20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:ヒロシ 作者:文吾

最終回   1
 近所のコンビニから戻ってきて携帯を見ると一件の着信と留守録があった。誰だろうと思って再生してみる。しかし一度では聞き取れない。どうも標準語ではないらしい。恐らく東北の方だと思うが、ひどい方言が混じっている。もう一度聞くと、男がヒロシと名乗るのと、コンニチハと挨拶する声、そして○○の件がどうのこうのという言葉が聞こえた。肝心の用件は相変わらずひどい方言のために聞きとれない。
 私はその殺害予告を聞き終わると怖ろしくなってすぐに着信履歴と録音を消してしまった。私にヒロシという知り合いはいないし、昔もいなかった。コンニチハなどと丁寧な言葉ばかり使っていたが、電話越しに感じる相手の態度はそれほど丁寧とは思えず、むしろ何かこちらを侮り、嘲るようなものを感じた。
 つまりは私という獲物を脅かして楽しんでいるのだろう。
 私は仕事の都合上夜に出歩くことが多い。幸い近くに二十四時間営業のスーパーがあるのでそこをよく利用しているために生活上の不便はそれほどでもないのだが、最近はそこにいった帰り道に背後からの視線を感じる。この電話の主とその視線の主が同一であることは疑いない。とすればその者は今も私を監視しているのだ。わざわざ私が近所に買い物に行くのを見計らって、携帯を部屋においてきたことまで確信した上で、直接話すようなことがないようにタイミングを計ってあの声を吹き込んだのだ。とすれば、ヒロシがこの部屋に潜んでいないとも言い切れないのではないだろうか。
 夜道で後ろから肩を叩かれた時のように、私は勢いよく後ろを振り向いた。幸いにしてそこには誰もいなかった。
 その夜は部屋中の人が入れるスペースに異常がないのを確かめ、戸締りをしっかりとして眠った。布団に入って二時間ほどは寝付くことが出来なかった。
 次の日は仕事だった。私を監視している何者かを考えると不安で仕方がなかったが、仕事自体は何事もなく終えた。帰りがけに、道で知らない男と目が合った。相手はすぐに視線をそらして去っていった。若い男だった。私はヒロシの声を思い出していた。あれはもっと歳の行った男だったはずだった。そうだ、電話の声を聞いたときには半ば動転していた所為で気が回らなかったが、あれは中年の男の声だった。すると今の男は単なる通り魔で、私は危うく難を逃れたわけだがそんなことはどうでもよく、寧ろ思い出したあの電話の最後の内容に戦慄していた。ヒロシは最後に「また連絡する」というようなことを言っていなかっただろうか。相手の素性を確かめようとするあまりに聞き逃していた最後の言葉だったが、これこそもっとも聞き逃してはならない言葉ではないか。
 一所に立ち止まることが怖ろしくなった私は早足で家まで帰った。鍵を開け、家に入るときも中を恐る恐る探りながらだった。自分の家でこんなことをしていると思うと滑稽な気もしたが、自己防衛のためにはやむをえない。家に入ると私は昨晩寝る前にしたように部屋中を検める。人が侵入した痕跡はないだろうか。ふと部屋の中のものの位置が変わったような気がする。私はしょっちゅう部屋を散らかしては放置するので、何がどこにおいてあるのか細かい配置を覚えていなかったので確実なことは分からないのだが、しかしどこか出かける前と違うような気がしてならない。昔の友人に部屋の中のものをセンチメートル単位でしっかりと固定していないと気が治まらないというやつがいたが、私もその友人を見習っておけばよかった。そうすればこんなことで不安がらずにすんだのだ。
 物事が二つに分かれて判断がつかない。そんな時に私はより悪いほうを想定することにしている。そのほうが最悪の事態となった時に戸惑いが少なくてすむ。恐らくヒロシは私がいない間にこの部屋を物色していることだろう。どの程度まで遠くに行くのかなどは私の服装ではっきり分かるはずだから、忍び込むタイミングを計るのは訳ないことだろう。私は盗まれたものがないことだけを確認して眠りについた。盗みという確実な形を残さないことで警察に届けるための証拠を残さないとは随分と周到な男だ。
 その日、人を殺す夢を見た。
