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作品名:合唱物語 作者:佐々木 三郎

第4回   第二章 一流合唱団   公害防止 再会
第二章 一流合唱団


時は流れて矢野は東京にいた。合唱団員も就職してそれぞれの道を歩んでいた。矢野は学究の道をあきらめて企業に就職したのであった。三度目の挫折である。一次志望大学受験、指揮者コンペ、大学院受験にいずれも失敗したのだ。多感な青春時代には挫折は堪える。だが挫折を乗り越えてゆくのも若さであろう。香川京子谷和子にはそれぞれに「三年は待っている」と言って別れたのであった。時は挫折も愛も流し去ってゆくのであろうか。


公害防止

一般にサラリーマン生活は単調であるが矢野は入社して間もなく公害問題というテーマを見つけた。当時公害問題は会社業務とは関係ないという認識であったが日本を代表する会社であったから「まあやれせておけ」となったのであろう。矢野がその年の秋、区役所の公害課を訪ねるといきなり「おたく工場設置届を早く出せよ」と職員にかまされた。「根拠法は?」と矢野が切り返す。職員は東京都公害防止条例をテーブルにたたきつけた。矢野はそれを手に取って目次を見て届の項目を開く。「前任者は」「本社に転勤しました」「優秀な人は本社にゆくのだな」

矢野は前任者から担当は東大出で気が短いと聞いていた。「岩橋さんの大学での専攻は」「化学、ばけがく」「じゃあ法律は詳しくないな」30歳位の岩橋は技術職であろうが関係法令を頭に入れている。それが民間企業の新入社員にあしらわれている感じだ。「この条例は1年前から施行されているのに対象企業の届が出ていないのは区の怠慢でしょう。当社にも督促しましたか」たじろぐ岩橋。「工場のレイアウトと特定施設を出せばいいのですね」「特定施設は全部レイアウト図面に落とし込んでもらいたい」「わかりました、3月以内に提出しましょう」「ふざけるな、すぐ出せよ」「当社の特定施設はおそらく1万以上あるでしょう」
話をきいていた係長が話に加わる。「一度御社の工場を見せていただけるでしょうか」「それはいいですが事前にご連絡ください。私が案内させられますから」「お忙しそうですね」「日常業務にこの届が増えましたから」「嫌味をいうな」と岩橋。

矢野が帰った後公害課では「あいつをごねらすと面倒なことになる」と係長が岩橋を諭したらしい。矢野の報告をきいた課長は「3月以内と言ったのかい。せめて3週間ぐらいと言えなかったのか」「ああいう役人根性は初めに叩いておいた方が今後何かと」「やりやすいと言うのかい。君は大物だよ」

話が工場排水の水素イオン濃度ペーハーpotential hydrogen、power of hydrogenに及ぶと課は全員が身を乗り出し、あるいは聞き耳を立てた。酸性かアルカリ性かという話だ。矢野は区役所の「おたくのPHいくら」との質問にPHの単語の意味が思い出せなかったのだ。「でなんと答えた」「普通です」「普通です、か」と全員が大笑いした。「君大学出ているのだろう」「化学など受験勉強が終れば忘れてしまいますよ」「あとは工場排水の水質検査かな」

矢野は少し間をおいて声を落として話し始めた。「来年には国も動き出します。公害基本法、それに個別法の関係法令が成立施行されるでしょう。今から公害原となるものを調査して対策を講じなくてはなりません。それには工場を挙げて取り組まないと不可能です、公害防止委員会を設立していまから該当部門に作業の改善と抜本的対策を求めるのがよろしいかと思われます」
全員が静聴する。「総務が設立する委員会は安全衛生ぐらいだ、この委員会は工場全体を管理監督するものになるだろう」と課長が興奮気味に言った。当時は総務黒子論が支配的であったのだ。

