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作品名:手紙 作者:文吾

最終回   1
「このように突然お手紙を差し上げる無礼をお許しください。あなたのほうでは少しもご存知のない女からこのような手紙が届けばあなたは気味が悪いとお思いになるかもしれません。いえ、キット思うでしょう。それが道理というものです。恐らく、今まさにその手紙をしたためようとしている私が言うのも妙ですが、仮に私があなたの立場であってもやはりいい気分はしないものと思います。それでも、他の手段であなたに近づく方法が思い浮かばないのです。私はあなたと対面したことがありません。ですから、どうして急に会いに行くなどという無謀な真似が出来るでしょう。無論私はあなたを知っているわけですから、あなたの姿を見たことは幾度もあります。時には街ですれ違うこともあります。実を言えば、肌が触れる寸前まで近づいたことさえ。もっとも、あなたの方では少しも思いの寄らないこととは思いますが……。思えば私が初めてあなたを見つけ、その眼差しの深いことに惹かれたのは先の春の日のことでした。ベンチで物憂げに佇むあなたを見た瞬間に直感しました。この人こそ、私の半身だと。……いきなり突拍子もないことを申し上げて驚かせてしまったでしょうか。どうか気を悪くなさらないでください。私の、あなたへの思いを誤解の無いようにお伝えしようとすれば、どうしても率直で、そのため飛躍しているように見えることもあるかもしれません。あなたにその気がないのでしたら、愚かな女の悪戯と思ってこの便箋を破り捨ててくださっても結構です。あなたにはそうする権利がおありですから。ただ願うことならば、中途で引き裂くことなく、最後まで読んでいただきたいと思います。さて、話をもどしましょう。あの時のあなたの顔には翳りが浮かんでいるように見えました。折りしも春、天気のいい休日の午後に、桜の木の下でベンチに座るあなたは、そんなのどかな光景の中にいるのに暗く、しかし全然不自然ではなく、屍肉を啜って咲く桜が落とす陰として初めからそこに落ちていたかのように、一つの絵画のように、そこに在りました。あなたのその顔に、もっと正確に言えばあなたに差した翳りに、私はある種の懐かしさを感じていました(この時あなたの顔立ちそのものに既視感を感じもしたのですが、これは後になってその訳が分かりましたので、その時のこととあわせて書くことにします)。無邪気に遊ぶ子供たちをその視界に納めながら、決して微笑ましさを感じているとは見えないその顔は、確かに私自身にも覚えのあるもので、つまり私もどこかで(あるいはその瞬間にまで)浮かべているようなものと見えました。そう、キットこの人は自分が生まれ持った性分について、どうにもならない、暗い障害を抱えている、キットそれは私と、いえ私の抱えるそれと同種のものなのだと一目で見抜かれました。あなたはキット社会的にそれなりに……一般に社会で一人前と呼ばれるほどの境遇にはあるのだろうと思います。ただ、あなたは恐らくその境遇を嫌って、憎んでさえいるかもしれません。これは同類だからこそ分かることかもしれませんが……。あなたはふとした時に、自分の顔に疲れきった、何もかもを諦めた表情を認めることはありませんか。私たちはキット押さえつけられすぎて、どんな表情を取るにもその表情が根底にあって、よく注意して見るとそれがふと透けて見えるのだと思います。だからこそ、私はあなたという半身を見つけられたのですもの。私は、あなたのそれに対して神秘すらも感じ取っていました。大げさに思われるかもしれませんが、ただ一人で鬱屈して生きている私にとって、あなたという存在は、その存在を知っているという事実だけで、人間を平等に愛してくれない神様が自分の気に入りの信徒に差し伸べる御手に、天の国への招待に等しく思えたのです。そこに感じるものが神性と、自身がその一部であるという栄光を閲した歓喜でなくてなんと呼べましょうか! 悪夢の途中に見つけた一条の光……あなたは或いは違うとおっしゃるかも知れませんが……確かに、全く私の思い違いだという可能性もありましょう。