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作品名:合唱物語 作者:佐々木 三郎

第6回   男声合唱団東京メンネル 智恵子抄巻末の歌六首 
男声合唱団東京メンネル

その日矢野は都市センターホールに早めに着いた。開場と同時に入る。音楽会の開演前の期待感、胸の高なりが好きだ。谷和子と一緒に聴いたタンゴ以来だ。ポログラムの団員紹介欄ではこの男声合唱団は社会人ばかりで学生はいない。勤務先は一流会社が多い上相当の地位に就いている人も少なくなかった。その末尾に「団員募集、簡単なオーディションがあります」とあった。

開演を告げるブザーが鳴ると団員が場慣れした表情でステージに上る。一流役者は登場しただけで観客を引き付けるがこの団員もそうであった。年齢も高そうである。かなり高齢の人も少なくない。指揮者が登場すると『うれしさああ よっほーえ』 すぐソロが歌いだす、というより掛け声である。『はあ だしたな だしたな』 これに合唱が応じる。ホールを揺さぶる声量だ。大人の声、男の色気が会場を支配する。指揮者はと見やると指揮台に上らずその顔は一緒にこういう音楽をつくりましょうと各パートの間を歩いている。
指揮の動作はほとんどない。だが団員は指揮者から発せられるオーラに向かって「これでどうですかと対話しているようである。音楽づくりの共同作業を楽しんでいる。聴衆もその世界に引き込まれてゆく。学生の合唱とはレベルが違う。作曲者が私の曲をこのように演奏してくれてありがとうと言っているようだ。勿論矢野がそう思っただけであるが後で作曲者の感想を聞いてみたいと思った。次の曲は一転してささやくような歌声である『可愛い 我が子に 引かされて』このゆっくりとした旋律が息がつまるような緊張感を醸し出す。真剣で向かい合った剣客が息をするのを忘れている感じだ。息をすれば相手の白刃が己の身を切り裂く。矢野は冷や汗がじわっと流れ落ちるのを感じたが意識が遠のいてゆく。

東西 東西 東西南北 しずまりたまえ   
エイエイサッサ エイサッサー ヤーットサッサー エイサッサー
https://www.youtube.com/watch?v=MUPPrM4AdbE 
指揮者の手が弧を描いて握られる。何を握ったのであろうか。合唱団員がその手の中に吸い込まれてゆく。そして再び手の中から飛び出してくると神がかりの顔になっていた。この指揮者は人を変えるシャーマンなのか。


次の週、矢野は合唱団の練習場を訪れた。本郷にある町の教会だ。恐る恐る中に居ると小さな椅子が並んでいる。教会に併設された幼稚園のようだ。「入団希望」70過ぎのおじさんが話しかけてきた。「はい、阿波を聴きました」「どうだった」「ひつこいですね」「ひつこい」「これでもかこれでもかと迫ってきますね」「ああ三木君の音楽はそういうところがあるね、こんど本人に話したらいいよ」「え」「彼もうちの団員だよ」
矢野はますます固くなった。三木稔は今や日本を代表する現代作曲家である。「君レクイエムは聴いた」「いえまだです」「これはいいよ。このテープ貸してあげよう」「ありがとうございます。ダヴィングしてもいいですか」「もうじきレコードが発売されるから買って欲しいがまあいいだろう」

団員が集まって来る。矢野の存在など気に掛けない。やがて例の指揮者が現れると発声練習が始まる。鶏が鳴く様に自分の声を誇示するような発声だ。その声量に矢野は圧倒される。「では巻末いきましょうか」指揮者が右の指を静かに動かし始める。「ひとむきに むしゃぶりつきて」と歌いだす。ああこれかと矢野は思った。4年前仙台で聴いた曲だ。おじさんがその楽譜を貸してくれた。この智恵子抄巻末の歌六首。あのとき全日本合唱コンクール一般の部でこの曲を歌ったある男声合唱団が優勝した。