さっそく公害防止委員会の設立を部長会に運営を部課長会に提案することになった。課長は矢野を伴って部長室を訪ねる。「これが委員会設立の提案趣旨でこちらが運営方針です」「ほう社会的信用ね、これからの企業は利益追求だけではやっていけなくなるよ。矢野君これ君がまとめたの、すごいねえ」「つきましては部長、法令の動向を調べておりますが成立前のことですので我々苦労しております」「上程もされてなければ大変だろう、僕もコネを通じて当たってみるよ」

当時の部長と課長の関係は概してこのようなものであった。身分である。矢野は委員会運営については両罰規定を強調するよう部長に進言した。すると法人の代表者を人にしろと言う。「公害関連法は違反した企業に罰金刑を科すほか人にも禁固刑をもって臨んでおりますのでこの点注しておく必要がございます。こんなところでよろしいか」「矢野君、代表者も人。工場長部課長従業員も人。自分らも逮捕起訴されるかもしれないと思っても君が説明不足でしたと言えば済むことだよ。むしろ思わせることが大切なのだ」組織ぐるみの悪事は下が責任をとるのが伝統的日本社会ということだ。上は美味しいところをいただく。武家社会の伝統は今日でも生き続けている。

あとは実務レベルだ。「課長、今回は総務で届をやりますが、このあとをどうするかですね」「特定施設をはじめとする変更を遺漏なく届け出るにはどうすべえ」矢野は条文法令規則を書き出して一覧にした。例えば政令は「法第7条にいう特定施設とは次のものをいう」とくる。この政令を条文の横に注記してあれば探すのが容易だ。
この公害関係条文法令規則一覧は本社に絶賛され各工場から一部譲ってくれという依頼が殺到した。あの区の公害課すらご恵贈賜りたくと言ってきた。しかし現場の評判は今一つさえなかった。ある日矢野は製造部長に呼び止められた。「あの条文法令規則な、現場には難し過ぎる」「どうしてですか」「説明の順が逆だ。法律の素養がない人間には、次の場合は届、許認可が必要とまず説明する。切断機、送風機、酸洗浄等を設置または変更したときと具体的に書く。ただし、定格出力2.5kw未満は不要と付け加える。特定施設の定義などは付録でいい」「なるほど技術屋には具体名をまず示すか、歳の功ですね」「馬鹿言うな、俺はそんなに年食ってないぞ」この製造部長の父親は高検の検事正であったというから人は見かけによらない。「昔は知事か検事正と言われたからうちの製造部長では」「比較にならないか」「提灯に釣り鐘、月と鼈、雲泥の差」「そうかい」と嬉しそうに言った。この少し柄の悪い製造部長はその後も矢野に手助けしてくれた。


同窓会

大学の同窓会の案内がきた。東京は企業官庁が多いだけに同窓生も多い。同期では黒川、火野も出席するようだ。その日は終業とともに会社を出る。寮に帰って着替えをして都心に向かう。卒業した年は一番同窓生が気になる。矢野たちにとって同期以外は先輩だ。既に定年間近かの老人もいた。同窓会は学生時代を懐かしむものだが出世を自慢するところでもあるようだ。
新卒業生は前に並んで自己紹介した。出席者には名の知れた会社の社長、常務、部長、課長の肩書が並んでいる。学究の道をあきらめた矢野にも出世は気になる。日本社会は大学に先に入学して卒業したというだけで先輩という地位身分が与えられる。そのくせ後輩の面倒見はよくない。矢野は同窓会を重視していない。T大、K大といった有名校は横のつながりだけでなく縦のつながりもすごい。これが有名大学への志望動機であろう。社会に出ての結束力が違う。

