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作品名:合唱物語 作者:佐々木 三郎

第3回   夢中創作 ミス学園
夢中創作

矢野は3年になった。ゼミナールは民法を選んだ。捉えどころない経済よりも民法は普遍性があると思ったからだ。もともと矢野の志望は教育学であったから経済も民法も拘る程ではなかったが合唱指揮の夢が消えた今打ち込むものが欲しかったのだろう。
矢野は中四国ゼミの発表原稿を書いていた。大学院で研究を掘り下げたいと思うようにもなっていた。通学時間を節約するため寮を出て下宿生活を始めた。月に一度は香川京子が訪ねてくる。下宿のおばさんには「婚約者です。卒業したら結婚しますと紹介した。「まあ綺麗なお嬢さん、矢野さん遅くまで勉強なさっているからお世話してあげてね」と覚えがよかった。女になった香川京子はさらに美しさを増した。あれから半年以上になる。最近二十歳になったばかりであるが歳以上の落ち着きがある。

矢野は幸せであった。京子がいてくれるから学問にも身がいる。次のテーマは「生命侵害による慰謝料の相続権」と決めていた。卒論のテーマにしてもよいとも思っていた。人の生命が侵害されたら、つまり殺されたら被害者に慰謝料請求権が発生するか、その請求権は相続されるかということだ。人が死んだら権利主体でなくなるからもはや慰謝料は請求できない。請求できないものは相続できない。ごく当たり前のことである。なのに何故多くの学者がこのテーマに取り組んできたか、飯の種にするためだろう。矢野は賃借権も登記すれば対抗力を持つから物権化などと屁理屈をこねまわすことはないと考えていた。このテーマも同様である。遺族の固有の請求権で十分と考える。
 多数説は身体を侵害されたときは慰謝料を請求できるのに生命を侵害されたときは慰謝料を請求できないのはおかしいという論法だ。殺され損かと言わんばかりである。私権の享有が出生に始まるならば反対解釈として死亡で終わることは当然である。死亡は相続の始まりである。死は権利の終了時点であり、また相続の開始時点でもある。
 同じゼミの直木なら死者には請求権は発生しないと言えば烈火のごとく怒るだろうと思った。矢野はどこかで区切りをつけないと社会の秩序が保てない、少数説が正論と考えた。所詮法律は社会秩序の維持手段、すべての問題が法律で解決できるものではない。まあ判例多数説の意見も聞くだけは聞いてやろうと言う態度だ。
 有名な昔の判例は、被害者が死ぬ前に「残念、残念」と言ったのは慰謝料請求権の意思表示であると認定して相続権を認めた。矢野は笑ってしまった。裁判もいい加減なものだ。「助けてくれ」「向こうが悪い」なども同じ扱いだ。当時の新聞は死ぬ前に何はさておき「残念」と言残すべしと揶揄った。矢野は声も出ない即死ならどうなると言いたかった。また多数説のある説は、生命侵害は身体侵害の極限である、よって相続を認めるべしと言う。
気持ちは解かるが0.999…が1になると言う論法だ。高校の数学の時間1になると答えた同級生がいたそうだ。彼は数学を専攻し大学教授になったと聞く。彼と話してみたかった。矢野は中学時代数学教師に1/3=0.333…ならば両辺を3倍すれば3/3=1=0.999…となるかと質問したことがある。その教師は困っていた。
こういう話は直木でないとできないが彼も忙しそうだと話そびれた。それで京子に話してみたが「むずかしいわね」と軽くいなされた。京子とできてからどうも直木と話しづらい。勿論京子と直木は何の関係もないのだが、、、。
矢野は少数説に立って相続権を否定した。被害者に遺族がない場合は殺され損かと少し悩んだが法律は紛争解決手段、万能ではないと割り切った。数年後最高裁は「慰謝料請求権は当然相続される」と理由ものべずにこう判示した。その時、矢野はサラリーマンになっていたがこのテーマを思い出して何が当然だ、当然の濫用だと憤慨したものである。この判決が判例になっているようだからいい加減なものだ。

