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作品名:合唱物語 作者:佐々木 三郎

第2回   恋のさやあて
恋のさやあて

矢野健はこの手の憎まれっ子のほうであった。しかし常に前を向いてひた走る姿に好意を寄せる女もいた。女は我武者羅に夢を追う男を可愛いと思うかそれとも眉を秘めるか。「人生いろいろ 女もいろいろ」である。谷和子は地元の有名校を卒業しているがその性格の良さから合唱団の誰にでも好かれていた。そう美人ではないがその明るさから場を和めせる魅力があった。嫁にしたい女の一番というのが男子学生の評判であった。その彼女が矢野に秘かな好意を寄せていることは傍目にも知れていた。恋愛とは双方が満足してると成長発展しない。奪い取る気概がないと「永すぎた青春」となろう。

矢野の方は面食いで谷和子を気にもとめていなかった。ミス学園の白い裸身を想像してにんまりしていたのである。やりたいと思うと鼻血が出そうになる。ある日矢野は上級生に問い詰められた。団の役員をしている3年の女学生だ。「矢野さん、谷さんのことどう思っているの」「可愛い同期だと思っています」「それだけ」「お嫁さん候補の人気投票一番」「だったら彼女にやさしくしなさい」「どんな風にすればいいのですか」「この音楽会のチケットあげますから二人で行ってきなさい」チケットは世界的タンゴバンド「キンテートレアルであった。値段も前売900円当日1200円と学生にはちょっと手が出ない。寮生の平均支出が月15000円であったから2枚で1800円となると二の足を踏む。矢野はためらいながらも有難いことでとチケットを受け取ったのであるが上級生から「井本さんも谷さんに気がるようよ」と言われて少し動揺した。

井本はテナー、矢野はベースというだけでライバル意識があった。ともに現役組で指揮者になりたいという点でも競い合っていたのだが谷和子をめぐる恋の鞘当てが加わった感じだ。矢野は谷和子をものにすることが井本を見返す機会ととらえた。男のセックスは愛の発現、性欲の発散、それと支配欲である。これが和子の運命を左右するのだがその時は若い男女に知る由もなかった。

海が見える会場には大勢の聴衆が押し掛け開演前に満席となっていた。座席は2階の右端でステージを見ると和子のうなじから耳にかけての部分が目に入ってくる。それがほんのりとした色気を醸し出していた。開演と同時にラクンパルシータが会場を支配する。日本人好みのタンゴが演奏されてゆく。シボネー、花祭、イパネマノ娘、牛車に揺られて、ドナドナドンナと南米音楽に酔い痴れてゆく。最後のコンドルは飛んでゆくでは和子が涙を浮かべていた。
音楽は人を痴れさせる。公園沿いの道を歩く二人の上には晩春の細い月が淡光っていた。「よかったな」「私涙が出てきた」矢野が和子の肩を抱くと和子も矢野の腰に手をまわした。矢野は植え込みの陰で和子を抱きしめた。胸のふくらみと動悸が伝わってくる。そっと唇を近づけると和子は目を閉じた。ファーストキスであった。それからまま事の様な恋愛が始まった。

幼い初恋は小さな学園に知れ渡って行った。他の学生たちも羨む恋人たちであった。学園祭のダンスパーティーで二人が踊っていると井本が矢野の肩を叩いた。1曲は譲るのがエチケットであるが相手が井本であるだけに矢野はカチンときた。2曲目になると矢野は怒って外に出た。おろおろする和子。
慌てて後を追ってきた和子は矢野に抱き着いた。矢野の怒りは治まらなかった。「もういいだろう」と井本に言えなかった自分が不甲斐なかった。井本の不敵な目が笑っていた。本来なら手袋を投げつけ刀を抜くところであろう。和子が「ごめんね」と言った。これも癇に障った。暗陰に和子をひきずり込んで押し倒した。唇首筋を吸うと和子は小さな悲鳴を上げた。それでも矢野の首に腕をまわして口づけを返した。やがて矢野の手がスカートの中に入れられると和子は首を振った。「それだけはやめて」


