都会の喧騒から離れた郊外の駅近く。唐松林のはずれのカフェテラスで、石嶋晴子は所在なげに木洩れ日を眺めていた。
とっくに飲み終わったコーヒー・カップの底で、僅かに残った液体が陽に光っていた。一陣の冷えた風がテラスの上を吹き抜けた。
時間は午後の三時だった。 晴子はハンドバッグの中からコンパクトを取り出すと、蓋を開けて鏡を覗き込んだ。
そして、バッグの底にあったチューインガムを一枚、紙をむいて口に入れた。最近ガムを持ち歩くようになったのは、好きな男が出来てからだ。
だが、初めてガムを噛んだのは五歳の時だった。その頃住んでいた小さな町に、ある日ジープで乗りこんで来たアメリカ兵たちが、子供たちにガムやチョコレートを配った。終戦直後のことだ。
その数ヶ月前には、母の手を握ってB29が飛ぶ下を逃げ惑っていた。母と共に生死の境を彷徨った。
ガムは緑色の紙に包まれていた。味がすっかりなくなっても噛み続けた。 口がかったるくなると、取っておいた銀紙に包んでおき、また思い出すと包みから出して噛んだ。
だから、ガムを噛む時いつも脳裏に浮かぶのは、あのセピア色を帯びた秋の日の町なかの光景なのだった。
あの日は母とたまたま町へ出かけたときに、やって来ていた米兵たちからチューインガムを貰った。
隣り町から来たバスが舌のような形をした方向指示器をペロッと出しながら、プッシューと大きな溜め息をついて停留所に停まったとき、晴子も大事そうにガムを舌の上に乗せた。
乗ったバスが走り始めると、晴子にとってとても大きな出来事が待っていた。
後部座席の方から大きな声で母を呼ぶ声がした。奥を見ると母と同じ年格好の女の人が上気した顔で叫んでいた。
その人の傍には、床に積んだ荷物の上で髭だらけの男が腰掛けていて、身を乗り出すようにして晴子の方を見ていた。
「あの人だーれ?」
と、晴子は母親を見上げた。ガムを噛みながら母のもんぺを握っていた。
「あんたの父ちゃんよ!」
満面の笑みで母は答えた。
ずっと後になって、あの日、父が帰還したのだと知った。 今でもチューインガムを見ると、あの日のことが思い出される。
アメリカの兵隊たちが、どうしてそんなに親切だったのか分からなかったが、ジープも米兵たちの軍服も、あの日たち込めていた空気さえも、すべてセピア色のままだ。
まるで古い映画のひとコマのように思い出される。
だが、今はもう一九九〇年だ。あれから四十五年の歳月が流れたのだ。世の中の移り変わりには驚くばかりだった。
今も晴子はチューインガムを噛みしめている。 彼女は今、自分の女としての人生の盛りが、まさに閉じようとしているのを静かに感じている。
待ち合わせた男は、なかなか現れない。しかし、はっきりと時間を決めて待ち合わせたわけではなかった。
昼下がりに、と彼は言った。 この郊外のはずれの町には、慌ただしく過ぎる時間などない。時はゆっくりと、ただひたひたと近づいて来ては過ぎてゆくだけだ。
晴子は自分がこうして男を待っていることに、改めて驚いた。 彼女はごく普通の貞淑な妻であった。彼女のその後の人生で何も起こりはしなかった。
何も変わりはしなかった。同じ安泰と波乱のない時間が、脈々と流れ続けるほかには……。
ただ、流れる時の早さが、年々早くなっていったのだ。脇目もふらぬ急ぎ足で、駆け抜けていくのだ。
死ぬ前に、老いて朽ちる前に──たぶんまだ薄暗闇の中でなら辛うじて自分の裸体を男の前に投げだすことが出来るうちに──晴子にはしておかなければならないことがあるような気がした。
口の中のチューインガムは、とっくに甘さを失っていた。彼女はそれを紙にとると、飴玉を包むように銀紙の両端をねじってテーブルの上に置いた。 それからまた、無意識に新しい一枚を口に入れた。
たった一人の男しか知らないで、人生を終わるのが切ないわけではなかった。ただ、ひたすらに過ぎていく女の季節を、駈け足で過ぎていくのに任せておけなかった。
狂おしくさえ思った。時を止めることも、流れに逆らって泳ぐことも出来ないのなら、自分で自分に楔を打ち込むしかないではないか。
『おまえは率直なところ、本当は何がしたいのか』
と、晴子は自分の心に問いかけた。
尊敬されること、愛し慕われること、必要とされること、世の中に何か仕事で認めてもらうこと──。
そうではない。そんな抽象的なことではなかった。
彼女がやりたいのは、ただひとつのことだけ。女が女の季節でやり残してきたこと。 まさに、そのことであった。
残された時間は僅か。一年、もしかして二年かもしれなかった。 晴子は鏡の中で、首のたるみを耳の後ろの方へ引っぱりながら、いつも思っていた。それが始まりだった。
彼女が直面しているのは老いについてであったが、その厳然とした事実の前では、モラルも色褪せるのだ。
テーブルの上のチューインガムの飴玉しぼりが三つに増えていた。 木洩れ日が、透明な光り輝く雪片のように、唐松のあいだを絶え間なく舞い降りている。
おまえは今、幸せか?
これが、おまえのしたかったことなのか?
けれども以前よりも、今のほうが遥かにひもじい気がするのはなぜなのか。
「逃げない? ねえ、一緒に逃げましょ」
と、彼女は男に言ったのだった。
晴子が働いている社員食堂で料理人をしている男は、夫より若いわけではなく、夫より見栄えが良いわけでも、夫よりセックスがうまいわけでもなかった。
それでも、晴子は逃げて行かなければならないと思った。
男には捨てるべき家族はなかった。妻とは死別していた。
「逃げよう」と、男は同意した。
日時が決められ、場所の相談も纏まった。 深く考えたわけではない。結局は何処でも良かったのかも知れないと思った。
晴子は自分の荷物が入ったバッグを眺めた。歯ブラシと、彼女名義の預金通帳が一冊。それだけだった。
それから、温めればすぐに食べられるようにしてきた今夜の家族の為の食事のことを考えた。 だが、次の日のことまでは考えていない。
待っている男のことが恋しかった。刻々と恋しさが募った。
すでに母は亡くなり、父は耄碌(もうろく)して晴子の顔も分からないときがある。 自分が天涯孤独な孤児のような気がしていた。
娘たちはもう大人だ。きっと分かってくれるだろう。 今、自分がすがり付けるのは彼だけなのだ。
それから、男のどこか貧相な顔つきと、癇の強そうな口元を思った。気に入らないと怒り出すような性格であることが容易に察せられた。
晴子の夫・達郎は定年退職したばかりだが、今まで怒って妻子に手を上げたことはない。晴子の知るかぎり浮気もしていなかった。
それにも係わらず、その男だけがすべてだった。彼が晴子の季節の終わりに、楔を打ちこんだから……?
いつのまにか、夕日が降りかけている。落葉した唐松に黄昏の気配が混じり始める。
ついに男は来なかった。死んでも必ず行くよ、と約束したのに。
交通事故かも知れないと、ふと思った。道路のアスファルトに叩きつけられた男の姿が、一瞬、目に浮かんだ。
男の死を想像した。 でも、悲しくはなかった。
晴子のイメージの中で男が死ぬと、彼女は立ち上がった。急げば家族の夕食に間にあうかも知れない、と思った。
目の前のテーブルには、ガムの飴玉しぼりが六個になっていた。
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