屋に来てください。部屋番号は当日携帯にでも連絡し ますよ」 「部屋? ですか……」 里佳子はちょっと嫌な気分になった。
「嫌ですか? だって、誰にも聞かれたくないって仰ったじゃないですか。喫茶室や ロビーより、部 屋の方がゆっくり話が出来るでしょう。それに心配しなくて大丈夫ですよ。何もしませんよ、祐貴の婚 約者に手なんか出しませんよ」 省三の言い方が癇に障った。岡田と同じような男の嫌らしさを感じた。 「そんな事を心配していたのではありません。ご不快に思われたようでしたら謝ります。分かりました。 当日、部屋番号のご連絡をお願いします。念のために携帯番号を申し上げます」 「教えて頂かなくても携帯番号は分かりますよ。ちゃんと表示されていますから」
一つ、一つの省三の言い方が癇に障った。 もう少し違う言い方もあるだろう……明らかに、省三の自分への気持ちに変化があった。 「この事は、祐貴も知らない事なのですか?」 「はい、祐貴さんには内緒にしています」 「余り良い感じじゃないなあ……祐貴を裏切っているようで……」
「祐貴さんには、直接関係のない事なので……だから、話をしていないだけであって、裏切り行為では ありませんので、ご安心ください」 感情を抑えて答えた。
「でも、何なのですか? あなたのご両親との事って。私は、あなたのご両親の事なんて存知あげませ んよ」
省三の最後の言葉で里佳子の怒りが頂点に達した。
……両親なんて……『なんて』という事はどういう事ですか? 言いたい気持ちをグッと堪えた。
「今日は突然に失礼しましたが、明後日よろしくお願いします」 返答がないまま、電話は省三から切られた。
電話を切った里佳子の中に沸々と怒りが沸きあがった。 「お父さん、お母さん、遼平。もうすぐ本当の事が分かるからね」 両親と弟の写真に話しかけた。 ……亡くなった両親の事を『なんて』と言った省三が許せなかった……
省三に言いようのない憎しみを感じ始めていた時、里佳子の携帯が鳴った。 「井上さん……」 一瞬、出ようか? どうしようか? 迷った。
「西島です」 覚悟をして電話に出た。 「ご無沙汰しています。井上です。お元気ですか?」
「私は元気です。こちらこそ、ご無沙汰していて申し訳ございません。何かありましたか?」 動揺を隠して尋ねた。 「実は、西島さんにお伺いしたい事があって、お電話差し上げました。都合の良い時で結構ですので、 ご足労かけますが、菊名の自宅までお越しいただけますか?」 「分かりました。休みのシフトを確認して、こちらからご連絡を差し上げますが、それで宜しいでしょ うか?」 「私は、西島さんのご都合に合わせます。ご連絡をお待ちしています」 「明後日以降の連絡になるかと思いますが、必ずご連絡をいたします」
「井上さんは、何を私に訊きたいのだろう?」 穏やかな井上の声を聞いても、優しい気持ちになれなかった。 ……省三が憎かった…… 里佳子は買い物をするために近くのスーパーに向かった。
2 省三から部屋番号の連絡が入ったのは、駅からホテルに向かうタクシーの中だった。 ホテル華月は落ち着いた雰囲気で、いかにも年配の夫婦に好まれそうなホテルだった。ロビーの奥に 「只今ケーキバイキング開催中でございます」と書かれたボードが入り口に置かれているのが、省三と 由美子がよく利用するフレンチのレストランなの だろう。ケーキバイキングとあって、レストランは 女性客で賑わっていた。
里佳子はそのまま省三から聞いた902号室に向かった。 重厚な木製のドアの前でチャイムを鳴らしたが、省三はすぐに出て来なかった。 恐らくツインルームであろうが、それ程部屋は広くはないだろう。それなのにドアを開けるのに時間を かける、という事は、ポーズを作っているのかもしれない。里佳子はそう考えて気を引き締めた。
「お待ちしていました」 里佳子を見た省三は少し驚いた表情を見せた。
今日の里佳子は、鴨川に出かけた時とは全く違ういでたちで、髪を後ろでまとめ、ストライプが入っ たチャコールグレイのシンプルでスリムなスーツ姿だった。服装を 考えた時、隙を見せたくなくて地 味なスーツを選んだ。 省三も髪をオールバックにセットして、黒のダブルのスーツを着ていた。 鴨川で会った時は着物姿だったが、スーツ姿の省三は精悍でりっぱな紳士然としていた。
