夏。昔は一番嫌いだった季節。今では一番愛おしい季節。 その夏に、僕は彼女と初めて出会った。 日差しの強い午後、広い家の広い庭で、彼女は難しそうな顔をして立っていた。大きなスコップに身体を預けて、ゆらゆらと身体を揺らしながら、何かを思案している様子で。 僕はと言えば、焦りと緊張で身体を固くし、じっと動かずにそんな彼女を見守っていた。思い返してみると馬鹿馬鹿しいことなのだが、仕方ないとも思う。何せ、その時僕から見た彼女は、十八人もの家庭教師の手に負えなかった女の子であり、これから僕が教えなければならない、僕の生徒になるはずの子であったのだから。 人間、第一印象で全てが決まる、なんて言う人もいる。僕はこの意見には否定的だが、世の他人はそうとも限らない。彼女に放つ第一声が、僕の全てを決めてしまうかもしれない。そう考えると、迂闊な言葉はかけられなかった。何せ、当時の僕はどうしたって、その素晴らしき好条件の職を逃すわけにはいかなかったのだ。 その頃の僕は、奨学金を得て、大学に通っていた。一人暮らしでバイトもしていたし、家賃や生活費はほとんど自分で賄っていたから、家にそう負担はかけていなかったはずだ。しかし、父が職を失い、むしろ家にお金を入れなくてはならない状況になった。 バイトを増やさざるを得なくなり、元々の飲食店のものに加え、短期の肉体労働の仕事を入れるようにしていたが、そう簡単な事ではない。僕はあまり器用な方でもないし、体力も人並みであったから、学業と労働と、どちらも両立させ続けるのにはすぐに限界を感じた。働いたために勉強ができず、成績が落ちれば、奨学金が得られなくなる。そうして更に労働を増やせば、今度は大学卒業すら怪しくなる。そんな悪循環の第一歩を踏み出すか否かの瀬戸際といったところで、その話は来た。親しくしていた友人の親戚の子の、家庭教師の話だった。 それは、口に出すのも憚られるほど金額の仕事だった。金持ちは家庭教師にここまで金を使うのか、なんて半ば呆れながらも喜んだものだ。ただ、内容を聞いてみると――これまでの人で続いたのが最長で二週間だという。これがまた、中々難しい仕事だということだ。
そんな話を聞かされていただけだったから、僕の中ではどれだけ気位の高いお嬢様なのだろう、などと想像を働かせていたのだが、目の前の彼女は、考えていた人物像とはかけ離れているようだった。 白いワンピースと大きなつばのついた白い帽子、という爽やかな出で立ちだったが、土埃で顔も手も服も汚れていしまっているせいか、はたまた手にしている大きなスコップのせいか、彼女という人間をどう判断していいのか、僕は分からずにいた。まさか、機嫌を損ねたら、あれを手にいきなり殴りかかってきたりはしないだろうか、なんてしょうもないことまで考えた。 「何してるの?」 考え込んだ挙句、結局口にしたのは何の変哲もない言葉だった。結論としては、何を考えても、先の予測なんて付けられるものではない。だったらありのままで行こう、と言ったところだっただろうか。 「穴を掘っているの」 僕の存在には既に気づいていたらしい。だが、気に留めるまでもない存在と見なしているのか、彼女は僕の方を見ようともしなかった。 彼女の目の前には、一応穴と呼べなくもない程度に土が掘られている。僕の腕を差し込めば、肘ぐらいまでの深さ程度であろう穴だ。 「何の穴?」 「落とし穴よ」 こちらは見ないが、問いかけには応えてくれるらしい。彼女は依然として穴を見つめたままだったけれど。 僕はと言えば、なるほど、おてんば系か、などと考えを巡らせていた。どう対処していくべきだろうか。危ないとか、服が汚れるとか、そんな一般的な理屈は受け付けてもらえないだろう。 「誰かが落ちたら、危ないんじゃないかな」 思案した揚句、結局のところ、そんな一般的な意見を述べることしかできずに終わったが。 「大丈夫。