「マリア様はね、冷凍されてしまったの。だから、この世は惨劇だらけなのよ」
ある晩のことだった。 深夜、突然母親に叩き起こされた。 まだ、幼かった私は何のことかさっぱり解らず、また、母親も私に解るように事情を説明しようとはしなかった。ただ一言、 「ここから逃げるの」 とだけ、言われた。
私は無理矢理パジャマを脱がされ服に着替えさせられた。 気づいたときにはタクシーに乗っていた。窓の外を流れるネオンを見つけ、きれいだなあ、と、うとうとしながら思った。 その次に気づいたときには、母方のおばあちゃんちに居た。 おばあちゃんが、寝巻き姿で、とてもびっくりした顔をしていたのだけ、覚えている。
私たち親子は、しばらく、おばあちゃんちに居候した。 「ねえ、幼稚園行かなくていいの?」 「いいのよ」 母親はそっけなく言った。 でも、私が本当に聞きたかったのは、 「お父さんのところに行かなくていいの?」 ということだった。
「いいのよ」
その答えが、私の本心の質問に対する応えとしか思えなくなった。幼稚園に戻らないということは、もう、今までの家には戻らないということくらい解った。 そして、何かが決定的に、取り返しのつかないことになっているということを感じた。
もう、お父さんに会えない。
その瞬間、地面がぐらぐらと揺れ始めた。私は立つことも座ることもできずその場に倒れた。地鳴りがし、轟音が耳を襲った。何も聞こえない。自分が叫んでいるのどうかすら解らない。そして地面には無数の亀裂が入り、ぴしり、ぴしりと何かが激しく裂ける音が聞こえてきて、その、ぴしり、という音が鳴るたびに、私が私だという感覚が遠のいていく。地面は激しく揺れ続ける、亀裂が無数に入る、地面が壊れる、地面が壊れる! 前方から、地鳴りとは違う別の音が聞こえてきた。ふと顔を上げると、見上げるほどの津波だった。それは、到底敵わないスピードでやってきた。一瞬。
のまれる!
しかし、私は無事だった。 何故ならば、一瞬にして、「お父さんなんか最初から居なかった!」と叫んだのである。
津波は消え、轟音は遠のいた。その代わりに、水戸黄門のテーマソングが耳に入ってきた。 隣で、おばあちゃんが、お茶を飲みながらテレビを見ていた。 まだ、春先の肌寒い時期、私と母親は、石神井公園にあるアパートに引っ越した。 何故、春だったかと覚えているかというと、そのアパートのすぐ脇に大きな桜の木が植えられていて、その桜がちらほらと咲いていたのを覚えていたから。
引っ越してすぐは家具なんか全然無くて、暫くの間は、衣装ケースの上でご飯を食べた。 母親は、食べるのがすごく早かった。黙々と、殆ど何も喋らず食事を平らげた。そして食べ終えるとさっさと片付けて、隣の部屋で何か本を熱心に読んだ。私は、ぱさぱさしたお米を必死で飲み込みながら、そんな母親の猫背な背中を眺めていた。でも、母親がこっちを振り返ることは殆ど無かった。私は、母親がいつ振り返ってもいいように、ずっと見ていたというのに。
その本が「聖書」だったということに気がついたのは、小学校に上がってからだった。
毎週日曜日になると、私は母親に手をひかれ、教会へ行った。 何か、黒い服を着て偉そうにしている人が話している間は退屈だったけれど、歌を歌うときは楽しかった。何より、オルガンの音がすごくきれいだと思った。胸にじんわりと響くような音色で、歌の曲調も、どれもなだらかで、気持ちがとても落ち着く気がした。
教会から帰る時は、母親はいつも晴れやかな顔をしていた。だから私は、教会という場所はいい場所なんだと思った。普段の母親はいつも眉を顰めていて、私がどんなに話しかけても、「そうなの」とか「よかったわね」とかしか言ってくれなかった。 でも、教会のあとは、母親は饒舌になった。キリストがどうとか、マリア様がどうとか、色々話してくれた。母親の話し方があまり上手くなかったのか、私には難しすぎたのか解らないけど、母親の大半の話は理解できなかった。だけど、私は、ちゃんと解ってるよ、という素振りで話を聞いた。それを見て、母親は嬉しそうにしていたと思う。 でも、家につく頃には、その饒舌も、陰を顰めてくる。 アパートの前につき、部屋の扉の前で鍵を開けるときに決まって、母親はこう言った。
「だけどね、マリア様は、凍り付いているの。だから、この世は惨劇だらけなのよ」