何せ私はまだあなたと直接に言葉を交わしたことがないのですから。しかし、私は間違いなく確信しております。あなたは私と同じ……生まれた場所と時間と、生みの親と、その上性別まで違いますが、人間が人間であることを決める最も深い根底の部分、心理の根とも言うべき部分で私たちは同じ根で繋がっているのです。その根は小さく、例えばあなたも恐らくは覚えのあるものとは思いますが、学校の教室に必ずいる、大抵の人間とは笑って話すことの出来る道化染みた人間が生えているそれとはまるで別の種から芽生えたものです。他の種に犯されかけている、弱い根です。だからこそ、私たちは惹かれあい、恋しあう……そうして鬱々として決して楽しむことのない日々を生きながら、同じように小さな、か弱いものに近づき、一つになることばかり願って生きる私たち……なんだか自嘲めいた話になってしまいました。この辺で止しましょう。話が進められません。私はこの手紙を、一つはあなたに私を知ってもらうことと、もう一つ別の目的を持って書いているのですから……。さあ、そうしてあなたを見初めた私は、実は何にも出来なかったのです。ただあなたのお顔にしばし見とれていただけで、あとは声をかけることも、それ以上あなたを観察(言い方が悪くて申し訳ありません)することも出来ずに、逃げるように立ち去りました。今思えば、あの時声をかけていればどれほど楽だったか! そうすればこのような手紙を出してあなたの疲れた精神を余計に煩わせることもなかったでしょうに、ただただ自分の意気地のなさを恨むばかりです。でも、言い訳を許していただけるのならば、あの時の私は感激で気が動転していたのです。私は醜い一寸法師のように孤独で、気の狂れんばかりの永い永い時の道をただ一人歩くのみで、自分と同一の性を持った存在と巡り逢えるなどとは考えたこともなかったのですから! もっとも、その感激も自室に戻って冷静になると消えうせてしまいました。何と言っても、私はあなたをほんの二、三分しか見ていないのです。たとえもう一度会うことを願っても、そううまくいくことが期待できるでしょうか。ポジティブ、などという言葉からは縁遠い私ですから、その夜は自分の行動の軽率さを悔やんで、もうあなたに見えることのできなくなる可能性に絶望すらして、夜一夜泣き晴らしました。どんなに苦しくたって、あんなに泣いたことは無いかと思われるほどです。どれほど拭っても涙が後から後から溢れてきたことなどは、私の半生でこの時だけでした。しかし、それほど酷く落ちこんでも、私はあなたを諦めきれませんでした。例えて言うならば、それは自分の腕を事故で失ったものが現実を受け入れがたい心持ちに似ていたかもしれません。私はどうにかあなたを見つけ出そうとして、次の日から昼の日差しの中あなたを探して街中を歩きまわりました。もっとも、あなたは昼間にはあまり出かけない人だと後で知ることになるのですが……。初めてあなたをお見かけしたのが昼下がりですから、そのくらいの時間帯にばかり熱心に探していました。あんまり落ち込んで私の頭はどうにかなっていたのかもしれません。だって、あなたと会ったのは休日なんですから、休日と同じ時間帯の平日に、同じようなことをしているはずがありませんものね……。間違いに気づいた私は、また自分を嫌悪して、それから方策を考えました。結局、探す時間帯を変えようと決めたのです。あんまり範囲を広げるとかえって会えなくなるかもしれませんから、変えるのはあくまで時間だけでした。朝、夕、夜……学生の多い時間帯には鳥肌が立つのもこらえて、必死に記憶に残るあなたの顔を探して彷徨いました。傍から見れば、さぞかし滑稽に見えたでしょうね……。そんな苦労の甲斐があったのか、数日するとあなたを見つけることができました。朝の、割に早い時間にお出かけになるのですね。私も昔は人通りの少ないその時間が好きだったので、あなたとの些細な共通点を見つけて嬉しく思っていました。あなたの姿をこの目に見止めた、その時の私の感激は言葉ではとても言い尽くせません。私は、背筋に、氷でも突きこまれたような戦慄を感じ、でも、次の瞬間にはもうそれは暖かい安堵と感動にとってかわりました。