矢野は一人歩いていた。和子が拒んだのも無理はないと思うのだが悔しさが込み上げてくる。井本に対する恐れが彼を狂暴にしたことは彼自身気づいていたが認めたくなかったのだ。「矢野さんと声をかけられた。ミス学園と評される英会話部の香川京子だ。矢野は「ヨットに乗ろう」と彼女の手を取った。「谷さんと何かあったの」それには答えずヨットハーバーでヨット部の山田に「乗せろ」と言った。「もう遅い。腹減った」「晩飯奢る」「じゃあ20分だけだぞ」と山田は友綱をほどく。矢野は香川京子の手を引いてヨットに乗り込む。
音もなくヨットは港を出る。「気持ちいいと香川京子が髪をなでる。その首筋には妖艶さがある。「女を口説くにはヨットだな」「ミス学園をお前が」と山田がせせら笑った。「山と女は高いほど征服し甲斐がある」「できればな」「高値の花と見上げるだけでなくアタックしてみないとわからない」「Boys be ambitious ,Good luck 」と山田が叫んだ。英会話部の香川京子を意識してのことだ。「馬鹿にするな」と京子の手を握る。
 香川京子は満更でもなかった。彼女に言い寄る男は多かったがこの二人のように男らしいのはいなかった。「矢野さん。谷さんに振られたの」「ああ」「それで私を」「お前とやりたくなった」「いったいどうして」「押し倒したら、それだけはやめてと言われた」「え、いつ」「さっき」「まあ」「矢野、谷さんから乗り換えるのか」「乗り換えてもいい」

山田はやれやれといった様子で「引き返すぞ」と言った。瀬戸の海は夕陽に染まっている。島影が黒ずんでゆく。「世界一きれいな夕日が沈む海」「見える丘でしょ」どちらでもいい。私に当たらないで。矢野そんなに急いては事をし損ずるぞ。どうせやるなら早いに越したことはない。おい相手は純情可憐な娘だぞ。あら私もよ。男なら誰でもやりたくなる女だ。それはそうだが本人の前で。それだけ美人で妖艶ということだ。

ヨットが着岸すると「ビアーガーデンで待っている」と山田に言い捨て、香川京子の肩を抱いて歩き出した。ビールで乾杯。「矢野さんて強引ね」「でも良かっただろう」「ええ気持ちよかった。久しぶりに気が晴れた」そこへ山田がやってきた。「邪魔して悪いな」「ヨット試乗の恩義がある」「こんな美人と借り切りで乗りやがって」「美女は勇者に似合う」「勇者こそ美女に値するでしょ」「お前いちいちうるさいな、嫁の貰い手がないぞ」「どちらか貰って」「やってみないと嫁にできない」「で、子ができたら」「仕方ないだろう」
反対解釈で子ができなければ結婚するとは限らないと言っているのだ。「谷さんに子ができたら」「すぐにでも」「私とは」「離婚する」「そのとき私が妊娠していたら」「彼女と離婚してお前と再婚する」「その時彼女が身ごもっていたら」「お前が子を産んだら離婚して彼女と再婚する。以下同じだ」「どうしてそんな面倒なことをいちいち」「可愛い我が子を父無し子にできないだろう」

戸籍は結婚によって新戸籍が創設される。二人はそれぞれ親の戸籍から除籍される。ここが肝心である。その際夫婦はいずれかの姓を選ばなければならないが戸主は香川京子にするつもりだ。健は香川健になるが離婚すれば矢野健に戻る。谷和子と結婚すれば谷健となる。この最終形は矢野健である。愛する女への配慮だ。香川京子の籍には「かな 長女 父健 母京子と記載されるはずだ。谷和子の籍も同様だ。矢野の父母の知るところとなれば矢野は戸籍を汚した科で勘当されるであろう。もっとも原戸籍(父の戸籍)でなければ結婚離婚の記載はないからバレルことはあるまい。