京子は燃え盛る性の炎を鎮めてくれる。至福の時をもたらす菩薩か女神か。京子を見ているだけで幸せになる。世の中に美しきものは数あれど京子に勝るもの我知らず。矢野の支配欲、性欲は刺々しさがなくなり京子への感謝に変わっていった。それは態度の節々に現れる。京子もこれを察して満ち足りた気持になる。

中四国ゼミのテーマは「不動産賃借権の物権化」というテーマだが矢野はくだらないと思った。分かり易くいえば「売買は賃貸を破る」ということだ。例えば土地を借りて家を建てた場合で土地が売られると新地主に借地権を主張できないという。借地人は建物を撤去するか新地主の要求する地代を払わなければならないようだ。そんなばかなと矢野は思った。賃借権は債権であるから契約の相手地主には主張できても新地主には賃借権を主張できないと言う。現行法でも不動産賃借権を登記すれば済むことである。登記が対抗要件ではあることは不動産物権とて同じだ。
矢野のゼミはこのテーマに取り組んでいた。「賃借権を第三者にも対抗(主張)できるようにする」というものだ。地主が売買を繰り返すと借地人の賃借人の地位は揺さぶり続けられるから不条理だというのだ。人呼んで地震売買。所有権、地役権等の物権なら地主以外の第三者にも対抗できるから債権である不動産賃借権も物権化すべきだいうのだ。この急先鋒が直木であった。

直木は民法学者を目指していたからよく勉強していた。常にゼミをリードしていた。「矢野君の言うように不動産賃借権も登記すれば対抗力を持つ。しかしはたして賃貸人が自分に不利になる登記に応じるだろうか」「応じなくてどうする。不動産売買で売主は登記に応じないか。地主も売主も登記義務者だ」「多くの者が土地が買えないから借りるのだ」「貧乏人には借地借家暮らしが世の常」「一部の者が広大な土地を有して多くの者が土地を持たなくていいのか」「それは政治の話。農地解放でかなり是正された。今は法解釈の議論をしている」
いつもこんな調子であった。矢野はかなりの不動産賃借権(多くが土地建物)の登記がなされている例を法務局で調べていたが口には出さなかった。実務では結構件数がある。この実績を出せばこのテーマを取り上げる意味がないからだ。矢野は話に水を差す様なことはしないがどんなテーマでも疑ってかかる性格だ。時流にも雰囲気にも自分を見失うことはない。
民法の特別法である借地法では借地上に建てた自分の家の登記をすれば借地権が対抗力を持つから土地が売買されても新地主にも借地権を主張できる。矢野はこれで十分と考えた。

別の日直木が「現在の不動産賃借権の実体は賃料を得るための資本である。故に賃借権を無断譲渡もしくは転貸したとしても問題はない」と叫んだ。ゼミ生はその迫力に圧倒された。黙っていないのが矢野である。「所有権の実体が資本であることは認めるが賃借権は借りたものを対価である賃料を払って使用収益する権利であるから貸主に無断で譲渡も転貸もできない」
ゼミ生はさあ始まったぞと論戦を見守る。直木がむっとする。「借りたものは返さなくてはならない。小学生でもわかる理屈だ」「君は、所有権をまた不動産賃借権を資本(賃料を得る手段)と認めておきながらそのような論理を展開するのはおかしい」「では賃料が入って来るなら女子大生専用のマンションの賃借権を飲み屋もしくは風俗の女に譲渡してもいいのだな」「それは極端なケースだ」「やくざに転貸してもいいのだな」「日本社会をマクロ的に俯瞰すれば不動産賃借権はその多くが資本として機能している」「それは聴いた、同じ事を繰り返すな。多くは問題なく機能しているが、少しの場合その資本的機能が問題になっているのだ。問題をそらすな」「小矛盾の背後には大矛盾がある。これを先に解決すべきだ」「答えになっていない。お前は共産主義者か」「なにお、もう一度言ってみろ」「何度でも言ってやる。大事な家土地を貸し与える賃貸人の身にもなってみろ。マンションの収入は激減するぞ」
 ここでゼミ幹の仲谷が間に入る。「矢野君の指摘するような場合は賃貸人たる大家に解除権を認めるべきだが、新しい賃借人に問題がなければ無断譲渡転貸を認めてもいいのではないのかな」「その問題がないとは」「まともな人間で良識的に使用収益する者」「その保証は、実際に使用収益させてみないとわからないだろう」「そこまで言ったら議論が進まない。大家は譲渡転貸前に新賃借人を見極めるしかないと思う。どの契約も相手が履行すると信じて締結するのじゃないかな」矢野は「それなら条文通り事前に地主大家の承諾を得てからやれ」と言いかけて止めた。ゼミ幹事の顔を潰すと思ったからである。