目的は同期の現状を知ることである。矢野にとっては香川京子と谷和子の消息が知りたい。京子は地元の中学で英語教師になり、谷和子は名古屋に就職したそうだ。何故連絡してこないのだ。二次会は同期8人でスナックに陣取る。主役は勿論消息通の火野である。名古屋と言えばゼミ幹の仲谷がいる。近々名古屋支店に主張するので会ってみたいと思った。150人の同期はそれぞれの道を歩み始めた。大学4年間を共に過ごした、ただそれだけのことではあるが同期と言うだけである程度の連帯感つながりがあるのも事実である。同期の卒業後の消息を知り自分と比較するのだ。
黒川と安田は大学院に進学したそうだ。他に6人が大学院に行ったと聞いて矢野は複雑な気になった。突然火野が大きな声で「矢野が企業に就職するとは思わなかった。3年我慢できるかな」と言った。みんなの視線が矢野に向けられる。河西も矢野が大学院を目指したが失敗したことは知っているので矢野に声を掛けづらかったのだ。火野は昔から無神経なところがあるが就職活動もせず大企業に就職した矢野をやっかんであるようだ。「今何やっている」と黒川が気を利かす。

みんな聞きたそうである。「公害をやっている」PHの話をすると大笑いになった。「どういうこと」と火野がきく。「PH水性イオン濃度、酸性アルカリ性の濃度を訊かれて矢野は普通ですと答えたということだ」黒川が解説する。「しかし大したものだな、役所を相手になあ」「で届の方は」「2月目に提出した。区の係長がお忙しい中早々に出していただき有難うございましたと受け取った」
また笑いが起こる。「1年も遅れておいて役所に感謝させる、並の人間にはできないな」矢野は話を変えた。「英会話部の山下慶子どうなった」勿論当て馬だ。山下は準ミスコンだが香川京子と僅差であった。予選は1位で通過した。女の話になると火野が出番とばかり口を開く。三面記事が好きな男だ。「結局誰もものにすることはできなかった」「そうか、裸にしたらいい女と思ったが俺は香川京子のほうがいいな」「それよ、彼女婚約者がいながら他の男とできたらしい。破談話も出たが婚約者が目をつぶることになったということだ」矢野は一瞬どきっとなったが「結婚するのか」とつづけた。「近いうちとか」どうやら火野は気づいていないようだ、矢野はほっとした。「しかし香川さんが一番だったな、そいつが羨ましい」と河西が言った。河西は真面目一方であったから可笑しかった。
やはり香川京子は衆目の意一致するところであったようだ。「そういえば矢野、谷さんとはどうなった」河西がきく。「お前は」とききかえす。河西は一年下の団員と純愛路線を貫いて来年には結婚式を挙げるそうだ。「谷さんて合唱団の、可愛い子であったな」と石原が懐かしそうに言った。「谷さんは地元では就職したくないと名古屋の中学に就職した」と火野が引き継いだが話に棘があった。


再会

矢野が名古屋駅に着いたのは昼前であった。東京から2時間、便利になったものだ。改札口で人にぶつかった。「すみません」と謝ったが「矢野さん」と声をかけられた。なんと谷和子だ。想いは天に通ずるのか。「ああ」と言うたがあとがつづかない。「どうして」「出張だ、食事をしよう」とレスタランに誘う。支店に食事をしてからそちらに向かうと電話を入れる。
谷和子は少しやつれた感じがしたがやはり可愛いと思った。大学院をあきらめて東京に就職したことを手短に話した。和子は懐かしそうに聞いていたが、これから研修会に出席するそうだ。「で研修が終わるのは」「5時」「じゃあ6時に会えるか」「ええよ」「待ち合わせ場所は」「私セントラルホテルに泊まる」「そこのロビーに行く。遅れてもまっていてくれよ」「仕事があるんやから急がなくてもええが、私待っているよ」
必要なことから話すのが矢野やり方だ。「彼氏できたのか」「まだ」「俺一日出張をのばすよ」「そんなん、でけるの」「なんとでもなる。それより俺は待っていた」「矢野さん進学するって勉強してたから近づけなんだ」「時々お前を思うてさびしくなった」「香川さんが訪ねていたやろ」「ああ、彼女と話していると気が紛れた」「話だけ」「当たり前だ、売約済みに手は出せないだろう」「ならええけど」

