食器を洗わずに、俺は電話まで歩いた。
休む為には、学校に電話しなければならない。
こんなシステムなんていらないとさえ思う。だが、入れないと親に言われてしまうのも何かと面倒だ。
俺は受話器を取り、学校の電話番号を押し間違えぬように押す。 カルカナは、そんな俺の後ろに立って不思議そうに見つめていた。 何度かのコール音の後、女の人の声が聞こえた。 俺は学年と名前を伝え、風邪だと言うと電話越しの教師が「お大事にね。」と言い、俺は返事をして電話を切った。
「さて。連絡も入れたことだ。部屋に戻る。」
「あ、はい!」
カルカナはにっこりと笑いながら俺の後ろをついて歩いた。 まるでカルガモの親子の様だ。 俺はリビングを出て、自室に足を運ばせた。 キンと冷えた指先は麻痺して、感覚がなかった。 そのまま階段を上がってすぐの自分の部屋のドアノブに手を掛けた。
ゆっくりとドアノブを回し、扉を引く。 いつもなら、俺の殺風景な部屋が見えるはずだった。
………だが、そこには真っ暗な闇しかなかった。
「え、なっ・・・?!」
俺は驚きドアノブから手を離す。 そんな俺を見て、階段に居たカルカナが俺の手を握った。
「どうかなさいました?」
「お、俺の部屋が…あれ?」
俺はカルカナに呼ばれ、一瞬カルカナの方を向いた。 そしてまた視線を部屋に戻すと、そこはいつもの俺の部屋だった。
「わぁ!ミカドは地上ではこのような部屋なのですね。」
「あ、あぁ…まぁ、何にもないけどな。」
カルカナは小さくお辞儀をして俺の部屋に入り、キョロキョロと辺りを見回す。 俺はカルカナの後に続いて恐る恐る入った。
……何なんだ。一体…。 さっきの真っ暗な闇は何だ?カルカナが笑っていたあの映像は何だ? そう言えばさっき、カルカナが言っていた言葉…。引っ掛かる。なんだ…?
カルカナは部屋のベッドの隣にちょこんと座った。 白い髪が床につく。腰よりも長い髪は傷みもしていないようだった。
地毛なのだろうか?
そんなくだらない事を考えながら、俺はもう一度カルカナの言ったことを思い返す。
カルカナ・リング・シスファンという名前。 俺と婚約しているということ。 光と闇の狭間で出会ったということ。
この子は一体何者で、どうやってこの家に入ったのだろうか。 窓も、玄関も、全て鍵を掛けているというこの家に。
俺の謎は深まっていくばかりだった。
さて、一体何から聞けばいいのだろうか。 やはり、どうやって入ったというところか? だが、婚約というのも気になるところだ・・・。
俺はカルカナの前に胡座をかいて座り、唸りながら腕を組んだ。 カルカナはおどおどしながら、俺の顔を覗いて来た。
「ど、どこか痛いのですか??」
「う〜ん…あ、いや、そうじゃないんだ。」
「そうですか…。良かった…。」
カルカナは、ほっとした顔で小さく微笑みを見せた。 ドクンと俺の鼓動が強く打つ。 トキめいた訳ではない。決して違う! だが、何故だかとても、コトバでは言い表せないほどの感情が俺の胸のうちにあった。
「カルカナ、取り合えず俺の家にどうやって入った?」
「はい、あちらから。」
カルカナは俺の部屋の壁を指差した。 壁…いや、ありえないだろう。普通。 先ほども言ったように、全ての窓や扉の鍵は締め切っていたのだ。
それもカルカナは窓ではなく、明らか壁を指差している。
壁を突き破った・・・?いや、すり抜けたのか? ・・・まさか、幽霊とかじゃぁないんだから。
「なら、今そこから出られるか?」
俺はじっとカルカナを真剣な目で見つめた。 カルカナはきょとんとした顔をして、強く立てに頷いた。
「はい、勿論です!」
カルカナは立ち上がり、トンッと軽く床を蹴った。 バレリーナが踊るような可憐さがその姿にあった。 何故だかその姿は、とても懐かしく、愛おしく感じさせた。 だが、そう感じたのも束の間。 次の瞬間、その感情は驚きへと変わった。
カルカナの白く長い髪の間から真っ白な翼が生えた。
俺は言葉を失った。いや、言葉が出なかったのだ。 美しいとも思えた。 その翼が俺の前をすっと横切り、バサッと一度羽ばたかせカルカナは開いてもいない壁に突っ込んだ。
「……あっ!!」
俺が危ないことを言う間もなく、カルカナはするりと壁の外に出た。
………ん?