矢野は条文を時代によって解釈すべきとの直木の考えも理解できない。都合のいい解釈をするなら法律の意味がない。「そこまで勝手(拡大)解釈するなら解釈を超えている。司法の立法行為だ」「矢野みたいにカチカチでは法は運用できない」「条文をドむつかしい解釈をしなくてすむようにするのが法である」「条文の文言通りでは解決できない問題が多々ある」「それは政治すなわち立法で解決すべきである。司法は司法の分際をわきまえろ」「それでは法律だらけになる、法学の意味がない」「お前は独裁者の性質がある。直木が権力をもつと危険だ。権力を分散させ互いにチェックさせること必要でまた大切だ」「矢野の方がもっと危険じゃないか、法律は少ないほどよい」「山本、直木に何かもらっているのか」「いいや単なる感想よ、な水島」「うーん、社会が発展するほど制定法が増えるのは仕方ないとしても増え過ぎは良くない。それにどちらかと言えば矢野の方が直木よりも支配欲が強いからのう」

香川京子は矢野の話を聞いて民法ゼミの様子が想像できた。「直木さん紳士的なんじゃない」「あ奴はむっつりスケベ。手も早いから気を付けろ」「直木さんが私に手を出したら」「殺す」京子は近頃自分と同じ歳の矢野が自分の弟か息子のように見える。女を抱くから私に抱き付くようになった。私の方が矢野を抱く感じがする。彼って欲しいものはなんでも、とくに私のような美女は我武者羅に求める。支配欲の強い者ほど甘えたがると心理学研究室で誰か言っていたな、それだけ女が早く大人になるということか。
京子は矢野を抱き寄せ膝枕をしてやる。「チャタレイ夫人の恋人読んだか」「よかった、素晴らしい」「俺のも小鳥のように起き上がるのか」「小鳥、とんでもない、とんびか鷹ね」「お前も相当好きだな」京子は英文学専攻だがロレンスは読んでいなかった。「お前の身体冷たいな、暖めてやろうか」「何考えているの、スケベ」「小鳥は身体を寄せ合って眠る」「それをあなたが言うとイヤらしい」
この作品は出版社と翻訳者が猥褻罪で起訴され最高裁で有罪が確定する。矢野は検察官と裁判官はインポの僻みで有罪にしたと酷評したがこの判決が判例になっているようだ。ゼミの飲み会で水島が「裁判官も楽でないのう。職務に忠実が故にインポ呼ばわりされる」と言った。直木が「問題はこの作品の猥褻か否かだ。裁判官のポーテント能力ではない」とムキになった。この頃は何が正しいかで誰が正しいかではない。サラリーマンになると逆である。誰(どの上司が)が正しいかであって何が正しいかではない。胡麻擦り社会である。