倉敷旅行はばれていないようだ。「どうして名古屋に」「どこでもえかったけど地元を離れたかったんや。親もと離れてみないと大人になりきれない気がしてな」「それは言えるな、俺も寮にいって一人でやっていけると思った」「うちら県外受験さえさせてくれなんだ」「箱入り娘だからな」「箱から出たかったんよ」

次は今夜の泊りだが和子の部屋に泊まるのが最善だ。「今夜部屋に泊めてくれるか、そしたら就職祝いしてやる」「ええ、けど食事しよう」「宿泊代が浮くから1万位のもの見つけて置け」「ええの」「初任給手取りで5万あった」「ほんま」「残業30時間やったけど今月は50超えている」「大きい所は給料もええんや」「お前嫁に来てもいいぞ、食わしていける」「いくでえ」「おお、いつでもええよ」「でも5年くらいは働きたい」「俺と結婚して一生働いたらええ。東京に転勤でけんのか」「名古屋でも苦労したんよ」「そうか、もっとも俺も転勤があるかも。ずうっと東京とは限らんしな」「ほんなら矢野さんが名古屋に来たらええが」「ほれもいいな、まあ今夜ゆっくり話そう」


支店に着くとすぐ、大学の同期に会って今夜食事を約束したと言っておく。何事も先んずれば人を制す。「今夜名古屋の夜を楽しんでもらおうと思っていたのだが」「でしたら明日の昼にご馳走してください」「君仕事はいいのかい」「早く終わると夜行で帰らなくてはなりませんから」「わかった、(逢引を見ぬ振りするも武士の情け)では今から一局付き合え」と支店長は社宅に矢野を連れてゆく。支店では麻雀ゴルフで囲碁はあまりやらないらしい。
矢野が先手コミなしで対局する。50過ぎの支店長は積極的に打つ矢野に穏やかに対応する。中盤から戦いが始まり黒は右上隅の白石4目を取って出入り30目の成果を上げたが白に中央を塗りたくられた。白の鉄壁は50目以上の価値がある。矢野は戦略を変えて下辺を重視した。白石に近づくことはできないと判断したのだ。白の侵略は食い止められないが本丸には近づけないぞという配石だ。終盤に入っても細かい碁になりそうである。白の付け越で黒は長考する。2子を捨てると10目、これでは勝てそうにない。かといって切断すると持ち込みなるか傷口を広げるかだ。15分長考してエイと白石を切断した。
今度は白が長考する。手抜きして先手で寄せれば6目は見込めるが1目勝負になりそうである。黙って2子を抜いても先手ではあるが先に黒から撥ね次を打たれると似たようなものである。つけ越した石を伸びて黒の出方を観る。黒は2子をつないで全部を取ろうとする。「ここは2子を捨てて白石を半分だけ取るべきであった。白の撥ねにはかまわず黒も撥ねる。これで1目黒が残った」というのが局後の支店長の意見であった。支店長は棋風から矢野の人間を見たのだ。

時刻は1時半を回っていた。そろそろと席を立つと支店長もそうだなと会社にもどる。矢野は公害関係の届に眼を通して修理工場の特定施設を視察する。「これは何ですか」「配管洗浄です」「苛性ソーダですか」「ええ、錆落としですから塩酸を使うこともあります」「洗浄後は」「排水溝に流します」あとは騒音振動だなと矢野は思った。「音の苦情はありませんか」「板金音と耐久試験のときぐらいかな」「時間は」「半時間、長くて1時間」「ならいいでしょう。このダクトは」「塗装の排気ダクトです」「この消音タンクは相当振動していますから砂か土をかぶせてみてください」敷地3000uくらいだから半時間もかからない。すぐ出張報告書を書く。
1特定施設
 配管洗浄器1、送風機2
2問題点
 21洗浄用の廃酸廃アルカリをそのまま排水しているが業者に引き取  るよう指導すべき。
 22排気用ダクトの送風機は騒音振動対策を要す。
 23燃料タンクの危険物取扱主任者の変更届未了。
人事異動に伴う対応をシステム化する必要あり。
3公害関係法令への対応
 事業所の公害への認識は高いので関係法令の情報収集に注意すれば 問題ないと思われる。