 寝汗まみれで目が覚める。不安が精神を支配し始めても日常は変わらずに過ぎていくものだということがつくづく憎い。職場の上司はイイヒトだが、裏で何を言っているのか分かったものではない。今日もそいつの顔色を窺いながらミスをしないことばかりに注意を払って仕事をする。こんな毎日を送っていてはいつかきっと狂ってしまうだろう。退屈と好奇心は人を殺すが抑圧と虚飾は人を狂わせる。私はきっと狂うほうだろう。いっそ死んだほうがいいのかもしれない。
 ヒロシは今日も私のアパートにやってきていたらしかった。カーテンが出かけたときより少し開いているようだ。通帳や印鑑は今日から持ち歩くようにしたので盗みの心配はそれほどない。盗まれたところで深刻に困るのはその二つ程度なのだ。くだらない人間だろう。今日は冷蔵庫の中まで変わりがないか確認した。
 来るならば早く来ればいいのに、それをしないということは何か考えがあるのだろう。私は予告から時間が経ったからといって油断するほど甘くはない。常に敵からの奇襲を予想する程度の用心深さは持ち合わせている。それがなければ今日の日まで生きてはこれなかっただろう。ヒロシでなくても人を殺したい人間は街中にあふれている。人が人を殺すのに恨みがいらないのであれば、いつ誰に刺されてもおかしくはないのだ。事実、ヒロシは私と直接の面識がないのにもかかわらず私を殺そうとしているではないか。
 恐らく、アイツは私が眠っている間に殺しに来るのだ。不在の間に侵入できて寝ている間に侵入できないはずがない。とすると、眠るのは危険なわけだ。しかし、私のアパートは通りに面したところに入り口があるから、人通りがあるから恐らく朝になって人通りが増えればヒロシも堂々と入ることは出来まい。
 そう考えた私はその日から太陽が昇るまで起きていることにした。そうしなければ殺されてしまう。結局、寝不足になった私は上司に陰口を叩かれることになった。表向きは相変わらず笑っているが、裏でアイツが何を言っているかなど人に聞くまでもない。いっそのこと逃げ出してしまいたいのだが、それはそれで行く当てがないのだ。
 その日は玄関の前でヒロシが中を窺っているらしかった。私はあえて叫び声を上げて存在を殊更にアピールした。それは獣の威嚇にも似た痛々しい行為であったことだろうが、それでも私はそうせざるを得なかったのだ。ドアを開ければその瞬間にナイフが私の心臓を刺すのだから外にどんな者が立っているのかを確認する術などない。ナイフならばまだいいほうで、拳銃などを向けられればそれこそ一瞬で全てが終わってしまう。二十数年が一瞬で消えるのだ。こんなに怖ろしいことはない。
 いつもの半分ほどになった睡眠時間で、また誰かを殺す夢を見た。前回は一方的に殺すだけだったというのに、今度は争った末に殺した。最悪の寝覚めで仕事でもミスをした。そして精神は磨耗する。もしかするとこの職場の人間もヒロシの共犯者なのではないかと思えてきた。寧ろこいつらがヒロシに依頼したのだろうか。人が人を殺すのに理屈はいらないとしても、そのほうが一応世間の愚人が納得するほどの理屈は通る。ああ、それにしてもなぜ私は人を殺すのだろうか。誰を殺しているのだろうか。殺したいほど憎い人間など今はいないはずなのだが、それが不思議で仕方がない。
その日は寝なかった。ヒロシがいるのかどうかは分からない。一つ物音がすればそれが既に恐怖だからイヤホンと音楽で耳を塞いでいた。しかし、そこにヒロシがいなかったとはどうしても言い切れない。いや、必ず近くにはいるのだ。
私を憔悴させるのが奴の目論見だとすればまんまとそれに乗っていることになると認めざるを得ない。それくらいに私は衰弱していた。この一週間、睡眠は十時間ほどしかとっていない。今奴が来れば、私はいいように奴のナイフで陵辱されてしまうに違いない。それが怖ろしい私は友人の家に泊まった。彼は私の衰弱振りを見て精神病院への通院を勧めたが、私が従うことはないだろう。あそこの薬は人間の脳を破壊するから。
結局夜明けまで友人の家で過ごした私はその日仕事を休んだ。家に帰ると、友人宅で酒を飲んだこともあって泥のように眠った。相変わらず夢の中では人が死ぬ。もしかすると今夢で殺されているのは私で、私はヒロシになっているのではないだろうか。もうそれくらいに夢中での私の自我は曖昧だった。恐らく現実の感覚もそれくらいのものだろう。だからそろそろ仕事も首になりそうな気がしている。そして今日も誰かに見られている。私を殺すために、奴は常に機会を窺っている。
ヒロシがやってくる。


■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 353