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作品名:セリナの恋 作者:多草川 航

最終回   後篇

 翔一が到着したのは、夜の十時を少し回った時だった。

 待ちかねたセリナの目に真っ先に映ったのは、手にしたウイスキーのボトルだった。ボトルの中の液体が、翔一の胸のあたりでチャプチャプと音を立てていた。


「呑みながら来たんでしょう」
 セリナはボトルから、婚約者の顔に視線を戻しながら言った。


 翔一の顎のあたりに、うっすらと無精髭が伸びていた。そのせいか顔全体に影のようなものが漂い、翔一はいつもより引きしまった表情をしていた。


「ストリートカー(注釈:単車体の電車のようなやつです)の中でね、一番後の座席で呑んでいた。でも、ストリートカーが揺れるんで、零れちまうほうが多かった」


 祖母は蚊帳の中だったので、前庭の松の下に出しておいた木製のベンチへ翔一を案内した。


「腹空いてないんだ。ツマミもいらない」

 翔一がベンチの端に、なにか大切な物であるかのように、ボトルを置きながら言った。


 セリナは頷いて、用意してあった二つのグラスに砕氷を入れた。そこへ翔一がウイスキーを注ぎ入れた。


「乾杯」と、彼がグラスを上げた。


「おめでとう、特選!」

 セリナが、そのグラスに自分のを軽く触れながら言った。「嬉しいこと、二つになるね、これで」


「二つ?」

 グラスの陰から、翔一が訊き返した。


「わたしたち、結婚するんでしょ? すぐに」


「ああ、そのことか」


 翔一がそう言ってグラスの中味を一気に喉へ流し込んだ。そして、それが彼の癖なのだが、酷く顔をしかめて呑み込んだ。


「仕事どうしようかと思って……」

 と、セリナは実際には辞める決意が固まっていたが、そんな風に甘えた感じで言った。


「どうするって?」

 二杯目のウイスキーをグラスへ注ぎ入れながら、翔一が訊き返した。


「先のことは、どうするか分からないけど、辞めようかなって考えているの、いろいろ準備もあるし」


 彼の動作が一瞬止まる。その横顔に、苦痛としか言えないような、ある表情が表れ、そのために彼は別人のように見えた。


「なにも仕事、辞めなくてもいいんじゃないか?」

 再び動作を再開しながら、少し掠れた感じの声で翔一が言った。「急になにかが酷く変わるってわけでもないんだしさ」


「それはそうだけど」

 と、夜の海からの潮風を顔に受けながら、セリナは恋人の横顔に瞳を凝らした。

 家から零れ出ている蛍光灯の光りの先端が、蒼白い輪郭を浮かび上がらせていた。
 彼は頬の汗をむやみに拭い、たてつづけにグラスをあおった。


「おばあさまに、わたしたちのこと話したの」

 と、セリナは声の調子を半音ほど意識して上げた。


「そう、なんて言ってた?」

 黒い動かない海を、翔一は目をすぼめて見ていた。


「白い馬に乗って来る騎士みたいだって」


「白い馬の代わりに、ウイスキーのボトル抱えて来た」

 と、翔一が苦笑した。「セリナの婆さま、腰抜かすかな」


「それくらいじゃ驚かない。おじいさまって人が一升酒呑む人だったらしいの……」


 翔一は骨ばった肩のあたりを揺すりながら、セリナの話に耳を傾けていた。


「俺たちのことだけど」

 セリナが祖父のことを喋り終えると、唐突に翔一が言った。


 その声の調子に、セリナはハッとして彼を見詰めた。なにか恐ろしいことが、彼の口をついて言われようとしている──そんな差し迫った予感があった。


 なにかすぐにでも別のことを言わなければならなかった。

「明日、帰る?」


「そうだな、朝ここを出たい」


「じゃ、わたしも一緒に帰ろうかな」


「どうして? せっかく休みをとったんだから、セリナはここにいたらいい」


「一人でいても詰まらないもの」

 翔一は酔がまわったのか頭を深く両膝の上にたれ、長いことじっとしていた。

「それにすることが色々あるから。不動産屋をあたったり……」


 翔一の指は、彼の薬指の指輪を撫でていた。それは完全に無意識の仕草だった。


「……わたしの両親にも会ってもらわないと。ねえ、会ってくれるでしょ?」


 両膝の上に低く垂れていた頭が上がった。


「堤防のほうまで、少し歩こうか」

 出し抜けに翔一がそう言い、同じような唐突さで立ち上った。


 セリナもつられて慌てて立った。黒光りする海面の所どころに、青白い燐光が散っていた。


「夜光虫だ」と、翔一が眩いた。


 それきり二人は長いこと押し黙って歩いた。
 見詰めていると、黒い波間の燐光の数が増えていった。目がそのあたりの暗さに慣れるに従って、夜光虫の数が増した。


 セリナは、翔一の息遣いを聞いていた。二人は堤防の突端に並んで膝を抱いて坐った。


 翔一からは汗の匂いもしていた。時々呼吸が不規則になって、息を詰めるような気配もした。


 彼がなにか言いたくて、言い出しかねているのが、セリナには分かるのだった。


「あ、遊覧船が帰る」

 と、ずっと先を指差してセリナが言った。


 サンフランシスコ湾内に浮かぶアルカトラズ島の向こうに、明かりを灯した船が小さく見えた。


「この堤防の先、深さ、知ってる?」