矢野の読書量は京子の周りを上回る。「ロレンスはドイツに留学して教授の奥さんに手を出した経験からの作品だろうな」「教授の奥さんに、度胸あるわね。退学にならなかったの」「ああ、だがやはり英文学はシェークスピアとディッケンズだな」などとのたまう。
京子は矢野がベニスの商人の判決文は詐欺だと言うので読んでみたが法的にはそのような解釈をするのかと感心した。借金を身体で払う代物弁済契約は有効かということだ。「私はペニスの商人からいくら借りられる」「お前の身体なら300万は固いな、被担保債権の3倍1000万の担保価値はあるから300万が相場だ」「じゃあ貴男得しているわね」「どうしてそうなるのだ。以前の京子は可愛かった」「そうよ、夢見る乙女だった。そんな私を、こんな女に誰がした」
矢野は下を向く。「あなたにとってセックスって何」「セックスとは生の根源である。生きている証だ」「どうして」「生きていないとできないだろう、セックスの結果子が生まれる。人は出生によって私権を享有する。出生とは胎児が母体から全部露出した時をいう」「すけべね。誰が確認するの」「婦人科の医者」「医者は男もいる。スケベがなるのかしら」「当り前だ、女の恥かしいあそこをいらいまくる。さて本論だが男はやりたいが故、労苦を惜しまない。子育ての為に金を稼ぐのだ」「私の為じゃないの」「お前には百坪以上の家を建ててやる。可愛くないのう」  
京子は英文学の研究室で「セックスのない結婚は結婚ではない。結婚は生殖器の共有」と話すとみんなが驚いた。ロレンスのチャタレイ夫人の恋人を持ち出したのだが、その様子に京子は得意な気分になった。(私の彼はスケベだけどよく勉強している)

ミスコンテスト ミス学園

直木は学園祭の実行委員もやっていた。矢野がミスコンテストをやれと嗾けると乗ってきた。「応募要項、審査方法を作れ、委員会に図る」「わかった」二人は女のことでは気が合う。
応募要項
1資 格  本学女子学生で容姿に自信がある者で
本学男子学生の2名以上の推薦のある者      
2優勝賞金 5万円 賞金総額 10万円
審査方法
1予選審査  本学学生の投票、ただし投票用紙購入者に限る。
2決勝審査  予選通過者5名について平服、和服、水着の総合審査
      (各審査員は決勝出場者に上記3部門の順位をつけ、
その合計が総合順位だがこれを張り出すところがミソ)
直木は「審査結果の公表か、審美眼が問われるな。コンテストの権威が上がる」と感心したがつづいて「賞金の原資は。決勝審査の具体的方法は」ときいてきた。「投票用紙200円。決勝審査員就任権一人2000円応募者多数の時は抽選」「なるほど投票用紙1000枚で20万か、決勝の審査員増やせばいいか」矢野が返事しなかったのでなおもつづける「決勝審査員は自分が一番に選んだ美女の頬にキスできる特典をと考えて5名にしようか」「まあ実行委員会で検討しろ」「キスするとき抱き寄せてもいいのか」「その辺も含めてな」「素晴らしい企画だ。ありがとう。早速検討する」

次の週直木がやってきた。「おい、投票用紙1000枚売れたぞ。増刷中」「それは上々。だがこの大学にそんなに学生いたか」「商法の大隅教授が教職員も投票させろと言い出した」「人は見かけによらぬものだな」「でな1200枚位はいけそうだ」「では決勝審査員もやらせろと言うのじゃないか」「それよ、先生が1万円出すというから特別枠を作った。それと水着は同じ色のものを実行委員会で用意することにした、いいか」「ビキニか」「そういう意見もあったが女子委員にワンピースで押し切られた」「ブスのひがみだな」