この時に数日前、桜の咲く公園でお見かけしたあなたに感じた既視感の原因も分かりました。私の通っていた高校に行くためにはあなたも使うあの駅から電車に乗らなければならないので、以前はあなたの通る道を私も歩いていたのです。つまり、私があなたをはっきりと認識する以前に、私たちは巡り逢っていた! 普通なら、間違いなくただすれ違うか、顔を見かけるか、いずれにしても一つの個人としてではなく朝の光景の一部として、背景として記憶の片隅にも留まらないような関係であるはずの人を、私の頭が、脳が、心臓が、魂が覚えていたという、この奇跡のような事実が私にどれだけの喜びをくれたか、あなたにもお分かりいただけるでしょうか。私は恐らく、あなたをはっきりと意識する以前から、己の半身としてあなたに惹きつけられていたのだと、その時はっきりと自覚しました。自覚することで、なおも一層私はあなたを求めました。あなたに声をかけようか、かけまいか……内心を正直に申しますと、私はあなたと抱擁を交わしたいという衝動に激しく突き動かされておりました。……しかし、あなたはその時出勤のご様子でしたから、ご迷惑になってはいけないと逡巡するうちにもうあなたは私の視界から消え去っていました。そのときの私は慌てて、酷く狼狽して、まるで親にはぐれた子供のようだったのではないかと、今思い返せば恥ずかしい限りです。それから、まだそんなに離れているわけがないんだからと思い直してすぐさまあなたの消えた方へ走りました。案の定、私にとって非常に幸いなことに、あなたのお姿はすぐに見つけることができました。その時あなたと似たような背格好の人が幾人か道を歩いていましたが、私は背後からでもすぐにあなたと分かりました。お顔が見えなくてもあなたを見つけられたことが嬉しく、私は少し恍惚としていたようです。いたようです、というのはこの時私は何も考えずあなたの後姿をうっとり眺めながらあなたの後について、あなたの勤務先までついていったのですが、それに気がついたのはあなたが入り込んだビルに危うく一緒に入りそうになるのに気付いたところで、それまでの道程はぼんやりとしか記憶に残っていなかったからです。正気を取り返した私はすぐにその場から離れようと、来た道を引き返しました。私の服は、オフィスの並ぶああいう場所には不釣り合いなもので……目立たないような服にしようとも思ったのですが、私はすっかりあなたとお話してこの胸の内をお聞かせしたいと思っていましたから、あんまり地味で、野暮ったい格好ではいけないかしらと変な気を起していたので……それでも、目立たないことと見栄えが悪くならないことを両立させる努力はしたのですが、やはり何か落ち度がないか、いや、キット何か見落としている見苦しい点があるに違いないと思うと羞恥の念が抑えきれずに、ほとんど走るようにして逃げ帰りました。自室(あなたのいない空間のうちではこの部屋だけが私にとって安息の場所なのです)にまで引き返すと、しばらくはあなたを再びこの目で見ることが出来たことの喜びに打ち震えていたのですが、そのうち段々とあなたにもっと近づくにはどうすればいいのかを考え出しました。恐らく今日と同じようにあのあたりを捜せば、会うことはたやすく思えました。実際、この手紙のような回りくどいことで初めてコンタクトを取ることになったのはすべて私の臆病さが招いたことで、声をかけようと奮ったことのない勇気を奮えば、声をかける機会はいくらでもあったのですから……。しかし、私は勇気を出すことが出来ず、あなたのお仕事の障りになってはいけないからと理由をつけてあなたに声をかけるその時を先伸ばしにすることを決めました。この先あなたのことを少しでも知ればもっとふさわしい時が来るはずだからと……。本当に申し訳ないことをしたと思います。この際ですから洗いざら懺悔いたします。私はその日以来毎日あなたをこの目で見続けていました。初めの頃こそ罪悪感を覚えていたのですが、段々とあなたのことを知ることが嬉しくなってきて、その喜びがいつしか罪悪感を押しつぶしてしまいました。いずれ……この手紙をあなたが読み終えた時よりもっと後に……機会が来れば、私はキットこの償いをするでしょう。方法は、あなたの思うままに……。