落ちるのはわたしだから」 彼女の答えは、予想の斜め上を行くものだった。 「……何故?」 「落ちる、っていう感覚が知りたいの」 そう言って、彼女は初めて僕を見た。まっすぐ射抜くような視線が僕の目を貫いたが、圧迫感はない。むしろ真剣さが切実に伝わるものであり、悪意が感じられないことから、僕はいくらか安堵した程だった。 「君が落ちることができる程の穴を君が掘るのは、不可能だよ」 正論、理屈、こういったものを素直に受け入れられる子どもは少ない。大人にだってつらいものだ。 「土がとても固くて、そう思っていたところ。だからどうしたらいいか考えていたの」 けれども彼女は、至極あっさりとそれを受け入れていた。その上で、違う方法を模索しているという。 その言葉を聞いて、僕は緊張なんか忘れてしまう程、すっかり面白くなってしまった。 「僕は子どもの頃、よく遊んでいて遊具から落っこちたりしたものだよ。滑り台の上を走ってったり、うんていで失敗したり、ジャングルジムの上で馬鹿をやったりしてね。君はそういう経験はないの?」 「公園で落ちるような遊びはしたことがないわ」 「じゃあ、今から行って、ちょいとジャングルジムから落っこちてみるとか」 保護者に聞かれたら初仕事の前に即解雇であろう、大人にあるまじき発言だ。僕は何を提唱しているのだろうか。 「それじゃあ、“飛び降りる”だけで、“落ちる”ことにはならない」 彼女もまた、それに真面目に答えてくる。既に考えていたことでもあったのだろう。 「じゃあ、遊園地なんてどうだろう? あそこなら落下する椅子だとか、ジェットコースターだとかで、落ちる時の浮遊感を味わうことができるよ」 「そんなものが、あるの」 少しばかり、彼女の心は揺り動かされたようだった。遊園地は話に聞いたり見たりしたことはあるが、行ったことはないらしく、親御さんは連れて行ってくれないと思う、なんて話にまでなった。それなら僕がこれから勉強をみていって、何ヶ月か経って君と僕がそれなりの成果を出せれば、ご褒美なんて名目で連れて行ってあげるよう親御さんを説得できるかもしれない、なんて皮算用な話までした。 彼女にとって、これはかなり魅力的な話のようではあった。けれども、それらの乗り物についての説明を聞いている内に、別の壁にぶち当たってしまったようだった。 「話を聞いていると、確かに落ちるようではあるんだけど……何かに“落とされている”ようで、それでは不自然な気がする」 確かにそれは、落ちるということを前提に意図して行うものであるから。理屈を言えばそうなってしまうのかもしれない。 頭を巡らせる。飛び降りるのでなく、落とされるのでなく。自然と足下が崩れて支えを失うように自然な、自由落下。 「……落とし穴だね!」 自然な帰結。純粋に落ちたいのなら、それが一番シンプルで分かりやすい。かかる労力は別としても。 「じゃあ、こういうのはどうだろう? 僕は君に勉強して欲しい。君は落とし穴が欲しい。僕が穴を掘っている間、君は勉強をするっていうのは」 彼女は僕をまじまじと見る。僕は、こいつは何を言っているのかと訝られているのでは、などと不安になってきたため、下が滑るように回る。 「もちろん、分からないところがあればすぐに訊きに来てくれれば説明するし、来るのが面倒ならよけておいて後でまとめて訊いてくれてもいい。課題はその都度僕が用意するし、君が勉強している間はしっかりと穴を掘り進めるよ。僕はそういった労働に慣れているから、そう時間はかからないと思うし」 彼女は何も言わない。ただ、よくよく見れば目を大きく見開いていて、訝るというよりは驚いている様子が見て取れたため、僕は落ち着こうと黙り、息を吸い込んで彼女の言葉を待った。 少しの間の後、彼女がためらいながらも口を開く。 「本当に、掘ってくれるの?」 「もちろん! あ、君が勉強してくれるなら、だけど」 「もちろん!」 僕の真似をするようにそう言ってのけて、顔をほころばせながら、彼女は両手でしっかりと僕の右手を握った。