香川京子は笑い出した。山田が「いちいち結婚しなくても子を認知すれば同じではないか」と言った。「おや意見するのか、恩義は果たした。帰れ」「まだ食ってない。食ったら帰る」「結婚しないと香川も谷も未婚の子を育てることになるのだぞ」「それは良くない」「だからお前は黙っていろ、男の深い愛情がわかっていない」「私よりも子が大切なのね」「親子と夫婦は別の話だろが」「わからないわ」「いいか戸籍上もお前の子の父は俺、谷の子も父は俺。これで親子の問題は無くなる」「夫婦の問題は」「お前と結婚したら結婚できなくなる。離婚したらまたお前と結婚することができる」

香川京子はあきれてため息をついた。「結婚して子ができたら離婚なの」「子ができて結婚、生まれて離婚だ」「わかったようなわからない話ね」「エリザベステーラーは5回離婚している。結婚はそれ以上だ。結婚回数は美女の証だ」山田が食う手を止める。京子は串焼きを食いちぎる。「私婚約者がいるの」一瞬の沈黙。「それがどうした。俺は殺してでもお前を奪う」「おい太陽がいっぱいだな」「矢野さん私を奪って」「お前に子ができるならな」「私も谷さんから矢野さんを奪おうかな」


合唱団は全日本合唱コンクールへの出場を果たした。念願の四国代表の切符を手にしたのは学生指揮者平井の功績である。専門的音楽教育を受けていないが歌唱力は抜群で合唱がすべての男であった。これに魅かれる女学生も少なくなかった。団運営も技術重視に傾いていった。谷和子の高校からの同級生遠野智恵はすごい音痴で平井は彼女を退団させようとしたことがあった。
それは入団間もない頃だった。矢野が「お前目立がりだな。みんなが3段上がっているのに5段も上がるな」と大きな声で言った。「なによあんた、偉そうに」「ここ歌ってみろ。飛び上り過ぎ。ひ、ふ。みでいいのだ」「これでいい」「最初からそう歌え、合唱はみんなと声を合わせるものだ。自意識過剰」「失礼ね」「目立ちがり屋」「あんたなんか嫌いよ」「嫌いでけっこう」
それ以降遠野智恵は飛び出さなくなった。難しい個所は先輩に歌ってもらうようになったようだ。これを契機に団の雰囲気が明るくなった。谷和子が矢野を意識しだしたきっかけでもあったが上級生も矢野に注目するようになる。

ある日団長の森山に呼ばれた。「矢野君は高校時代から合唱やっていたのだよね。楽譜は読めた方がいいだろうか」「読めたがいいに決まっています。ただし暗譜してしまえばどちらでもいいことです」「詳しく話してくれないか」「眼で憶えるか耳で憶えるかの違いでしょ。作曲者指揮者は譜面が読めなくては商売になりませんがオペラ歌手は譜面など要らないのです、全部頭に入っていますから。我々も譜面がはずせる程度に暗譜してないと歌えないでしょう」「なるほどそのとおりだな、参考になったよ。ところで矢野君は指揮者と団長とどちらが好きかな」「そりゃ指揮者ですよ、音楽が創れますから」
 大学の合唱団は3年生が役員となる。4年生は就職に追われるからだ。今は平井森山体制だ。矢野は2年生の樫山から「団の組織づくりも面白いのではないかな」と言われた。「今は団員65名だが去年までは40名そこそこだった。森山さんが団長になって団員が増えてきた」樫山は次期団長と目されていた。「我々の大学生活は4年間だが先輩後輩と接することができるから前後3年間を共有できる、つまり10年間になる」「先輩、僕も大学の意義は学友との交わりと考えています」「それぞれの人生がある。見習うことも多い、触発されることもある。団運営も君の選択肢に入れてほしい」

樫山は大人しいが人望があった。矢野があとになって知ったが音楽の造詣も深かった。森山は自分の後継者に樫山を選んだ。樫山は矢野を選んだのだ。これには誰も異論はなかった。団は次期指揮者の後継者に井本を選んだ。これも異論はなかった。矢野が指揮者を諦め団長なれば問題はなかった。矢野の度量が問われたのであった。森山樫山の工作に対して平井の直接的でどぎつかった。
音楽的にすぐれたものが人間的にそうであるとは限らない。むしろひねくれていることが多い。平井の工作は卑劣であったが団全体には妥当な結論をもたらした。指揮者に固執する矢野を諦めさせるにはやむを得なかったとも言えよう。それが悲劇を生んだとしても他にどのような方法があったであろうかと平井は言うに違いない。その結末は翌年の春にはっきりするのだが今は話を全日本合唱に戻そう。

