遠い昔、まだ神々が生きていた時代のことです。美しい少年がありました。その肌は雪より白く、朱の差した頬も美しく、笑うとまるで太陽のように感じられました。 そのことが父親のダイダロスは大きな悩みの種でした。というのも、ダイダロスはイカロスの父親とは思われないほど醜かったからです。ダイダロスは息子の顔を見る度ごとに、どうして自分からこの玉のような子が生まれたのだろうと苦悩したのでした。また、ダイダロスは細工の巧みなことで知られていましたが、職人の子供と言うにはイカロスはあまりにも美しく、そのこともまたダイダロスの憂いを生んだのです。 親子は今、牢獄の中にいました。ミノス王の怒りに触れて幽閉されたのです。かつてはミノス王のために壮大な迷宮をこしらえたダイダロスでしたが、もはやその寵愛は影も残さず消えていました。 塔の形をした牢獄は入口の門が一つ、それから、人の手の届かない高い所に窓が一つあるきりでした。二人が逃げようとしても、門の前にはミノス王の手下が二人を逃がすまいと昼も夜もなく見はっているのです。 しかしダイダロスは諦めませんでした。ミノス王がどれほど広大な大地を支配しようとも、空までは支配出来ないだろうと考え、塔の上にある窓から抜け出すことを思いついたのです。 ダイダロスたちにはとても細工を作る道具などは何一つ与えられていませんでした。しかし、ダイダロスは窓から迷い込む鳥たちの羽毛と、毎夜渡される蝋燭の蝋とで翼を作ることを試みました。イカロスはそれを手伝って羽を集めてまわったり、蝋の溶けるのを面白がって父の仕事の邪魔をしたりしました。そんな我が子を見るダイダロスの頬には知らず知らずのうちに笑みが浮かんでいました。 やがて二対の翼が出来上がりました。イカロスはこのことを無邪気に喜んで見せましたが、ダイダロスの方は万事がうまくいきすぎていることに不安を覚えずにはいられません。それでも時間が経って見張りにこの翼が見つかればただでは済まないのを知っていたので、すぐさま逃げ出す準備に取り掛かりました。 ダイダロスはまず、自ら翼を背負ってその出来栄えを確かめてみました。それはまったく見事なもので、この仕事を成功させるのに何の不都合もないように思えました。そうしてダイダロスは再び地に立つと、今度はイカロスにもその翼を背負わせてやりました。その時、初めてこの無骨な男はイカロスの肌の白さ、そのあまりに妖しい艶やかさがもたらす戦慄に気がつきました。翼が持つ純白の羽よりも、その羽を固める蝋よりも白い背に翼を与えることが、ダイダロスにはとても不吉なことのように思えました。彼はその不吉な気持ちを紛らわせるつもりで、イカロスに 「イカロスよ、空を飛ぶにはあまり低く飛んではいけないよ。意地の悪い霧たちがお前の羽ばたくのを邪魔するだろう。また、あまり高く飛びすぎてもいけない。太陽は、あの高慢な天体はきっとお前の翼を焼かずにはいないだろう」 という教訓を与えました。イカロスはそれを真剣な表情で聞いていましたが、その心は既に久方ぶりに見る蒼空の上にあったのです。 ダイダロスは、最後にイカロスにこの脱出がうまくいくように祝福の接吻を与えました。 こうして、親子は空へと飛んだのです。 先を行くダイダロスと、その後ろを少し遅れながら飛ぶイカロスは、地上にいる人々の目からはまるで神の使いのように映りました。二人は雄大な山々と、美しい海と、懐かしい人の街とを眺めながら飛びました。しかし、それらにもましてイカロスには頭上に燦然と輝く太陽の方が美しく、懐かしく、近しいものに感じられたのです。ダイダロスはその恍惚とした表情から、イカロスの内心に芽生えた危うい感情を知りましたが、しかし彼はその感情をどうにかする術を持ちませんでした。イカロスが、 「お父さん、僕には、なんだかあの太陽がまるで友達のように感じられるのです」 と言っても、それをどうすることも出来ないでいたのです。 ダイダロスは思案に暮れました。ひたすら無心に羽ばたき、俯いて眼下の大地を、海を見ていました。彼がそうして我が子の心配をしている間に、イカロスと父親は遠く離れてしまいました。 イカロスは父親を見失って途方に暮れていました。未熟な、細い彼の腕では父親ほど速く飛ぶことは出来なかったのです。父を探してあちらを飛び、こちらを飛びしているうちにとうとう自分が今どこを向いているのかも分からなくなってしまいました。空は晴れているのに鳥の一羽もなく、彼はしるべのない空の道中で、泣きそうな顔で天を見上げました。 そこに坐した太陽は実に堂々としていて、天下の総てを見渡す彼ならば父の居所を教えてくれるように思えました。この太陽のような笑みを浮かべる少年は、太陽に対して不可思議な親近感を持っていたのです。 イカロスは力を込めて羽ばたきました。何度も何度も羽ばたいて、遂には雲をも越えました。雲は初め、イカロスが人間であることに気がつきませんでした。万事に鈍感な、ただ風に流されながら自由に飛ぶ鳥たちを羨むことだけに日を費やす雲はただ、随分と高くまで飛んでくる鳥がいたものだと思っただけでした。やがてイカロスが彼に近づいて、その姿形が人間であることを認めても、雲はさして驚きませんでした。地に這うはずの人間が自分より高い所を自由に飛んで、しかも自分に目もくれようとしないことに少しだけ不機嫌になり、それが驚きに勝ったのです。まったく、この雲に許された自由と言えば、ものを見聞きするか、僅かに手を伸ばすことの他になかったのですから。