それからの日々は、想像していたよりもずっと穏やかなものだった。 彼女は手に負えない問題児などではなく、打てば響く優秀な生徒だった。自然と疑問を持ち、それを素直にぶつけてくるので、こちらとしてもそれに応えるのがとても面白かったし、新しい課題を与えれば意欲的に取り組んでくれた。(ただし、後々分かってくるが、ここで僕が穴を掘るという選択をしなければ、彼女は落とし穴作りに邁進し、僕という家庭教師の相手など一切してくれなかっただろう) 親切といえば親切な家で、時間を見ていつも美味しい紅茶と高級そうな洋菓子を出してくれて、勉強の後(そして僕の労働の後)に休憩をとることができた。(彼女が勉強しているという事実があれば、僕が穴を掘っていようがかまわないらしい、不思議な家でもあった) そんなことで、僕と彼女はよく話をするようになった。 雑談の中で、僕はふと思った素朴な疑問を、彼女に投げかけてみた。 「そういえば、どうして“落ちる”感覚が知りたい、なんて思ったの?」 単純な好奇心だろうか、なんて考えていた。僕からすれば、落ちるという行為はどちらかといえば恐怖を伴うもので、進んで体験したいことではないことだ。 「恋、って素晴らしいものなのでしょう」 僕はこの時、話の脈絡が読めず、動揺して熱い紅茶をそのまま口に入れてしまい、吹き出しそうになるのをこらえて何とか飲み込み、舌に軽く火傷を負ったが、そのことを顔に出すことはなかったはずだ。彼女も気づかなかったのだろう。そのまま話を続けた。 「わたしはどうしても、それがどんなものか知りたいのよ。 恋についての色んな物語があるし、恋について語られることはたくさんある。よくわからないけど偉い人が、恋を知らない人生は不幸だ、なんていう言葉を残しているくらいだし。 でも、わたしにはよく分からなかったから、知りたいと思ったの。 人は恋に“落ちる”ものなんでしょう?」 僕は笑った。声を上げて笑った。彼女はきょとんとした後、少しばかり怒っていたが、僕の笑いが嘲るものではなく、単純に面白がって笑っていたのが分かっていたのだろう。無言でバシバシと背中を叩かれたが、特にそれについて文句を言われることはなかった。そして僕が、「それはとてもすてきだ。僕もやりがいがあるよ」なんて最後に言うと、もうひとつ背中を叩いて、彼女もくすりと笑っていた。
数週間の後、落とし穴は完成した。 彼女が酷い怪我をしないように、けれどもしっかりと“落ちる”感覚を味わえるように、穴は僕の身長を超えるほど深く、そして幅は身体のあちこちや頭をぶつけない程度に広くした。穴の底にはビニールで覆った布団やクッションを敷きつめて安全も確保する。僕自身も何度か試してみたが、中々悪くない落ち心地の穴が出来上がった。ビニールシートを穴の上に敷き、上手く土をかぶせて、申し分ない落とし穴の完成だ。後は彼女がこの上に立つだけでいい。 ついに決行、というその日も、とても暑かった。緊張のためか暑さのためなのか分からないが、目眩がしそうだったことを覚えている。 僕は固唾をのんで、離れた所から彼女が歩いてその上に来るところを見守っていた。 彼女がビニールシートを踏む。足をとられる。空を掴むように手が踊る。彼女の小さい体躯が僕の視界から消え去る。 彼女が、落とし穴に“落ちる” 成功だった。 僕は落とし穴に駆けよった。怪我をしていないかどうか、そればかりが気がかりだった。 幸い、傷も打撲もないようで、ほどなく彼女は立ち上がり、僕の手をとって穴から出ることができた。なんだか最初に会った時のように、彼女は難しい顔をしていたけれど。 「そうして、落ちた感想は?」 「口の中がとても苦いわ――ああ、恋って時には、苦いものでもあるんだっけ?」
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