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作品名:合唱物語 作者:佐々木 三郎

第8回   皇太子視察
皇太子視察

東京メンネルは8年ごとにベルリンで開かれる世界合唱祭に参加している。来年6月二度目の訪独準備がすすめられていた。日程は2週間。土日は休日だが矢野も平日の10日間は年休をとらねばならない。会社を辞める覚悟が要る。当時は従業員の定着率と出勤率向上が至上命令とされていたのだ。
その時はその時で谷和子の所か香川京子の所に転がり込むつもりではあった。ただ公害問題と並行して製造物責任に取り組んでいたから区切りがつくまではこの会社に留まりたかった。日本でこれほど自由に仕事ができる会社は少ない。年間130日の休日も魅力である。今や矢野にとって『一に合唱二にKK(和子京子)、三に仕事』である。

休日代休を最大限に活用して月に一度は名古屋と四国に飛ぶ。惚れて通えば千里も一里。9日間の夏休みの前半を四国、後半を名古屋で過ごした。そのために人の嫌がる年末年始、五月連休などの休日出勤を買って出た。代休を取れば4割の割増賃金が残る。これで旅費をまかなうことができる。部長への胡麻すりも憶えた。会社を利用して私腹を肥やす人種は御しやすい。四国、名古屋への出張を命じてくれる。

名古屋四国の支店長工場長にも滞在を延ばしてもらうべく胡麻をする。そろそろ工場緑化にかからないと訪独に間に合わないと矢野は考えた。まず直属上司である係長と課長を洗脳する。「矢野君、仮にだよ、東京工場が茨城工場に移転した場合工場立地法の適用を受けることになるね」「それはもう明らかです」「とすると問題は名古屋工場だな」「はあ」「もし工場立地法が適用ならないとなると君が困るだろう」工場の隣接地を買収すると敷地面積が増えるので工場立地法が適用されることになる。敷地の30%以上の緑化が求められる。現地から本社に応援が求められている。矢野の出張が増える。「いえ、そんなあ」「ことはないだろうか」苦労人の課長は役者が上である。
下を向く矢野に「ここは部長に相談するしかないな」とかぶせてくる。問題は買収予定地の土壌汚染である。水銀カドミウム等が混じっていると予想される。部長室を2人で訪ねる。「土壌汚染を知りながら買収しますとチッソの轍を踏むかもしれませんし、先方に土壌汚染を除けさすわけにも」「先方に汚染を自白させることになるか。そうか、この買収価格は総務の手柄だから上げさすわけにはゆかない、大変だね。うん僕にも考えがあるから君たちのお役に立てるかも知れない」「何分部長のお力をもって」「いやね、僕がのんびりしていられるのも君たちのおかげだよ。それにこの話面白いかも(総務に、部長の功績に役立つ)。矢野君、君はいい上司に恵まれて幸せだよ」名古屋行きを言っているのか、昇給査定を言っているのか。

40歳で部長なったこの男は政治的動きだけは達者である。力と言えないこともない。翌週には課長が部長室に呼ばれる。「え、皇太子殿下のご視察」「いや宮内庁が非公式に打診してきたのだよ。前向きで検討すると返事したけど良かったかな」「それはもう、名誉なことで」視察の話と土壌汚染の話が交錯する。「工場長には君から話してもらったほうがいいかな」土壌汚染除去は当社がやり、その費用分は別の敷地の買収価格を下げるという密約は新入社員の矢野には知らされていなかった。課長が名古屋工場について工場長から頭越し特命を受けていることを牽制する。「このような全社的ことは部長ご自身で」土壌汚染を指すのか視察かあるいは両方か。「そうだね。しかし本社がOKとなると」「やはり宮内庁に対しては部長のお力が大きいのでは」「ま工場長に話してからのことだな」わかりにくいやり取りだ。

