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作品名:合唱物語 作者:佐々木 三郎

第9回   第三章 世界合唱祭 ドイツ旅行
第三章 世界合唱祭


矢野は訪独に向けて業務に励んでいた。10日間休みを取る工作だ。香川京子と谷和子の関係もこのままつづけばいいが矢野は女の子が欲しいので先に産んだ方と結婚するつもりだ。男の子は想定外だ。これも矢野らしいが。子の認知だけで京子も和子も納得すまい。二人が(二人妻を)納得してくれるのが最善にして理想である。この問題は常に矢野を悩ませるが結論は『一生この関係でいたい。されば子を認知してともに育てる』にたどり着く。しかし将来妻が5人になることは矢野自身予想だにしなかったのである。

皇太子ご視察のお車が通る道路は整備され、茨城工場の通勤道路まで舗装されてゆく。天皇は日本国の象徴だけではない。依然として絶大なる権威を保持している元首なのだ。下村はこれを巧みに利用する。万歳ひとつをとってもお車の動きにつれて波打つように指示した。今でいうウェーブだ。さらに菊の花を3000本用意するように命じた。時は五月、日本中探しても不可能出ると思われた。部下が悲鳴を上げるのを待って下村は「ご苦労をかけるね、僕も心当たりに当たってみよう」と答えた。大手百貨店へ事前に手を打っていたのだ。

視察が無事に終わると「常務の演出は実に御見事でしたな。我々は高貴な方の前では身体が震えます」と取り巻きが胡麻をすっていた。演出は儀式のプロ宮内庁であり下村はそれを伝えたに過ぎないと矢野は見ていた。訪独を2週間後に控えて下村を怒らすことはない。「みんなのおかげで上手くいったよ。次はいよいよ上場だな」と下村は上機嫌で言った。「実はどうも、東京証券取引所が申しますには、一部上場は二部上場後3年間の実績(配当継続)をみてとの基準はどうにもならないようで、常務のお力でなんとかならぬかと」株式課長が伺いを立てる。いきなり一部上場したのは三菱自動車ぐらいであろう。

彼は下村が株式課長に抜擢した子飼いの男だ。「証券取引所の基準は厳格だろう。だからこそ上場の値打ちがあるのじゃないかな」「我々常務の専務昇格祝いにと一部上場を果たしたいと願っておりますれば」「君気の早いことを」と下村は笑い飛ばすが満更でなさそうである。無能であるが権力志向と支配のかたまりが出世してゆくと人がすり寄りさらに持ち上げる。自分を引き上げてもらうためだ。これでは組織が崩壊するのは当然だが、昭和50年代の日本社会であった。


ドイツ旅行

ドイツ旅行出発の日、矢野はいつものとおり会社に出て仕事をしていた。「矢野君、今日は早くしまっていいよ」と課長が声をかける。矢野の休暇は5日しか認めなかったことに対するせめてもの配慮であろう。土日の休みがあるから10日の休暇があれば2週間ゆっくり旅行を楽しめるのだが。総務は従業員の出勤率を高めることが本分であると説得するが入社間もない社員の海外旅行に対するやっかみが本音であった。矢野はこの説得を下村のやっかみであり陰で下村が操っていることを感じたが今はドイツの事しか頭になかった。


当時は羽田22時発のルフトハンザ航空でドイツに向かう。空港には合唱団員が集まっている。矢野が「どうも食欲ない」というと「君は初めて」と上村が気遣ってくれた。上村は仕事柄海外出張も少なくないようだ。合唱団でもスターであるが同郷の矢野を何かと心にかけてくれる。「搭乗したら機内食がでるよ」

出国手続きを済ませジャンボ機に乗り込む。「スターテン」機長のアナウンスでおもむろに滑走し始めた機は静かに東京の上空を北上してゆく。けばけばしい街の灯が遠のいて水平飛行に入ると機内食が配られる。スチュワーデスは大柄なドイツ女だ。隣の団員に「これで日本食も当分おあずけだな」と言われて矢野は日本を離れてゆく自分を実感した。会社を忘れ本来の自分に戻ったとも思った。矢野にとって会社は仮の宿なのだ。定年まで勤めあげ、退職金で老後をという考えは全くない。


旅は日常からの脱却、非日常への冒険かも知れない。朝6時アンカレジで給油。日付変更線を越したから前日になる理屈だが矢野には実感がわかない。出発してから8時間が経過したのは事実だ。腕時計は日本時間である。どういうわけか日本人向けにうどんを売っているので立ち食いする。ここでは希少価値がある。
機は3時間後にアンカレジを離陸したが眼下は北極の氷ばかりだ。矢野はすぐ目を閉じたが機内食で起こされる。病院食ね、と杉本温子が言った。彼女は東京メンネルの合唱団員と結婚したが旦那は仕事で(休暇が取れなかった?)参加していない。彼女の顔見知りは矢野だけである。何度か病院食が出されたが矢野は半分以上残して眠った。

22時間後にハンブルグ到着したが矢野は眠り眼で歩く。周りがドイツ人ばかりだからここはドイツだろうと思った。すぐ町の教会でドイツ曲の録音が始まった。現地のテレビ局は日本人合唱団を撮影するばかりだ。合唱は矢野を空腹にする。「腹が減った」「金を稼いでから」と古参団員。テレビ局から結構いいギャラが出るらしい。合唱を教会で録音するのは音響がいいからで映像のバック音楽に流すらしいがとにかく何か食いたいと矢野は思った。
長い収録が終わったのは現地時間の午後一時。「食い物たもれ」「もう少し待て」今度は市役所表敬訪問。玄関前の高いスロープに並ばされる。ここでもドイツ曲を歌わさせられる。市民が集まって来る。拍手と歓声で監禁する。矢野は目がかすんできた。もう立っているのがつらい。しかし古参団員は背筋を伸ばして、聴け日本の合唱をとあたりを支配する。戦前戦中派は耐乏生活に強い。


監禁を解かれたのは半時間語であった。「日本の方ですか。私は日本語を勉強していますとメドヘンが話しかけてきた。「死にそう」矢野は彼女の持ったソーセージに噛みついた。「犬みたいね」と杉本温子がなじった。学生風のドイツ娘はビールを差し出す。矢野は一気に飲み干す。ああ、とためいきをつく。
Aha so ?あっそう? Gab mir bier !ビールをくれ order Ich will essen deine arme.さもないとお前の腕を食うぞNein danke.やめてくださいと金髪のドイツ娘が大ジョッキを差し出す。
Oh wie shoen bist du. 君はなんて美しいのだ。矢野のドイツ語は歌の文句の流用だ。周りのドイツ人が笑っているから通じているようだ。隣のおじさんがハンバーガをくれた。「お前はビスマルクか」「そうだ、今度は日独で戦えば英米など目ではない、さあもっと飲め、日本の友よ一緒に歌おう」イタリア人が聴いたら起こるだろう。


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