― プロローグ ―
7月15日が訪れた……スパイシーなパフュームの香り……
しっかり掴まえておかないと、何処かに行ってしまいそうな切ない気持ち……
「今日一日をどう過ごそうか……」でも、もう少しでその日が終わる……
― 村上 祐貴の章 ― 2010年 7月 ホテル フォレストヒル軽井沢
1 「今日はこれで終わりだな」 最後のチェックイン客のレジカードをBOXにしまい終わって、村上祐貴は大きなため息を ついた。
「ため息を一つつく毎に、幸せが逃げるのよ」 里佳子に言われた言葉を思い出した。
時刻は夜の11時。 シーンと静まり返ったフロントロビーは、祐貴を切ない気持ちにさせた。
「もうすぐ、今日も終わるよ」 心の中にいる里佳子に向かって呟いた。
バーの閉店を待ってバッチ作業(注:精算業務)に取り掛かるつもりでいた、 フロントマネージャーの祐貴がフロントオフィスに戻りかけた時、玄関の自動ドアが開く音が した。 「祐貴!」 呼ばれたような気がして、思わず立ち止まった。 しかし……「期待していた人」……ではなかった……
「一人なんだけど、部屋開いてる?」 ……いきなり現実に引き戻された…… 「いらっしゃいませ」 フロントマンの顔に戻った。 「今日はないだろう」と思っていた、ウォークイン客(注:予約なしで訪れる宿泊客)の登場 だった。
男はカウンターの上にこれ見よがしに、ブルガリのキーホルダーをカウンターの上に投げ出 した。 キーホルダーにはベンツの電子キーがついていた。おまけに、ルイヴィトンのキャディバッ グと同じヴィトンのボストンバッグまで抱えている。
「キザな男だ」
祐貴はそう思ったが満面の笑顔で迎え、カウンター内のホテル端末のキーを叩き、残室を確 認するポーズをとった。 そんな事をしなくても空室は全て把握している。
「申し訳ございません。生憎シングルルームは満室となっております。プレミアム・ツインで 宜しければご用意出来ますが、いかがでしょうか?」 カウンター越しの40代前半の男を値踏みして、50平米の広さで、リビングルームが付い ている一番グレードの良い部屋を案内した。シングルルームはまだ3室残っていた。 こんな時、正直にシングルルームを案内するのは余程の間抜けなホテルマンだ。 しかし、このホテルで、自分以外のフロントマンだったら、正直にシングルルームを案内する だろう。この時間帯、営業するより、少しでも早く客を部屋に案内して仕事を片付けたい。
「いくら?」 男は尋ねてきた。
温泉と朝食が付いた宿泊プランもあるが、ゆっくりとリゾートを楽しむ客ではないだろう。 「ルームチャージで、税サ込み20,790円になります」 言葉では「申し訳ない」と謝ったが、心の底から「申し訳ない」という素振りは見せず、毅 然とした態度をとった。目の前の客にはそれが有効手段になる。この事は勘で分かる。おそら く会社経費の支払いだろう。 「その部屋でいいよ。明日、5時過ぎには出なくちゃならないから、精算を先に済ませたいん だけど」 「かしこまりました。お部屋の電話や冷蔵庫のご利用はございますか?」 ここで少し態度を和らげ、レジカードを丁寧に男の前に差し出しながら祐貴は尋ねた。 「携帯があるから電話は使わないし、冷蔵庫も使わないよ」 そう言って男は、札入れから現金を取り出した。
「上出来だ!」 祐貴はほくそ笑んだ。
「モーニングコールはいかがされますか?」 一つだけ心配な事があった。
「Tikara Sugai(菅井力)東京都港区港南4丁目2023番」と雑な文字でキザ っぽくレジカードに記入して「いらない、いらない。そうそう、領収書はチェックアウトの時 までに用意しておいてね」 ビンゴ! やはり会社経費か。