全日本合唱コンクールは全国9ブロックの代表が高校大学一般の部門で競われる。高校一般は左程がでなかったが大学のレベルは格段の差があった。プロのヴォイストレーニング、指揮を受ける合唱団はいわば野球の甲子園六大学並であった。学生だけで運営される地方合唱団は善戦したと言えないこともないが全国レベルとの格差を思い知らされたのだ。
これを受けて技術重視の平井の発言権が強まった。一方学生数1500名程度の地方大学がプロの指導を受けるべくもない、合唱団の確保すら容易でないから団の組織づくりを重視すべきとの森山を支持する団員も多かった。団の財源は団員の月300円の団費と大学からのわずかな補助金だ。団内で平井と森山に代表される考えが対立を強めていた。

団員は4年で入れ替わる。2年生になると団長指揮者候補を選出しておく必然性と必要性があった。1年生の中からも団の将来を担う人物を選んで育成しておくことも必要であった。従って団長矢野、指揮者井本という人事は順当なもの自然なものであった。団長指揮者の兼任は独裁を生み組織が分解する危険性をはらんでいるので創部以来の慣例が踏襲されてきた。また学業も卒業するまでに必修単位を取得するのは容易でなかったから兼任は事実上不可能であった。

このような背景があって上級生は矢野の説得に当たったのであるが矢野は自分の夢に向かって突き進むタイプである。組織の為に自分を殺すことができない。団長になりたいのもいたが森山樫山の目にかなわなかったようだ。そこで指揮者の選出選任は平井に一任されることとなった。
平井も気を使ったのであろうが矢野は激怒することになる。裏工作は矢野だけが知らぬ方法であった。問題は谷和子の口封じである。上級生は彼女を説得した。彼女は涙を浮かべながらも説得に応じた。森山以下の役員ももう一度矢野を説得してみるべきだと考えたが役員会の議決は変えられないとの結論に達した。

年末の定演が終わると学年末試験が終わるまでは合唱どころではなくなる。卒業が、それどころか就職がかかっているのだ。求人に対し大学は成績順に学生を差し向けるからだ。産学連携に反対する学生運動もこの点には反対しない。
 矢野は、寮生は全良(60点以上80未満)であるべしと適当に答案を書いて出す。これには周囲も驚く。成績は優(80点以上)の数で決まるからだ。矢野は採点者教授の喜びそうな答案を書くと優、自説を書くと良ということを察知していた。必修科目はその教授のゼミ生に出題予想と答案を外注した。晩飯を奢って模範答案を丸暗記したから優であった。選択科目で面白そうなのは勉強して自説を展開したから良であった。教授とて人の子、自分の説に批判的答案に優は出さない。
ある教授が矢野の意図に気づき矢野を学生人気トップの大企業に紹介した。その企業も会社を発展させるには変わり種が必要と矢野を採用するのだがそれは3年後の事であった。大量生産大量消費の時代はマニュアル人間の優等生が求められるが社会に物が行き渡ると需要を喚起させる独創的変わり種が求められる。大日本帝国陸軍海軍ですら学校の成績で地位が決まったのだ。入隊後の実戦経験、実績で決めるべきであろう。それには組織の上層部の人を見る眼が前提となる。

春休みが終わると新学年が始まる。矢野たちは2年生になった。当然新入生が入ってくる。彼らは純粋だ。新団長の樫山は独断で矢野に団長心得の最後の説得に当たったが矢野の気持ちは変わらなかった。その日矢野は団の雰囲気が違うことに違和感を覚えた。平井が矢野に近づいてきて楽譜を渡して指揮してみろという。初見で、視聴で指揮ができるわけはない。譜面を何度も何度も読んで音楽を頭の中で完成裂いてからの事である。平井がにやりと笑った。

