サンフランシスコ湾に面した祖母の家のテラスから、霞んだような熱気の下に横たわる静かな海面を眺めていたセリナは、溜息をついて腰を上げた。
風のない午後だったので、前庭の半分以上を覆っている巨大な松の葉陰にいても、暑さはさほど変わらない。そろそろ日射しが西日に変わろうとしている時刻だった。
高田翔一からの電話は遅れていた。東京の尚書館文芸賞の発表内容が分かるのは、こちらの時間で十六時頃だから、どんなに遅くとも十六時半頃までには連絡が入るはずだった。
もし、だめだったらとセリナは、庭先の松の幹に背をもたせながら、次第に悲観的になっていく思いを一人でもてあまし始めていた。
「執筆家の登竜門のひとつともいえる尚書館文芸賞に入選できたら、俺たち結婚しよう」
と、翔一はこの一年間ずっと言い続けてきた。
「もし、賞に入らなかったらどうするの? また一年待つの?」
と、セリナは深刻な表情でキーボードを打ち続ける恋人の傍で、相手の負担に聞こえないような言い方で、たった一度だけ訊いたことがあった。
翔一の左手の薬指に、平打ちの銀の指輪が嵌められていた。本来は結婚指輪として使用されるものらしかったが、ただシンプルで美しいという理由で、対(つい)で求めたものだった。
一年前のある夕方、待ち合わせていたユニオン・スクエア前のビルの入口を入ってすぐの所に、アクセサリー売場があった。
翔一が遅れて来るのを待つ間、セリナは時間潰しにショーケースの中を覗いていた。
彼が来て、「なにを見ているんだい?」と訊きながら、銀の平打ちの指輪に目を止めた。「婚約しようか?」
出し抜けに、彼はそう訊いた。
「うん、いいわ」
同じように唐突な感じで、セリナも同意した。
翔一がジーンズの尻のポケットから無造作にドル紙幣を何枚か引き抜いて、指輪を二つ買った。両方で五十ドル出して、幾らかお釣りが来た。
ほんの出来心、遊び心で始まったことだった。
好きあっていることを隠すこともなかったので、翔一の留学仲間と酒を呑む席などで、彼は婚約を口にして、おめでとうと無理矢理に仲間たちに言わせて面白がっていた。
二人の婚約は、双方の親や親類を除いては周知の事実となった。
銀の平打ちの指輪は、初めのうちキラキラしすぎて指になじまなかった。
常に違和感があり、その小さな存在が気になった。晴れがましいような、面映ゆいような、嬉しいような感情に、ちょっぴり諦めの気持ちなども混った。
大学で知り合って、単なる友達の一人だった若者が、いきなり婚約しようと言って買った指輪のために、セリナの人生が決まってしまったことに、彼女は戸惑いを覚えていた。
しかし、彼も遊びで、彼女も遊びで始まったことだったが、薬指の上の銀色の輪が日と共に少しずつくすんだ色合いになっていくにつれ、気持ちの方も固まっていった。
指輪がすっかり指に馴染み、時としてそこに金属の輪が嵌っているということすら忘れていることがあるようになると、周囲の者たちが二人は本当に結婚するのだと言い出し、するとそれはいつ頃の話なんだと質(ただ)したりした。
したいときが年貢の納めどきさ、と軽く笑い流す翔一の傍で、セリナも、「そうよ、そうよ」と頷いて来た。
そんなとき、なかば人ごとのようでもあり、なかばなにかにすがり付きたいほど幸福だった。彼を信じていた。
そのうち翔一が、東京の尚書館文芸賞に応募するんだと言い出した。
留学する以前から書き始めているものがあって、こうしてサンフランシスコに来たけれども、ここでの仲間達の日常のエピソードを書き加えて完成したという。
「俺はこの賞に賭ける」
そう言った翔一の表情を見ていた時、初めてセリナの胸に一抹の不安が湧いた。結婚の時期が気になりだしたのは、その頃からだった。
西日が射し始めると、湾に面した前庭から日陰がなくなった。頭上を重く覆っている松の葉の匂いが一段と濃くなり、それに夕暮れ時特有の潮の香りが混じった。
西日を受けて海が銀盤のように輝いて見えた。裏の林で突然蝉が申し合わせでもしたかのように、いっせいに鳴き始めた。
ここはサンフランシスコ湾でも特に静かなエリアだった。しんとした、動くもののなにひとつない海辺の光景の中で、耳にする蝉の鳴き声は、かえってあたりの静けさを強調していた。