男は「早く部屋に行きたい」とばかりに「301」のナンバーが刻印されている皮のルーム キーに手をかけた。腕にはロレックスの時計が光っていた。 「領収書は手書きで宜しいですか? 宛名はいかがいたしましょう?」 「手書きでも構わないよ。宛名は前株でカタカナの「リキ・エンタープライズ」で頼むね。但 し書きは宿泊代でいいからさ」 大柄な言い方で言って、ヴィトンのキャディバッグを持ち上げた。
「キャディバッグはこちらでお預かりしましょうか?」 祐貴が声をかけた。 「部屋でクラブを磨きたいから。じゃあ頼むね」 フロントマンにいろいろ言われるのは面倒くさいのだろう。 「ごゆっくりお休みください」 祐貴がそう言った時には、すでにエレベーターホールに向っていた。
「カッコつけのキザな男だが上客だ」
祐貴は菅井が乗ったエレベーターが作動するのを確認して、レジカードをズボンのポケット にしまい、レジから一度納めた20,790円の現金を抜き出した。電話も冷蔵庫もモーニン グコールも使用しないので、ホテル端末でウォークインの入力処理はしなかった。 ……いつものスリル感が身体中を駆け巡った……
7月15日……「フォレストヒル軽井沢の301号室」には客は泊まってい ない。
「11時半か……」
レジスターの精算キーを押してレシートをプリントアウトし、キャッシャーの中の現金を数 え、間違いがないのを確認した祐貴は、カウンターからフロントオフィスに戻った。 バーの閉店を待つ間に、8月のフロントシフト作成作業に手をつけた。 フロントスッフから「シフトはまだですか?」と催促されていた。 中軽井沢駅に程近い別荘地の中にひっそりと佇む「フォレストヒル軽井沢」は、ツイルーム がメインの客室数60室余りの小さなホテルである。フロントスタッフは、マネージャーであ る祐貴を含めて男性5名、女性3名であるが、ナイト勤務を考慮してのシフト作りにはいつも 頭を悩ませていた。 8月は繁忙期なので公休は4日しかない。休みが少ないとシフトは作成しやすかったが捗ら なかった。スタッフのイニシャルをパズルの様に当てはめて行くが、何度やってもピッタリと 当てはまらなかった。 フォレストヒル軽井沢で働き始めて5年になるが、このホテルの入れ代わりが激しいスタッ フに愛情がないのであろう「部下を可愛い」と思う気持ちがあれば、シフト作りはスムーズに 進む。
昔はそうだった……昔を懐かしむ気分になったのに嫌気がさした祐貴は、シフト作りを諦め た。
内線電話が鳴った。
「バーも閉店か」
「お疲れ様です。ペニーレイン閉店です。今からデータ転送します」 思った通り、電話の相手はバーの「ペニーレイン」店長の小坂慶彦だった。 「お疲れ!」 祐貴はそう言って、フロントロビーの点検とカウンター内の整理を始めた。
フロントロビーの中央に立って周りを見回した。オープンテラスに続くフロントロビーには、 クラシック調のソファーとテーブルが程良く配置され、ロビーの一角にあるショップも売店の 赴きではなく、センスの良い品揃えになっている。 「フォレストヒル軽井沢」はランクで言えば3つ星クラスだが、アジアツアーなどの団体客も 訪れない、落ち着いて、こじんまりとした居心地の良いホテルは客の評判も良い。「軽井沢」 という名前のフレンチレストランも、バー「ペニーレイン」も評判は上々で、宿泊者だけでは なく地元客にも人気がある。祐貴にとって、このホテルは3軒目の勤務先であったが、スタッ フ同様、何故か愛着が沸かなかった。
また、内線電話が鳴っていた。 祐貴は慌ててカウンターの内線電話を取った。
「ペニーレイン、データ転送終了です」
「了解。そうだ、また2本持って来てくれよ」 バーボンが切れていた事を思い出した祐貴は小坂に言って電話を切った後、カウンター内に 入り、バッチ作業(注:一日の集積データをメインサーバーに送り、日付を更新する作業)に 取り掛かった。
バッチ処理を始めた時、バーの高橋綾香がフロントオフィスに現れた。
「お疲れ様です! ご注文の品を届けに来ました」 スレンダー美人の綾香が熱っぽい視線を送りながら、祐貴にバーボンが2本入った紙袋を手 渡した。