これは指揮者選びであろうと矢野は悟った。平井のやりそうなことだ。なら初見でどこまでやれるかやってやろうと指揮台に立った。まともに矢野を見るのは新入生だけだ。谷和子は下を向いている。矢野は頭の4小節をパートごとに歌わした。初見にしては音がよく取れている。全パートで歌わすと揃わない。何度も繰り返した。曲想がわかってくる。音程リズムの乱れは目で指摘した。それよりも曲想だ。矢野が音楽の世界に入ってゆくと団員も魅かれてゆく。譜面を外すように合図した。一人一人の顔がよく見える。谷和子が目を赤くはらしていた。合唱とは心を合わせて歌うのだと矢野は目で訴えた。平井信奉者は目をそらす。しかし中には矢野の曲想を再現しようとする者もいたのだが。「今度は井本君に振ってもらおうか」と平井は薄笑いを浮かべて言った。あの眼だ。矢野は平井を見据えた。平井は慌てて目をそらす。井本は曲の中間部を開く様に言った。団員の表情が変わる。譜面が事前に配られ何度も練習したことは譜面の繰り方で明らかだ。さらに譜面を見れば書き込みがされているはずだ。井本の手が振り下ろされると完成された合唱が響いた。

矢野は黙って席を立った。平井に一瞥を与えた。練習場は静まり返った。やがて「矢野さんかわいそうね」とささやく団員もいた。樫山は矢野を引き留めたい衝動にかられた。矢野が団を去ることを察したのだ。森山がさびしそうに首を振った。谷和子はたまらず泣き伏した。組織の意向、流れに沿えない人間がいるが矢野もそのひとりであった。いわゆる大人になっていない若者であった。「君の行く道は果てしなく遠い だのに何故歯を食いしばり君は行くのか」



また矢野は香川京子に呼び止められた。「どうしたの、まるで人生が終ったみたいな顔して」「お前は落ち込んでいるときに現れるな」「私女神でしょ。なぐさめてあげる」「やらしてくれるのか」「場合によってはね」二人は喫茶店に入る。本当は飲みたい気分だ。人は話すと楽になる。「そう、谷さんつらかったでしょうね」「彼女をそこまで追い込んだ自分に腹が立っている」「そこが矢野さんらしいところよ」「今日はやさしいな。今夜だけ一緒に居てくれ」矢野は泣きそうな声で言った。「私を抱きたい」「いつもはそう思うが、今日はその気にならないが一人にしないでくれ」
京子は矢野を見つめる。いつも自信に満ちた男がこれ程落ち込むとは。女の決断とは、何がそうさせるのかわからない。この決断が彼女の人生を決定づけるのだが彼女自身決断理由はわからなかったのではないか。「これから倉敷に行きましょう」突然京子が矢野の手をとった。矢野には京子の意図がわからなかった、考える余裕がないほど落ち込んでいたのだ。

A drop in the ocean will be felt by the moon
For tides carry our tears which moisten the forests
So sadness feeds life
海の飛沫は月に濡れ
森を潤す涙は潮が運ぶ
そう悲しみが命を育むのだ

京子は矢野の手を取って連絡船に乗る。瀬戸は宵闇が迫る。やがて満月がのぼる。今日の月は悲しい。連絡船の飛沫が海を照らす月の光を反射させる。これは強制連行か道行か。潮風に髪をなびかせる京子の横顔は微笑みをたたえている。宇野港から岡山に出て倉敷に着く。駅の近くのホテルをとって近くの通りを歩く。「初夜ね」「そ、そうだな」「食事する」「うん」寿司屋に入って刺身を注文したが矢野は食が進まない。「さあ、ぐっと召し上がれ。お流れくんなまし」「源氏名は」「京香」「うれっこか」矢野は酔った。「俺も女に慰められる程度の男だ」「でもいい女でしょ」京子の肩にもたれてホテルに戻る。
この男は私を女にするだけの値打ちがあると考えていた。音楽も法律も目指すものは大きい。その実力は目標に遠く及ばないが夢は大きな少年剣士的なところがある。「頑張れ強いぞ、赤胴鈴之助」京子の母性本能を掻き立てるのか。「さあお風呂に入って」京子はあやすように言った。矢野はすべてを洗い流すようにシャワーを浴びた。バスタブに身を横たえるとため息をついた。「いいかしら」京子が入って来た。その白い裸身は天女かと思った。腰のくびれから足先まで妖艶そのものである。矢野が後ろから抱きしめる。「外で待ってて、すぐいくわ」と京子はその手を外した。