ただ一つだけ知っていただきたいのは、私がこれを悪意ではなく、すべてあなたを思いやって行ったのだということです。私たち……私やあなたのような人間が……ただ一人でこの世にあったところで、ひたすら苦痛を受けるだけでしょう。それなら、同じもの同士一つになっていた方が必ず幸せでいられるはずです。いいえ、本来であれば、私たちは、あなたも私もまだ顔を見たことのない、しかしこの世のどこかで私やあなたと同じ苦しみを感じている人々も、心底に生える根を辿れば一つだったはずなのに、生き物の進化の過程でいくつにも分たれてしまいました。それがまた一つに戻るのは、自然なことでしょう? たったこれだけでは、あなたはなんのことかお分かりにならないかもしれません。もっとも、理屈で納得できなくとも、想像の羽を広げていただければ、キット感覚でお分かりになると思いますが……。しかしこれを延々と語ることはこの手紙の本旨ではありませんから、この辺でひとまずこの話はおしまいにしたいと思います。さて、次の日に私はまたあなたを探し、見つけるとこの日はあなたの乗る駅から先にはついていかずに、お金を持ってこれからの準備を始めました。……と言っても、街中を歩くのに都合がいい服を買っただけでしたが。店にいる間中(服屋の店員は大概私と性質が合わないようなので)酷く苦しかったのですが、耐えました。あなたに近づきたい――それを考えるだけで、大抵の苦難は意味をなさなくなるように思いました。一日かけて服を一式そろえると、もう私はへとへとで、すぐにでも眠りにつきたかったのですが、あなたのお住まいを一目見たいと思い、瞼をこすりながら朝も訪れた駅に張りつきました。夕方から、四、五時間はねばっていたはずなのですが、あなたの姿はついに見えませんでした。まさか、見逃してしまったのかと酷く落胆してその日はもう帰りました。恐らく、実際には私が帰ったその後に、終電か、その前の電車に乗って来られたのでしょうけど……。ところで、この数日前に、私は親に無断で通っている学校に休学届けを出しました。受理されませんでしたが、今までずっと無視しています。ただ、その届けを出したその日に担任が母に知らせ、当惑した彼女が父に知らせたらしく、いつも通りあなたを探していた私はその時家に帰ると親から呼びつけられ、こっぴどく叱られました。私の母は少しおどおどして頼りないところはありますが、それでも私のことを思って分かりもしない私の話を聞こうとする優しい人です。しかし、父はそれとは対照的に非常に厳しく、古臭い道徳観念を律儀に守って、そこから外れるものを徹底的に許さない人なので、私に対してはおおよそいつでも怒るか気を悪くするかしているのです。そんなものですから、父の叱責などは今更私になんらの改悛も起こさせないのですが、それでもやはり、あの人のしゃがれた恫喝じみた大声と、私という人格を徹底的に否定するその物言いに晒されて良い気分のするものではありません。声は、これは幼い頃から生理的に受け付けなかった上に何度となく聞かされて嫌いの度合いがいよいよ増したもので、いつもであれば恐らく父が本来私に聞かせたがっている話の内容よりも私に苦痛を与えるのですが、今回は違いました。あの人の話す言葉こそが私の神経を逆なでするのでした。原因を求めれば、一重にあなたのことが絡んでいるから、という一点に尽きるものと思います。その時(この手紙を書いている今現在もそうですが)の私の一番の問題はあなたと結ばれることでしたから、元々数えるほどしか通ってない学校のことなどはどうでもよくなっていました。だって、学校の煩わしく騒々しい空気の中では落ち着いてあなたのことを考えることも出来ないでしょう? ですから、休学どころか退学を申し出ても構わなかったのですが、父は女でもそれなりの教養は絶対に必要だ、と常々言っている人なので(その割にさほど学力の高くないお嬢様校出身の母と結ばれているのが欺瞞のように思えてなりません)絶対に許容できないようでした。私は、女や男などは関係なく、分かたれた同胞と巡り逢って一つに溶け合うことが人間にとって至上の幸福だと固く信じているのですが、あの人には分からないようでした。