「ありがとう」 礼を言って、綾香からバーボンを受け取った。
「最近、量が増えたんじゃないか? って、店長が心配してましたよ」 そう言いながら、綾香が髪をかき上げる仕草をした。
綾香のその仕草がわざとらしかった。
……違う……
祐貴は綾香から目を逸らして、苦笑いをした。
一瞬、重苦しい雰囲気が二人を包んだ。
綾香は何か言いたそうにしていたが「お先に失礼します」と、フロントオフィスから去って 行った。
祐貴は、またため息をついた。
「また幸せが逃げる……か……いいんだよ。里佳子以外との幸せなんていらない」 ひとり言を言った。
順調にバッチ作業が進んでいるのを確認して、フロントバックヤードで煙草に火を点けた。 「フォレストヒル軽井沢」では、従業員の喫煙場所は限定されている。フロントバックヤード は禁煙場所だったが、禁煙場所で煙草を吸うのは「ナイト勤務の特権」と勝手に考えていた。 缶コーヒーを飲み、二本目の煙草に火を点けた時、従業員用のエレベーター から小坂が降りて来た。 「いつもズルイですよね」 禁煙スペースで煙草を吸っている祐貴を見て、笑いながら言った。 「フロントを無人にして喫煙スペースまで行って煙草を吸えるか? 全く、気が利かない会社 だよな」 「禁煙しなさいよ! っていう事なんですよ。でも、俺も村上さんに付き合わせてくださいよ ね。最近、バーボンの量が増えたんじゃないっすか?」 小坂は、フロントオフィスにある大金庫に売上金が入った小さな金庫をしまいながら、煙草 を吸うポーズを見せた。
「そうでもないよ。ペースは変わらない」
「だけど、村上さんは社員の鏡っすよね。社割りと言ったって、格安酒屋で買った方が安いの に、わざわざ会社から買うなんて。お得意様には原価で譲りたいけれど、いろいろうるさくて ……サービス出来なくて申し訳ないです」 小坂は、フォアローゼスの伝票を祐貴に手渡した。
「面倒くさいだけだよ」
……そうじゃない……面倒くさいわけでも、社員の鏡でもない……辛い事を思い出すんだよ……
「今日はヒマだったって事か。でも、今月達成しそうだな」 バーの業務日報を見ながら祐貴が訊いた。 「ワールドカップの時にPVで稼がせてもらったから、まあ、今日はいいでしょうと言う事で」 小坂は祐貴の隣に座って、上手そうに煙草を吸った。 33歳になったばかりの小坂は、フォレストヒル軽井沢に来る前は、東京の新橋にある電鉄 系ホテルのバーテンダーを勤めていた。 父親は地元で町会議員をしている名士で、長男の小坂慶彦が、水商売に従事する事には納得 をしていなかった。 小坂は若いながらも、ホテル業界誌に紹介された事がある程のバーテンダーであったが、一 年前に結婚して子供が生まれたのを機に、地元の軽井沢に戻って来たUターン族である。もう 少し名の売れた大きなホテルのバーに勤められるだけの腕を持っていたが、父親は、フォレス トヒル軽井沢の出資者の一人だった事もあり、父親のコネを頼りに入社した小坂は、入社後半 年で店長に昇格した。
当時ペニーレインの店長であり、ホテル創設時からペニーレインを導いていた山口和人は、 新設された購買部のマネージャーになったが、事実上、小坂の店長昇格で追い出されたのも同 然だった。 「こんなコネが幅を利かせるホテルなんて糞食らえ! だ。村上も熱くならず適当に仕事をこ なせよ」 ある日、誘われた飲み会の席で、山口は祐貴にそう言った。 「僕は熱くなんてなりませんよ。でも、山口さんには負けないで頑張って欲しいです」 祐貴は先輩の山口にそう言ったが、その後、直ぐに山口は辞表を出し、フォレストヒル軽井 沢から去って行った。
都会的な雰囲気の小坂の仕事ぶりはスマートだったが、甘えがあり、会社にだけに「いい顔」 をするような態度が、祐貴は気に食わなかった。 以前の勤め先の「センチュリープラザ横浜」時代の親友であり、日本一のバーテンダーにな る夢を捨てて、今は、宮城県仙台市でサーフショップのオーナーになっている今野真人を重ね て考えた。
