僕が育ったのは信州の山の中だった。故郷と言われて頭に思い浮かぶのは、生まれてから人生の80%を過ごした東京ではなく、小学生の間たった3年半過ごしただけの信州。故郷は遠く偲ばなければならない。二度と戻りたくない苦い思い出もはらんでいないと故郷と呼ぶに値しないと、僕は思う。
小学3年生だった僕は、少しからだが弱く、それでいて仕事が佳境に入って忙しかった両親の判断で、母方の祖父母の家で暮らすことになった。コンクリートのビルひとつない村。あるのは小さな公民館と、無駄に広い家々ばかりだった。
「さあ、ケンジ。ここがお前の部屋だぞ。どうだ?こんな大きな部屋をもらえる子供なんて東京にはいないだろう?」
祖父の案内で連れてこられた部屋は南向きの大部屋だった。一人で住むには大きすぎるくらいの部屋。ベッドと、本棚と、学習机があって、それでも部屋内で運度できるくらいの部屋。天井の桟が暗くて、遠かったことを覚えている。
それから天井のしみを数えて眠る習慣ができた。祖父母は寝るときばかりは一緒にと申し出てくれたが、やめた。確かに心細かったが、頼ってしまうと甘えてしまいそうだったから。
「いいよ、別に。広々としたところで寝た方が気持ちいいもん」 精一杯の強がりだった、だが、強がっていないと押しつぶされそうだった。日がなテレビを見て漫画を読んですごした春休みの一週間も終わり、小学校の新学期が始まる前日、不安に押しつぶされて泣きそうだった。
「僕は、なんてかわいそうなんだ。親にも見捨てられて、こんな広い部屋に一人ぼっちにされている。なんてかわいそうなんだ」
両親や祖父母の気持ちは分かっていたが、自己憐憫に浸ることでようやく精神のバランスが取れた。世界で自分だけが自分のことを哀れんで愛しているという空虚感と自己完結している満足感。
翌日は、山道を30分も歩いてようやく学校に着いた。学校といってもそれまで通っていた小学校の半分のスペースの校舎に、ただだだっ広いばかりの運動場。そこに小学校と中学校の合わせて9学年が起居しているというから驚いた。
「先生。こいつが孫のケイジだよ。よろしゅう頼んだで」
先生はほっそりとした見た目に合わない野太い声で僕の頭をなでた
「親御さんと離れてえらいことも多いと思うが、安心しい。みんなええこばっかりだで。さ、教室へ行こうず。おじいさんもまていにありがとうございます。しっかり預かりますんで」
祖父は深々と頭を下げた。普段は磊落な祖父が自分のために丁寧に頭を下げるのを見るのがいやで、顔を背けていた。大人たちは僕の気持ちに気づくことなく置き去りにし、教室につれていかれた。
朝の朝礼(HRとは決して言わなかった)前、そこだけは地元の学校と変わらず喧騒すさまじかった。
「みんなほたえな、転校生が着てるていっといたろうが」
ようやく静まった教室にはたった10人の生徒しかいなかった。男子6人に女子4人。1学年たったの10人きりだった。
簡単に自己紹介を終えると、一番後ろの席に着いた。ちょうど教室の真ん中一番後ろに座っていた少年がにやにや笑いながら手を出してきた。小学生にしては長い髪と、太り気味の体格。有無を言わせず、僕にポケットから取り出したガムを渡した。
「俺はタケシ。おめ、東京もんなんだってな。珍しいもんでもねえけど、くれてやるよ」 「あ、ありがとう」
タケシはけだるそうに手を振ってきた。表面上は親切だが、少年からは支配者だけが有する貪欲さが滲み出していた。その時の僕は、それをどう呼ぶか分からず、ただ漠然とした不安でのどが渇いていくのを感じた。
「うめえか?」
タケシはニヤニヤしながら、こちらを見た。あわててうなずくぼくを満足そうに見つめていた。このガムを食べたことで、飼われてしまう。そんな恐怖があった。僕たちの遠い先祖にりんごの味を教えた蛇は、姿を変えて父たる神として楽園から追いやった。