こんなやり取りを聴かされて矢野は仕事よりも政治力と思った。部長には買収相手をまた宮内庁を動かすコネがあるのか。今はとにかく工場立地法に名古屋の緑化を適合させることと考えた。和子のマンションは目立たないが落ち着いた雰囲気がある。新米教師には少し贅沢だが父親が保証人になって借りてくれたらしい。一人娘を県外に出すことを最後まで反対した気持ちは矢野にもわかる気がする。
こんな娘がいたら幸せだろうなと思う。「和子の様な娘が欲しい」と矢野は口癖のように言ってみるのだがおめでたの話はまだない。「私も欲しいのだけどおー」と和子も言うのだが天に祈るしかないのか。人事を尽くして天命を待つ。和子といると心が和む。幸せとはこんなものでないだろうか。もっとも和子にしてみれば教職にあって未婚の子を産むわけにはゆかない。

そのうち皇太子ご視察のうわさが内外からささやかれるようになった。矢野は、仕事はできない部長の力を見せつけられた気がした。世の中、実力だけではない、と思った。何か大きな力を持った存在が部長を支えている気がする。それは知る由もないが部長の態度からうかがえる。
庶務課長は部長室を訪れることが多くなった。「やはり緑化だけでなく建物もこの際全面的に改築(土壌汚染除去)した方がよいのではと考えまして名古屋の総務と話しておりますが、本社の認可がおりますかどうか」「そうだね、我々次の天皇陛下になられるお方をお迎えするのだからそれなりの覚悟と準備が」「その点につきまして部長のお力で本社を」「いやあ、僕なんか新米部長だから」と言いながらも並並ならぬ自信を持っているようであった。この会話に土壌汚染除去のことは一言も出なかった。保身術である。

日本社会は雰囲気をつくれば武力を使わずともその方向に動き出す。宗教、主義の応用か。会社も然り、あとは予算額と実施時期だけである。縦割社会は他部門に干渉しないしまた干渉されないから、その部門の長に就けばその部門を支配できる。支配者にとってまことに都合がいい。矢野の支配者は課長であり部長である。この部長が取締役、常務、専務そして社長になる可能性もなくはない。むしろ有力視されている。不思議な社会である。

どうも矢野には皇太子ご視察をこの総務部長が意図的にリークした気がしてならない。名古屋支店工場全面改築はすんなり認可なった。改築計画は内容的には新築と変わらない。矢野は緑化に関する勉強を始める。部長の特命を受ければ公然と名古屋に出張できるからである。ついでに四国支店も改築してくれないかと思ったものであった。下村総務部長は名古屋支店改築が進められる中で、東京工場を茨城工場に統合する案を検討していた、
矢野は彼にとって優れた猟犬なのだ。彼の取り巻きは獲物をみつけてくることができない。矢野の見つけてきた公害問題、製造物責任は大きな獲物であった。この獲物は総務部の発言権を強め、下村は部長就任3年目にして取締役となった。すると先輩の経理部長も彼を上司として仰ぐことになった。経理総務の長となった下村の目標は常務である。その持参する手柄に工場移転統合と考えたのである。矢野が重宝されるわけだ。

工場立地法、工場再配置法などが立て続けに成立すると下村は上げ潮に乗った感じである。工場移転統合は大きなメリットがある。すなわち通産省の工場再配置策に沿うものであるから国とくに宮内庁に貸ができる。通産省は宮内庁の同窓生を通じて下村に再配置を打診してきたのだ。ということは下村には宮内庁とコネがあるのだろう。
工場再配置計画
1当社の工場を3年以内に茨城に移す。
2工場跡地は通産省の意向を受けて日本住宅公団に売却をする。
3工場統合によって茨城工場の全面改築増設が必要となる。
また1300名の従業員の土地家の手当が問題となる。

何もなければ総務など黒子のようなものであった。下村は工場移転統合を管掌常務に上申する。この常務病気で引退すると言い出した。下村に常務のポストが転がり込んできた。常務会で移転統合が承認されると下村の動きは早かった。潮もかなって風も追い風、順風満帆。

 都内工場撤去工場再配置の新聞見出しは矢野を驚かした。大手新聞各社がトップで取り上げているのだ。通産省の意向はまず新聞社に伝えられる。記事には「当社は企業の社会的責任は豊かな市民生活に寄与することでもあると考え、都内から工場を撤収することを決定しました」(下村常務)とのコメントと顔写真が載っていた。