その度に私は、どんな顔をしていいか解らなかった。何度聞いてもその言葉の意味が理解できず、でも、母親が何度も言うのだからとても重要なことなんだろうと思い、悲しい顔だけは、しないように努力した。
毎週日曜日は、私にとって母親と出かけることのできる楽しみな日になった。 月曜日から金曜日は勿論学校があるから出かけることなんてできないし、土曜日も学校は休みだけれど、母親は外には出ようとせず、熱心に聖書を読んでいた。 しかし、日曜日だけは、母親はきちんと手を繋いで私を教会へ連れていってくれた。教会の帰りには、母親の微笑みを見ることができた。特に、よく晴れた日は最高だった。帰り、気分のよくなっている母親は、少し遠回りをして、石神井公園に私を連れていってくれた。大きな池の周りをぐるりと歩いたりした。ほんとに時々だけど、ボートにも乗った。初夏の日差しが水面に降り注ぎ、母親がオールを漕ぐ度に、ぱしゃん、ぱしゃんと煌いた。このボートに乗って、どこまでも、どこまでも、行ける気がした。母親は、がむしゃらになって力任せに漕いだ。それは、私にとって、これ以上ない、幸せだった。
「あなたも、これを読むといいわ」 ある土曜日。その日は朝から雨が降っていて、私は部屋の中でぼんやりとテレビを見ていた。 母親は、何冊かの絵本を私に渡した。その絵本は、かなりボロボロになっていて、新品ではないことは明らかだった。ひっくり返して見ると、近所の図書館のシールが貼られていた。言われるがまま私は聖書を読む母親の傍でその絵本を読んだ。 それは、冬のある日に、イエス・キリストが生まれてから、十字架に架けられ、また復活するというストーリーだった。そしてその絵本の最後には、「信じる者は救われる」という言葉が記してあった。 母親がよく口にする「マリア様」に関する記述は、殆ど無かったので、私は幾分拍子抜けした。ただ、最初の方で、キリストのお母さんだということしか書いていなかった。 その頃には、幼い私も流石にこの宗教が「キリスト教」という宗教だということはなんとなく解っていた。そして、そのキリスト教の主役は、イエス・キリストで、その誕生日がクリスマスなんだということくらいは解った。 なので、母親が言う「マリア様は凍らされてしまった」という言葉の意味に関しては、その数冊のどの絵本にも書かれていなかった。 これは、一体どういうことなのだろう。母親が、嘘をついているのだろうか?でも、何のために?繰り返し繰り返し、嘘をつくことに何の意味があるっていうのだろう。教会から帰って来る度に、部屋の扉を開ける度に、「マリア様は凍らされてしまった」と必ず言うのは何故だろう。そして、その後に言う「だからこの世は惨劇だらけなのよ」という言葉の意味は一体、どういうことなのだろう。
絵本は、とりどりの色で描かれていた。その絵を、綺麗だなあと眺めながら、私は、段々辛くなっていった。 あの、タクシーの中で見た、流れ行くネオンの煌びやかさに、少しだけ、似ていたからだ。
「ねえお母さん」私は、どきどきしながら、思い切って聞くことにした。 「なぁに」 「マリア様は、本当に凍ってるの?」 母親は聖書から顔をあげ、じっと私を見た。 「当たり前じゃない。そうでなければ、この世はこんなに惨劇に満ちていないわ」 「…誰が、凍らせたの?」 「誰も、凍らせたりしてないわ。マリア様は、イエス・キリストを産んだ日に、外へ出て、迷子になってしまったの。キリストが生まれた日が冬だってことは、神音も知ってるでしょう?その日は、大雪が降っていて、すごく寒かったの。だから、マリア様は凍り付いてしまったのよ」 「なんで、マリア様は、外へ出たの?そんなに寒い日に」 母親は、弱弱しく首を横にふり、悲しそうな顔をした。 「ここから先は言えないわ。神音には、まだ早すぎる」
初夏が過ぎ、梅雨がやってきた。その年の梅雨は、梅雨らしい梅雨で、毎日のように雨が降っていた。私は学校へ行くたびに靴をびしょびしょにして、靴下まで濡らしてしまう。と、いうのは、私が学校の生き帰りに、歩道の脇のあじさいのはっぱにかたつむりがくっついているかどうかという確認作業に時間がかかったからである。今日は、いくつかたつむりがいるか、大きいか、小さいか。たくさんいる日はなんだかハッピーなことが起こるような気がするし、まれに一匹もいない時は、とても悲しい気分になった。