「そこに座ってください」 省三は窓側にある籐製の応接セットを指さした。 テーブルの上にはルームサービスのコーヒーセットが用意されていた。
「早速、あなたの話を伺いましょうか」 ポットからコーヒーを注ぎ里佳子に勧めた省三が口を開いた。
「はい、では話を始めさせて頂きます。緒方正昭さん」 里佳子は省三の顔をじっと見つめて告げた。
コーヒーカップに手をかけた省三が一瞬怯んだような気がした。
「おや? 私の昔の名前を知っているのですね。そうか! 祐貴から聞いたのか」 さりげなく省三が答えた。
里佳子はバッグから書類袋を取り出し、中に入っている書類を膝の上に置いた。
「緒方さん、そう呼ばせて頂きます。私は今は西島里佳子ですが、以前は緒方さんと 同じ様に名前が 違ったのです。乾里佳子でした」 省三の表情は変わらなかった。
「昭和50年頃、横浜鶴見区の私立星光学院で事務局のお仕事をされていましたね。 乾暁生と乾早苗 をご存知ではありませんか?」 里佳子はじっと省三を見つめた。 「よくご存知ですね。確かに星光学院で事務の仕事をしていました。それも祐貴に聞いたのかな? でも、祐貴は知らない筈だが。まあ、いいでしょう。ところで乾さん という事は……まさか……あな たがあの乾さんのお嬢さんなのですか?」 「そうです。昭和50年4月18日夕方、自宅で殺害された乾暁生の生き残った長女です」 「何という事だ! そうだったのですか……偶然とは言え、いやー、驚きました。覚えていますよ。あ の事件の事は。酷い事件だった」 省三は辛くて悲しい遠い昔を思い出すような目をした。
「乾先生は本当にお気の毒でした。乾先生だけではなく奥様も、小さな息子さんも亡くなられて。学校 でも皆悲しんでいました。ご葬儀の時、火葬場に向かわれる途中、 学校に寄られたのですが生徒も先 生も泣き崩れていたのを覚えています。それに、毎 日のように学校に警察が来ていろいろ聞かれまし た」 「覚えて頂いていましたか。それはありがとうございます」 驚いた。という割りには、当時の状況を淡々と話す省三を、里佳子は冷めた目で見 ていた。
「忘れる筈はありません。本当に悲しい出来事でした」
「祐貴と私の結婚の邪魔をしたのは、緒方さん、あなたでしょう?」 急に里佳子は話題を変えた。 「結婚を邪魔? また、何ですか突然に」 「関内クラシックホテルの岡田社長との写真を撮り、今でも関係が続いているという 手紙を添えて、 祐貴とご自分の家に送ったのは緒方さんですよね?」 「ちょっと、ちょっと待ってください。私は祐貴とあなたが結婚する事を喜んでいた。義理とは言え、 息子の幸せを望まない父親がいますか?」 「でも、時と場合によっては有り得る事ですよね? 例えば、息子の婚約者に、自分が昔犯した罪が 暴かれる。そんな事があったら」 「昔犯した罪? 何の事ですか? 今日のあなたは変だ。大丈夫ですか?」 「変ではないと思います。話を両親の事件の事に戻します。事件後、私は西島の家に 養女として引 き取られましたが、両親と弟の写真が一枚だけで、それ以外、実の家族 に関するものが何一つ残さ れていませんでした。私は、養父母が教えてくれた事、両 親と弟は交通事故で亡くなったとずっと 信じていました。でも、ある時から疑問を抱 きました。全く付き合いの無かった母方の叔父に聞い てみましたが、何も分からなか ったので、図書館で事故の事を調べようと思いました。そして、見 つけたのです。交 通事故で亡くなったのではなく、殺害さたという事を。警察にも行って、そこで 退官した当時の捜査担当者を紹介され、その方ともお話をさせて頂きました。そして全てをつきとめ る事が出来ました。でも、一番のきっかけは、祐貴と出会った事です。それが全ての始まりでした。 祐貴との出会いは運命だ、と思っていましたが、やはりそうだったのです。運命……」 そこまで言って里佳子は声を詰らせた。 