壁は何とも無い。ぶつかった様な音さえしかった。
…なんでだ?
「ミカドー!これでいいですか?」
壁の外から俺の名を呼び、また部屋に入った。 勿論壁をすり抜けて。 俺は目を泳がせ、頭を手で支えた。
な、なんだ?一体・・・これが現実だというのか・・・?!
「幽霊…なのか?」
「違います!幽霊ではありません!!」
「だけど壁をすり抜けた…よな?」
「壁?あぁ!これは物体をすり抜けただけです!!」
「いやいやいやいやいや!!!そんなこと普通は出来ないだろ!!」
「ミカドも出来ますよ?」
「無理だ。それにその羽は何なんだ!!」
「光りの者は翼をお持ちなんです。」
「はぁあ?!なんでだよ!普通の人間には無いものだ!」
「ミカドには無いですね…。で、でも光りの者にはあるのです!!」
自信満々の表情で俺を見た。 光りの者ってなんだよ。翼が普通の人間にあるってのか? だが、実際問題。壁をすり抜けてみせたカルカナは人間ではないのだと、俺は確信した。
「〜〜〜!!あー……カルカナ、こっちに来い。」
訳が解らない。何なんだ。一体…。
カルカナは呼ばれるがまま俺の側まで、浮いた状態で近づいてきた。 そっと俺はカルカナの頬に手を当てた。 …あたたかい。生きている証拠だ。 あたたかい、それにすり抜けない。
じゃぁ何だ。本当に物体をすり抜けたと言うのか…?
カルカナはそっと俺の手に自分の手を重ね、愛おしい人を見るように俺を見つめた。 その姿を見ていると、何故だか俺の胸の内に何かがあった。
「あぁ…懐かしいです。いつもこの様にカルカナを癒してくださいましたよね。」
「…知らん。」
俺はカルカナの手の内からそっと床に手を置いた。 ・・・確かにカルカナの言うように、懐かしいと感じた。 俺の胸の内にあった感情は懐かしいという感情だった。 カルカナは少し残念そうに俺を見て、また俺の前に座りなおした。 ふとカルカナに目をやる。バサッと一度翼を動かす姿が目に入った。
「…お、おい。その羽…。」
「あ、邪魔ですよねっ。すみません。」
「いや、あの・・・触ってみて…いいか?」
「…は、はい…!」
カルカナは目をギュッと閉じた。カタカタと肩を震わせながら。
何故かは解らなかった。別に取って食おうなんて考えはもってはいない。 変な事をするわけでもない。ただ触れるだけだ。 俺はそっと翼に手を伸ばし、触れた。
それは紛れもなく本物だった。 あたたかく、そして絹のような触り心地。 とくん、とくん、と脈を打っているのが解った。
俺は何故か優しく翼を撫でた。壊れぬようにそっと。
「ミカド…?」
「なんでだろう。ものすごく…。」
・・・愛おしい。
何故か解らない。全く解らない。だけど、とても愛おしく、切なくなった。 胸をえぐる様な痛々しい程の何かを感じた。 胸が熱くなり、目頭も熱くなった。
ただ翼に触れているだけ。それだけなのだ。 なのに、どうしてだろうか。
・・・胸が苦しい。
「ミカド…!どうかしましたか?!」
「…あれ…。」
俺は知らずに涙を流していた。そう何故か解らぬ涙をポロポロと流していた。 カルカナは突然俺を抱きしめた。俺は翼から手を離した。 まだ成長しきっていないカルカナの胸は少し柔らかく、あたたかかった。 俺の鼓動が次第に早くなっていくのが解った。
|
|