かたつむりの数を数える、というのは、私にとっては遊びではなく、仕事のようなものだった。私がこのあじさいのかたつむりの数を数えなければ、世界は崩壊してしまうのだと思い込んでいた。 あじさいの大きなはっぱをひっくり返したり、おくまで覗いたりと夢中になることで、私は色々なことを忘れられた。 その頃、小学一年生の私は、友達がなかなかできなかった。他のみんなは、仲間や友達を見つけている様子だったけれど、なんとなく、私には友達ができなかった。 自分から、積極的に話しかけて、友達をつくることもできたのだろうけれど、何故だか、そうする気になれなかった。なんだか、クラスメイトたちが、酷く遠い存在のような気がして仕方がなかった。まるで、無人島から望遠鏡でこの教室を眺めているような気分。 話しかける気力も起きず、話しかけられても、どう対応していいか解らず、そんなことをしているうちに私はすっかり一人ぼっちだった。 一番嫌なのは、休み時間だった。 昼休み、皆が校庭で遊んでいるのを私は教室の窓から、ぼんやりと、見たり、見なかったりした。でも、それはまだマシだった。梅雨が続き、校庭で遊べない生徒たちは、教室で暴れまわっていた。教室の中で野球を始める男子がいたり、それを非難する女子がいたり、ボールが顔に当たって大泣きする生徒がいたり…。
私の居場所は、なかった。
だから、学校の帰りがけに、かたつむりを数える作業は私にとって重要な作業だった。このあじさいという花の支配者になった気分になれるから。
家の近所のあじさいで、いつも通りかたつむりの数を数えている時だった。 「神音」 振り返ると、スーパーのビニール袋をぶら下げた母親が立っていた。 「何してるの」 まるで責めるような口調だった。顔は明らかに歪んでいる。私は、狼狽して、なんとか誤魔化そうとしたけれど、咄嗟にいい答えが浮かばなかった。 「え、えっとね…か、かたつむりの数を数えてたの。だって、ほら、梅雨だから…」 「馬鹿なことやってないでとっとと帰るのよ!びしょ濡れじゃない!風邪でもひいたらどうすんのよ!」 そう言うと母親は家の方向に向かって早足で歩き出した。私は、置いていかれるのが怖く、母親のあとを追った。 「あんたはホントに馬鹿ね。くだらないことばっかりして」 私は、ホントに、そうだなぁ、母親に言う通りだ、と思った。
私は馬鹿だから、くだらないから、友達ができないんだ。
六月も終わりの頃の、土曜日の夜だった。 私と母親は、いつも通り布団を二枚並べて眠っていた。 家の外では、しつこいほどに雨が降っていた。私は雨音を聞きながら、うとうとと眠りにつこうとしていた。 その時、母親の携帯が鳴った。ぴりりりり…呼び出し音が暗闇を切り裂く。 私は、瞬間的に厭な予感がした。母親の携帯が鳴るなんてことは、滅多にない。
母親は、全然眠くなってなかったのだろう。すぐに携帯をとり、隣の部屋へ向かいながら話し出した。 私は、睡魔に勝てず、再び睡魔にずるずると引きづられていった。 しかし、しばらくすると、母親の怒鳴り声で目が醒めた。 母親は、携帯に向かって激しく怒鳴り、泣き、叫んでいた。今が夜中であるとか、隣近所に迷惑がかかるとか、そんなこと一切お構いなし、というか、そんなことすら頭の中から吹き飛んでしまっているかのような怒鳴り方だった。 私は、恐怖で目が冴えてしまい、寝返りをうつことすら躊躇った。私はじっと、布団の中に包まり、目を硬く閉じていた。 母親の怒鳴り声は数十分は続いたと思う。 「もう二度と電話なんかしてくんじゃねーぞ、カス!」 そのあと、沈黙が流れ、母親の深い溜息が聞こえた。 私は、恐ろしかった。何かがとても怖かった。今、此処ではない何処かへ走って逃げ出したい衝動にかられ、同時に、恐怖で身体はかちかちに凍り付いていた。 母親は、そのあとふらりと部屋から出てゆき、明け方まで、戻らなかった。
