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作品名:合唱物語 作者:佐々木 三郎

第5回   常に総務の眼が
常に総務の眼が

矢野は立ち上がると女子社員の胸を両手で押えた。キャーっと大声を立てる。かまわず両手を腰尻腿に下ろしてゆく。「おっぱいは小さいが身体は悪くない」「現行犯だ。人事を呼べ」「課長、私も見ていました」と人事の大林係長。「懲戒処分ですな、追って沙汰する」

矢野は香川京子がまた谷和子が結婚を承諾した場合の対応を考えていた。結論は両方を手元に置くことであるが重婚は犯罪である。正妻側室が理想だが現代では認められない。熟慮の末、先に子を産んだ方を妻にするのが現実的だとの答を出した。例えば京子が先に産めば結婚届と出生届を出す。和子が産めば京子を離縁して和子との結婚届と出生届を出す。これは理論的には問題ないが実際に結婚離婚を繰り返すのは不可能であろう。ならば京子と和子と別々に式だけ挙げて子を認知する。法的にも子は父と母を持つ。これで行こうと決めた。果たして京子も和子も納得するかとは考えないところが矢野らしい。

矢野は女を縦軸に容姿横軸に気立をとって評価する。京子は(20.20)で和子は(20.10)である。因みに山下慶子は(3.20)である。顔はいいが冷たい、顔を売り物にして高慢だ。これを基準に周りの女を評価すると(5.5)未満である。つまり評価に値しない。それは自ずと態度に出るから女子社員の矢野の評判は良くない。
課長が矢野に「気に入った女子社員はいるか」と訊いた。「いえまだ、仕事を憶えるので精一杯です」とありきたりの返事をした。「身近の花を摘むのは安全確実だが手を付けたら責任をとらなければならない。心してかかれ」と諭したのであった。これは新入社員への労務管理の一環だ。酒の席で課長が部長に報告すると「女郎屋の主人も商品には手を付けないからねえ」と笑った。
課長が身を乗り出す。「ところが部長、矢野の奴女子社員の身体を次々と触っているのです。ええ総務の女のこは全員やられています。私も手に負えませんので部長から直々諭していただきたく」「前代未聞の不祥事だな。明日連れてくるように」「ははあ、私の監督不行き届きで」部長もストリップにはよく行くそうだ。


翌日矢野は部長室に呼ばれた。庶務課長は深々と頭を下げて入室する。「君もっと頭を下げて」と矢野を促す。人事課長係長が控えている。部長は厳しい表情で言った。「その方、新入社員の身に在りながら次々と女子社員の身体に触れたることに相違ないか」「事実誤認であります」「黙れ、我々総務部員の面前で乳房より下半身にかけて執拗に触れたではないか」と大林係長。彼は東大出で入社5年にして係長、キャリア組である。
矢野は動じる様子もない。「申し開きがあるならありていに申せ」総務部長が矢野を見据える。「されば、女子社員採用基準に常々疑問を抱きおりしが、庶務課長からボディーチェックを命じられたのでついでに採用基準の是非を確かめたに過ぎません」「うむ、わかるように申せ」「能力重視の採用ではあのような貧弱な女しかきません。容姿スタイルを加味すべきものと考えます」

人事課長もあきれる。「私はボデェチェックを命じておりませんが女子社員の容姿は来客の印象を大きく左右しますので、また男子従業員の士気にも影響するのではと」。総務部長は人事課長を見遣って言った。「その方らの申し開きにも一理はあるが、うふん、権限を逸脱し狼藉に及んだること許し難し。3日間の謹慎を命ず」「ははあ」と庶務課長が平身低頭する。
総務部は70人の所帯であるが学卒は部長と大林と矢野だけである。人事課文書課庶務課からなるが総務の女子は30名を超え、これでも容姿がいいのを総務に配属している。人事課長は面白くなかった。庶務課長はもっと器量よしを採用しろと口出しているのだ。この求人難のご時勢に各高校がトップクラスの学生を当社に向けてくれるのは俺の功績とコネではないか。

部長室を出るとすれ違う女子社員は矢野を避けて通る。課長が「恐がっているぞ」と言ったが矢野は和子のことを考えていた。席に戻ると課長が重々しく「矢野健、三日間の謹慎を命じる」といった。矢野が深々と頭を下げる。部内に重苦しい空気が漂う。ちょうどその時電話が鳴った。「矢野さん電話」とブス娘が取次ぐ。「今どこ。すぐゆく。会社なんていいんだ。いいか、上野駅公園口文化会館。入ってみろ。そこのレストランで待て。半時間ほどゆく」そう言って会社を飛び出す。「カエルの面にションベンか」


走って工場の門を抜けると「矢野さん、どさどさ」「駅駅」「乗れや」勤務明けの警備員がバイクに乗せてくれた。「おおきに、恩にきます」と駅の改札にまっしぐらに向かう。香川京子が東京に出てきたのだ。矢野は電車の中を走りたい気分だ。上野駅を飛び出して車に轢かれそうになった。

上野公園の一角にある文化会館のレストランに香川京子がいた。夢のようだ。「何がいい」「私これから友達の結婚式に出るの」「俺たちの結婚はまだか。で今夜の予定は」「友達の結婚式に出てあとは英会話部の同窓会。今日は山下さんのアパートに泊まるの」「山下とこなんかやめろ、帝国ホテルをとってやる」「だめよ同級生に気づかれるわ」「俺、お前を思って気が狂いそうだ。やりたい」「私もよ、フフフ。わたしね貴男によって生まれ変わったのよ」