いい知らせなら、もっと早く電話が掛ってくるはずなのだ、とセリナはようやく現実的に事態を受け取り始めた。知らせが遅れているということは、賞の入選を逸したからに違いない。
翔一のことだから、入ればいっときだって無駄にせず、笑いを堪え切れない子供のような表情で、あちこちに電話をしまくるだろう。
「どっちになるか分からないけど、明日の夜は、セリナと酒盛りだ」
と、昨夜遅く、酔いを含んだ声で翔一が電話をして来た。
「入っても入らなくとも、そっちへ行くよ。そしたら二人で夜の海を眺めながら、酒を呑もう」
「大丈夫、入選するわ、絶対」
「いずれにしろ、俺は全力投球したからな。入る入らないは、もうどうでもいい」
口ではそう言いながら、期待と不安とがどうしようもなく滲みでた声で婚約者は言った。
「入選しなけりゃ、東京の奴らは才能をひとつ見落としたってことだよ。損をするのは俺じゃない、奴らのほうだ。やるだけのことをやったんだから……」
そして切羽詰まった声で唐突にこう付け足した。
「セリナ、結婚しよう。入っても入らなくても、俺たちはすぐ一緒になろう」
指に嵌った銀製の指輪を見詰めながら、セリナはその声を聞いていた。
「なにか言うことはないのか」と、彼が言っていた。
「あるわ、たくさん。でも明日の夜まで、とっておく」
入ったばかりの会社に辞表を出すのかとか、部屋を見つけたりしなければならないことや、双方の親に二人が結婚することを告げる大仕事についての相談が山ほどあった。
「明日の夜か」 と、電話の中で翔一が呻いた。「長いな。明日の夜なんて来るのかな」
「眠ってしまえば、目が覚めるのはどうせ昼頃でしょう。あっという間に時間が経つわ」
「眠れればな。セリナに会いたい。セリナを抱きたい。なんでこんな時に会社休んで、婆さまの所へなんか行っちまったんだ」
「ショウが一人で執筆したがっていたからよ。ショウの近くでうろうろしていると足手まといになると感じたから」
「悪かったな。しかしそれも終わった。なにもかも出し切っちまって、すかーんと虚ろだ。セリナ、海が見えるのか?」
「ええ。黒い海面に堤防の裸電球、いくつも長い尾をひいて、ゆらゆら揺れてる」
「うん、そいつが俺にも見える。セリナの目で見ているものが、俺にはそのまま見える。明日の夜、会おう。明日の夜、俺たちは結婚する。いいね?」
そして翔一の電話は、セリナがサヨナラを言う前に切れた。
セリナは出し抜けに幸福の絶頂にいる自分を見いだしてうろたえた。気持ちを落ちつけるために、指輪を外してスカートの裾で磨き始めた。
自分がこの瞬間を待ち望んでいたことが、はっきりと分かった。
結婚なんて形式にすぎないとか、したいときが年貢の納めどきだとか、口では翔一に合わせて、どうでもいいようなことを言ってきたが、あれはポーズだった。
自分は結婚が、喉から手が出るくらいしたかった。
しかし、黙っていてよかった。そんな素振りをほとんど見せないで来て良かった。翔一は押しつけがましい女は嫌いだから。
「おばあさま、明日お客さま、来ますから」 と、祖母の顔を見てセリナは言った。
戦後まもなく、この土地に移り住み、大事に使って来た蚊帳(かや)の中で、祖母は団扇(うちわ)を使っている。
「男衆かね」 と、骨ばった手の動きを止めて、祖母が訊き返した。
「そうよ。結婚するのよ、その人と」
「それで、セリナを迎えに? 白馬に乗った騎士のような男衆だねえ」
祖母がそう言って笑った。
入れ歯を外して枕元に置いてあった。歯がない口元は、笑うと暗い小さな洞窟に見えた。
「男衆は日本から、お見えか?」
団扇の動きを再開しながら、祖母が再び訊いた。
絨毯の上に茣蓙を敷き、その上に布団を敷いた生活を続けている。暗緑色の蚊帳は深い海底を思わせた。
あるかなきかの夜風のせいで蚊帳が揺れると、いよいよ海流のうねりのようにセリナの目に映った。
暗緑色の海の底で、老婆はほとんど骨の原形そのものの姿で静かに横たわっていた。
「あら、わたし前に話したかしら……」
「東の方角から男衆が来るのは、よくないねえ」
ぽつりと祖母が言った。
「どうして?」
あけ放ってある窓から、夜の海が一枚の黒い布のように見えていた。
「方角が悪いからねえ」
「また、おばあさまの迷信が始まった。ここでは関係ありません。わたしは信じませんから」