「鴨川で初めて緒方さんを見た時から、フラッシュバックが起き始めました。そして、夢まで見るよ うになりました。両親と弟が現れて『痛い』とか『悔しい』と言っているのです。もし、私が祐貴と 出会わなかったら、こんな事に気が付く事はなかったと思います。出会っても結婚の約束をしなかっ たら、私は何も知る事はなかった」 「ちょっと、ちょっと……落ち着きましょう。そんなに一気に喋られて、私は、貴女 が言っている 事が理解出来ない」 省三に制されて、里佳子は自分を失いそうになっている事に気がついた。 「すみません。辛かったものですから……」 「辛い……と言われても、私には何だかよく理解出来ません」 「そうでしょうね。だから、知らん顔していられたのですよね?」 「やっぱり、貴女は変だ。辛いとか、祐貴との結婚を私が邪魔をしているとか、運命 とか、フラッ シュバック、夢とか。何か一人で妄想の世界に入り込んでいませんか? それで自分の考えに酔って いる。私にはそうとしか思えませんよ。その岡田さんという人の事が余程ショックだったのではない ですか? お気持ちは察しますよ。でも、ねっ、少し冷静になりましょう」 省三は父親が娘を諭すように里佳子に話しかけた。
「妄想だったらどんなに良かったか。いつも思っていました。でも、これが現実なのです……」 「私にはとても現実の話とは思えません。先程、元捜査官の方とお会いしたと仰いましたが、その捜 査官が私が犯人だ、とでも言ったのですか?」 あくまでも省三は冷静だった。 「いいえ、そんな事は仰いません。私が調べた事と、自分の身に起こった事を繋ぎ合わせた結果、緒 方さんに結びついたのです」 「ほら、やはりあなたの勝手な妄想じゃないですか。去年、初めてあなたを見た時、祐貴はなんて素 敵な女性を連れて来たのだろう。そう思って嬉しかったし、祐貴を誇らしく思いましたよ。でも、今 のあなたを見て私は幻滅を感じました。いいですか? 私にも我慢の限界というものがあります。こ れ以上、あなたが理不尽な事や私を侮辱する事を言うと、祐貴に言った事を撤回せざるを得なくなる。 結婚は辞めなさい! そう言う事になってしまいます」 「その事が目的で、だから、あんな写真と手紙を送りつけたのですね?」 「何から何まで全て私がやった事にするのですね。いい加減にしないと、私は貴女に腹を立てるよう になってしまう」 「緒方さんが不愉快な思いされているのはよく分かります。もう、既にご立腹されいるという事も」
「分かっているのなら、言葉を慎みなさい! 人を侮辱するにも程がある」
「侮辱罪の方が、殺人罪より、罪は軽いのですよ」 「貴女は、自分が何を言っているのか、という事が分かっていない……今の貴女を祐貴が見たら、き っとガッカリするでしょう」 「祐貴さんに電話しますか?」 「祐貴をこの場に連れて来たいようだ」
……目の前にいる省三は祐貴の父親ではない。そして、私は祐貴の婚約者ではない。乾暁生と乾早 苗の娘、乾遼平の姉……真犯人を突き止める、被害者の遺族……事件の生き残り……
「じゃあ、電話しましょう。そして、今の私の事を祐貴さんに伝えてください。でも、訊かれますよ。 どうして、二人でホテルの部屋で話をしているのか? って。いいのですか? 祐貴さんのお義父さ んは、私の両親と弟を殺害したかもしれない。その事を話し合っている。そう言いますよ」 「貴女は……恐ろしい人だ……」 「でも、今の私を作られたのはあなたなのですよ。あなたが私の問いにきちんと答えないから、本当 の事を話さないから。それだけではなく、あの時、私に手をかけていれば……私を殺していればこん な事にはならなかったのではありませんか?」
「いい加減にしなさい! 何て事を言うのですか!」 省三の顔つきが変わった。 「この事に気付いてから、私はいっそあの時、両親と同じ運命を辿っていれば良かった。と何度も思 いました。そうすれば祐貴さんも辛い思いをしなくて済む。でも、今からでも遅くありませんよ。私 を手にかけたらいかがですか? そして、あの時と同じ様に偽装工作をすれば、またきっと逃げ遂せ ると思います。今日の事は誰にも話してはいませんから」 「貴女は何て事を……」 省三は苦悩の表情を浮かべた。
