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作品名:病んでる場合じゃない 作者:みつき よう

第1回   病むひと
 これからの世はきっとカラフルだ。
 二か月前、高校の卒業式を終えた俺は、散りゆく桜に涙を流す同級生たちを鼻で笑い、これからの季節に向かって高笑いをしていた。
 父親は検事、母親は高校の教師という公務員夫婦のもとで生まれ育った俺は、幼稚園のころから国立T大学を目指すための教育をうけてきた。
 毎日毎日勉強勉強勉強。
 それが日常であった俺は、もちろん周りの人間もそういう風に育っているのだろうと思いこみ、自分の環境が「ふつう」とは少し違っていたことに気づけずにいた。
 その事を目の前に突き出されたのは高校一年の春。
 勉強? なにそれ、おいしいの? といった風な頭の軽い、同じクラスの輩が数名。俺に「もやしめがね」というあだ名をつけたのだ。
 俺はそのあだ名で三年間呼ばれ続けた。本名を呼ばれた回数よりも、きっとあだ名で呼ばれた回数の方が多いんじゃないかと思うくらいに、そのあだ名で呼ばれ続けた。
 俺のことを友達だと思っている人間はいない。
 俺もまた、誰かのことを友達だと思ったことはなかった。
 けれどそれは、すべて周りの人間が馬鹿だからだと、俺と会話ができるレベルの奴がいないせいだからだ、とずっとそう思っていた。
 だから、きっと大学へ行けば友達と呼べる人間が、俺と会話をするにふさわしい人間がいるだろうと俺は夢想していた。
 今思えば馬鹿な夢想だ。
 勉強はすればした分きちんと身に付くものだ。
 俺は無事に両親が望んだ国立T大学に合格。実家を出て一人暮らしをすることになった。
 さあ、灰色な人生は終了。これからの世はきっとカラフルだ! そう高笑いをしながら、背の高い門をくぐった、その瞬間が多分俺の人生のピークだった。

「糸川くんってあれですか、論文は良い物を書くのに、人を小馬鹿にしたような話し方する子」
「そうそう。ああいう学生さんって最近多いものなのかね?」
「いや、稀なんじゃないですか。あそこまで人を思いやれないというか、自分が見れていない子は」

 それは研究室からもれた、老体した教授と若い助教授の声だった。
 四月、入学式やオリエンテーションをこなしながらもなかなか友人はできず、気づけば五月になり俺はまた勉強ばかりをしていた。
 あれ? とは心のどこかで思っていたものの、まだまだこれからだ。と誰とも会話をしない日々を過ごしていた時だった。
 今まで、自分と会話をするに値しない馬鹿な高校の同級生たちになら「話し方がいちいちイライラする」とか「目が卑怯」とか言われても、痛くもかゆくもなかったし、気に止めたことなんてなかった。
 だって馬鹿が馬鹿のことをいうのは当たり前なのだし、馬鹿の評価なんて世間の評価との比較にもならないと、俺はそう思っていたからだ。
 けれど、今回は違う。
 自分よりもずっとずっと頭の良い人間。しかもふたり。世代も関係ない。
 俺への真っ当な評価。
 その時になってようやく気がついた。

「馬鹿は、俺だったのか」

 とぼとぼと家路につく。
 優しい母も厳格な父も誰もいない。馬鹿な俺ひとりのための小さな部屋だ。
 明かりもつけずに、しきっぱなしの布団に倒れこむようにして横になる。メガネがずれて鼻をえぐる。目を閉じても開いても、そこはまっくらやみ。ああ、ああ。と意味のない言葉ばかりが溜息と一緒に口からもれる。
 ただ、それだけ。
 今日が何日なのか、昼も夜も分からない。学校へ行くこともやめてしまった。
 食欲は落ちたが、何も食べずにはいられなくて。食糧の尽きたある日、俺は久しぶりに外へ出た。
 扉をあけると赤い陽が目を射す。どうやら今は夕方のようだ。
 とんとん、と歩くたびに床が鳴る。それを他人事のように聞きながら、ふと目の隅に白い塊が映る。

「…おとどじゃないか」

 隣の家の植え込み、影になる場所に白い猫が座り込んでいる。
 こっちに引っ越してから、毎日ここで見かけていた猫だ。やたら人懐っこくて、食べるものなんてやらないのに足元へすり寄っては懐いていた。
 なんとなく呼ぶのに困ったので、俺は古典に出てくる猫の名前「おとど」とその白い猫を呼んでいた。

「どうした、寒いのか」

 いつもなら、俺を見かけるなりにゃんにゃんと鳴きながら足元へ絡んでくるのに。今日は何の反応もしない。
 植え込みにしゃがみこみ、おとどの丸い頭をなでる。ピクリ、と耳が動き、閉じていた目がゆっくり開く。

「なーう」

 ゆっくり、細い鳴き声。
 あ。と思ったとたん、なでていた頭がかくんと落ちた。

「おとど?」

 もう一度頭をなでるが、反応はない。耳を触る。ほほを触る。あごの下を触る。
 どこもかしこも暖かいのに、やっぱりなんの反応もない。

「あ、あ」

 胸が苦しくなる。口からはまた、意味のない言葉ばかりがもれる。
 ああ、ああ。
 腰が抜ける。手が震える。呼吸がうまくできない。
 ああ、ああ。
 この白い塊を、俺はどうすればいいのか。
 ただただそうやっていると、ふとおとどの体全体から煙のようなものが上がり始めた。白いもや。何かはわからない。

「お、おと、ど…?」

 震える手をなんとかのばし、白い何かが上がるおとどの体に触れた。先ほどとは違いひんやりしてしまっている。
 ひ、とのどがひきつるが、俺はまだ懸命に手を伸ばす。
 白い煙がどんどんと色濃くなり、もくもくと止まらない。しかもなにやら甘い香りまでしはじめた。
 なんだ、なにが、いったいどうして。
 頭は混乱するばかりだが、抜けてしまった腰をなんとか浮かしておとどの体に鼻を近づける。
 どんどん濃くなる甘い匂い。お菓子の匂いとも香水の匂いとも違う。なんだろう。花、の匂いだろうか。
 はあ、と口から息を吐く。煙はとまらない。
 なんだ、なにが、いったいどうして。
 すう、と口から息を吸う。
 途端、

「ごほっ、ご、げぇっ!」

 口中鼻中に広がるあまったるい匂い。のどになにかがからみつく。飲み込もうとするのにうまくいかない。吐き出そうとしてもうまくいかない。

 ごほごほ、ごほ、おえ、ごくん。

 そこから俺は一度意識を失う。
 次に目を覚ました時、俺は人ではなくなってしまっていた。



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