「ところで、例の話。どうなっていますか?」 「例の話って?」 祐貴は、小坂が何を言いたいのか分かっていたがとぼけた。 「村上さん! そうやって、とぼけてー。勘弁してくださいよね」 小坂は「マイッタなあ」と言う様な顔をして村上を睨みつけた。
「高橋の件ですよ。今日だって、散々突っつかれたんですよー。いいじゃないっすか。軽い気 持ちで付き合っちゃえば、それで済むんだから」
一つの事が気に食わないと全部嫌になるのか……祐貴は、小坂の軽い言い方も気になった。
「無理だよ! 来月だってフロントの公休は4日しかないんだぜ。それに、俺はナイト勤務が 多く入るし。こんな親父より、活きのイイ若いのがいっぱいいるだろうって」 バーでアルバイトをしている高橋綾香が祐貴のファンで、綾香と自分をくっつけようと、小 坂が企んでいた件だった。 祐貴は、少し前にフロントオフィスに現れた男好きしそうな綾香を思い浮かべた。魅力的な のだろうが全く興味がなかった。
「親父なんて言っているけれど、村上さん一番人気じゃないっすか。若い子は、村上さんみた いな冷めた大人の男が好きなんすよ」 小坂が祐貴をからかった。
「興味がない」と言えば、それはそれでまた何か言われそうだ。
少し面倒くさくなった祐貴は煙草の火をもみ消して、バッチ処理の様子を見るために席を立 った。 「だけど、フロントシフトは村上さんが作っているんでしょう? 一日位、どうにでもなるっ て」 祐貴の背中に向って、また小坂が声をかけた。 「タメ口はきくなよ」と言いたい気分になったが、グッと堪えた……そんな大層な事を言える 人間じゃない……
「そう言えば、週末はオーナーが来るぞ。ズブロッカ用意しておけよ」 「大丈夫ですよ。ズブロッカなんて飲むのは社長ぐらいしかいないんだから。全く、都合が悪 くなると話題を変えるんだから。結局、気がないって事っすか? 高橋には、村上さんには心 に秘めた人がいる、とでも言って諦めさせるかなあー。可哀相に。あいつ、昼間は中古車販売 の会社で仕事して、夜にバーでアルバイトして頑張ってるのだって、目的は村上さんなんすよ!」
だから何だと言うのだ。そんな事と自分は関係ない……勘弁して欲しかった。
「何でもいいよ、適当に言っておいてよ」 祐貴はそう答えた。
……どうでもいいんだよ……
「だけど、泣きつかれたらフォローしてくださいよ」 小坂の問いかけには応えず、祐貴は不機嫌そうに、無言でバッチ処理で出て来た帳票をファ イルし始めた。 「村上さんが無口になる、という事は退散した方が良さそうだって事かなあ」 ……その通りだ…… 「バーボン代は、フロントで打ち込んでおいてください。実は俺、この間、村上さんからもら った事をすっかり忘れちゃって、危うく使い込むとこだったんで。横領はやばいっすからね」 小坂の言葉が胸に刺さった。
「さて……っと、帰るかな。じゃあ、お先に失礼します」
「お疲れ。気をつけて帰れよ」 まだ何か言いたそうな小坂に向って、祐貴は声をかけた。
小坂が去ったフロントオフィスは急に静かになった。
「俺の事なんて気にするのはやめろよ」 祐貴は誰に言うでもなく呟いた。 小坂の車だろう、しばらくしてフロントオフィスの窓を車のヘッドライトが照らし、ライト が向きを変え窓の外は真っ暗になった。
窓ガラスに映る自分の姿を見つめていた祐貴が「里佳子……」と呟いた。
「8年前の今日か」 忘れる事が出来ない、愛しい里佳子の顔が頭に浮かんできて、急に胸に熱いものが込み上げ てきた。
「よせよ」 帳票のファイリングを終えた祐貴はひとり言を言って、仮眠用の簡易ベッドをセットした。
……また、里佳子が近づいてきた……
祐貴はポケットから、菅井力のレジカードと現金を取り出してじっと見つめて現実に戻る努 力をした。
……少し、里佳子が遠のいた……