「里佳子さん、もうお帰りなさい」
「いいえ、私は緒方さんが真実を話すまでは帰りません」
しばらく沈黙が続いた。
省三は立ち上がって窓際に立って何かを考えているようだった。 そんな省三を里佳子はじっと見つめていた。
部屋の空気が重苦しくなった。 省三が何も言わない時間が永遠に続くと思った。
何も聞けないまま部屋を去り、一生、自分の中でわだかまり抱えながらも、何事も なかったかの 様に知らん顔をして生活を続ける……祐貴の家族は、もう、私との結婚 には賛成しない……祐貴は 家族と縁を切って、二人での生活をスタートさせる事になる。祐貴も私も、辛い十字架を背負って生 きていく……そうなるような気がした時……
「分かりました。お話しましょう」 省三は里佳子に向き直った。
3 「あなたが私を見て、フラッシュバックとやらを起こしたのは……そうです。早苗さん、あなたのお 母さんと私は、長い間特別な関係にあったのです」 「何ですって……」 「早苗さんは美人で素敵な女性でした。当時私は、病弱な妻と雅彦を抱えての生活に疲れていました。 そんな時、私にとって理想である早苗さんと出会って、そして早苗さんは私の心の苦しみを救ってく れた。何度も別れ様と思いましたが出来なかった。その内、早苗さんは乾先生と結婚する事になり、 その時、一旦は関係を終わりにしましたが、結婚後また関係が始まりました。早苗さんは私と会う時 に、何度かあなたを 連れて来た事があった。多分、あなたは幼心に何かを感じ取っていたのでしょ う。だから、私を見てフラッシュバックを起こした。私も初めてあなたを見た時、早苗さんが現れた 様な気がして驚きましたから」
……ウソだ…… 里佳子はそう思った。
「親父はお袋に一目惚れしたんだよ。小さくて勝気で、可愛い女性が好みだったんだよ」 私の母は……祐貴の母の由美子とは全く違うタイプだ。
「ウソです……そんな事ウソです。両親は仲が良いと評判の夫婦だった。そう言われていました。酷 い事は言わないでください!」 里佳子は両手で顔を覆った。
「ご両親を信じていたい、というお気持ちは当然だと思いますし、私もこんな事は言いたくなかった。 でも、それを言わないとあなたはもう納得しないでしょう。だから、敢えて言わせて頂きます。乾先 生夫婦は近所でも評判のおしどり夫婦だった、というのは表向きだけです。乾先生は早苗さんに暴力 を奮っていた。それだけではなく、乾先生は裏口入学の斡旋をしていました。その事に気付いた早苗 さんは、何度も止めるように懇願したそうですが、その度に『うるさい』と言われ暴力を受けていま した。その心の傷を癒したくて私を求めた。乾先生は私達の事にも気がついていました。早苗さんは 乾先生に問い詰められる度に否定しましたが、その事でも早苗さんに辛く当たっていました」 「警察では父には何も問題はなかったと言っていました。裏口入学斡旋をしていたのなら、警察が見 逃す筈がないじゃないですか! お願いです! もうそんな事は言わないでください! それより、 本当の事を話してください。夢の中で両親と弟が真実を突き止めて、と訴えているのですから」 里佳子は必死だった。 「お気持ちは分かります。これは全て真実です。裏口入学の件は、早苗さんと私とで 闇に葬ったの です。事件の少し前に、その事が記されているノートを早苗さんが燃やしたからです。裏口入学を斡 旋された側も黙っていましたから、発覚はしませんでした」