翌朝、母親は殆ど喋らなかった。黙々と朝食を終え、教会へ行く仕度を始めた。まるで、私なんか傍に居ないみたいに、見えなくなってしまったみたいに。 私は、朝食のパンがやたら喉につかえ、麦茶ばかりを飲んだ。それでも、出された全てのパンは食べきれなかった。服を着替え、出かけようとする母親のあとを追い、私も急いで仕度をした。 その日も、どしゃぶりの雨だった。私と母親は、傘をさし、もくもくと歩いた。私は、途中にあるあじさいのかたつむりの数が気になったけど、仕方なく数えるのを我慢した。 雨は、嫌い。一人の時は別にいいけど、こうして母親と歩いているときは、嫌い。だって、手が、荷物や傘でふさがってしまい、手が繋げないのだもの。もしこのまま、母親がふいに道の角を曲がり、さらに曲がり、どこかの店に入ったりしてしまったら、たちまち私は迷子になる。暗いし、寒いし、靴下はびしょびしょになっているし、雨は、私を、恐怖へ駆り立てる。 教会へつく頃、母親は、ぽつりと言った。 「今日は、牧師様とお話をするからね。長くなるかもしれないわ」 その声が、昨夜と違って、穏やかだったので、私は少し安心した。「うん」と返事をして、母親が次に何か話してくれるだろうかと待ってみたけれど、母親はそれっきり何も話さなかった。 いつもの教会のプログラムを終えると、皆は散らばってお話を始める。これは、任意参加のプログラムで、色々なことを、色々な人たちが、自由に話すという感じみたいだった。牧師さんと話したい人は、牧師さんの前に列をつくって、一人一人お話をする。 私と母親はいつも、このプログラムには参加せずに帰っていた。しかし、今日は母親は牧師さんの前に並んだ。私も、母親の手をぎゅっと繋ぎ、辛抱強く並んで待っていたが、列はなかなか前に進まなかった。しかも、今朝麦茶をたくさん飲んだせいか、トイレに行きたくなった。 「お母さん、トイレ、行ってきていい?」 「いってらっしゃい」 母親は、繋いでいた手の力をすっと弱めた。私は、ホールを出て、トイレへ向かった。
用を済ませて、トイレを出た。すると、薄暗い廊下に、一人の男の子が、壁に背をもたれかけさせてしゃがみ込んでいた。私と同じ年くらいだけれど、あまり見かけたことがない。 しかし、その子の前を通らないと母親の所には戻れない。私は、緊張して、こわごわと歩を進めた。 「ねえ」 びくりとして、私はふいに立ち止まった。 「ねえ。退屈だねえ。ママたちって、なんであんなに話が長いんだろうねえ」 男の子は、頬杖をつきながら私を見上げていた。 「君のママも、お話してるんだろう?」 「…ぼ、牧師さんと話すって言ってたけど…」 「それじゃあ、大変だね。牧師さんと話すと、日が暮れるよ」 「そ、そんなに、時間、かかるの?」 私は、ドギマギして、男の子と目を合わすことができなかった。そういえば、母親以外の人と喋るのは、どれくらいぶりだろうかと思った。 「かかるさ。うちのママが、そうだったからね」 そう言うと、男の子は立ち上がった。私と、そう変わらない背丈だった。 「ねえ、面白いことでもして遊ぼうよ」 「でも、私、お母さんのとこ、戻らなくちゃ…」 「平気だよ、どうせ母親なんか、牧師さんのことで頭がいっぱいさ」 その瞬間、男の子は私の手を取った。「どうせ母親なんて牧師のことで頭がいっぱい」その言葉が、頭の中でぐるぐるして、私はその手を振り解けなかった。 「行こう。面白いこと教えてあげる」 そして、男の子は私を連れて、階段を降りていった。
「君はここの地下って行ったことある?」 「…ないよ。地下なんて、あるの?」 「じゃあ、探検しに行こう」 私は、『探検』という言葉に胸が躍った。この教会の地下なんて、何か面白そうで、ちょっとだけ恐そうだと思った。 「死体とか、あったらどうしよう」 「さあどうしようかねえ。あるかもしれないね」 「やだ、恐い」 「大丈夫だって、僕がいるから」 その子は、強く私の手首を握り締めた。 一階のホールまで降りると、男の子は、ホールの奥の方へ歩いた。電気はついておらず、雨のせいで、当然ホールは薄暗かった。その薄暗い中を、男の子はずんずんと歩いていった。 細い廊下の突き当たりに、鉄の扉があった。 「ここが、秘密の階段だよ」 そう言って、男の子は扉を押し開けた。 埃臭い、冷えた空気が入り込んでくる。 扉の先には、鉄の螺旋階段があった。男の子は躊躇いなく、カンカンと音を立てて降りていく。私も、引きずられるようにして降りていく。同時に、心臓がカンカン高鳴る。 「ここが、地下だよ」 私は、拍子抜けした。なんてことない、ただの駐車場だった。 「初めて来た?」 