もっとも、父と私が分かり合えたことなど、私の記憶に残っている限り一度もありませんでしたが。あなたは感じたことがあるでしょうか。燦然とした白い光の中で、その光に育まれ、その光を慈しんで生きる人間の存在を。そして彼らとは対照的に万物を照らし、人間には恵みを与えるはずのその光に焼き殺される自分を。私は、あの男を見るときに(それは私と物理的に一番近いところにいるのがあの男だからというあまり認めたくない理由によるものです)最も強くそれを感じます。彼らは私たちを傷つけ、私たちによって胸中を不快に染め上げられる、真に不毛な輪を描いているように思えてなりません。ともかく、私は父の言葉に散々打ちのめされて母に庇われながら逃げるようにして自室に引き上げ、父は私を汚物でも見るような目で蔑みながら不快感を隠そうともせずに私を見送り、その夜はそれで終わりでした。こんなことがあったからでしょうか。その日、寝つきが悪い私には珍しく数時間も服を選ぶのに費やしたことや、あなたの帰りをお待ちして立ち続けていた疲れで床に入ってすぐ眠りについたのですが、体を大きな刃物で真っ二つに断ち切られる実に恐ろしい夢を見てしまいました。あなたを迎えられなかった落胆に、父から受けた嫌な言葉の記憶が重なってあんな夢を見たのでしょう。父は、従えば私が永遠にあなたに会えなくなるようなことを無理強いしてきましたし、その上一日の終わりにあなたを見ることが出来なかったことも私にはショックでした。だって、あなたに会えないことはつまり、体を引き裂かれるのと同じですもの。もっとも、こんな父親(この言葉を使わなければいけないことが既に嫌なのですが)と暮らすのも、もうじき終わりなので、今は以前ほど気にしてはいません。やはり、父は私を根本的なところで受け入れられなかったようです。次の日、じっとりと目を覚ました私は、シャワーを浴びて汗でぐっしょりと濡れた全身を清め、身支度をすっかり整えて朝から駅であなたを見送りました。服をそろえてもまだうまく……その辺の人に怪しまれないかと……いえ、言い訳は止しましょう。私は人の多い所が極端に苦手ですから、電車に乗って、あなたの赴くオフィス街に繰り出す勇気が出なかったのです。初めて行った時は、一種の酩酊が助けてくれていたのです。とにかくあなたを見送った私は今度は逆に出迎えるべく、夕方にまた駅であなたを待ちました。時刻表をよく眺めて、前の日に私が引き返したよりもっと遅い時間に電車があるのを確認すると今度は終電までねばろうと心を決めました。改札を出る人の顔を一人も漏らさず確認しようと、目を皿のようにしていました。それも終電の時間帯まで来ると続けるのが苦しくなっていました。少し人が途切れた隙に目をこすったまさにその時あなたが現れました。一瞬見間違えたかと思い何度も確認しました。それでもほんの数回でしかと心に刻みつけたお顔を見間違えるはずもなく、私の視線などはまるで気付かずに家路につくあなたを急いで追いかけました。ただ、朝早くお出かけになってそんな時間まで働きづめなら無理のないことでしょうけれど、酷く疲れて見えたので、やはり私はここでも声をかけることはできませんでした。あなたが自宅に入って、薄っすらと明かりがつくのを見届けるとその日はそれで帰りました。あんまり暗くて道順がなかなか分かりづらいことに気づいたので、次の日にはメモをとってあなたの家と、駅と、それから私の家を結ぶ簡単な地図をこさえるように決めました。白状しますと、この時疲れ果てたあなたを介抱するという下心というか、妄想を抱いていました。馬鹿げた話ですが、あなたに思い切って近づくよい方法に思えたのです。その日、部屋に帰ると私は読みかけのまましばらく放っておいた本の続きを読みました。あなたは何故このようなことを話すのかを不思議がるかもしれませんが、その本の一説に記された海外の御伽噺を知ったときの私の感動はキットあなたにも分かってもらえるものと思って書くのです。その本は物語ではなく随筆の本でしたから、その御伽噺はあくまで彼女の話の一部として取り上げられていたに過ぎないのですが、とにかくその筋書きがものすごいのです。