指揮者が曲を止めた。「むしゃぶりのしゃは口を開けると汚い響きになりますから口を縦に」と注文が出る。「一皮むけるとむしゃぶりたくなる」と冗談が飛び出す。「自分がいい気持ちになってはいけません、相手をよろこばすように歌ってください」矢野が譜面を食い入るように見ていると後ろから頭をどつかれた。「譜面をはずせ、指揮をよくみろ」あの東西南北と掛け声をかけていたケンちゃんと呼ばれる男だ。「彼は今日初めてだ」とおじさんが庇ってくれた。「それは失礼しやした。勘弁してね」


おじさんが立ち上がって矢野を紹介する。「彼は三木さんの後輩らしい。四国出身だよね」「はい阿波の徳島です。先日の演奏会を聴いてやって参りました」団員は四国と聞くと遠い所からという顔をする。「感想は」と指揮者。「曲もひつこい、演奏もひつこいですね」「今夜は寝かさないわ」とケンちゃん。矢野が思い切って「まあそうですね、あの神がかりの演奏は聴いていて気が変になりますね」と言った。指揮者が笑いながら「四国の人間はいかせるのが上手いのじゃない」と答えた。団員の爆笑。「ああもうだめ許して」とケンちゃん。「はあ、未熟者にてそこまでは」トップの男が「僕は鳴門だけど、君は」と矢野に言った。「徳島です」「そうか三木さんの後輩と言ってたね。よろしく」「こちらこそよろしくお願いします」

この男上村は電力会社の部長さんと聞かされる。声合唱団で唯一のソプラノということだ。後でわかったことだがこの合唱団は、トップは2オクターブ上のドをベースは下のドを出す。3オクターブの音域だ。「ではいきましょうか」と練習が再開される。矢野はオーディションが気がかりであったが練習をつづけた。休憩時間に「これを書いてください」と入団申込書を渡された。

この合唱団の平均年令37歳、最長75歳で矢野は年少5人組に加えられた。団員のほとんどが学生時代指揮者かトップスターであったことから矢野の緊張はつづく。声は年齢を如実に表す。この迫力声量は団員の経歴と年齢によるものであろう。毎週木曜日の夜7時から9時までの練習日の他、日曜日の練習日も10回ほど組まれている。

智恵子抄巻末の歌六首

ひとむきにむしやぶりつきて為事(しごと)するわれをさびしと思ふな智恵子

気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり

いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる

わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき

この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾をいねしめず

光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき

矢野は初日の練習が終わるとくたくたになった。こんなに緊張したのは久しぶりのことだ。大きな渦の中で引きこまれそうな自分をなんとか水面に顔を出そうともがいている感じだった。寮の近くで握りずしを注文した。生ビールを立て続けに飲んだが喉が渇いて仕方がない。日本酒で寿司を流し込む。味がわからない。「本当に疲れたって顔ね」と店の娘が矢野に言った。
矢野は翌日から暗譜しようと楽譜とにらめっこしたが20分あまりの組曲を憶えるのは容易ではない。学生時代指揮者になりたがっていた自分は自分のパートすら憶えられないのかとみじめになってくる。智恵子抄は作為が見え過ぎるがこの巻末の歌六首はまあまあであると高村光太郎に八つ当たりする。「わが為事 命かたむけて成るきはを」の部分はバリトンが歌い出し他のパートが追っかけてゆく対位法で書かれている。
矢野はわがこころの歌いだしを何度も歌って頭に入れる。そうしないとベースの音が取れないのだ。10回20回と繰り返すと絶対音感となってくる。時々音叉で確認したが間違いなかった。よし完璧だと矢野は自分に言聞かせた。それにしても智恵子は何故「さびしと思ふのか、しりていたむ」か。

日曜練習は毎回場所が変わる。この日は世田谷区の小学校だった。寮から2時間はみておかないと間に合わない。楽器を抱えた学生が多いから音大があるのだろう。やはり東京の文化レベルは高いと矢野は思った。本社の人事課長が言った「享受できる人間が何人いますか」が思い浮かぶ。あの時は素養の問題だと答えたのだが今は自分の素養が貧相に感じる。