矢野が総務課長に「これを報告しますので」と原稿を見せると驚いたようにすぐ工場長に報告するため同行させられる。工場長も50歳くらいで人の好さそうな顔をしていた。「ああご苦労さん、廃酸廃アルカリを業者に引取らすでええんやな。振動対策は砂をかぶせるでええかいな」「変更届は人事異動の際には有資格者をチェックするでよろしいか」と総務課長が口を入れる。工場長はなんでこんなことでという矢野の顔を察してか「あんたに来てもろうた理由は、PHは普通や」ああペーハーか。区役所に普通と答えたことか。「男と見込んで頼むのや」総務課長が用地買収当時の工場図面と写真を広げる。「この写真の建物の下には有害物質が埋められている。この工場はこの建物を取り壊して建てた」「その有害物質をどうするかということですか」「はいな、うちがこの土地を買収した時は蛍光灯を生産してたらしい」「水銀、六価クロムなどですね」「そこで貴殿の悪知恵を拝借したい」矢野がむっとすると「ジョークだよ君、工場長は全社的観点で心配されているのだよ」「わかりました。このまま埋め殺しか、対策を取るべきかですね」「いろいろ訳ありで困っているのでよろしく頼むよ」矢野はしばらく考えてから「半年以内に結論を出しましょう」と答えた。「そんなにかかるかな」と総務課長が言ったが「格別急ぐ理由はございますか、工場長のお考えに沿うような結論をださせましょう」「あんた明日帰るんやって晩飯ご馳走するがな」「せっかくですが学友と約束していますので」「そうか、次回にしよか」と工場長はあっさりしていた。
矢野は総務課長に都市計画図、地質図が欲しいと頼んだ。総務課員が車で市役所に連れて行ってくれた。都市計画図簡単に2部入手できたが地質図は耕地課にゆくように言われる。そこで担当者がいないのでわからないと言われた。「岡本さん、明日出直しましょうか」と矢野がいうと「そうしましょう、ホテルはどこですか」と言ってくれたが学友が谷和子と知れてはとデパートの近くまで送ってもらった。総務課係長の岡本は状況を即座に判断できる。これからこの男とやっていくことになろうと思った。 


ホテルのフロントに電話して和子を呼び出してもらった。「松坂屋の屋上ね、すぐ行く」との返事。矢野は余分なことは言わない女が好きだ。あれが尾張名古屋城か、中日球場はあっちか。矢野の胸は高鳴っていた。と和子が5分ほどでやってきた。「早かったやない仕事済んだ」「お前に会うには万難を排してだ。鞄売り場に行こう」「ええんけ」「気に入ったのがあったら買ってやる」和子はショルダーバックを手にしたが隣の手提げカバンを物色する。矢野は値段を見て和子が遠慮していると判断した。「鏡を見てみろ、うーんこっちが似合うな」とショルダーを勧める。「ええんな」カウンターに連れて行って「こっちを包んでくれ」と言った。和子は会計をしている間に中身を詰め替える。「どうや」「よう似合うとる」久振りに明るい笑顔だ。