「わたしが言うんじゃないんだよ。昔の偉い人のお告げなんだよ。ほら……」
「日本の昔話、何度も聞いたわ」
と、セリナは磨き終えた指輪を元の指に戻しながら、遮るように言った。
「ベルナルドは最近見えないねえ」
祖母は唐突にその名を出した。「今日は何曜日だい? 御用聞きに来てもいい頃なのに」
対岸のフィッシャーマンズワーフで親子代々海産物を売っている若者のことが、祖母のお気に入りだった。ベルナルドは、セリナより数カ月若い、気さくな青年である。
「おばあさま、魚屋さんが来るのは明日の朝だわ、きっと……そして、おばあさまの霊感も信じる。だけど彼はね、悪い知らせを持って来るわけじゃないの。わたしと結婚するために来るのよ」
セリナは、蚊帳の中に手を差し入れて、やさしく祖母の脹脛(ふくらはぎ)をさすった。老女の足はひんやりとしていた。骨を僅かに覆っている薄い皮膚は、妙にすべすべしていた。
そのすべやかな染みの浮いている薄い皮膚。すぐ裏側にある骨の感触が、セリナの指先にじかに伝わってきた。哀れさや愛しさが募ると同時に、老いというものに対する本能的な嫌悪や怯えの感情が入り混った。
セリナは夏掛けを祖母の腰まで引き上げると、そっと蚊帳から離れた。隣室に引きとったあとも、祖母の使う団扇の音がパタパタと聞こえていた。
西日の照り返しが激しさを増している。ほとんど猛々しいほどの光りの風景だった。
目に染みるほどの酷熱の気配が、湾全体を支配していた。汗がたえず流れ落ち、着ている薄地の衣類さえ、重く感じられるのだった。
耳鳴りのように頭の奥で唸り続けていたものが、実は裏庭から山に続く林の中で合唱している蝉の声だと気づいた。
その瞬間、蝉の鳴き声の中に携帯電話の呼び出し音が混った。セリナは携帯を手にして一呼吸置いた。
落選だった場合の慰めの言葉を、なにひとつ用意していなかった。深呼吸をしておいて、携帯を耳に押しあてた。
「俺だ」と、いきなり翔一の声が言った。「遅くなってごめんよ。入選した──」
声に笑いと興奮が感じられた。「それも特選だよ、セリナ。俺、いきなり特選だよ!」
相手の興奮が電話を伝ってセリナにも感染した。彼女は立っていることが出来ず、壁に背をもたせて、床に腰を落してしまった。なにも言えなかった。
翔一がなにか上擦り気味の声で、しきりに喋り続けていたが、彼女は煌めく銀色の海面だけを見ていた。
「もしもし? セリナ、そこにいるのか?」 あまりに長いこと黙っていたので、翔一は不安に思ったのか、電話の中から訊いた。
「もちろんよ。おめでとう、ショウ」 ほんとうに嬉しくて堪らない。「とっても嬉しいわ!」
これでなんの障害もなくなったと思った。 昨夜は興奮であんな風に言っていたが、やっぱり入選を逸していたら、結婚の話はスムーズに運びはしないだろう。
「今夜、来るんでしょう? 待ってる。何時頃になる?」
不意に相手が沈黙した。それまで喋り続けていた翔一が、急に真顔になる様子が、セリナには見えるような気がした。
「どうしたの?」
不安感が募った。
「特選になるなんて、想像もしなかったからな」
翔一が再び喋った。声からは熱気のようなものが引いていた。「まわりの連中が、街なかへ俺を引っぱり出したがってるんだ」
「でも、約束した。二人でお酒呑むって。酒盛りするって……」
またしても沈黙が訪れた。先刻より長い間をおいて、翔一が言った。 「そうだったよな。酒盛りの約束したよな、俺」
興奮の消え失せた声。「分かった、行くよ。少し遅くなるかも知れないけど、必ず行く」
それで電話が切れた。必ず行くと言った彼の声が耳に残った。
翔一が特選をとった! 踊り上りたい気持ちの底に、チカリと冷たいものが光った。嬉しいはずなのに、手放しで喜べない自分がもどかしかった。
晴れがましさの絶頂にいる恋人が遠かった。電話でうわずった声で喋り続けていた翔一の言葉が、出し抜けに甦る。
『これで俺も作家の仲間入りだ。サラリーマンにならなくて済む。尚書館文芸賞の特選なら、一人でやっていける……』
太陽に赤味が加わるにつれて、海上に風が吹きだした。海の上を一陣、また一陣と柔らかい風が掠めるようにして、幾分冷えた潮の香りを運んでくる。
最初の風の一陣が裏庭に吹き込むと、蝉たちが一斉にピタリと鳴き止んだ。
|
|