普段の授業はほとんど変わりなかった。正直、田舎はのんびりしていて勉強もおざなりかと思っていたが、すぐに完全に舐めていたことが分かる。単純に生徒数が3分の1なので、授業中に当たる回数は多く、また保護者と先生の連携がすさまじく、昨日は遅くまで遊んでいただのなんだの、というしょうもない情報を全てはあくしているので、よっぽど息が詰まった。さらに都会からの転校生ということで、無駄にプレシャーが多く、いやだった。
それでも休み時間ごとに遊ぶと、すぐに打ち解けられた。教室でしゃべり倒す女子と、運動場で鬼ごっこやドッジボールに夢中になると仲良くなるのに時間はかからなかった。幸い、運動神経は悪い方ではなかったので、ヘマをしてハブられることは無かった。
数日は順調に過ぎた。タケシは常に試すような視線で僕を見たが、もともと我の強いタイプでもなく、転校先で一人ということもあり、気を配っていたからだろうか。しかし、世界は自分の見えないところで、動いている。
体育で着替えるとき、真っ白なブリーフの中で、僕だけがアニメのキャラクターのトランクスを履いていた。
「お前、ブリーフはいとん?おい、ケイジがブリーフはいとんぞ」 「うわ、何かっこつけとん?」
タケシの一言に、これ見よがしにトシヤが囃し立てた。意味の分からなかった僕は、すぐに反論した。
「何だよ。別にいいだろ?」 「まあた、東京弁つかっとるー。東京弁―」
タケシは後ろからクラスメートが囃し立て、僕がどう反応するのかじっと見ていた。いい加減いやになった 僕は、身近にいた小柄なトモヤの体を押しながら叫んだ。
「トランクス履いたくらいで、なにいってんだよ」 「お、おい、な、なぐんなよ」
僕はそれを言葉で表現することが出来なかったので、思わず手が出てしまった。背後の机にトモヤは興奮してどもり始めた。クラスメートは息を潜めてじっと行く末を見守っている。ただひとり、タケシだけがやってきた。仲裁するかのように二人の間にたつと、問答無用で僕の頬を一発殴った。
「これでおあいこ。喧嘩両成敗ってやつだよ。チクられるのやだろ?トモヤもこれで勘弁せいや。ケイジも殴って悪かったけど、お前もあんまりほたえたあかんで?」
かっと頭が白くなって、何を言っているのか理解できなかった。少し押しただけの僕を殴っただけで、何が両成敗なのだ?そもそもからかい始めた張本人がそ知らぬ顔で仲裁するなんてどういう気なんだ?しかし、手を差し出したケイジの表情は、優しかった。その手は有無を言わさず僕を立ち上がらせた。
「あんま調子に乗るなよ」
特に理由はなかった。そろそろ都会から来た異分子を仲間にする時期が来ただけだ。仲間になるには、空気を壊すような人間ではいけない。あまりはめを外しすぎると、枠を超えてはいけない。動物がそのテリトリーを守るように、タケシは無邪気に自分の世界を守ろうとしている。そこに僕の感情や意思は存在しない。
その名を僕は知った。理不尽。そう、世界は理不尽に出来ている。僕はタケシの手を払った。
「もう、やめようよ」
タケシが言い返そうとすると、そのとき先生が着替えをせかしにやってきた。その日起きたことを振り返ると大したことは無かったが、無性にしこりが残った。
家に帰ると、祖父は絵を描いていた。庭に咲く名も無い花の絵。
「じいちゃん、何描いてんの?」 「さあ、名前はよう知らん。けど、今描かにゃいけん気がしてな」
祖母が淹れたお茶を飲みながら、無心に絵の具を塗っている。祖父は昔、画家として生計を立てていた。そこそこ人気もあったらしい。僕が生まれる頃に、生まれ故郷の信州に引っ越して農作業の片手間に絵を描く日々をすごしていた。
紫色の絵の具がはねて、僕の剥き出しのふくらはぎにかかった。
「すまんな、かかったか?」 「ううん。服じゃないから」 「そうか」