和子はすき焼き店に案内する。「松坂牛や、おいしいでえ」「食うたことない」「そやろ、奢ってあげる」まだ6時過ぎの店内は空いていた。奥の席に座って注文する。「しゃぶしゃぶ」と言ってから和子が女房気取りで「生ビールふたつ先に」と言い直した。やはり可愛いなと矢野は思う。すぐに生ビールとしゃぶしゃぶがきた。「これな一二回湯に通してタレにつけて食べるんや。美味しいでえ」「まず乾杯。うん美味い。ジンギスとは違うな「当たり前や松坂牛やで」「わかっとう」「さあたんと食べな」確かにとろける旨さだ。あの時のふたりに帰った気がした。「すき焼き」と和子が威勢よく追加。「そや日本酒も」というとすっと出てくる。
やはり混むまえがいい。「松坂牛は酒だな」というと「さあもう一杯」と酌をしてくれる。「お前今まで一番きれいやな、こんな別嬪見たことない」「お世辞言うてからに、もっと食べる」「一人前でええ」「遠慮することないんよ「飯が食いたい」「まだ早いわ、お酒2本」「さしつさされつしているうちに別れられない仲となり」
和子の顔がほんのり赤くなってきた。「もよおしてきた」「トイレ」「お前が色っぽいから、あれや」「聞こえるで」矢野は我慢できなくなってきた。和子も覚悟していることは確かだ。「うちの奢りや」と酒を勧める。覚悟はしてもそこは処女の事、不安もあろう。「何を考えてるの」「そのうちにな」
どうも会話にならない。矢野は飯を食い始める。「こんなうまい肉なんぼでも食うぞ。だが腹八分目が肝要」飯も美味い。味噌汁と漬物がまた格別だ。飯をお代わりする。「おお腹いっぱい、胸いっぱい」ようやく和子は気づいたようだ。「せっかちゃね」

店を出て宵闇迫る街を和子のマンションに向かう。宵闇迫れば 悩みは果て無し君恋し とはやる気持ちを抑えるように口ずさむ。部屋に入るとすぐシャワーを浴びる。戦闘態勢だ。和子がバスタオルで浴室に向かう。「よく洗っておけよ」「いやらし」矢野はブランデー取り出し舐める。和よ来い 早く来い ベサメー ベサメームウチョー 君恋し ああああー初恋の 君を慕いて忍びなく

やっと和子が出てきた。我慢できずに抱き上げてベッドに運ぶ。矢野は狂ったように唇を吸い首筋にはわす。「あの時と同じ」と和子は言ったが乳房を吸われて声を立てる。矢野の唇が股間に触れると身を固くした。だがすぐ甘味な感覚に変わってゆく。舌で愛撫されてのけぞる。それは執拗に和子の子宮を舐めてゆく。和子は抵抗できなくなって「きて」と言った。
 矢野が入ってゆくと少し顔をゆがめる。「すぐ気持ちよくなる」と矢野は和子を見つめる。「ああ入って来た」ゆっくりと前後させる。「大きくなってゆく」当たり前だろうと思ったが声が出ない。「ああピクンとした」実況放送じゃねえぞ。矢野の息遣いが荒くなり頭が白くなってきた。あとは本能の命ずるまま身体が勝手に動く。「ああこれだったのね」と和子が言ったが矢野には聞こえなかった。
 やがて和子の小さな身体が矢野を持ち上げる。今二人は一点で堅く結ばれている。俺がこうさせているのだと矢野が思ったが矢野の亀頭がむくむくともたげると激しく射精した。それは和子の奥深くを濡らした。悲鳴に近い声が夜の静寂を裂いていた。矢野は和子の上で果てたが和子はその重さがたまらなかった。 

やがて矢野が転がり落ちると和子はその胸に顔を埋めた。私も女になったと思うとよろこびがこみあげてくる。あの時から長いつらい時間が経過していた。こんなにいいものならこの人が私を求めるのも無理はない。あの時に許しておけばよかった。矢野の心臓が激しく鼓動していたが静かになってゆく。その満ち足りた顔がいじらしくみえる。

それから二人は求め合った。恋は、性は習わずともできる。「あんたのチンチンて成長するのや」「畑がよいとよく育つ」「私のは畑いいの」「名器だ」(それで亀頭をこすられるとたまらない)「私こども産みたい」「最低でも3人、一姫二太郎。こどもは多いほどいい」「貴男大変」「精のつくもの食わしてくれ」「ええよ、貴男の為に料理するわ」「お前先生やってたら家政婦おかなならんな」「こどもができたら先生やめる」

