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作品名:日落ち 作者:夏目晴一

最終回   1

 
 薄汚れた白いベンチに腰掛け、私の前を行き交う人々を意味もなく見つめる。そうした日々が一体いくつ過ぎていったことであろうか。


 腕に巻いた古臭い時計を見る。長針と短針がもうすぐ16時を知らせる。


 私は小さな町工場に囲まれた、あるいは工場自体が町をつくる様々な様相を寄せ集めているだけかのような町に住んでいる。昔に比べると町工場も随分と寂れ、工場から響いてくる鉄を打つような音はか細く、しかしながら私の頭の中に昔から津々と響いてくる。
 この町は時間の流れを時々止めているかのように思える。それはきまって夕暮れ方である。工場の灰色の塗装とそれの所々にかぶさる赤茶けた錆が沈んでゆく夕日に照らされ、何とも言い難い深い影をつくり町中を塗りつぶしてしまう。そんな時、よくよく耳を澄ませば静かに響く工場の作業音に紛れ、ぼそぼそと人の呟く声が四方八方から聞こえてくるのである。この声に気づいた当初、わたしは呻き声だと思った。だが、じっと声に神経を集中させるとこの声の主たちは何かしらの不満や愚痴、あるいは誰かの陰口を答える相手が居ないにも拘わらず、じとじとと述べ、町の壁や道路の上を這いまわらせている。
 赤黒く染まった夕時の町は、人々が苦痛に嗚咽を漏らすと同時に暗澹とした裏面を表へと変える。
 私は夕暮れが迫り、見えないところで町が徐々に姿を変え出す狭間が何にも代え難く好きである。

 ある時、いつものようにベンチに座った私の前を着物姿で身なりの整った夫人が通り過ぎた。横切るその人の顔をちらと見たのだが、青白い顔にある細いつり目は簡単には触れてはいけないものであるかのような気高さを表していた。そのような夫人の姿はこの町に馴染んでおらず、浮きだっているかのように思えた。私は通り過ぎた夫人の気高さと、何もなしに薄汚れたベンチに座りくたびれた木綿のシャツを身につけ、つま先の色の剥げた革靴を履いている自分とを比べて少しだけむず痒いような気持ちになったのを覚えている。そんな気持ちをかき消そうと日が落ち始めた町の中をふらふらと歩き、私はたまに古びた木製の電信柱に張られた広告に目を移したりしていた。そうこうしているうちに町の街灯にぼんやりとした裸電球の明かりが灯り始め、いよいよ夜が始まりを告げ出していた。私も一晩中彷徨い続けるわけにはいかないので帰路へとつくことにし、少し冷たくなりだした空気に身を震わせていた時分である。私からちょっといった距離の電信柱の側に、一人きりの影が佇んでいる様子が目に入った。じっと動かないでいる人影に近づいていくことに私の心臓は少しばかり張り詰めたが、それと同時にその影は一体何なのかと正体を暴こうとする下衆な興味を津々と湧かせた。そうしてついに影との距離が無くなった時、よくよくその正体を横目で暴くと、なんと先刻私の前を通り過ぎた着物の夫人である。街灯にぼぅと包まれている夫人の顔は俯き、紅が塗られた小さな口から覗いている白い歯がゆっくりギリギリと音をもらしていた。一体どうしてこのような所に佇んでいるのか、と私は周囲を見回したところでははぁと理解した。夫人のむかい側には年季の入った、台風が来ればどこかしらは崩れてしまうであろう古びた質屋が建っていた。そうして、夫人の手元を見ると着物を包んだようなものが抱かれている。その包まれた中身はきっと彼女のものであろう。そんな夫人の姿を見た時、彼女がそれを売らんとする理由も、また彼女の明るいうちに纏っていた気高さの存否といった何もかもが、今や私の頭の中に累々と流れ込んできていた。
 その時、俯いていた彼女が私の存在に気づき、はっと顔をあげ私と目を合わせた。すると青白い彼女の顔がみるみると紅潮し、私の目をぎりと睨んだのである。この時の私の顔はどのような表情をしていたのであろうか。きっとにやと笑っていたに違いない。全てが面白く感じられた。一体何がと聞かれれば答えることは出来ないに違いないのだが、その場から離れる私の足取りの軽さから考えると、私の感情が高揚していたのは明確な事実でなのである。
 

 びょうと生ぬるい風が吹き私の腕時計は16時を指した。

 私が今日の晩飯は何にしようかと考えながら、ふらとベンチから腰をあげた時に目の前を一人の小さな男の子が通り過ぎた。私の心臓はどきりとした。なぜならば、彼の腕の中にはぐったりとした猫が抱かれていたからである。おそらく車にでも撥ねられたであろう猫を抱く少年は、答えるはずもない猫に対して嬉々として話しかけている。彼には生も死も関係ないのである。
 きっと彼は家に猫を抱いて帰るであろう。その時、彼の親はどんな顔をするだろうか。想像しながら私は帰ることにしよう。


 今日も夕暮れ時が始まる。




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