当日、会場の講堂には立見席にもあぶれた学生が窓からのぞき込むほどであった。目玉は水着審査である。当時は水着がまぶしかった。ましてや学園の美女たちの水着である。香川京子が優勝したのは予想通りであったが谷和子が3位入賞したのは意外であった。平服和服の評価は京子を上回った。容姿、肉体美だけでなく内面からにじみ出る可愛さ人柄も評価されるのであろう。なお直木の発案で出場資格要件に男子学生2名以上の推薦が追加された。ヨット部の山田は推薦したであろうか。
 学園始まって以来のミスコンテスト、初代ミス学園は前述のように香川京子の頭上に輝いた。この年の学園祭は大成功であった。参加者は例年を大きく上回った。これが一番であるがミス学園投票用紙の売り上げは学園祭の実行を手助けした。矢野の発想は学園中に広まった。直木のおしゃべりめ。「俺は提案しただけ」と矢野は無関心を装ったが京子、和子の評価が上がったことは間違いなかった。学園祭が終わると実行委員会の打ち上げに矢野も招待された。直木は矢野の発想に感心したが矢野も直木の実行力を評価していた。


しかし小さな大学である、二人のうわさは谷和子の耳に入るのに時間はかからなかった。矢野を香川京子に奪われた悔しさは日ごとに和子を苛なめる。和子は矢野を失って矢野の存在の大きさに気づいたのだ。矢野は毎日図書館に籠りきりと聞いてそっとのぞいたが声を掛けることはできなかった。良かれと思って次期指揮者選びの秘密を隠したが矢野の悔しさもこのようなものであったろうと思うのであった。

日曜日の朝、和子は母親に呼ばれた。「和子近頃おかしいよ、何があったのか話してごらん。ひとりで悩んでもしょうがないよ」母は人生の女の先輩でもある。有無を言わせぬ迫力がある。和子は思い切ってすべてを話した。話すことで矢野とのことが客観的に見えてきた。「和子、お前がいけないよ。好きな人ができたら母さんに相談したらよかったのに。母さんはいつだってお前のことを思っているのだよ。写真見せてごらん。いい男じゃないか、家に連れてくればよかったのに」と母は言った。そうだったかもしれない。「今からでも遅くない、取り戻しなさい。やられっぱなしでいいのかい」

香川京子の顔が浮かぶ。彼女は私たちのことを知っていて矢野に近かづいたのだわ。(だったら、あなたは彼を拒んだでしょ、私は彼にかけたのよ。彼は私のものになったの)と言うだろう。「そんな画策なぜ教えてあげなかったの。団長になるかはその人が判断したでしょうに」と母がなじった。自分が矢野に話していたら団ぐるみで画策しなければならなかった事情は理解してくれたかも知れない。団にとっても矢野にとってもいいことだし自分のいうことなら矢野もきいてくれるであろうとの自信もあった。今にして思えば他の団員はともかく私は話すべきだった。「だから身を任せてもいい男かどうか母さんが見極めてあげたのに」私もそう思ったけど女になるのがこわかったの。一人娘の私を溺愛してきた父が悲しむだろう。

人は過去には神になれるが未来には幼児である。和子の母は未来志向派である。「ともかく彼を連れてきなさい。家に泊めて閨をともにすれば婿殿だよ。その前に母さんが床入りの品定めをするから。お前ほど器量よし気立てよしがそんなにいるものか。首に縄付けても連れてくるんだよ」この積極性は和子に遺伝されなかったようだ。「お父さんは」「いいんだよ、この家のことは私が決める」

お父さん子の和子もこの時は母が頼もしかった。母親は和子を女として観ているから先輩後輩の関係である。それは日本社会では身分地位より優先することがある。親子は矢野の強制連行の策を練った。巻き返しなるかというところだ。「そんな」「世の中結果だよ、理屈なんて後でどうにでもつけられるものだよ、和子」母の話を聴いているとその気になってくるから不思議だ。
和子は「今度の日曜日私の家に来て。ご馳走するから、酒も用意する」と矢野に言った。女が腹を括ると度胸が据わる。今までの葛藤など噫にも出さない。「10時の汽車で来て。駅で待ってる」とにっこり笑う。乙女の笑顔は男の思考を停止させる。夏の日は図書館の中にも熱く降り注いでいた。和子の後ろ姿は矢野が来るものと確信しているように見えた。