将は激戦の疲れで眠りに落ちるが精兵はすぐに目覚める。「もうだめ、くたくた」冷蔵庫にサンドウィッチがあった。「ビールかワインか」「ビール頂戴喉乾いた」性はこんなに腹が空くものか。二人は貪るように頬張る。「よし行くぞ」「許して身体がばらばらになりそう」と和子は言ったが精兵を迎え撃つ。猛攻にmp見事に反応した。「すごいわ。だめまだ行かないで」「俺死にそう」「行ってええよ、全部ちょうだい」「もう弾薬は使い果たした」

二人が目覚めたのは八時過ぎだった。矢野はヤバイと思ったが10時までに出社すればいいと和子を三度襲う。これ以上のよろこびはないと二人は思った。離れがたかったがシャワーを浴びて身づくろいをする。矢野が名刺を渡して部屋を出る。「連絡先教えてくれ、近いうちに名古屋にくる」「気を付けてね」と和子が見送った。



矢野は支店に出ると総務課長に平身低頭した。「武士の情けで目をつぶるけど休まず遅れずが基本だよ」「この分は必ず挽回して見せますので何分何卒」「工場長がお待ちかねだよ。岡本君一緒にきてくれるかな」工場長室に入ると「おめざめですか、コーヒーになさいますか」と皮肉られた。「まあ我々にも経験がありますので武士の情けをもって」と総務課長がかばってくれた。「武士の情け、人を切るのが侍ならばですな。ところで地質図が要るそうやな」

ほっと一息ついた。「されば重金属等が外部に漏れださぬように致すが肝要と心得ますれば地質によってその方策を探るべきかと思案する次第であります」「そりゃそうじゃのう。それがしにも考えがござるよってに別の手立てをいたそうぞ。まあ珈琲飲んで仕事モードになってや」このおっさん俺の心をお見通し、油断できない。「よろしいかな、都市計画図の用途は」と総務課長も悪乗りしてくる。「重金属の存在が知れるのは外部に流出するか、掘り起こすこと以外には考えられません」「お主できるな。この敷地が都市計画にかかって市に買収されたことを考えてはるのか。流出防止はどないにしまひょ」

矢野はゆっくり珈琲を口にする。「いずれにせよ土壌水質検査が必要ですのでサンプル採取が急がれます。なお、分析検査は社内の、内部で、どこかありますか。どこがいいかな」「君落ち着きなさい。昨日の事はもう言わない」「やはりうちの横浜研究所に依頼されたらいいのでは」「あんさん届けてくれるか」「お安い御用で」「おい1mピッチで土壌採取や。それに境界も、まあこれはあとにするか、ついでや」重機のオペが呼ばれる。「一時までにやってや、特急やで」「岡本君サンプルの採取の仕方横浜研究所にきいてみ」「承知しました」「こんなとこかな、ほな昼飯に行こう」「工場長鰻がよろしいですか」「そやな、お客さん鰻いけますか」


鰻は腹に応える。腹が膨れると緊張がとける。和子との激闘が矢野の頭をよぎる。岡本がサンプル土壌を持ってきた。「色気のない物運ばせてすまんのう」「なんのこれしき、一膳の恩義に比べれば」岡本が駅まで送ってくれるという。「ではこれにて失礼いたします。お世話になりました」「ご苦労さんでした。気いつけてな」岡本は30位だが実質総務課を錐揉みしている感じだ。