「…うん」 駐車場は暗く、コンクリートが打ちっぱなしになっていた。車がびっしりと止まっており、陰気な雰囲気だった。電気はついていたけど、蛍光灯がまばらについているだけだったので、あまり明るいとは言えなかった。 男の子は、駐車場の奥へと進み、一際大きな車の陰に身を潜めた。私も、一緒になって、しゃがみ込む。 「じゃ、面白いこと、しよっか」 「なに?面白いことって」 「秘密の遊びだよ。まず最初に、パンツを脱いで」 「え?」 「脱ぐんだよ。そうすると、面白いよ」 私は、そんなもんかと思い、スカートを穿いたままパンツを脱いだ。 「じゃ、ここに座って、少し、脚、広げて」 言われるがままにすると、男の子はズボンを脱ぎ、私を抱きしめた。 その瞬間、猛烈な痛みが身体を駆け抜けた。 「痛い!」 「大丈夫、段々痛くなくなるから…」 「痛い、痛いってば!」 何かが、無理矢理身体を裂いて入ってくるような感覚。必死で、押し戻したくなる。 「大丈夫だよ、安心して。すぐに気持ちよくなるから」 冷や汗が浮かぶ。逃げ出そうにも、男の子は強い力で私の身体を押さえ込んでいた。
暫くして、男の子が私から身体を離した。 私は、放心して、暫く動けずに居た。 「秘密の遊びだよ。だけど、皆やってることなんだよ」 そう言いながら男の子は私にパンツを差し出した。
翌朝、今までの雨がまるで嘘っぱちだったかのような快晴だった。 テレビのニュースでは、梅雨が明けたと騒いでいた。これからは快晴が続き、暑くなるでしょう。 朝食のパンは、またしても喉につっかえる。学校まで間に合わないので残す。それに関して母親は特に何も言わない、というより、関心がなかったのだろう。
ランドセルを背負って、通学路を急ぐ。歩いている間も、脚の間が痛かった。痛いのは、嫌い。こんな痛い思いを、みんながやってるわけなんかない。秘密ならば、彼が知っているはずがない。秘密ならば、みんながやっているわけがない。
梅雨が明けて、クラスメイトたちは、再び校庭で遊びだした。 私は少し安心して、がらんとした教室から校庭を眺めた。 もう教会に行くつもりはなかった。だけれども、それをどう母親に言えばいいのかだけが悩みの種だった。
いい言い訳が思い浮かばぬまま、再び日曜日は訪れた。 パンはやっぱり喉につっかえた。ひとつのロールパンも、食べ切れなかった。 母親は黙々と食事を済ませ、着替え、仕度を始めた。 私は、いつまでも、テーブルの前から動かなかった。 「神音、教会行くわよ」 「…あんまり、行きたくないな」 やんわり言ったつもりだったのに、母親はすごい形相で私の顔を覗き込んできた。 「なんで?!いままでずっと一緒に行ってたじゃない!なんでそんなこと急に言い出すのよ。神音は、マリア様やイエス様を信じないというの?」 「そうじゃないけど・・・」そうじゃないけど、信じるものは救われるって言われるけど、ちっとも救われやしないってことが、薄々わかってきただけのことなんだけど。 「そうじゃないなら、行かなきゃ駄目じゃない。地獄に落ちるわよ」 地獄という場所が、どういう場所なのか、行ったこともないので想像できなかったけれど、あの駐車場よりかはマシだと思った。 「兎に角、行きたくないの」 母親は、深い溜息をついた。そして、こう呟いた。 「こんな日が、いつか来ると、私も思ってたわ」 私は母親を見上げた。母親は眉を顰め、唇を震わせていた。 「死にましょう、神音。一緒に」 私は、その言葉に耳を疑った。死ぬ? 「死にましょう。死ねば、ずっと一緒にいられるのよ。離れ離れになることを恐れなくていいのよ。永遠に、一緒なのよ」 母親は、本気だった。母親の両手が私の頬を撫で、そのまま、首へ降りていった。 「だって、マリア様は凍り付いてしまっているのだから。だから世の中は、惨劇だらけなのよ」 力が、徐々に強くなってくる。ロールパンが喉に詰まるより、苦しい。い、息ができない。苦しい。 「苦しい、苦しいよ!お母さん!苦しいよ!」 私は力任せに暴れ、母親を突き飛ばした。突き飛ばされた母親は、俯き、泣き始めた。 「神音…私には、神音しか、いないのよ…」
こんな時こそ雨がお似合いなのに、窓の外には馬鹿みたいな青空が広がっていた。
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