矢野がベッドに横たわるとマストが立っていた。これから始まることに落ち着けと自分に言聞かせた。ここで話が上手過ぎないかと考えるべきであろうが若者には無理な話だ。とくに矢野は自分に都合のいい方に考える性質である。セックスに纏わることでいい年をした男がだまされることも少なくない。ましてやこれからいいところである。自分の心臓の鼓動が枕から伝わってくる。
部屋の灯が消されて京子の唇が矢野に当てられる。抱きしめると形のいい乳房がやわらかい。ゆっくりと京子をベッドに下ろすと首筋に唇を這わす。ああと京子が声をもらした。矢野の唇が乳房に触れた時ぴくんと動いた。矢野が京子の股間を拡げると蕾のような性器があった。恥かしいと京子は顔をそむける。矢野の舌が舐めると京子は悶えた。さらに奥へ舌を入れると京子がのけぞった。矢野も初めての性体験であった。19歳の若者の最大の関心事は性である。寮で回覧されるプレイボーイ週刊パンチや完全なる結婚などから性知識は得ていたが実戦経験はなかった。

矢野はたまらず身を起こして侵入した。京子の顔がゆがむ。矢野が京子を抱き起して「みろ」と言った。「いや」「みるのだ」いつもの矢野らしくなってきた。「ああ私たちつながっている」「うれしいか」「ええとても」「結婚とは生殖器の共有だ」京子は腕を矢野の首に巻き付け腰を揺すり始めた。やがて両手を矢野の脚において身体をのけぞらす。りんごのような乳房が揺れている。「ああどうにかなりそう、私女になるの。私たち結婚したの」

矢野は京子を寝かせると上から抑え込むように覆いかぶさる。京子が矢野を咥えこむ。矢野もいきり立って京子を突き上げる。男女の営みとはこういうものか。京子の意識は遠のいてゆく。矢野の頭も白くなってゆく。そしてか細い京子の身体が弓ぞりに矢野を持ち上げた時二人は一点で接していた。俺が京子をこうさせているという満足感にひたりながら矢野が激しく射精すると京子はひーと叫んで崩れ落ちた。矢野も快感が脊髄をかけぬけた。頭が空っぽになって激しい息を京子の顔に吹き付けていたがやがて眠りにおちてゆく。