矢野は新幹線に乗ると新横浜まで解決策を考えていた。工場立地法が緑化率25%以上を要求しているからこれでゆこう。それには支店工場も建て替えたい。どのようなシナリオでやらすか。建替えの理由づくりだ。日本は昔から客を迎えるに当たって新築改築する。その客は天皇家もしくはこれに匹敵すものが望ましい。これは相当の政治力がいる。まあこれは時間をかけて考えるか。
それよりも名古屋支店の対応は重金属が埋められている、それだけの理由だけだろうか。あの人の好さそうな工場長の眼の奥には大きな悩みが秘められている気がした。これもそのうち判って来よう。今は名古屋への出張の機会を増やすことだ。それにしても純情可憐な谷和子が性にあれほど大胆になるとは驚きだった。香川京子の妖艶さと甲乙つけがたい。和子を正室に京子を側室できれば最高だな。
矢野は睡魔に襲われそうになる。精も根も尽き果てる激戦の後であるから当然である。横浜研究所に土壌分析を依頼する任務があると何度も何度も自分に言い聞かした。新横浜で下車しやっとの思いで任務を終え在来線に乗る。ああ、これで安心して一眠りできると思った。横須賀線が終着の東京駅に着くまでの間矢野は綿のように眠った。

矢野は出張報告を終えると仮眠できる場所を探す。仮眠室と言えば警備員室がいい。「2時間したら起こしてください」と警備員に頼むと再び眠りこけた。終業サイレンで矢野は目を覚ます。3時間眠ったことになる。欧米なら賃金カットであろう。空腹を覚えて近くのラーメン屋に飛び込む。客はいない。味噌ラーメン大盛りを注文する。不倫の男女はよくラーメン屋にゆくと聞くが奮励努力するから身体がラウメンを求めるのでないかと思った。
何食わぬ顔で席に戻ると電話メモがあった。「名古屋支店の岡本さんから電話あり、折り返し電話されたし。15:20、16;10」急いで電話を掛ける。「はい、分析結果は3.4日で出ると言っていました。社内便で着きましたらそちらにも写しを送ります。そうですか、お手数をかけました。はい、わかりました。いろいろと有難うございました」これで無断睡眠の魔の悪さが飛んで行った。出張報告書と旅費精算書を書き終えると都市計画図を広げる。ファックスで送られてきた地質図を重ねる。やはり色分けされた原図が欲しい。

しばらく考えて同期に電話する。「土壌中の重金属が流出しないようにするのはどうしたらいい」「流体力学的には水平方向に流体がなければ流失しない」「どういうことだ。土壌の中の水が横に流れないようにすればいいのか」「そういうこと、ただし流体は水だけとは限らないぞ。今忙しいからあと1時間したらそちらに行く」「そうか、悪いな」あいつ愛知の出身だったな。別にどうでもないか。

電話を切って考える。流体は水だけでないとはどういうことだ。太田幸次が牛乳瓶180ccに砂を入れて持ってきた。「素人にはこれがよくわかるだろう。砂が半分入っている。約90ccだ。これに水90cc入れると」「ちょうど一杯になる」「見てろ。水を90cc入れるぞ」
みんな仕事の手を休めて見守る。「いいか、入れるぞ。ほら一杯にならない」ほうっとため息が出る。「うーん。砂の隙間に水が染み込む」「そういうこと。水の代わりに水銀を入れるとどうなる」「同じようには」「いかないよな。水銀が重いから下に沈む。ただし、全部ではない」「砂の上に残るのもある」「通常の状態ではな。だが揺すってやればほとんど上と下に別れる」「地震か」「先走るな。土壌は。これか、場所どこだ。」太田は地質図見やる。「そこは粘土だな。水分が多いと、つまり含水率が高いと水銀、重金属は沈み込んでゆく」「どこまで」「底まで。一番浅い支持層が底になる。これは土木のイロハ。腹減ったから帰る」太田はそそくさと帰って行った。
矢野は牛乳瓶の水を移す、砂だけだが水を含んでいる。水を切るには、少なくとも水が入らなくするには。「矢野君わかったか」と庶務課長がそばに来た。「濡れないと入らないということじゃないでしょうか」笑い。「いやらし」と女子社員。「お前なんか感度が悪いから濡れないのだ」「矢野君触ったのか」「触っていませんよ」「痴漢も犯罪だからな、社会的信用が失墜する。しかし大したものだな、君の同期の太田君」


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