心配するような口調でいて、全く僕の方を見ていない。祖母からタオルをもらって拭き取ったが、僕は絵の具に惹かれた。
「ねえ、ばあちゃん。僕も絵を描いてみたい」 「ほほ、じいちゃんの真似かい?子供は外で遊んだほうがええんよ」
しかし、祖母は離れの倉庫から古いクレヨンと画用紙を持ってきてくれた。そこには母の名前が書かれている。
「不思議なもんやね。あの子も同じこと言ったんよ」
祖父には何も言わなかった。ただ、夢中で外に出て絵を書き殴った。最初緑と赤色で描いた花は、気づけば緑と赤で塗りつぶされて一面の緑になっていた。タケシたちと気まずくなったため、家に帰る度に夢中で色を重ねていった。
春も過ぎて夏が迫る頃、僕らの村の川開きが始まろうとしていた。この村では毎年海の日の前の週あたりに、川開きと称して大人たちが川辺でどんちゃん騒ぎをする習慣があった。そのさらに数日前、僕たちは大人に占領される前の川で一足早く泳いでいた。
川といっても浅く、流れもゆるやかだった。クラスメートたちは思い思いに水浴びをしたり、泳いだりしている。
「ケイジ、面白いもんがあるから来てみろよ」
タケシは、子供の楽園の王は、強引に呼び寄せた。気乗りせずに少しその場でたたずんでいた。沢蟹が顔を出し、また隠れている。
「おい、ケイジ、聞こえてるのか」苛立ちを抑えきれない声にようやく顔を向けた。 「今、行くよ。面白いものってなに?」 「くりゃ分かる」
ぶっきらぼうに犬歯を見せると、沢をどんどん先を進んで行った。歩きにくいほど、岩が大きくなっても、ひょいひょい飛び越えていく。ようやく追いついた僕は、眼前に大きな橋を見た。橋にたどりつくと、そこは川から10mほど高く、足がすくんだ。ずいぶん上流に来たようで、川の流れは速く深い。
「ごっついだろう?」タケシはなぜか自慢そうだった。 「ああ、すげえな」 「ここから飛び降りれるか?」 「は?冗談だろ?」 「ここから飛び降りれんと男やない。トモヤもヒロもマナブも男子はみんな10歳になる前に飛ぶんぞな」
なおも疑いの目を向ける僕に、タケシはそのまま川を覗き込むと、飛び込んだ。下から叫んでいる。
来い。早く飛び込んで来い。
しかし、僕は足がすくんで動けなかった。あまりの高さに怖くなりしゃがみこんだ。下を見たくないので、青空に流れる雲を見た。タケシの声が地獄のように底から聞こえてくる。10分も経たないうちに、しびれを切らしたタケシは僕のところにやってきた。
「なんで飛ばん?まっすぐ飛んだら安全じゃ?」 「高いし、怖いしさ、もう、いいじゃん」 「なにがもういいか」タケシは初めて激昂した。そういえば声を荒げるのは初めて聞いた。 「この村で生きたいんやったら、飛べや」
なおもしぶる僕は無理やり体をつかまれ、川に投げ落とされた。青空が見える。若葉が見える。かわらの石が見える。水面が見える。一周してタケシの顔がちらりと見えたときに、視界は川に閉ざされた。
激しい背中の痛みによって、水の中で咳き込んだ。そのまま水を思い切り飲み込んでしまう。完全におぼれた。Tシャツがへばりついて、上手く体が動かない。無我夢中で体を動かした。光の射す天井へと手を伸ばしかきむしり続けた。しかし、もう息が続かなかった。
走馬灯が走るように、今まで出会った人の顔が浮かんだ。両親祖父母、東京の友人、先生、信州のクラスメート。一人ひとりの顔が浮かぶたび、異なる色のクレヨンでキャンパスが埋め尽くされた。最後に浮かんだのはタケシの顔だった。
色が見える。深い青色。タケシが僕を担いで泳いでいた。横顔は真剣でとても不安そうだった。不安の青。
そのときからだった。人の感情に色が見え始めたのは。
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