 セリナが、沖へ向かって十ヤード(約9メートル)ほどの位置に視線をあてながら、静かに言った。「あのあたり」


 翔一が顔を上げ、暗い海上へ視線を泳がせた。

「深いのか」


「とても深い。ドロップ・オフになっていて、いきなりストーンと陥没してるの」


「どれくらいあるんだろう」

 翔一が興味を抱いた。


「たぶん二百ヤード」


「いきなり二百ヤード落ちこむのか」


「そうよ。泳いでいると分かるわ。わたし、子供の頃から、学校休みに入るとここで遊んでた。

あの辺りは三ヤードから深くて五ヤードだから。いきなり水の色が変わるのよ。水温も」


「怖くないのか」


「体の下に二百ヤードの奈落があると意識したら、もう行けないわね。パニックになっちゃうもの。水の色が黒いのよ」


 翔一の目がその辺りの海上に釘付けになる。


「結婚したくないんでしょ? 本当は」

 自分の耳にも、他人のように響く声で、セリナが不意に言った。翔一の体が一瞬固くなった。

「そのこと、言い出しにくかったんでしょ?」


「分かってたのか……」
 低い、聞き取れないような声で、翔一は言った。


「昨日、なんとなく、そんな予感がしたの」


「しかし、昨日は酔っていたが、俺、本気だったんだ。尚書館文芸賞取っても、取らなくても、セリナと一緒になるつもりだった。一緒になりたかった」


「そうじゃないのよ。一緒に居たかっただけよ。心が騒いで、不安で、なにかを待っていたから、一人でいたくなかったのよ」


「俺、長いこと、セリナを待たせたから」
 翔一が項垂れた。


「ショウはこの一年ずっと心が騒いでいて、不安で、なにかを待っていたわ。
そして、そのなにかを今日手に入れたのよ。その途端、一人でいることが淋しくなくなった。そういうことじゃない?」


 セリナは指輪を見詰めた。


「約束は守るよ。いずれセリナとは一緒になるつもりだ。ただ、今すぐにではなく……」


 セリナは遠い対岸を探そうと、その辺りに視線を這わせた。サウサリート辺りの灯りが、薄ぼんやりと見えた。


「約束なんてしないほうが、いいんじゃないかしら」

 溜息のようにセリナが言った。

「そういう気分になったとき、プロポーズしてみてよ」


 翔一の肩から力が抜けるのが、隣にいてセリナには感じられた。


「ねえ? ショウ。この指輪、外してもいいかしら」


 翔一はいいとも、悪いとも言い出しかねていた。


 セリナはゆっくりと平打ちの銀の指輪を指から外した。それから立ち上ると、十ヤード先の海面に向かって、それを投げた。


 投げたあと息を殺して、そのあたりを凝視したが、小さな水飛沫も指輪の落ちる音もしなかった。暗い海は、音もなくセリナの指輪を呑み込んで、表情ひとつ変えないのだった。


 翔一も同じように立ち上った。


 かなり苦労して指から指輪を引き抜くと、大きく手を振り上げた。銀の指輪は海の中というよりは、暗い夏の夜空に呑み込まれたような感じで、唐突に姿を消した。




 翌朝、翔一は町へ帰って行った。別れ際、指輪のない指をしきりに気にしていた。


「なんだか変な感じだ。妙に不安だ」


「大丈夫よ。すぐに慣れるわよ」


 指輪を嵌めた最初の数日の異和感を思いだしながら、セリナは笑った。


 翔一も、その感じを思い出したのか、

「締め付けられる感じも抵抗があったけど、なにもなくなっちゃうってのも、変な感覚だな」

 と言って、束の間不安な目をした。


 ストリートカーの窓からセリナを見おろしている顔にも、まだその不安気な表情が残っていた。


『近いうちに日本へ帰るんでしょ? いつ戻って来れるの?』

 と、セリナは訊くことが出来なかった。


 ストリートカーが動きだし、翔一の顔が少しずつ小さく遠ざかって行くのを、いつまでも見送っていた。


 家に戻ると、祖母が冷たい茶をテラスに置きながら、セリナを迎えた。


「男前だったねえ」

 祖母はそう言って、朝の湾を眺めた。


「おばあさまの霊感、当たったみたい」

 そう言いながら祖母の横に座る。泣き出さずにいられることが、不思議な気持ちだった。


 セリナは、昨夜投げ捨てた指輪が沈んでいる辺りの海を眺めた。


 自分たちが歳をとったあとも、あの二つの指輪は海底に沈んでいるのだろうか。


 自分たちが死んでしまったあとも、平打ちの銀の指輪は海の底で眠っているのだろうか。


 そう思うと居た堪れない気持ちになり、セリナはせき込むようにして泣き出した。


 祖母は慌てて孫娘の頭を抱え込んだ。そして、しきりに撫でた。

「おうおう、おうおう」


 祖母の痩せこけた膝の上が、セリナの涙で濡れた。

 喉の奥から絞り出すようにして大きな泣き声を出すと、セリナは顔だけ上げた。

 彼女の泣き声に合わせたように、裏庭では蝉たちの合唱が始まっていた。蝉の声を聴きながら、セリナは声をしゃくり上げた。


 祖母の顔を見上げる。皺くちゃな手からハンカチを受け取り、涙を拭いながら湾を見つめた。


「魚屋がもうじき来る頃だね」

 と、祖母は言った。

「日射しが強うなってきたし、中に入るかね? セリナ」


 海は今日も穏やかで、遠くに何隻かの船を浮かべていた。


 ‐了‐


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