フロントロビーとカウンターの灯りを非常灯に切り替えた後「今日は飲んでも大丈夫だろう」 そう思って、紙袋の中からフォアローゼスのボトルを取り出した。 今までナイト勤務で問題が起きた事はない。だからと言ってアルコールを飲むのはご法度だ。 万が一何かあったらそれこそ懲罰沙汰になる。それを承知で、祐貴はフォアローゼスをグラス に少しだけ注いだ。
……遠のいた里佳子がまた近づいてきた……
「未練たらしいよな」 今度は声に出して呟いた。
フォアローゼスのボトルを見れば里佳子を思い出す事は分かっていたが、祐貴は、銘柄を変 える事が出来なかった。 「このラベルが大好きなの」と言う里佳子と、休みの日に、二人でスーパーに行けば必ずフォ アローゼスを買い求め、バーボンを飲みながら、飽く事なく夜通し、仕事の話やたわいない話 をして過ごした日々が思い出された。
里佳子とは6年程会っていない。会いたいけれど会う事を拒否されていた。
バーボンを一気に飲み干した。バーボンが沁みこみ胃の中が熱くなった。里佳子を忘れたい のか「8年前の今日」を改めて思い起こしたいのか、自分でも分らなくなった。またバーボン を注ぎ、今度も一気に飲んだ。
……頭がクラッと揺れて、里佳子も一緒に揺れた……
「そんなに現れるのだったら、いい加減に俺を受け入れろよ」 またひとり言を言った。 しばらくの間、デスクの前に座って揺れを感じていた。
「今日はどうもダメだな」 おもむろに立ち上がって、制服のブレザーを脱ぎネクタイを外して、祐貴は簡易ベッドに横 になった。
……里佳子も一緒に横になった……
「ダメだよ」 祐貴は手で里佳子の面影を払って目を閉じたが、何故か涙がこぼれた。
2 館内のエレベーターが作動するかすかな音で祐貴は目が覚めた。 腕時計で時間を確認した。
「予定通りか」 そう呟き、オフィス内に設置した仮眠用の簡易ベッドから起きて、壁に掛かっている鏡で手 早く身支度を整え、フロントカウンターに立った。
少しして、ゴルフバッグを抱えた菅井がフロントに現れた。
「おはようございます」 祐貴は元気良く菅井に挨拶をし、ルームキーを受け取った。
「また、今月の最終週の木曜日に部屋を取っておいてよ。出来れば同じ部屋で。結構気に入っ たよあの部屋。多分着くのは遅くなるけど頼むね。君はその日、いる?」 菅井は常連客のような口ぶりで祐貴に訊いた。
咄嗟に祐貴は、カウンター内にある名刺ボックスから自分の名刺を取り出し 「かしこまりました。次回のご予約は承りました。村上と申します。何かありましたら直接ご 連絡ください。次回のご来館時にもお迎えさせて頂きます」 名刺と領収書を渡しながら菅井に丁寧に頭をさげ「今日も暑くなりそうですよ。良いスコア ーが出る事を祈っています」と愛想笑いをした。
「ゴルフは昨日だったんだよ。昨夜は飲みすぎちゃって帰れなくなくなっちゃってさ。これか ら仕事だよ。今度からは帰りを気にしないでゆっくり飲めるからさ。良いホテルを見つけてラ ッキーだったよ」 祐貴から名刺を受取った菅井は、欠伸をかみ殺しながら言った。
「失礼しました。東京まで気をつけてお帰りください」 丁寧過ぎる位に頭を下げ「じゃあ、またね」と言いながら手を上げた菅井を見送った。
余り好きなタイプではないが、菅井は祐貴にとっては上客だった。 カウンターの中に貼ってあるシフト表を確認すると、再来週の木曜日もナイト勤務だった。常 連客になるなら、菅井が宿泊する日はナイト勤務のシフトを組む予定にした。何より、客もそ れを望んでいる。
……GIVE & TAKE……
「行くか……」
祐貴は菅井が出て行ったのを確認して、フロントカウンターから出てリネン室に向った。 リネン室で一通り、ベッドメーキングに必要な物を揃えて、菅井が宿泊していた部屋の清掃 に取り掛かった。
「一人滞在のウォークインの部屋の清掃は楽だな」