矢野はビールとソーセージを注文する。「東京は綺麗な人が多いでしょ」「お前の足下はるか遠くにも及ばない」「今度の夏休みにはゆっくり来るわ」「そうか、軽井沢にゆくか」「I will follow you wherever you may go, even if heaven fall down. 天が落ちても貴男とならばどこへでも」「お前と一緒に暮らせるならばどんなに幸せだろう。死ぬまで、もとい、死んでもお前を離しはしない」
恋は水色、恋は盲目、周りが見えなくなる。矢野は自分がとった突飛な行動がどう評価されているか気づきもしなかった、また知ったとしても気にもしなかったであろう。矢野は興信所を通じて監視されていたのだ。終身雇用制がもっとも定着していた当時、学卒の生涯賃金は5億円とも言われた。企業にとって機械設備投資の比でないから当然だったかもしれない。矢野は5年先輩から「新入社員のころは常に総務の眼が光っていた気がすると言われたことがあった。また就職が内定した時、興信所が「下宿代が残っていたら会社で支払います」と問い合わせに来たらしい。営業マンが女とできてしまったのだが女の母親から会社に苦情の電話があったとき部長が営業マンを調査するよう大林に指示した。女に手を付けるのはいいが苦情電話が問題らしい。 

数日後部長室では人事課長と係長が報告していた。「なるほどねえ、これだけの女がいれば会社の女に手を出さないはずだ」部長は矢野と香川京子の写真を見ながら言った。「痴漢もどきはいかかが致しましょうか」「彼流の奉仕じゃないか」「と言われますと」「誰か触ってと言いたい女に博愛で奉仕したのだろう」「まったく手におえない新人だ」「そう言うな、大林君。彼は僕が本社からもらってきたのだ。採用ミスかな」「いえ、業務上は問題ありませんが、エロティックな言動に苦慮しているところです」「まあ君たちよろしく指導してくれたまえ。それから一人ぐらい容姿枠を検討してみてはどうかな」


香川京子は爽やかな笑顔を残して行ってしまった。細身だったのが少しふっくらしたようだが腰の括れは何とも言えない。逢っているときは幸せだが別れると淋しさに包まれる。今回はあの白い肌に触れもせで、、。それが恋と言ってしまえばそれまでだが矢野にはやるせない思いで音楽会のポスターを見つめていた。
と「合唱による風土記阿波」という文字が飛び込んできた。作曲家三木稔の作品は学生時代に歌ったことがある。すぐさま置かれているパンフレットを取り上げる。前売り券900円当日券1300円とある。すぐさま銀座で前売り券を購入した。当日は3週間後の日曜日であった。たとえ日曜でなくとも万難を排して行くつもりだ。
矢野は朝日新聞社、三越本店を見て右に折れる。歌舞伎座、銀巴里を過ぎると歩みを止める。真っ直ぐ行けば有楽町に出るはずだ。しかし忙しそうで無口なこの人の群れはどこから湧いてくるのだ。人なのか、羊のように見える。昔は銀の取引で賑わっていたのであろうがこのような表情をしていたのであろうか。

矢野は数か月前就職試験の面接を受けたことを思い出した。丸の内の本社で人事課長直々の質問であった。「当社を選んだ理由はなんですか」「金丸教授の強い勧めがあったので受けてみる気になりました」「当社をどのように評価していますか」「ここ20年程で資本金が数倍になっていますからまあ潰れることはないと考えました」「ほかには」「一応総合電機メーカーに分類されていますが航空機以外は何でも手を出していますから就職しても面白い仕事が見つかるのではないかと」「では採用させていただいた場合どのような職種を希望されますか」「とくにありません」「勤務地は四国を希望されますか」「いえ、東京がいいです」「どうしてですか」「東京は政治経済文化の中心ですから」「みなさんそう言われますが東京に住む人間のどれだけが享受しているでしょうか」「それはその人間の素養、資質によるでしょう」「どのような会社生活を考えておられますか」「会社生活は雇用契約ですから言われるままに働くしかないでしょう。休みの日は音楽会、美術館を回りたいですね」「休日が多いことが魅力でしたか」「そうですね、週休完全5日制は日本ではまだ少ないのでは」
面接を終えた人事課長は四国支店に電話を入れる。四国支店長は金丸教授と大学時代同期であったようだ。「まるで入社してやると言った態度でしたか、申し訳ございません」電話に出た庶務課長が対応に苦慮する。「まあ根性はありそうですから採用方向で検討する旨支店長にお伝えください」「何分良しなにお取り計らいください。支店長が帰り次第ご本社に電話しますので」「いえそれには及びません。面接の報告ですから」矢野は後日人事課長が四国支店長の大学の後輩であることを知るのであるが、自分の就職が学閥によって決まったことには思いも及ばなかった。

矢野は楽器にひかれて店にいる。「楽器をお探しでしょうか」店員が寄ってくる。「いやなんとなく」とうるさそうにいった。「弦楽器でしたらこちらでございます」と店員は案内する。ていねいな言葉遣いだが高慢な感じがする。矢野はこれを無視して店内を見て回る。大した楽器はないだろうという態度だ。「お、楽譜もあるのか」と言うと店員は困った様子でついてくる。「おい、矢野じゃないか」学生時代の同期に声をかけられた。「おお、永田か」どうやら店員の監督をやらされているようだ。「ここにいるのか」この会社は今や世界のシェアーの半分以上を占めている。永田は誇らしげな顔で「ああ5月に配属された」と答えた。「いきなり本店か、お前幹部候補だな。そうだ合唱による風土記阿波を探している」「え、」「有名な曲だがあるか」店員が目録を探すが首を振る。矢野は「またな」と店を出た。東京の人間はどうも謙虚さがないと矢野は常々思っていたがここでも同じ気がした。


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