最初に女といざこざがあったのは、2020年の6月。さっき言ってたように、俺は風邪をひいとった。だが6月の最終日、その日は昼から風邪を押して部屋の掃除をしとった。家にいたから? いやいや、むしろ掃除をするために家におらんければならんかった。ジゴロにとって月に一度の試験日や。―にぶいやつやな、女の給料日だよ。昼飯がおにぎりになるか、弁当になるか。パチに週何回行けるか。そういったことが大方決まってしまう大事な大事な日や。 午後の7時前には、掃除と夕飯の支度がすべて終わり後は女の帰りを待つばかりになった。だが、いつまで経っても女は帰ってこない。残業なら電話の一つでもするはずやが、それもない。ほこりを落とし明るくなった照明の光がいやにテーブルに映え、時計の針が鳴らす機械的な音が耳に入る。何度も吸殻をベランダのゴミ袋に捨てに行く。なんとなくいじっていたケータイの電池が残り1目盛りになる。時計が午後9時を告げたころ、さすがに「事故でもあったか」と思って電話しようとしたときに、やっと女は帰ってきた。 鍵を開ける音、扉を開ける音、その次に聞こえてきたのはドスンッ、という大きな音やった。玄関とリビングを隔てるドアを開けると、女がカバンを玄関に投げ出ししゃがんどった。どうやら靴を脱ごうとしとるらしい。「上手く脱げずにいるんやな」と思う前に、臭いで「こいつ酔ってんな」と分かった。 「おかえり」 心配している素振りを見せる声色を使う。女が顔を上げる。 「ただいまー」 妙に明るい声で女は答える。真っ赤な顔やった。口元は緩み、自然と息が漏れる。甘い臭いが強かった。 (ほろ酔い程度やな) と思いつつも、カバンを持ち右手を差し出す。給料目的の打算的な思いもあった。やけどそのときは、嫌な予感から逃れようとする思いの方が強かった。1年以上も暮らしてきて、俺が給料日に何をするかぐらい女には分かっとるはずやった。連絡もせずに飲みに行くなんてことはまず考えられんことやった。「絶対に何かある」俺の直感が告げとった。 差し出された手に女は素直に応えた。靴を脱ぎ終えたのを見ると、そのまま肩も貸そうとした。 「いや、大丈夫だよ」 「そうけ」 後でこのやりとりを思い出したとき、「あぁ、そうか」と思ったもんや。単にほろ酔いなだけなら、女は流れに任せて肩を借りたやろうがそれを断ったということは、女が酒に酔いながらもどこかで冷静さを保っていた証拠や。そのときの俺はその場その場に対応するのに頭がいっぱいやった。 俺が先に立ち、リビングへ入る。女がテーブル前の座布団に座ったのを見ると、すぐさま水を汲みに行く。会話をさせないよう席を立ったつもりやったが、このとき住んでいた部屋は少し古いタイプのものでリビングとキッチンがいっしょになっとった。こんときほど、「家族と会話ができるキッチン」を恨んだことはなかったわ。こんときは、女がキッチンに背を向ける形で座っとったと思う。やから、少しは考える隙ができたはずや。 (先手を打とう) コップを探すふりをしつつ俺はそう決めた。 「今日は暑かったね」 「うん」 「今日は乾燥しとったね」 「うん」 天気の話なんか続くわけなかった。今にして思えば、体調のこととか、相手が言葉を重ねなければ返答できん話題があったはずやったが、どうすることもできんかった。 「今日は――」 女が振り返った。 「明日、お母さんに会ってもらいたいねんけど」 夏が近いにも関わらず、空気が張り詰めたねぇ。あまりに突飛な言葉に、俺は正直とまどった。言葉遣いにもとまどった。普段割りと標準語が多いやつやったし、ふとすると俺にさえ丁寧語で話しかけてくるようなやつやから、聞いたとき「おっ」と思ったね。 俺はしばらく目をそらさずにおったような気がする。多分、目をそらせば次の行動、つまり返答しなければならんと自然に思ったんやろ。やがて、女の方が折れた。 「今日、帰りにお母さんに会ったんですよ――」 ほろ酔い状態での説明やったこともあろう、女の話は要領を得んものやったと記憶しとる。まあ、要はこういうことやった。会社は6時には終わり、帰ろうとしたときにフロントから内線が入った。出てみると、母親が来とるということやった。なんでも、病院からの帰りで、顔を見に来たという。そんで、久々に 会(お)うたから会話が弾み、俺に連絡するのも忘れて居酒屋へ行った。母親がアパートの前を通りがかったときにベランダに男の人がいるのを見かけたと言われ、とっさに「結婚を前提に付き合っている」と答えたという。それもそのはずで、やつの実家は金沢の中でもだいぶ山の方やから、すごく世間体を気にする。やから、自分が休日の明日、母親に会って欲しいということを言い出したというわけや。 事情は理解できた。やけど、俺はこんときは酔って強気になったところから出たもんかと思っとった。ただ、さっきも言ったように、女は至って冷静やったから、それはまったく検討外れやったわけやな。 「でも、風邪引いとるし」 俺は愛想笑いをした。それがいけなかったんやろうね。 「嘘や、掃除も料理もしとったみたいやし」 急に女の口調が激しくなった。が、そんときの俺は酔いのせいだと決め付けた。しばしの沈黙があったと思う。沈黙の甲斐なくこんとき出てきた言葉は、 「ちょっと待って。いきなりそんなん言われても困るわ」 やった。 「親に会って欲しい」と言われたことがあまりにショックで、「どうやって逃げるか」とばかり考えとった。ジゴロとしては失格だと思う。すごく利己的や。でも、俺にも言い分はある。掃除したことや夕食を作ってくれたことを一切褒めてもくれず、自分の要求だけを突きつけてくる女にイラ立ちを感じ始めていたんではないかと思う。 また沈黙があった。顔から少しずつ赤みが引いていったような気がした。やがて、女が口を開く。 「そうだよね、あまりにもいきなりだよね。それに、よしけんにはよしけんのやりたいことがあるわけやし。同棲始めるとき、お互いの生き方には口を出さないって決めたもんね。こんなの特別でも何でもないよね、わたしのいとこもそうやって同棲しとる人がいるわけやし……。」 俺は、女にも「よしけん」と呼ばれとった。こんとき、女の目は空を見つめとったように思う。 言い終わるが早いか、肩からふっと力が抜けたように見えた。座りなおすと、女はスーツの上着を脱いだ。 「ご飯にしよっか」 水の入ったコップを持ったまま、俺は立っとった。何か言い返そうとしたが、いつも調子はどこに行ったものやら、糊止めされたかのように唇が張り付いて、結局何も言えんかった。 その夜は何事も更けていったけど、それ以降なんとなく女との関係がぎくしゃくし出したような気がする。言いたいことが別にあったんは、誰だって分かる。やけど、そんときの俺には聞き出す勇気はなかった。あんときの関係がちょうど良かった。あれ以上深い関係になると、二人の関係がまずくなる気がした。それは、おそらくどちらも望んでおらんかったろう。 それにしても不器用な女やったと今でも思う。まあでも、あの女らしいちゃあらしいわな。不器用に生きてきたからこそ、俺がやつの側にやってきたんやし、やつは俺のように面倒でない男を必要としていたんやろう。
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