日曜の朝、駅の改札口に列車通学の和子が待っていた。こっちと矢野の手を取って下りホームに向かう。あの日も香川京子に手を引かれて連絡船に乗った。汽車はほとんど空席であった。車窓から見慣れた風景が現れるが視点が違う。前にいる谷和子が別人に見える。姿形は変わらないが大人っぽくなった。「私ほんまは東京の大学にゆきたかったんよ」「親が反対した」「そう。でもどうして」「一人娘で甘やかされて箱入り」「そうなんよ、ちょっと遅くなっても心配するんよ」「まあ、親の気持ちも分かるな。俺の娘には門限8時だ」「そんな、大学に行っても」「9時までに延長してやる。娘の安全は親の義務」

やっと以前の状態が戻ってきた。「あの時は井本さんが離してくれなくて」「もう言うな。俺が取り戻すべきだった。あいつの眼を看るとすくんでしまう。「矢野さんにも苦手がいるん」「むっつりスケベ。もう3人手を出している。1年生の長井と西川、それと」「松田さんでしょ」「知っていたのか」「あの時の長井さんの取り乱しようはひどかったで」「それに平井さんも。俺が知るだけで、浜野さん秋山さん」「最近は能田さん」「1年生のアルト」「うん結婚するらしいわ」3歳年下だからおかしくはないが、浜野さん秋山さんは平井の信奉者だったのに男声しか指揮しなくなると用済みなのか。

汽車の汽笛は日本人の心を揺するものがある。小さなトンネルで車内が暗くなる。純情可憐の和子が一瞬妖魔に見えた。車窓に広がる田園は日本の原風景を残している。都会の女の厭らしさはこうした原風景を忘れたからであろう。駅から谷和子の家まで歩いて10分ほどだった。古い造りだが落ち着いた木造だ。広い庭には植木と菜園がある。
黒い柴犬が和子を迎える。「ただいま」「まあおいでなさい。和子がお世話になっています。この前は音楽会に連れて行ってもらったのですって。さあさあ、お上がりなさいませ」和子の母は捕まえたぞとにんまりしていたのである。「お礼と言うほどでもないのですが田舎料理を用意しました。矢野さん大学院を目指してられるんですって、偉いわねえ」母親のペースである。「和子、お風呂浴びて貰いなさい。さっぱりして召し上がっていただきましょ」和子が矢野を風呂場に案内して「この浴衣使うて」と言った。長期勾留になるであろう。

浴槽も贅沢な木造りだ。「お湯加減は」と和子が、「いい湯だ」と矢野が答える。下宿の近くの風呂屋とは違う。湯は緊張をほぐす。日本民族の根源的感覚だ。矢野もなるようになれと観念した。汗を流して上がるとバスタオルが用意してあった。「出たの」「いい湯だった」矢野がパンツをはくのを見計らったように和子が浴衣を肩にかける。矢野が前を合わせると和子が帯を結んだ。
矢野が居間に戻ると「あなたも汗流してらっしゃい」と母親が言った。「あの子は一人娘だから甘やかせて育てたのが、意気地なしで、私に似ていたらもっと美人でしたが、なんですか、気立てはよいのですよ。ちょっとそこらにいないでしょう。悪い虫がつかないうちにお婿さんをと、でもあの子は奥手で」母親は文脈のない話をつづけるが言わんとすることはわかる。
洗い髪の和子が浴衣で出てきた。「まあ並んで座ると新婚さんみたい、生憎主人は町内会の会長をしてますでしょ、今日は寄り合いで失礼してます。なに終わったあとの宴会が目的ですよ。さあ和子お酌して。私も婦人部の部長でこれから出かけなくてはなりませんがゆっくりしてらしてね。我が家は代々庄屋をしてましたからいろいろ頼まれごとが多くて、農地解放で小作にとられるまでは20町歩はあったのですよ。和子、天婦羅は熱いうちに召し上がっていただくのだよ」この調子だと夜までつづくだろう。「それじゃね私でかけるから、和子しっかりおもてなすのよ」