わが為事、バリトンが音を外した。思わず矢野が歌うとバリトンは体勢を立て直した。指揮者が矢野を見てにっこり笑った。が、頭をごつんとやられた。ケンちゃんがにらんでいる。自分のパートも歌えないくせにと言う顔だ。矢野は立ち上がって「出過ぎた真似を致しました」と頭を下げる。「なんのバリトンの過失ですよ」と60過ぎのおじさんが庇ってくれた。この人は毎朝新聞の偉いさんと後で聞かされたが、どうしてケンちゃんはいつもすぐ後ろに座るのだ。
この家に、は余韻も残さず切るように指示される。矢野が鉛筆で指示を書き込む。「書いた通り歌え」とケンちゃん。指揮者が近寄ってきて「には声にしたらすぐ飲み込む」と矢野に言った。矢野が歌うと「いいじゃないですか、このもディミニエンドをかける、のは聞こえないくらい、そう素晴らしい」と指揮者がほめてくれた。
この指揮者は新人の緊張をほごす。「なるほど、こう歌うと次に何がくるかと思わせますね」「あなた、評論が上手いですね」「うちの文芸評論頼むかな」と新聞社が指揮者につづける。矢野はすっかりうれしくなった。つづく「智恵子の息吹」以下は抑えて歌うというより語りか。音楽が違う。やがて第六首、「光太郎智恵子はたぐひなき夢を」と力いっぱい歌わせる。歌わせるところは歌わせるのだ。指揮者とはこういうものか。

7時間で巻末の歌六首は完成した。学生合唱団とは比較にならない。練習が終わると近くの居酒屋に押し入る。たちまち30人ぐらいが占拠する。店主と奥さんが大わらわ。すると団員も生ビールを注ぎ始める。三つの樽から同時に注いでこれを全員に回してゆく。ではein zwein drei.『あげよいざ盃を 我が友に幸あれ!』場違いの合唱に奥さんが目を丸くする。「さすが荒井先生のお友達ね」どうやら荒井さんが休みの店を開けて貰ったようだ。
男声合唱団は飲み仲間でもある。「我々はこのビールを飲むために合唱をするのだ。一に合唱、二に仕事、三に家庭」「四に女だろ」「言わずもがな」矢野はこれほど美味いビールはないと思った。「さあさあ、食って食って。店の奢りよ遠慮はいらない」と荒井先生が山盛りの料理をすすめる。「美味い、店の奢りはなお美味い。今度亭主がいないとき一人でくるかな」「あら私でよければ押し倒してくれていいわよ」
東西 東西 東西南北 しずまりたまえ
ケンちゃんが立ち上がった。「よ、大統領、色男」   
エイエイサッサ エイサッサー ヤーットサッサー エイサッサー

飲んで食うて歌って、こんな幸せな時があろうか。どの団員もいい顔をしている。並の人間とは出来が違う。「黄金は世界の惚れ薬」そんならシメシメやっしし。時計が7時を告げると一人が帰り始める。家まで3時間の団員もいるそうだ。「御一人様3000円」と荒井先生が集金する。「安いな」「料理は店の奢り、奥さん美人」「こうしてお酒が飲めるのも荒井先生のおかげです」日曜開店で店のネタはきれいさっぱりなくなったと亭主。

ベースの個人レッスンで指揮者のマンションを訪ねる。希望者だけだが4人が来ていた。矢野の番になった。声が出ない。「あなた、そんなに身を固くしたら初夜は上手くゆきませんよ。彼女を抱く、横に座らせる。彼女に聴かせるように歌ってごらんなさい」。「そうです、もっとベースらしく堂々と、いいですよその調子。思い切って出す」「先生早すぎるのでは」とケンちゃん。「いいんですよ、来てと言われたら出すのが男でしょ。言われるまでは我慢する。ベースは自分がいい気持になる人が多い」

ケンちゃんもここで「東西 東西 東西南北 しずまりたまえ」の掛け声だけで2時間こってりぼられたそうだ。他の合唱団と比べて阿波の味がいいはずだ。三ツ星だ。矢野はレッスン料を心配していたがバーボンが振る舞われた。口当たりがよくてきつくない。これなら毎回くるぞと矢野は思った。「先生、第五首まで抑え気味にして最後に思い切り歌わせるのですね」「そうですよ。いくいくではだめですね。来て来てと言わさなくっちゃ」「色はにほへど」「奥深し。女を行かせるのが男」「修行に似て易しからず」楽譜を音にするのは易けれど音を楽しむは難し。すべて色に通ず、楽しからずや。


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