イカロスの姿が見えなくなると(雲は地上を見下ろすことばかりしているのでイカロスが雲より高く飛んでいくと視界から消えてしまうのです)もう興味を失って、また漫然と地上を見下ろすことに専心しました。 太陽にとって翼を背負った少年はまったく意外な来客でした。それも当然のことで、彼の元に来るのは神々の、その中でも特に彼の力に依らなければならない訳ありの者ばかりだったのです。この偉大な天体は、偉大であるがために傲慢で、尊大で、万象を照らして余りある自らの光によって絶えずその偉大さと、傲慢さと、尊大さと、そして美しさを見せつけていました。その大いなるプライドの源は、この世に己以上に美しいものなどないという強大な自負なのです。そうして彼は毎日大地を照らし、たまに気まぐれを起こしては雲たちに自分を隠させたりして暮らしていました。つまるところ、彼は、孤独だったのです。無論彼はそんなことを自覚してはいませんでしたが、しかしそのために彼はこの美しい少年の接近を許したのです。 イカロスが口を開くのに先んじて、太陽は少年に問いました。 「人の子が、偽りの翼でどうして私の元へ来たのだ?」 瞬間、それまで涙を眼の端に湛えていた少年の顔に、例の、太陽のような笑みが咲きました。目の前に坐す大いなる存在に声をかけてもらえたことが彼を笑顔にさせたのです。 「ああ、太陽よ、この天上に坐す最も偉大な天体よ、あなたの万象を見渡す目を以って、私の父を探し出して欲しいのです」 「何、父親を」 「はい、父も現在、僕と同じ蝋の翼で空を飛んでいるはずです。僕は、父とはぐれてしまって、鳥の一羽も飛んでいないこの空で頼れるものはもうあなたをおいて他にないのです」 太陽はしばし考えました。空を飛ぶ者を、それも翼を背負った人間などという目立つ者を見つけるのは彼にとって訳もないことでした。しかし、彼はそのために自分に語りかけてくる目の前の少年に、心の奥底で、良くない感情を抱きました。彼にとって人間というのはちっぽけなものに過ぎなかったので、それを探してくれなどと、当の人間が頼み込んでくることは、不遜以外の何物でもないように思えました。 しかし、そんな考えを阻んで一抹の同情をこの天空の主に抱かせるほどにイカロスは美しかったのです。太陽は、少し考えて、自分の同情と、それがイカロスの美しさのためであることに感づきました。しかし、助けてやろうか、と目の前の真摯な目で自分を見つめる少年に憐みを抱いたのは一瞬で、その感情はすぐに、ただ美しいというだけで万物を照らす偉大な存在である己が、人間などに心動かされることは許しがたいことであるという怒りに変じてしまいました。 「駄目だ、駄目だ、人間などがこの私に願い事をしようとなど、到底、無理な話だ」 その言葉を聞くと、イカロスははらはらと涙を流しながら、何事かをか細い声で話しました。その涙は、一度は激しく燃えた太陽の怒りの炎をかき消してしまいました。 「そんなことを言わないで、僕は、長い間牢獄に父さんと二人で閉じ込められて、先頃やっとこの翼で抜け出してきたのです。どうか情けをかけて、もう一度僕がお父さんに会われるようにして下さい」 イカロスは、大体そんな意味のことを、つっかえつっかえ言いました。目の前でぐずる子供を見ると太陽の気分変わってきました。先に抱いた同情が、また体積を増してきたのです。 「……そうまで言うのならば、お前の望みを叶えてやろう」 太陽は、絞り出すような声で、やっとそう言いました。言いながらも、彼の中では自尊心と、憐みとがせめぎあっていました。 そんな太陽の心など知らないイカロスは、ただ自分の望みが叶えられるという純粋な嬉しさから、あの、太陽のような笑みを浮かべて言いました。 「ああ、ありがとう、親愛なる太陽よ!」 そうして彼は、感謝と祝福の接吻を、彼の父親が彼にそうしたように太陽に与えようと手を伸ばしました。 このことが、再び太陽にさっきの激しい感情を呼び起こしました。太陽は、ものも言わずにその熱によってイカロスの手を引かせました。そして、驚いた顔をする少年をそのまま焼き殺してしまおうとしたのです。 しかし、太陽は、この美しい少年の顔を醜く焼け爛れさせ、黒く焦がしてしまうことを躊躇いました。そうして太陽は、その炎を以って、イカロスの蝋で固めた翼だけを溶かすことにしました。翼を失って落ちても、きっと雲が彼を受け止めて生かすだろうという考えがあったのです。 イカロスは、突然のことにわけも分からず、「あっ」と一つ叫んだかと思うと、まっ逆さまに天から落ちていきました。それを見る太陽には、一つの満足と、一つの後悔が残りました。 雲は相変わらず空を漂っていました。何も知らない、白痴のような風を装っていながら、彼は頭上で行われたやり取りをすっかり聞いていました。そして、太陽は自分がイカロスを救うことを予測していたのだろうということにも、おおかた見当はついていました。しかし、彼は常に彼を見下してやまない太陽を憎んでいたので、イカロスが落ちてきてもそれを受け止める手を伸ばすことをしませんでした。もちろん、あの不遜な天体にばれぬように、太陽の視界からイカロスを隠すことだけは忘れなかったのです。 イカロスは、何物にも阻まれることなく落ちていきました。彼の周りには、蝋の束縛から逃れた羽どもが舞っていました。それも、彼がその美しい顔を岸辺の岩に打ち付けるころにはすっかり尽きてしまいました。イカロスはばらばらに砕け散り、その破片は海に点々と朱を添えました。彼の体は、万物を呑みこむ白痴の海に消えて、後には何も残りませんでした。
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