フロントを空にしての清掃は手早く済ませなくてはならない……そして、丁寧に…… 菅井はマナーの良い客で部屋は綺麗だった。ミニバーのグラスも使用した形跡がないし、ア メニティもタオル類も一人分しか使用していなかった。 一人客でも中には、部屋に備え付けられているものは全て使用しないと割りに合わない、と 思っている客もいる。ウォークイン客には、ラブホテル代わりに使用するアベック客もいるが、 そんな客が宿泊した部屋は最悪だった。 祐貴は最初にベッドメーキングをして、次にバスルームを洗剤を使って綺麗に洗い、バスタ ブは使用済みのバスタオルで水滴をきれいに拭き取った。ルームチェックの際、インがなかっ た部屋のバスタブに、水滴が残っているのを発見されるのは不味いので、水周りは丹念に掃除 をした。 清掃が済み、部屋を出る時にもう一度室内を見回した。借上げ社宅の自分の部屋は、満足に 掃除もしていないが、ホテルの部屋の掃除には神経質な位に気を使った。
「大丈夫だろう」 満足した祐貴はフロントオフィスに戻った。
村上祐貴は6年前までは、日本でトップクラスと言われているセンチュリープラザホテルチェ ーンの、山中湖プラザリゾート&スパでフロントマネージャーを勤めていた。 32歳という若さで、親元のセンチュリープラザ横浜から抜擢され、将来を嘱望されたホテル マンであったが自らその職を辞した。
退職後はホテルとは無縁の仕事に就きたいと考えていたが、結局求めた職場はホテルで、おま けに隣の長野県であった。
今は過去の栄光とは程遠い、小さなホテルのフロントマンであり、公金横領を平気で行なうホ テルマンだ。 フォレストヒル軽井沢を転職先に選んだのは、特別な事情があったわけではない。たまたま訪 れた軽井沢駅近くの喫茶店で、コーヒーを飲んでいる時に目についた求人雑誌で、フロントマン の募集広告を見た。
「どんなホテルなのだろう?」 興味が沸いて見に行き、人目をはばかる様に、別荘地の中にひっそりと佇んでいるホテルの外 観が気に入り、その場で求人募集の問い合わせをした。履歴書などは持参しておらず、後日正式 に応募しようと考えていたが、偶然居合わせたオーナーに一目で気に入られ、履歴書は後日提出、 という異例の形で採用を即決された。 入社当初は、経歴を考慮されフロントチーフの役職に就かされた。出来るだけ目立たなく、可 も無し不可も無し程度で仕事をするつもりだった祐貴は、オーナーの期待には戸惑った。 サービスの質は良かったが「刺激がない」部分が気に入ったこの小さなホテルで、言われた事 だけを無難にこなしていた。しかし、祐貴の中に隠れていたホテルマン気質が徐々に顔を出し始 め、持って生まれついた魅力は、可も無し不可も無しの目立たないフロントマンには止めておか なかった。 カウンターに立つと、祐貴をめがけて客が溢れるようになった。 背が高くスポーツマン体型だが、スポーツマンの様な爽やかさはない。どちらかと言うと、世の 中を斜めから見る様な冷めた雰囲気を持っている。以前、親友の今野から「色気のある男と言う のは、お前の様な男を指して言うのだろうな」そんな事を言われた。 確かに女性には人気があった。女性だけではなく、会社の上役にも可愛がられた。 「君の気の強さと、持つ自信に限りない可能性が秘められている」 センチュリープラザ時代の役員からは、そう言われもした。当時は、自分の可能性に自信を持 ち、一流のホテルマンとしての自分自身の未来予想図を描いていた。
「対応が素晴らしいフロントマンがいて、快適に過ごせました」というインターネットの口コミ や、アンケート用紙に名指しで褒められたりした時には閉口した。 「嬉しいし、名誉だ」という気持ちはあったが、面倒くさい、という気持ちの方が大きかった。
