一章 ことのはじまり 二章 同棲 三章 長女誕生 四章 新しい家族 五章 おまけ、蛇足
一章 ことのはじまり
音楽療法
すべてことのはじまりは後になって考えるとあれがそうだったかも知れないと思うものである。とくに男女の仲は。この男女、年齢差42(=70-28)。爺さんと娘あるいは孫娘と言っていいかも知れない。ところができてしまったのである。縁は異なもの味なもの。それはある音楽発表会の打ち上げであった。
発表者が一人ずつ今日の感想今後の抱負を述べていった。飯田和美が結婚は望まないがこどもは欲しいと言ったときのこと、『手伝ってあげようか』と言ったのが片山雷蔵であった。『いけるのですか』と中年女の松村美登利先生が口をはさむと大笑いになった。彼の年齢からすれば常識的な疑問である。しかし口にすべきではない。音楽家には思ったことをそのまま口にするのが多い。『畑が良ければ育つ。種は優秀だから』と片山。松村先生はむっとした。休耕田では種は育たないと言われたと思ったのだ。和美は片山の松村先生への見事な切り返しに座布団一枚と思った。
次に片山雷蔵に会ったのは大学の音楽療法講座であった。音楽療法は音楽を聞いたり演奏したりする際の生理的・心理的・社会的な効果を応用して、心身の健康の回復、向上をはかる事を目的とするという。飯田和美はそこの非常勤療養士をしていた。学生であるお年寄は女子大生あるいは若い療養士と演奏できると喜んでいる。ピアノ、ヴァイオリン、フルートなどのコースがあるのだが若い女の匂いを嗅ぐだけで若返ると好評だ。
ところが片山雷蔵の担当はなかった。音痴の癖に理屈っぽいからだ。『半端じゃないわね、あの音痴』『ほんと、あんなフルートのピアノ伴奏できない』『そのくせ注文多いのよ』『そこは間をとって、そこは歌うところではない、語るところ』『そうそう。何様よ、指揮者気取り』『素人の音痴には言われたくないわね』 こんな調子だから無理も無い。大学の講師もタジタジとなることがある。その音楽理論は素人とは思えないのだ。『片山さん音痴だけど彼なりの音楽は持っているわね。自己主張が強いから皆さんがやりにくいのはわかるわ』と年配の教授。「彼は物静かな声のいい女を好むようね」と見渡す。反対解釈すれば、煩い声の女を極端に嫌うということだ。声は生まれつき、訓練で響きはよくなるが醜女の厚化粧。彼は顔よりも声を重視する。そこで条件に合う和美にお鉢が回ってきたというわけだ。片山は婆抜きのばば、ジョーカー。
和美は非常勤の悲しさ、学生を選ぶ権利は無い。商家の娘だけに感情を表に出すことはない。『片山さん、自分の演奏できるテンポで吹いて下さい。練習したら吹きたいテンポで演奏できるようになりますよ』と和美は言った。片山は感心して『なるほど』とうなづいた。丁寧に音符をなぞってゆく。『指が憶えましたか。大丈夫もう少しです、片山さんのしたいように演奏できますよ』片山は少年のように目を輝かした。『こんなふうに演奏したいのでしょう。気持ちはわかります。あせらず練習しましょう』と少しずつテンポをあげてゆく。同じ箇所を何度も習って半時間。 できたと片山は和美に抱きついてきた。和美はやさしく背中をなでながら『よくがんばりましたね』と微笑んだ。片山はこくんと首を振って喜びを表す。年齢ではない師弟だ。和美は最初から通してみましょうと片山と一緒に演奏した。名曲とは譜面どおりに演奏すれば感動を与える曲である。片山は涙を浮べていた。この人本当に音楽がすきなのねと和美は思った。この人思ったことを表現する技術が無いだけでいい音楽を持っているとも。
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