それはおおよそどんな国にも作家にも聞いたことのない究極的な純愛、真実の愛の物語でした。私はまだそのお話の筋を知っているだけですし、これから読むこともキットないでしょう。そのエッセイによれば、本来のストーリーは非常に象徴的で、愛というテーマからはかけ離れた読まれ方をしているものらしいので。もったいぶるように長々と前置きをしてしまってごめんなさい。紹介します。その御伽噺というのは、王様とお姫様が斬殺されて、その血肉を混ぜ合わせて溶け合って一つの小人になるというものです。一つに! 人間の愛にこれ以上の形態が果たして存在するでしょうか? お互いの体を束縛しているありとあらゆるしがらみを振り切って、血と肉のみが溶け合った時、幸せな恋人達の精神は魂となって交合し、比翼の鳥にも連理の枝にも劣らぬ一つのモノとなって……二人はなくなって、一つになって死ぬのです。私の考えをあなたは気持ち悪いと思いますか? 愛しあう者二人がお互いだけのために自己を消滅させあって相手と一つになって相手になる……無論、永遠の愛を誓う二人はお互いに相手の全てを受け入れるのです。義務ではなく、それは摂理とも似た絶対の約束です……あなたはその安逸の揺籃を否定できますか? 私はその場所であなたとともに眠りたいと願うからこそこの手紙を書くのです。あなたと私が一つになる、その第一歩として……。次の日からは、おおよそ今まで書いたことを繰り返していました。二、三日に一度あるかないかの頻度ですが、あなたと同じ電車に乗ってあなたの会社を見に行くこともありました。もっともこれは非常に体力気力を無くすのですが、苦痛しか生まない勤めに赴くあなたを思い、必死に耐えていました。お昼休みに一人でコンビニで食事を買うあなたの元に駆け寄って行きたくなることもままありました。もし、もし仮に私があなたにもっと近づけたのなら、あなたにそんな惨めな思いは決して決してさせはしないのにと思うと口惜しくてなりませんでした。私はあなたを支えることはおろか、触れることすら躊躇って踏み出すことの出来ない臆病な小娘だという現実が、痛いくらいに理解できました。いっそ、あなたの元に駆け寄って、その腕を取ってどこか遠くへ……誰も私たちのことを知る人の居ない場所へ連れ去ってしまいたいと、愚にもつかない空想を抱きさえしました。もっと近くへ……あなたの孤独を塗り替えるほどの距離に……あなたを見ているとこのような衝動がたびたび起こって、そのたびに必死に抑えつけました。私は自分を上等な人間だとは思っていませんが、それでもそんなことをすれば頭がおかしいように見えるでしょうから。ただ、一度この抑制を誤ったことがありました。あなたを追いかけるうちに、あなたがよく行く店を私も自然に利用するようになりました。あなたが手をつけて、少し迷ったあと棚に戻した商品を買うようなこともしました。その時もそんな風に、あなたが大体はそこで買い物するスーパーで、例の衝動が湧き上がったのです。夜中のことでしたから、人はそんなにいませんでしたが、無論憚るべき所であることは変わりません。ただその時は、周りにあんまり人がいないものですから、つい魔がさして、あなたのそばに――腕を少し動かせば触れてしまうような距離まで、近づいてしまったのです。ほんの少し、あなたに気取られないようにチラと、しかしこれまでにないほど近くであなたのお顔を見た時の私の昂揚! あなたはさして気にも留めることなく離れていきましたが、私はあなたに不審がられはしないかという緊張とあなたのそばで、今までで一番近いところであなたのお顔を見ることが出来たという喜びに、津波のように心をかき乱されていました。一つの器にモノすごい勢いで水を流しいれたような、そんな感覚でした。どれだけこんな日々を繰り返していたのか知れません。あなたがお休みの日にはあなたのお家のそばをうろついて、何かの用事であなたが出て来たりすることはないかと、期待を膨らませているのが常でした。たとえ食べ物とお酒の心配がない時は大抵は家から出ないで、買い物も通販で行うことがほとんどだということを知っても、あなたのお顔を見る機会、可能性がゼロでないならと、晴れの日も雨の日もあなたの家に通い詰めていました。