和子は玄関の鍵をかけた。女が心を決めるとこうも変わるものか。いよいよだと矢野は思った。「味どう」「美味い。おふくろの味だ」「それ私が作ったんよ」「お前やるじゃないか。こんなの毎日食えたらなあ」「結婚したら作ってあげる」浴衣の和子は初めてだ。「こっちへ来いよ」「待って食べてからよ」矢野は豪快に飲んで食っていたが全身既に戦闘態勢である。和子は「私の部屋見る」と矢野の手をとる。
二階は5部屋位あるのだろう。和子の部屋は奥の四畳半であった。小さなベッドがある。矢野は後ろから和子を抱きしめた。首筋に唇をあてると和子は首をすくめた。抱き上げてベッドに下ろす。和子は矢野の首を抱きしめる。和子の乳房は見た目以上に豊なふくらみがあった。矢野が浴衣を脱いだ。和子も帯を解く。胸に両手を当てている。矢野が腿に唇をはわすと和子が小さな声をたてた。和子の股間を舐めると全身を痙攣させる。さらに舌を奥に差し込むと身を捩る。股を押し開くと桜貝が濡れていた。矢野の先をそっと桜貝に押し当てる。桜貝が矢野をくわえた。少し深く入れると和子も矢野を抱き寄せる。こういうことは習らわなくともできるものだ。
矢野が最深部に達すると和子の顔がゆがむ。髪をベッドに広げた和子は妖艶であった。そうか女流ヴァイオリニストの顔にエロチックなものを感じるのはこれだったのだ。緩やかな序奏につづいて力強い演奏に移る。和子は悲鳴をあげそうになるがこらえた。身体の深部に矢野の存在を感じた。ここに入った者はいない。和子は矢野の刺激が全身に広がるのが不思議であったが次第に意識が薄れてゆく。しかし小さな身体は矢野に反応した。そして身体を反らせて矢野を持ち上げる。
この時を1年以上待ち続けたのだと和子にかぶさってゆく。和子が矢野を引きずり込む。矢野は和子を抱き起して仰向けに寝そべる。和子の腰は意志を持つかのような動きを始めた。矢野のすべてを感じようとしているようだ。矢野は行きそうになるのをこらえた。この女も俺の上で悶えるのだ。初体験はほろ苦いと聞くが和子は悦楽の表情を浮かべている。矢野の鼓動が和子を痙攣させる。きてえと和子が叫ぶ。矢野は全重心をかけるとどくどくと放出した。少し口を開いた和子の顔を見て征服感が矢野を満足させる。俺は井本に勝った。

矢野は息が静まるまで待って和子を抱き起す。一つになった身体を和子に見せる。顔を背ける和子をにらんだ。和子は顔を赤らめながらも見つめた。「結婚とは生殖器の共有だ。俺たちは結婚したのだ」性は男にとって支配欲の発現でもあるのだ。矢野は再び仰向けに寝そべった。和子の腰が奉仕しだす。矢野もむくむくと膨張する。和子が後ろに身をそらせて腰を押し付ける。矢野は満足した。快感だけではない支配だ。とろけそうと和子がもらした。和子も自分がしとど濡れているのがわかった。死にそう、純情な娘は大胆な言葉を発する。だがまだ処女だと矢野は思った。感性感覚だ。性には楽譜もシナリオもない。本能の赴くままに演じるのだ。演技力は持って生まれたものであろう。経験努力で身に着くものではあるまい。矢野は和子を俯せにして背後から攻めた。形のいい尻だ。和子が首をもたげてもがく。矢野がいきり立って射精すると和子は失神しそうであった。