「そんな事……どうしてあなたは警察にその事を伝えなかったのですか? もしかしたら、斡旋され た側に犯人がいるかもしれない。そう考えなかったのですか?」 「私は、乾先生夫婦の不名誉な事を、警察に話す気持ちにはなりませんでした。後は 警察が調べる 事だったからです」 「そんな事有り得ない……だって、犯人が捕まらないまま時効を迎えてしまったので すよ。母の事 を愛していたのなら、その母を殺した犯人を捕まえたいと思わなかったのですか? そんな大事な事 を胸にしまっておくなんて……有り得ないし、信じたくない!」 「私は妻が亡くなってから必死に生きて来ました。それは辛くて大変でした。そして、祐貴の母親と 再婚をした。その時に決めたのです。辛い過去は全て捨てて新しく生まれ変わろう。だから、姓名判 断も受けて下の名前も変えたのです。過去は全て忘れたかったのです。過去より、これからの人生だ けを考えたかった。雅彦と共に、由美子と祐貴を大事にして幸せになろう。そう決心したのです。私 とご両親との事はこれが全てです。あなたに忘れなさい、と言っても無理だとは思います。でも、こ れからは祐貴との事だけを考えて幸せになりなさい。それがあなたの生きる道です。私は、今日の事 は口外しません。だから、あなたも、この事は自分の胸にだけしまって、それで終わりにしなさい。 祐貴と一緒に生きて行きなさい」 「違います。あなたはまだ本当の事を言っていません」 「私の事を信用してくれないのなら、これ以上話をしても平行線を辿るばかりで、話をしても無駄だ と思いますよ。だから、もうあなたは横浜にお帰りなさい。一晩ゆっくり寝て、明日になれば真実が 見えて来ますよ」 そう言って、省三はまた里佳子に背を向けじっと窓の外を見ていた。 「あなたが自分の家族を大事に思うように、私も自分の家族が大事です。」
……自分の家族が大事? 両親と弟を殺しておきながら、そんな事を言う資格なんてない!……
省三に対するどうしようもないまでの怒りが湧き起こって来た。
このまま省三に言われたまま帰っても何にもならない。こんな中途半端な結末になるのなら、省三 を呼び出したりはしなかった。 虚しい気持ちが沸いた……無力な自分にも腹が立った……両親と小さな弟の苦しそうな顔が浮かん で来た。
「お父さん……お母さん……遼平」 里佳子は心の中で呼びかけた。 「自分を正当化するために、父を悪者に仕立て上げている……」
省三は、里佳子に背を向けて何かを考えながら窓外を見ていた。 祐貴の事が頭から消え、沸々と憎しみが沸きあがった。
省三が着ている黒いスーツが喪服の様に見えた。
里佳子はバッグから持って来た包丁を取り出し、そのまま省三の背中めがけて包丁で切りつけた。
「うわっ!」 省三が呻いて里佳子に向き直った。
まだナイフを手に持ったままの里佳子は、今度はわき腹にナイフを突き刺した。
「うっ!」 また省三は呻き、突き刺さったままのナイフの柄に手をかけ、そのまま横向きに倒れ込んだ。
恐ろしさに里佳子は尻餅をつき、もがき苦しんでいる省三と、血が付いている自分の手を見比べて 呆然としていた。
「行き・・・・・・行きなさい・・・・・・」 省三が振り絞るような声を発した。
その声に我に返った里佳子は「あーっ! どうしよう!」と叫び声をあげ、思わず省三に駆け寄っ た。 「いいから……早く……行きなさい! 早く!」 省三は駆け寄ってきた里佳子を手で払いのけた。 「私は……大丈夫だから、早く行きなさい! 必死の形相の省三は声を張り上げた。
「早く行きなさい!。あなたはこのホテルには来なかった……忘れなさい」 その声に触発されたかの様に、里佳子はヨロヨロと立ち上がり省三に背を向けた。
その時、また「うっ!」という呻き声が聞こえて、里佳子の足に血しぶきがかかった。 「振り向かないで! そのまま行きなさい……祐貴と幸せになりなさい……」 省三の最後の言葉で向かった足が止まった。 「早く……行きなさい! 忘れ……なさい」 もう一度、苦しそうな省三の声を背中で聞いた里佳子は、今度はそのままドアに向かった。
ドアを閉める瞬間、また省三の呻き声を聞いたが、それは断末魔の叫びの様だった。
ロビーに降りた里佳子はフロントカウンターに向かった。 祐貴の様にスマートではないし、ハンサムでもないし、カッコ良くもないフロントマンに向かって 真っ直ぐに里佳子は歩いた。 「何かございましたか? お客様、お洋服に血が付いていらっしゃいます」 フロントマンの笑顔が引きつっていた。 「人を殺しました」 里佳子は告げてそのまま床に座り込んだ。
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