周辺を散策することもあったので、あのあたりの地理はもうすっかり頭に入っています。もっとも、私がいない間にあなたが部屋の電気をつけたまま出かけて、帰ってくるまで気づかなかったというようなこともありましたが……。さて、私があなたにどのように想いを寄せていたか……それは、もう今まで書いたことでお解りいただけたかと思います。ずいぶん長く書いた上に、途中で話が横道に逸れることもあってあなたをいらつかせてしまったかもしれませんが、かえって私のことを知っていただく上では丁度良いとも思いましたので、敢えてその部分を削ることなく残しました。普段手紙など書く機会がないものですから、何度も文が乱れ、その都度書き直して、それでもまだこの手紙の第一の目的、つまりあなたに私のことを知ってもらおうというものが十分に果たせているとは思えません。筆でしたためる言葉は、口や体で示すことの十分の一も伝えられません。私に文才がないからでしょうか。それとも、元々私にはそういう表現が合っていなかったというだけのことでしょうか。あなたと直接に会って、話をする勇気が私にあるのなら、こんなにもどかしい気持ちは感じずにすむというのに……。それに、私の非才の筆をこれ以上どのように振るっても、キットあなたを焦らすだけでしょうから、ここで止めます。さて、先にも書きましたが、この手紙にはもう一つの目的があります。これはあなたへの一つのお願い、それも私の心情からすれば嘆願とでも言うべき切実な願いなのです。単刀直入に申し上げることにします。私と会っていただけないでしょうか。この手紙を読んで、もし私という人物に少しでもそのような情を起こしていただけるのでしたら、非常な幸福と思います。ただ、できる限りあなたに真実のところをお伝えしようとしたためにかえってあなたにとって不愉快となる部分もあったと思います。ですから当然あなたにはこの願いを拒絶する権利があります。私も、まったく現実が見えていないわけではありません。常識で考えれば、こんな手紙を真に受けてはいただけないでしょう。ただ、夢想と言われようとロマンティシズムと言われようと、私は行動せずにはいられなかったのです。あなたと私はキット一つになるべくして出会ったのですから、これを果たせずに残りの生涯を生きていくことは、私の肉体精神が耐えられないように思うのです。無論、それはあなたにも言えることで……。もしも、あなたが私と会っていただけるというのでしたら、この手紙に約束の場所と、日時を書き込んであなたのアパートの一階にある集合ポストのうち、一〇六号室のポストに朝お出かけの際にでもお入れください。あの部屋は誰も住んでいませんし、管理人さんも月に一度、月末に広告を片づけるだけです。あなたのご希望の通りにその時その場所でお待ち申し上げています。この春まで決して入居する人はいませんから、三月の終わりまで、あなたからのお返事があることを願っています。勿論、拒否なさるなら、一切を無視していただいても構いません。もしも、あなたがこの願いに応じてくれるというのでしたら、私にとってこれ以上の幸運は、喜びはありません。たとえその時にあなたが私に断罪を望んだとしても、あなたの言葉が私に向けられるというその事実はキット私の心を救うでしょう。ましてあなたのお考えが私と同じであるならば、それより他のことはもう何もいりません。陳腐な言葉ですが、本当に、私たちが一つになれるならそれ以外のことは全て些細な俗事と成り果てるでしょう。それはあなたにも分かっていただけると信じています。私はひとまず、春までにあなたがどのようなお返事を下さるかを待ちたいと思います。初めに思っていたよりも随分と長い手紙になってしまいました。最後まで読んでいただけたのなら本当に、感謝の言葉もございません。まだあなたにお伝えしたいことは大いにありますが、ひとまずここで筆を置こうと思います。この便箋に書ききれなかったことをあなたと直接にお話しできる日が来ることを願って……。最後に、これから始まる長い冬であなたがお体を壊されないことを祈ります。あなたの半身より」


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