内面に何かを秘めているようで、陰を引きずっているような雰囲気がある祐貴は、客以外社内 でも人気が高まった。男としての魅力以外、仕事に向う姿勢でも社内で高く評価され、部下から も慕われるようになり、一年前にはフロントマネージャー職に昇格した。 会社や部下に信頼され必要とされていても、自分が一番大切な人からは必要とされていない…… だから、どうでも良かったし、その事に何の価値もなかった……
去年までは、ナイト勤務については、ガードマンやナイトマネージャーを雇っていた会社も、 不況の煽りを食らい、ガードマンと専門のナイトマネージャーを断り、男性社員にナイト勤務を 強いていた。フロントマネージャーとの祐貴は、進んでナイト勤務を引受けた。
誰もがナイト勤務だけは避けたいと考えていた……祐貴は、部下の気持ちを考えていたのでは ない……
フロントマネージャーという立場上、祐貴のナイト勤務は不都合な事が多かった。様々な会議 に出席しなくてはならなかったし、接客業務以外にも、売上管理などのマネージメント業務もあ る。こんな客室数60室にも満たないホテルで、多すぎる会議やミーティングに閉口していたが、 そんな時でも、夜勤明けで自宅に帰り、ちょっとだけ仮眠を取って午後からの会議には出席した り、早めに出勤して事務処理も行なった。そうして自分自身にむち打ち虐める事で辛い事を忘れ させていた。
しかし、ナイト勤務をするにはそれだけではない別の目的があった。
……公金横領……ホテルの宿泊料金を横領する。 悪に手を染めて内面を汚し、周りが自分を見る目も変えたかったが、そんな事を考える自分が 情けないし惨めだった。そう思っていたが、分かっていても、そうせざるを得ない程に自分を追 い詰めたかった…… 横領した宿泊費は使わずに全て銀行に預けていた。最後は会社に戻す。そう考えて無意味な悪 事を働いた。 何の目的もなく、何にもならない事が分かっているのに。
3 気がつくと、時計の針がまもなく7時を指そうとしていた。
早い客のチェックアウトが始まるし、フロント早番も出勤してくる時間だ。
事務所脇にある洗面所で歯を磨き、顔を洗ってフロントオフィスに戻ると 「おはようござい ます!」早番の桜井春奈が目を輝かせて祐貴に挨拶をした。
昨年の秋に中途入社をした20代半ばの桜井春奈も祐貴ファンの一人だった。色白で、客受け する可愛い顔をしているが、飾る事ばかりに気を使い、内面を磨こうとしないようなところが祐 貴は苦手だった。
「おう! おはよう」 自分でも嫌いな「マネージャー顔」を出して、笑顔で春奈を迎えた。 「見てください! 家の庭に咲いていた紫陽花です」 春奈は、薄紫色の紫陽花を自慢げに祐貴に見せた。 「綺麗だな!」 祐貴に褒められて、春奈の目が更に輝いた。 「マネージャー、ハイッ! 朝食です」 春奈はコンビニの袋を祐貴に差し出したが、その時、春奈がつけたコロンだろう、甘酸っぱい ピーチの香りが漂ってきた。
……里佳子と違う…… また里佳子が現れ、祐貴は一瞬戸惑った。
「俺の朝食なんて気を使うなよ」 「マネージャーの分だけじゃないですよ。私の分もあります」 祐貴に戸惑いの雰囲気を感じた春奈はウソを言った。 「それならいいけどさ。じゃあ、早速、引継ぎをするぞ」 何かを期待していたのか、春奈の表情が曇ったのを祐貴は見逃さなかった。それを無視して祐 貴は、業務引継ぎを始めた。 引継ぎを始めて少しした頃、フロントカウンターにチェックアウト客が訪れ始めた。ゴルフ客 が多いせいか、今日はチェックアウトが早い客が多かった。
「助かった」 春奈との二人きりが窮屈になった祐貴は内心ホッとしていた。
客をさばきながら、引継ぎを行なっている間に、9時出勤番のアシスタントマネージャーの中 沢仁が出勤して来て、祐貴は業務から解放された。
「忘れないでくださいね」 帰り際に、春奈がこっそりコンビニの袋を手渡した。
社宅であるワンルームマンションに帰って部屋のドアを開けると、プーンと嫌な臭いが鼻をつ いた。昨日、出勤前に食べたカップラーメンのカップがテーブルの上に残っていて、灰皿には山 のように吸殻が溜まっていた。
