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作品名:広がる世界 作者:空谷 碑路

第12回   第壱弐話「降参」
間違いは、すぐに起きた。
昼休みも終わり、みんながオフィスに戻ってきた。
少しのざわめきの後、いつもの様に仕事の音に変わる。
ところどころ、小声で私語も混じってはいるが、まぁ、仕事に差し支えない程度なら、上司も大目に見てくれる。
ただ問題なのは、数分おきに俺が独り言をいう事だ。
こんな状況が、あと4時間も続くとなると、俺のほうが持たないし、まわりにも怪しまれる。
その上、仕事の能率も上がらない。
そんな事を考えているとは知らずに、ミルは呑気に、煙草が吸いたくなった、退屈だ、何か読ませろと言う。
俺は小声でミルをなだめた。
少しくらいなら大丈夫だと思って、相手をしてたら要求は増すばかりになっていった。
仕方がないので、俺はミルを持ってトイレに行った。
ここなら、今の時間はほとんど人がこないし、少しはまともに話ができるだろうと思った。
トイレに入るなり俺は口を開いた。
「さっき約束したよな。おとなしくしているって」
なるべく穏やかな口調で言う事を努めた。
もう本と喧嘩をするのは、こりごりだから。
「わかっているけど、どうにもこうにも退屈でな」
ミルは自分を広げて、よく人間が言い訳をするそぶりをして見せた。
「器用なのはわかったし、表現豊な本だということも十分に知っている。でもな、会社って言うところは面白い場所じゃない。もともとつまらないところ、って、きまってるんだ」
「………」
少し考えているようだ。
「確かにそんな場所かもしれない。それはわかってきたけど、じゃあ何で秋は、面白くしようとしないんだ?つまらないことしてもしょうがないじゃないか」
「そう言われれば、そうなんだけど・・・。そんな事できるわけないだろ」
「やってみたんかい?」
「お前なぁ…。なんでそんな警察みたいな尋問するんだ。とにかくあと4時間おとなしくしててくれ」
冷静に話をしようとしたが、どうにもこうにも、ミルのペースにはめられてしまう。
でも、考えてみれば俺って、就職して、しばらくたってから自分というものを出さなくなったな。
別れた彼女にも、本当の自分を知られるのが嫌で、自分を出さなかったし。
何で、こんな時にこんな事を思い出したんだろう?
つくづく最初に、ミルに言われた事を実感する。
「……わかった。俺が悪かった。おとなしくしてるよ」
ミルは、さっきまで開いていた自分を閉じた。
どうやら、降参のサインらしい。
なんとなく、後味が悪くなりながらも、俺は自分の机に戻った。
俺が言っている事も、ミルが言ってる事も間違ってはいないと思う。
それじゃあ、いったいなにが間違っているのだろうか?
そんな事を考えていたら、仕事に集中できなくなっていた。
ミルも大人しくしているのに…。
「………決めた」
そう俺は呟くと、一枚の書類を書いて、上司の元へ向かった。
有休届。
今日半日分、明日一日分。
申請理由、(心の)体調不良の為。
その書類を出すと俺は振り返らず、上司の元を後にした。
心なしか、さっきまでもやもやした気持ちが晴れてきた。
前言撤回。
間違いの始まりではなく、何かが新しく始まるような気がする。

                                つづく


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