どれだけ眠ったか、矢野が喉の渇きを覚えて身を起こすと隣の京子の股間から鮮血がシーツに溢れていた。「いや、みないで」「処女喪失だ」「私女になったのね」矢野がシャワーを浴びる。看ると矢野も血に染まっていた。京子がそれをつかんだ。「こんな大きなものが私の中に」「こいつは成長するのだ」二人はシャワーの下で抱き合った。矢野が頭をもたげる。京子が笑う。「よかった」「天にも昇る気持ち。18年間の蓄積を一気に放出した」「出すと気持ちいいの」「その瞬間は没我の境地。すかっとする。貯めるのは良くない。お前はどうだった」「最初は痛かったけどだんだん良くなってきた」
 二人は初体験の余韻に浸る。「貯めるとできものが出るぞ」「まあ色気ない。ね、私のどこがいいの」「この肌。吸いつきたくなる」「ほかには」「頭、つまり話が面白い。話はできない奴は腹が立つ。賛成反対はともかく話を理解できない奴は蹴りを入れたくなる」「おお怖い。谷さんは」「尻」「私とどっちがいい」「そりゃ、京子」「どうして」「やらせてくれた」「谷さんがやらせてくれていたら」「難しい質問だな」「私が欲しい」「欲しい。こんな美女とやりたくないのはインポだ」「私男を知った」「俺も女を知った」「英語の知る know には女を知るという意味もあるのよ」「そうか、それは知らなかった」「でも今知った」「女か意味か」「両方」
 頭のいい女はいい。顔がいいだけの女は飽きるはずだ。「お前どうして俺にやらせてくれた」「あなた谷さんに振られて落ち込んでいたじゃない」「お情けか」「それもあるけど(あなた自殺しそうにみえたわよ)、あなたいつもはギラギラしているでしょ。女の子は逃げるんじゃない」「かもな、手籠めにされるか」「女は身の危険を感じるけど、けどう、(私は)また純粋な情欲にも感じるの」「お前なら寄ってくる男はいくらでもいたろう」「あなたのギラギラ飛びぬけていた(夢も理想もない学生のなかでは)」「俺はスケベか」「それも超ドスケベ。それでえ、私やらしてあげたくなったの」「ということはお前も」「淫乱かも」「大いに結構、俺をよろこばせてくれ」「即物的ね」「そりゃあお前の身体に即している」「今何考えている」「お前の身体」「うそ、本当は」
京子は菩薩になり妖魔にもなる。「本当は千夜一夜だろうと言いたいのだろう」「でもどうして」「昔インドの王様が処女とやったあと次々と殺していった」「そこで大臣が娘シャハラザードを送り込む」「さすがだ。俺も京子を殺そうと思ったがこんないい女を殺したらできなくなるのでやめた」「殺さないでセックスがこんなにいいものとは知らなかった」「王様も変態だがわかる気もする」「女も身体だけじゃなく話が上手でないと」「そうだ。知性のある女とはやりたくなるが馬鹿な女は抱く気がしない」「京子さんは」「合格だ。だが浮気するな、こんないいものをほかの男に触らせてなるものか」「生きてゆく気になった」「なった。京子は月の女神か菩薩か」「命の恩人と私に感謝する」「する、する」

睦言は記憶に残るものである。未亡人が夫よりも寝物語を懐かしむのもこの為であろう。「後悔してないのか」「そりゃあ、不安はあったけど、大したことなかった。ただ卒業までは妊娠できない。だから毎月排卵日の前後五日間はできないの、わかる。あなた我慢できる」「我慢する。ということは、今日は排卵日の期間ではない」「ということ」「うーん妊娠は考えなかったか」京子はクスクスと笑った。「でほかに不安はあるか」「谷さん。あなたは本当に彼女が欲しかったの。ライバルに取られまいと襲ったのじゃないの」「そういわれるとそんな気もするな」「正直でよろしい。あなたって征服欲、支配欲が強いのね、飛びぬけて」「そうかな」「そうよ」「もう一回やりたい」「待って私お腹すいた」「うむ腹が減っては戦はできぬからな」