窓を開けて空気の入れ替えをしながら「全く仕様がないよな」とひとり言を言った。
祐貴はひとり言が多いが、それは「ひとり言」ではない。いつも里佳子に向って話しかけてい るつもりでいた。 時々現れる里佳子に「いい加減で消えろよ」と言うが、それは本心ではないし、里佳子に向っ て話しかける祐貴から、里佳子の面影が消える事はない。
「掃除でもするか」 また呟いた。
掃除が終わって部屋が綺麗になったところで、春奈からもらったコンビニの袋の中身を確認し た。握り飯が3個とサラダが入っていた。野菜不足を考えて、サラダも用意してくれたのだろう。 部下の思いやりは有り難いが、隠されている気持ちを考えるとやはり鬱陶しかった。
「朝から飲むか」 今日は午後からの会議もなかった。夕方の出勤まではゆっくり出来る。 冷蔵庫から缶ビールを取り出した。 鬱陶しいと思っても、春奈からもらった握り飯を食べながらビールを飲み、脱いだ制服のポケッ トから、菅井力のレジカードと現金をテーブルの上に置いた。
その時、後ろめたい気持ちが沸いた。 「大事な日だった……」 自身の行いを悔やんだが「もう、やってしまった事だ」と、気を取り直した。
レジカードを処分する前に、手帳に菅井の住所と、スケジュール欄に「S301」とメモをし て、29日に301号室にアサイン(注:部屋割り)をかけさせない方法を考えた。 「その日だけ、故障部屋設定をすればいいか」 忘れないように、前日の28日のスケジュール欄に「バッジ前に301を故 障部屋設定」と書いた。
「水漏れと、適当な理由をつけ、夜に部屋のチェックに行って『問題なし』と報告し、菅井がチ ェックインする前に故障部屋設定を外せばいい。支配人には報告する必要はない。連泊だけには 要チェックだ」 面倒な事は全て祐貴に任せる支配人の顔を思い浮かべた。日頃は腹がたつ事もあるが、こうい う時は都合が良かった。
問題を解決してホッとしたところで、ベッドの下にしまってある籐の箱から巾着袋を取り出し、 中に入っている現金をテーブルの上にばら撒いた。
昨夜の分も含めてお札と硬貨を数えると全部で、135,605円あった。 5月、6月と7月、祐貴が横領したウォークインの宿泊代金である。 また手帳に今日の日と20,790円と記入した。 「後でATMで入金するか」 135,000円を通帳の間に挟んだ。通帳に記帳されている総額は500,000円。小銭 をよけて、バティック柄の巾着袋を見つめた。 巾着袋は、経理の宮下洋子が冬期クローズの時に行ったバリ島のお土産だった。 「村上さんはいつも、歯ブラシと歯磨きを洗面所に忘れるから、これに入れて忘れなようにして くださいね」 会社にはバリコーヒーとチョコレートの土産だけで、祐貴には「特別ですよ」洋子はそう付け 加えた。 確かに、巾着袋に入れておけば忘れる事はないかもしれないが、巾着袋を使う事で、洋子にあ らぬ誤解を招かれそうで、会社では使う気にはならなかった。 相変わらず洗面所に歯ブラシと歯磨きを置き忘れた。その度に洋子が「また、忘れてますよ」 と親切にフロントオフィスまで届けに来た。その時の洋子は「私が買って来た巾着袋使ってない の?」そういう目つきで祐貴を睨んだ。
……歯ブラシと歯磨きなんて忘れたら忘れたでいい。無くなったら新しいのを買えばいい…… そんな程度の祐貴にとって、仕事には不釣合いな服装や、事務所でミュールを穿いて、コツコ ツとヒールの音を撒き散らす神経の持ち主の洋子の「親切」は鬱陶しい以外何物でもなかった。 経理の宮下洋子や、フロントの桜井春奈、バーの高橋綾香、まだ他にもいるだろうが、祐貴は 誰からも好かれなくてよかった。
世界中の全ての人間が自分を憎んでいても構わなかった。
……ただ、たった一人、里佳子にだけ愛されていれば……
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