下村は次期社長と目されるようになった。最年少常務だからだ。現社長は3代目だがいずれも親会社からの天下りであった。4代目にして生え抜きの社長が誕生するかもと他部門も下村にすり寄ってくる。工場跡地の売却は相場の半分以下であったが税制面での優遇措置で会社は莫大な利益を得た。下村の株は上がる。この発案は経理部長の胡麻擦りだ。彼は下村のおこぼれにあづかる。下村は権力志向の強い男だけにこの世の春と権勢をふるい始める。「矢野君も茨城工場改築新設に力をふるってもらわなければな」「お言葉ですが、わが社の次の施策は株式上場でないでしょうか」下村は矢野の意図を理解した。「そうだね、君は僕と一緒に本社へいってくれるかな」と応じた。さらに「できうれば」と加えた。下村はどこからか獲物を見つけてくる矢野を買っていたが、このようなことを即座に口にする若者が煙たくもある。常務に成れたのは私の提案を受け入れたからでしょうと言っているようにも思えるのだ。出世の条件は実力ではない、コネと策謀だと矢野は思った。

ここで上場について説明しておく必要があろう。この会社は創業以来事業部を次々と分離独立させてきた。既に子会社は100社を超える。矢野が勤務する工場も茨城工場と共に設立したばかりの子会社に営業譲渡されたのだ。機械事業部を系列会社とすることは他の事業部と同様系列化の一環であった。つまり本社機構だけを残して持ち株会社とする創業以来の基本方針である。系列会社といえども一部上場している会社も少なくない。この新会社は実力では御三家に匹敵すると言われるが今は存在すら世に知られていない。経営のすべてを自前でやっていかねばならない。採用、資金繰りが難しい。親会社は崖から突き落として這い上がるのを上から見ているかんじだ。半面下村は系列の御三家にひけをとらない一国一城の主となる機会も増える。

そこで株式を公開すなわち東京証券取引所に上場して自己資本の充実を図ることが急がれるのだ。額面500円の株券は1億枚で500億の資本金を無利子無担保で集めることができる。株券発行費数百万、配当を差し引いても安いものである。500億を銀行から借り入れると年5%から7%の支払利息を払わなければならない。額して25ないし35億円である。この株式が額面の4倍、2千円で取引されるようになれば資本金は実質2000億と評価される。正確に言えば資本金を上回る1500億は資本準備金に積み立て取り崩すことは難しいが資本の部が増加することに変わりはない。会社債権者とくに銀行などの信用は高まる。現代の錬金術である。まさに「資本主義を支えるものは株式である」(マルクス)。しかし上場は簡単ではない。二部に上場して3年間配当をつづけることが一部への昇格条件だ。親会社本家は分離独立した子会社に援助はしない。親離れしてゆけと突き放す。
株式額面は昭和25年の商法改正で500円でなければならないが新会社は孫会社に吸収合併された形をとって50円株とした。問題は株式の引き受けである。新会社は取引先および従業員に引き受けを要請(強制)した。それも時価500円としてである。1000株で50万円である。この頃の学卒初任給は5万円になっていたが従業員には苦痛である。下村は株式引受を会社に対する忠誠心の表れと吹いた。取り巻きは将来高値をつければ従業員の福利にもなると胡麻を擦った。現実は甘くない。矢野の予想通り、上場後の株価は500円を大きく割り込んだのだ。市場の反応は冷徹である。しかし下村は運が強い。5年後に株価が2000円を突破するのであった。北京アジア大会、ソウルオリンピックの特需が株価を押し上げた。ほどなく下村は副社長に昇る。

 話を戻すが矢野が自分に求めるのは彼女との逢引の手助けだけである。天下取りを目指す自分に絶対的忠誠を見せない。自分に胡麻する連中は対価として昇級を求める、故に信用できる。対価見返りを求めないこの男は油断ならないと下村は思った。「上場基準をクリアするにはそろそろ準備が必要かと」「全国の支店調査が必要だね」と矢野に最後まで言わせず投げ返してきた。調査項目は全従業員の資格にまで及ぶ。結果、有資格者の多いこと、大企業に人は集まる。
 さらに矢野を驚かしたことは皇太子ご視察が茨城工場になったことだ。工場移転統合と考え合わせると名古屋支店は当て馬でなかったか。隣接地購入の口実に使われたか。これで下村の専務昇格は時間の問題となろう。彼の後ろにはどんな存在があるのだろうか。


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