 矢野が冷蔵庫からビールを取り出すと京子がお持ち帰りの握り寿司を開いた。「何はともあれ乾杯」「ああ美味しい」「もう2時か激闘だったな」「私身体がばらばらになって宙に浮いていたわ」「入学してからずっとお前の裸を想像していた。想像以上だ」「すけべね」「それは想像力があると言ってくれ。裸の京子は5階級上の天女に見える。俺も童貞を京子に捧げてよかった。我が人生最良の日だ。広い浜辺の松原で漁師は天女とやったのではないか」「本当?天女もやってと舞い降りたの。私5階級上がると全日本クラス」「いやいやミスユニヴァース、ミスワ−ルド」
京子もビールを飲む。「でも女になると世界が開けるのね」「俺も宇宙の真理を垣間見た気がする」「あげてよかった」「うーん少し古いな」「性は愛と一体」「まあまあだな。もう一発やるか」「待って、私くたくた。お酒にする、買っておいたの。私ね、あなたとやったら別の人生が見えると思ったの」「俺はやりたい一心だったが自分が一回り大きくなった気がする。お前はやる前から別の世界を想定していた。尊敬する。女の方が大人だな、お前何月生まれ」「三月生まれ」「多情浮気っぽい。谷は四月生まれだ」「私より一つ上か。あなた七月生まれでしょ。彼女私たちよりお姉さんだけど天真爛漫ね。親の愛情を一身に受けて育った。純情派はやりづらいでしょ、でもあなたはやろうとした」「何を」「とぼけないで。ほかの女とやったら殺すわよ」
矢野が酒を飲みながら言った。「日本人はどうして性を罪悪視するのか」「処女性を崇拝する男のエゴ」「いえるな、私有財産制と相続が問題とされるようになってからだ」「跡継ぎが自分の子であることを明らかにするために」「だろうな、鎌倉時代になってうるさくなったようだ」「あなたは」「処女の方がいいが気分的なものだろう。よく洗浄すれば差支えはない」「でも乙女を女にしたという男の達成感はある」「ある、十分にある。まして京子みたいな美女となれば光栄なことだ」「私に感謝している」「心の底から感謝している。全身全霊を捧げてもいい」「私に何をしてくれる」「大きな庭付きの家を建ててやる」
この約束は十年後に果たされたが大きな家で良かった。その理由はやがて明らかになろう。「約束よ。楽しみだわ。結婚はやらしてもいいと思った男とすべきね」「俺は毎日腰が抜けるほどやらせてくれる女がいい」「私はだめ。身が持たないわ。でもほかの女(谷和子)とやったら殺すわよ」京子は同じことを繰り返した。「殺さないでくれ、お前とセックスできなくなる。お前は名器だ。名器は弾き込むほどいい音がするようになるとヴァイオリニストが言っている」「どうして」「こういう音を出してくれと願うと名器は学習するらしい」「でも演奏技術もあるでしょ」「それはそうだがもっとも大切なことはいい音、いい音楽を出してくれという魂の祈りのようなものだ」「あなた私にも祈る」「毎日祈る、性器に祈る」これには少しひっかかったが京子は矢野を征服したと思ってにんまりした。


京子は友人から心理学の診断で恐ろしく支配欲の強い学生がいるときいた。友人の心理学研究室で評判となったらしい。京子は学生の風貌から矢野健であることがピンときた。何故彼に関心を持ったのか自分でもわからない。支配欲の強い者は支配されることを嫌うようだ。独立心が強いのも当然かも。矢野とヨットに乗ったこともあるがそれだけではない。男と女の仲になる理由としては弱い。関心は愛情の始まりであるが決定的なものではない。京子の場合、谷和子の存在を除外できない。ままごとのような恋人を見て覚えた女の嫉妬、闘争心、見栄か。この点も数年後に明らかになるのだがこの時はふたりとも恋も愛も初心者であった。

(京子は社青から婚約者を通じて矢野を籠絡して取り込むよう特命を受けていた。しかし今はミイラ取りがミイラになった。矢野の純粋な情熱、情欲が京子を虜にした。女は何かをやろうと夢に向かって突き進む男には魅せられる。幕末の志士にはいい女がいた。日本を夷敵から守るという熱い思いが女心を掻き立てる。京子は谷和子から矢野を奪い取る気もあったはずだ。矢野の音楽への法律への情熱は京子の心を惹きつける。人は何をしたかではなく何をしようとしたかである。ブラウニングだったかな)


第2ラウンドは明け方まで激戦が展開された。矢野の与える衝撃が京子に甘味な快感を与える。矢野の自殺を思い止めようと許した肌だが今は自分から矢野を求めている。女が裸になるとこうも変わるものか。純粋に性を楽しむことは罪なのか。性の快感は悦楽の世界に導く。「地位も名誉も要らぬ。お前がいてくれたら何も要らない」「天地が裂けても貴男を愛しつづけるわ」愛は恋人たちを詩人にする。性はあらゆる苦しみを解き放つ。恋は一方的に思うか自分だけでできるが性愛は相手がいないとできない。名器も毎日演奏しないといい音が出なくなるという。京子がこのことを実感するのは数年先のことであったが性の初心者だったから当然かも知れない。



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