矢野は身を起こすとティッシュでふいた。和子が肩で息をしている。和子の出血は少なかったがふき取った。さてこれをどうするか。女は出血に慣れている。矢野は丸めて机の上に投げ捨てた。喉が渇く。その気配に和子がよろけるように身を起こした。矢野は抱き起こして膝に乗せた。「よかったか」「うん」「喉が渇いた、カラカラ」「ビール飲もうか」「感じただろう」」「感じた。こないええとは知らなんだ」「だからやらしてくれと言ったのだ」「だって知らなんだから」「まあ知っていたら問題だが」「失礼ね」
和子は浴衣の帯を締めると机の上のティッシュを包装紙で包めた。居間に戻ると食事をつづける。矢野は風呂で汗を流す。そして和子の鮮血も。ほてった身体が激闘を物語っていた。もしあの時「それだけはやめて」と言わなかったならば俺はやっていただろうか。こんな大事なことでも女はいったん心を決めると大胆にやってしまうのか。思春期から生理、妊娠、出産と性に関する体験が多いからか、いやもっと根源的な人類としての記憶なのか。


電話が鳴る。母親からであろう。矢野は空腹を覚えて食った。和子も食った。「赤ちゃんできたら」「生むに決まっているだろう」「結婚してくれるの」「勿論。で何人生む」「何人でも」「なら結構。子供は多ければ多いほどいい」和子はうれしそうな顔をする。「そしたら大学は退学かな」「休学すればいい」「恥かしい」「欧米ではお腹の大きい学生もめずらしくないらしい」「日本ではちょっとね」「まあ生んでからのことだ」


間もなく母親が帰って来た。電話で首尾を確認したのであろう。「婦人部の宴会が始まったのだけど大事なお客さんでしょ。抜け出して来たの。お寿司持って帰ってきた。矢野さん今日はゆっくりしても大丈夫でしょ」一声30分。「でね高校の卒業旅行に友達と出かけることになったの。戦時中のことでしょ、友達は来てないの。当時は男と話すこともできないでしょ。お父さんね友達は都合が悪くなったと言うじゃない。別々の席に座って温泉に行ったの。お父さんは私に惚れていたからまあいいかと思ったわけ。宿では父の看護でとか言ってお米を二升渡したの。そしたらお前ができたんだよ。お米が利いたのね。離れに泊めてくれたの。初めてのことだから上手くゆかなくてね。父さんは卒業するとすぐ就職したのだけど今でいうできちゃった婚ね。何度も求められてね、次第に要領がわかってきて失神しそうになったわ。女中さんが代わりのシーツを用意してくれていたの。初体験で妊娠なんて最悪。先方は仲人立ててきたのだけど、結局身内だけの祝言はお前が生まれてから3歳だったかな。父も母も折れたのね。孫が可愛いかったのよ。お前も私に似ているともっと美人なんだけど」

なるほど若い母親だが色香は残っている。男がほっておかないだろう。父親も強硬策に出たのだ。ものにするには口だけではだめだ、実践しないと。「この子は気立てがよくてね主人が猫可愛がりするものだから」和子があまり喋らないのは身近に反面教師がいるからだ。
要約すると矢野は婿殿に合格したから毎月通ってきなさいと言うことらしい。その日は和子の家に泊まったが以後毎月泊りがけの通い夫となる。平安時代の貴族ならぬ拉致夫、母親が逃がしはしないよと?


矢野は香川京子と谷和子を得て合唱は忘れていた。ゼミの研究課題と大学院受験勉強に充実生活を送っていた。しかし生まれてくる子を私生児にできない。また現行法では二人以上の女と同時に結婚することはできない。この問題を如何に解決するか、大きな課題であった。日本の戸籍法は結婚によって新たな戸籍が創設される。夫婦はいずれかの姓を名乗ることになる。同時に親の戸籍から除籍されるのである。されば先に妊娠した方と結婚して出生届を出して離婚する。あとから妊娠した方と結婚する。これを繰り返せば京子も和子も子供も法律上の父母も明らかになるというのが矢野の結論である。住民票には結婚離婚の記載はない。夫と死別したと言えば世間は信じるはずだ。京子が、和子が。応じてくれるかはその時のことだが矢野は思ったことは実践する男だ。


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